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夏目漱石「それから」本文と評論10-6「好(い)い雨ですね」。 「些(ちつ)とも好(よ)かないわ、私、草履を穿(は)いて来たんですもの」

◇本文

 そのうち雨は益(ます/\)深くなつた。家を包んで遠い音が聴こえた。門野が出て来て、少し寒い様ですな、硝子戸を閉めませうかと聞いた。硝子戸を引く間、二人は顔を揃えて庭の方を見てゐた。青い木の葉が(ことごと)く濡れて、静かな湿り気が、硝子越しに代助の頭に吹き込んで来た。世の中の浮いてゐるものは残らず大地の上に落ち付いた様に見えた。代助は久し振りで(われ)に返つた心持がした。

()い雨ですね」と云つた。

(ちつ)とも()かないわ、私、草履を穿()いて来たんですもの」

 三千代は寧ろ恨めしさうに樋から洩る雨点(あまだれ)を眺めた。

「帰りには車を云ひ付けて上げるから()いでせう。(ゆつく)りなさい」

 三千代はあまり緩り出来さうな様子も見えなかつた。まともに、代助の方を見て、

「貴方も相変らず呑気な事を仰しやるのね」と(たしな)めた。けれども其眼元には笑ひの影が(うか)んでゐた。

 今迄三千代の(かげ)に隠れてぼんやりしてゐた平岡の顔が、此時明らかに代助の心の瞳に映つた。代助は急に薄暗がりから物に襲はれた様な気がした。三千代は矢張り、離れ難い黒い影を引き()つて歩いてゐる女であつた。

「平岡君は()うしました」とわざと何気なく聞いた。すると三千代の口元が心持ち締つて見えた。

「相変らずですわ」

「まだ何にも見付らないんですか」

「その方はまあ安心なの。来月から新聞の方が大抵出来るらしいんです」

「そりや好かつた。(ちつ)とも知らなかつた。そんなら当分夫で好いぢやありませんか」

「えゝ、まあ難有いわ」と三千代は低い声で真面目に云つた。代助は、其時三千代を大変可愛く感じた。引き続いて、

彼方(あつち)の方は差し当たり責められる様な事もないんですか」と聞きいた。

「彼方の方つて――」と少し逡巡(ためら)つてゐた三千代は、急に顔を(あか)らめた。

「私、実は今日夫れで御詫びに(あが)つたのよ」と云ひながら、一度 俯向(うつむ)いた顔を又上げた。

 代助は少しでも気不味(きまづい)様子を見せて、此上にも、女の優しい血潮を動かすに堪えなかつた。同時に、わざと向かふの意を迎へる様な言葉を掛けて、相手を殊更に気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の云ふ所を聴いた。

 先達つての二百円は、代助から受取るとすぐ借銭(しやくせん)の方へ回す(はず)であつたが、新しく家を持つた為、色々入費が掛ゝつたので、つい其方の用を、あのうちで幾分か弁じたのが始りであつた。あとはと思つてゐると、今度は毎日の活計(くらし)に追はれ出した。自分ながら好い心持ちはしなかつたけれども、仕方なしに困るとは使ひ、困るとは使ひして、とう/\荒増(あらまし)()くして仕舞つた。尤もさうでもしなければ、夫婦は今日迄 ()うして暮らしては行けなかつたのである。今から考へて見ると、一層(いつそ)の事無ければ無いなりに、何うか斯うか工面も付いたかも知れないが、なまじい、手元に有つたものだから、苦し紛れに、急場の間に合はして仕舞つたので、肝心の証書を入れた借銭の方は、いまだに其儘にしてある。是は寧ろ平岡の悪いのではない。全く自分の過ちである。

「私、本当に済まない事をしたと思つて、後悔してゐるのよ。けれども拝借するときは、決して貴方を(だま)して嘘を()く積りぢやなかつたんだから、堪忍して頂戴」と三千代は甚だ苦しさうに言訳をした。

「何うせ貴方に上げたんだから、何う使つたつて、誰も何とも云ふ訳はないでせう。役にさへ立てば夫れで好いぢやありませんか」と代助は慰めた。さうして貴方といふ字をことさらに重く且つ緩く響かせた。三千代はたゞ、

「私、夫れで漸く安心したわ」と云つた丈であつた。

 雨が(しき)りなので、帰るときには約束通り車を雇つた。寒いので、セルの上へ男の羽織を着せやうとしたら、三千代は笑つて着なかつた。 (青空文庫より)


◇評論

「そのうち雨は益(ます/\)深くなつた。家を包んで遠い音が聴こえた」

…ますます強くなる雨とその音によって、さらにふたりだけの世界は濃密なものとなる。

「門野が出て来て、少し寒い様ですな、硝子戸を閉めませうかと聞いた」

…せっかくのふたりだけの世界が、愚な門野の登場によって台無しになる。これが門野の役回りだ。

「硝子戸を引く間、二人は顔を揃えて庭の方を見てゐた」

…愛し合うふたりは、同じ方と同じものを見て心を通じ合う。並んで座っているだけで幸せだ。

「青い木の葉が(ことごと)く濡れて、静かな湿り気が、硝子越しに代助の頭に吹き込んで来た。世の中の浮いてゐるものは残らず大地の上に落ち付いた様に見えた。代助は久し振りで(われ)に返つた心持がした」

…落ち着いた色合いの「青い木の葉が(ことごと)く濡れて」いる。「静かな湿り気が」「代助の頭」を潤す。「世の中の浮いてゐるものは残らず大地の上に落ち付」く。しっとりと心を落ち着かせるものたちにより、「代助は久し振りで(われ)に返つた心持がした」。自然な自分への回帰。

代助はそれを三千代と共有しようと、「()い雨ですね」と言う。

これに対し三千代は、「(ちつ)とも()かないわ、私、草履を穿()いて来たんですもの」という妙に現実的な答えをし、「寧ろ恨めしさうに樋から洩る雨点(あまだれ)を眺めた」。詩の世界に遊ぶ代助と、現実世界に留まるかのような三千代の落差が面白い。そう簡単に甘い夢の世界に入れてはくれない。


代助も半ば現実世界に戻り、「帰りには車を云ひ付けて上げるから()いでせう。(ゆつく)りなさい」と三千代を誘う。しかし「三千代はあまり緩り出来さうな様子も見え」ず、「貴方も相変らず呑気な事を仰しやるのね」と(たしな)める。三千代には待つ人がいる。彼女はそこに戻らなければならない。三千代はその現実を踏まえつつも、代助の戯れに、「其眼元には笑ひの影が(うか)んでゐた」。


ゆっくりできない三千代の様子から、「今迄三千代の(かげ)に隠れてぼんやりしてゐた平岡の顔が、此時明らかに代助の心の瞳に映つた」。ふたりだけの愛の世界に、今度は平岡が突然侵入する。「代助は急に薄暗がりから物に襲はれた様な気がした。三千代は矢張り、離れ難い黒い影を引き()つて歩いてゐる女であつた」。「黒い影」は、平岡本人だけでなく、それにまつわる様々な生活の障害を表す。放蕩する平岡によって、三千代は病気にまでなっている。愛する子を早くに失い、彼女が頼りとする者はいない。そんな彼女の脳裏に真っ先に浮かぶのは、やはり代助だ。彼女の代助への思いは、単に愛情の対象としてだけでなく、このような意味合いも含んでいる。


三千代の後ろの陰から現れた平岡の顔。代助は、「平岡君は()うしました」とわざと何気なく聞く。それを承けた「三千代の口元が心持ち締つて見えた」。平岡は、三千代を緊張させ苦悩させる存在となっている。しかもその変化は、帰京後も「相変わらず」見られない。

「来月から新聞の方が大抵出来るらしい」という新たな情報に、代助は、「そりや好かつた」。「そんなら当分夫で好いぢやありませんか」とひと安心した感想を述べる。平岡が働けば、家計が少しでも助かる。借金も返さなければならない。

「えゝ、まあ難有いわ」という三千代の声は「低」く「真面目」だ。就職は今の平岡に求められる最低ラインだからだ。三千代は日々の生活にかつかつの状態だ。生きるためには金が必要だという現実に包まれる三千代には、平岡の就職はまだ第一段階に過ぎない。

これに対する代助の様子は、「其時三千代を大変可愛く感じた」という呑気なものだった。困窮する三千代に対する、代助の呑気。この場面で愛する三千代の魅力を確認する代助の様子は、どこまでも金に困らぬお坊ちゃんであることも表している。


「「彼方(あつち)の方は差し当たり責められる様な事もないんですか」と聞きいた。

「彼方の方つて――」と少し逡巡(ためら)つてゐた三千代は、急に顔を(あか)らめた。

「私、実は今日夫れで御詫びに(あが)つたのよ」と云ひながら、一度 俯向(うつむ)いた顔を又上げた。」

…借金の話題をわざとぼかした言い方にした代助の心遣いに、三千代は羞恥したのだ。またそのことを伝えるために訪問したはずなのに、そのことを全く忘れて代助と楽しく会話を続けていたことに気づき、恥じらったのだ。


代助は「静かに三千代の云ふ所を聴いた」。それは、「少しでも気不味(きまづい)様子を見せて、此上にも、女の優しい血潮を動かすに堪えなかつた」ためであり、「同時に、わざと向かふの意を迎へる様な言葉を掛けて、相手を殊更に気の毒がらせる結果を避けた」かったからだ。三千代への細やかな気遣いを見せる代助。


三千代の謝罪は、語り手の言葉を借りながら続く。

「先達つての二百円は、代助から受取るとすぐ借銭(しやくせん)の方へ回す(はず)であつたが、新しく家を持つた為、色々入費が掛ゝつたので、つい其方の用を、あのうちで幾分か弁じたのが始りであつた。あとはと思つてゐると、今度は毎日の活計(くらし)に追はれ出した。自分ながら好い心持ちはしなかつたけれども、仕方なしに困るとは使ひ、困るとは使ひして、とう/\荒増(あらまし)()くして仕舞つた」。語り手は、「尤もさうでもしなければ、夫婦は今日迄 ()うして暮らしては行けなかつたのである」と説明する。「今から考へて見ると、一層(いつそ)の事無ければ無いなりに、何うか斯うか工面も付いたかも知れないが、なまじい、手元に有つたものだから、苦し紛れに、急場の間に合はして仕舞つたので、肝心の証書を入れた借銭の方は、いまだに其儘にしてある。是は寧ろ平岡の悪いのではない。全く自分の過ちである」とは、三千代の釈明だ。

「本当に済まない事をしたと思つて、後悔してゐる」。「けれども拝借するときは、決して貴方を(だま)して嘘を()く積りぢやなかつたんだから、堪忍して頂戴」と「甚だ苦しさうに言訳を」する三千代。

これに対し代助は、「何うせ貴方に上げたんだから、何う使つたつて、誰も何とも云ふ訳はないでせう。役にさへ立てば夫れで好いぢやありませんか」と慰めた。通常であれば貸した大金の用途にこだわるところだが、優しさで三千代を包む。「さうして貴方といふ字をことさらに重く且つ緩く響かせた」。平岡ではなく、「貴方」のための金なのだということの強調。これは、代助の三千代への愛の強調だ。

しかし「三千代はたゞ、「私、夫れで漸く安心したわ」と云つた丈であつた」。彼女は代助の愛をはぐらかす。まともに受けると、茨の道が待っているからだ。


「雨が(しき)りなので、帰るときには約束通り車を雇つた。寒いので、セルの上へ男の羽織を着せやうとしたら、三千代は笑つて着なかつた」

…この場面の終末部としてこの終わり方は美しい。相変わらずふたりを包むように「頻り」に降る雨とその音。家の前に車が付けられる。その知らせを受け、愛する三千代に自分の羽織をかけようとする代助。笑って辞退する三千代。まるで映画の一場面のようだ。簡潔な説明だが、これらの画像が容易に想像される。

「自分の羽織」ではなく「男の羽織」という表現が、読者に平岡を意識させる。同様にふたりも、とくに三千代は、平岡への意識ゆえに「男の羽織」を着なかったのだ。

いくら友人とはいえ、代助の羽織を、まさに羽織って帰宅することは、三千代には許されないだろう。そこに何の感情もなかったとしても、平岡はやはりいい顔はしない。三人のなれそめからも、平岡が邪推しないとも限らない。だから三千代は「笑」いというやわらかで角の立たない拒否をしたのだ。

また、三千代には、何をいまさらという感情もある。その優しさと気持ちを、あの時に示してくれていれば、今、こんなことにはならなかった、と、彼女が思っていても不思議ではない。

このように、三千代の「笑」いには複雑な感情が含まれている。

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