夏目漱石「それから」本文と評論9-2
◇本文
今日はわざ/\ 其為に来たのだから、否でも応でも父に逢はなければならない。相変らず、内玄関の方から廻つて座敷へ来ると、珍しく兄の誠吾が胡坐をかいて、酒を呑んでゐた。梅子も傍に坐つてゐた。兄は代助を見て、
「何うだ、一盃 遣らないか」と、前にあつた葡萄酒の壜を持つて振つて見せた。中にはまだ余程這入つてゐた。梅子は手を敲(たゝ)いて洋盞を取り寄せた。
「当てゝ御覧らんなさい。どの位古いんだか」と一杯 注いだ。
「代助に分かるものか」と云つて、誠吾は弟の唇のあたりを眺めてゐた。代助は一口飲んで盃を下へ下ろした。肴の代りに薄いウエーファーが菓子皿にあつた。
「旨いですね」と云つた。
「だから時代を当てゝ御覧なさいよ」
「時代があるんですか。偉いものを買ひ込んだもんだね。帰りに一本 貰つて行かう」
「御生憎様、もう是限なの。到来物よ」と云つて梅子は椽側へ出て、膝の上に落ちたウエーフアーの粉を払いた。
「兄さん、今日は何うしたんです。大変気楽さうですね」と代助が聞いた。
「今日は休養だ。此間中は何うも忙し過ぎて降参したから」と誠吾は火の消えた葉巻を口に啣えた。代助は自分の傍にあつた燐寸を擦つて遣つた。
「代さん貴方こそ気楽ぢやありませんか」と云ひながら梅子が椽側から帰つて来た。
「姉さん歌舞伎座へ行きましたか。まだなら、行つて御覧なさい。面白いから」
「貴方もう行つたの、驚ろいた。貴方も余っ程怠けものね」
「怠けものは可くない。勉強の方向が違ふんだから」
「押の強い事ばかり云つて。人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤い瞼をして、ぽかんと葉巻の烟を吹いてゐた。
「ねえ、貴方」と梅子が催促した。誠吾はうるささうに葉巻を指の股へ移して、
「今のうち沢山勉強して貰つて置いて、今に此方が貧乏したら、救つて貰ふ方が好いぢやないか」と云つた。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、洋盞を姉の前に出した。梅子も黙つて葡萄酒の壜を取り上げた。
「兄さん、此間中は何だか大変忙がしかつたんだつてね」と代助は前へ戻つて聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は寐転んで仕舞つた。
「何か日糖事件に関係でもあつたんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙しかつた」
兄の答は何時でも此程度以上に明瞭になつた事がない。実は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも楽に其返事の中に這入つてゐた。
「日糖も詰らない事ことになつたが、あゝなる前に何うか方法はないもんでせうかね」
「左うさなあ。実際世の中の事は、何が何うなるんだか分らないからな。――梅、今日は直木に云ひ付けて、ヘクターを少し運動させなくつちや不可いよ。あゝ大食をして寐て許ゐちや毒だ」と誠吾は眠さうな瞼を指でしきりに擦つた。代助は、
「愈(いよ/\)奥へ行つて御父さんに叱られて来るかな」と云ひながら又洋盞を嫂の前へ出した。梅子は笑つて酒を注いだ。
「嫁の事か」と誠吾が聞きいた。
「まあ、左うだらうと思ふんです」
「貰つて置くがいゝ。さう老人に心配さしたつて仕様があるものか」と云つたが、今度はもつと判然した語勢で、
「気を付つけないと不可んよ。少し低気圧が来てゐるから」と注意した。代助は立ち掛けながら、
「まさか此間中の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね」と念を押した。兄は寐転んだ儘、
「何とも云へないよ。斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時拘引されるか分らない身体なんだから」と云つた。
「馬鹿な事を仰しやるなよ」と梅子が窘めた。
「矢っ張り僕ののらくらが持ち来した低気圧なんだらう」と代助は笑ひながら立つた。 (青空文庫より)
◇評論
前話に続いて今話も、「今日はわざ/\ 其為に来たのだから、否でも応でも父に逢はなければならない」と言いながら、父に会わずに終わる。よほど会いたくない相手なのだ。「其為」とは、「嫁の事」。
「相変らず、内玄関の方から廻つて座敷へ来ると、珍しく兄の誠吾が胡坐をかいて、酒を呑んでゐた」。兄は代助を「何うだ、一盃 遣らないか」と誘う。飲んでいるのは葡萄酒だった。
梅子は「当てゝ御覧らんなさい。どの位古いんだか」と言いながら代助に注ぐ。
その古さを問うということは、舶来の年代物のワインということになる。(後に、「到来物」と出てくる) 日本でワインの製造が始まったのは、明治時代からだった。(ワインと日本人|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム (kirinholdings.com))
この家族の遊びは、その資産が背景となっている。
一口飲んで「旨いですね」と言った代助に、「だから時代を当てゝ御覧なさいよ」と嫂は迫る。金持ちの他愛ない遊びに、女性も参加していることが特徴的だ。また、これだけ問いを重ねるということは、よほどの年代物であるか、代助をからかっているかのどちらか(もしくは両者)だ。
代助は、「時代があるんですか。偉いものを買ひ込んだもんだね。帰りに一本 貰つて行かう」と軽口をたたくが、嫂は「御生憎様、もう是限なの。到来物よ」と言い、縁側で膝の上に落ちたウエハースの粉を払う。この、「膝の上に落ちたウエハースの粉を縁側で払う」所作が、いかにも嫂らしくていい。
ところで代助は、こんなところで酒を飲んでいていいのだろうか。この後、確執ある父との決戦が待っている。戦場に向かう前の、ちょうどよい景気づけというところか。
「内玄関」…玄関と勝手口との間にある、家人・雇人や御用聞きの出入りする通用口。うちげんかん。(「うちげんかん」は「ないげんかん」の口語的表現) (三省堂「新明解国語辞典」)
酒の入った兄が久しぶりに愉快そうだ。
「今日は休養だ。此間中は何うも忙し過ぎて降参したから」。誠吾の葉巻に代助は火をつけてあげる。この兄弟は、こういう関係にある。
梅子は、「代さん貴方こそ気楽ぢやありませんか」とか、歌舞伎座の話になると、「貴方もう行つたの、驚ろいた。貴方も余っ程怠けものね」と、代助にちょっかいを出す。(嫂も飲んでる?)
「怠けものは可くない。勉強の方向が違ふんだから」と代助が反論すると、「押の強い事ばかり云つて。人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見る。誠吾は「ぽかんと葉巻の烟を吹いてゐ」るという相変わらずのとぼけぶり。「ねえ、貴方」と梅子は夫に催促する(嫂も酔ってる?)
誠吾の「今のうち沢山勉強して貰つて置いて、今に此方が貧乏したら、救つて貰ふ方が好いぢやないか」との返事に梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞く。突拍子もないことを言い出す人だ。役者になれるほどの器量の持ち主という設定か。
「此間中は何だか大変忙がしかつた」という話題に戻ると、「「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は寐転んで仕舞つた」。代助の「何か日糖事件に関係でもあつたんですか」という問いにも、「日糖事件に関係はないが、忙しかつた」と述べるだけ。兄は疲れと酔いを理由(隠れ蓑)に詳細に答えようとはせずにはぐらかす。家族であっても明かせぬ事情があるのだろう。「兄の答は何時でも此程度以上に明瞭になつた事がない」。「実は明瞭に話したくない」のだ。しかし「代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える」。ふつうこの後には、「兄弟の自分には、もう少し話をしてくれてもいいのに」などが続くと予想されるのだが、「だから代助はいつでも楽に其返事の中に這入つてゐた」となる。兄の事であっても他人事なのだ。代助にとっては興味も関係もない世間話。
日糖事件について話す代助に、「左うさなあ。実際世の中の事は、何が何うなるんだか分らないからな」。「斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時拘引されるか分らない身体なんだから」と誠吾は言う。自分もいつ罪を問われるかも知れないことを行っているという自覚が誠吾にはある。
嫂の「馬鹿な事を仰しやるなよ」という窘めに、代助は「矢っ張り僕ののらくらが持ち来した低気圧なんだらう」と笑いながら言うことで、兄と嫂の間を取り持つのだった。
次回はいよいよ父との対決。




