夏目漱石「それから」本文と評論8-4
◇本文
平岡は不在であつた。それを聞いた時、代助は話してゐ易い様な、又話してゐ悪い様な変な気がした。けれども三千代の方は常の通り落ち付いてゐた。洋燈も点けないで、暗い室を閉て切つた儘二人で坐つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた。自分も先刻其所迄用 達に出て、今帰つて夕食を済ました許りだと云つた。やがて平岡の話が出た。
予期した通り、平岡は相変らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり外へ出なくなつた。疲れたと云つて、よく宅に寐てゐる。でなければ酒を飲む。人が尋ねて来れば猶飲む。さうして善く怒る。さかんに人を罵倒する。のださうである。
「昔と違つて気が荒くなつて困るわ」と云つて、三千代は暗に同情を求める様子であつた。代助は黙つてゐた。下女が帰つて来て、勝手口でがた/\音をさせた。しばらくすると、胡摩竹の台の着いた洋燈を持つて出た。襖を締める時、代助の顔を偸む様に見て行つた。
代助は懐から例の小切手を出した。二つに折れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛かけた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた。
「先達御頼みの金ですがね」
三千代は何にも答へなかつた。たゞ眼を挙げて代助を見た。
「実は、直ぐにもと思つたんだけれども、此方の都合が付かなかつたものだから、遂遅くなつたんだが、何うですか、もう始末は付きましたか」と聞いた。
其時三千代は急に心細さうな低い声になつた。さうして怨ずる様に、
「未だですわ。だつて、片付く訳が無いぢやありませんか」と云つた儘、眼をみはつて凝つと代助を見てゐた。代助は折れた小切手を取り上げて二つに開いた。
「是丈ぢや駄目ですか」
三千代は手を伸のばして小切手を受取つた。
「難有う。平岡が喜びますわ」と静かに小切手を畳の上に置いた。
代助は金を借りて来た由来を、極と説明して、自分は斯ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を出さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは悪く思つて呉れない様にと言訳を付け加へた。
「それは、私も承知してゐますわ。けれども、困つて、何うする事も出来ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに詫を述べた。代助はそこで念を押した。
「夫れ丈で、何うか始末が付きますか。もし何うしても付かなければ、もう一遍工面して見るんだが」
「もう一遍工面するつて」
「判を押して高い利のつく御金を借りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち消す様に云つた。「それこそ大変よ。貴方」
代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、性質の悪い金を借り始めたのが転々(てん/\)して祟つてゐるんだと云ふ事を聞いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通つてゐたのだが、三千代が産後心臓が悪くなつて、ぶら/\し出すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、夫程烈しくもなかつたので、三千代はたゞ交際上 已むを得ないんだらうと諦めてゐたが、仕舞にはそれが段々高じて、程度が無くなる許なので三千代も心配をする。すれば身体が悪くなる。なれば放蕩が猶募る。不親切なんぢやない。私が悪いんですと三千代はわざ/\断わつた。けれども又淋しい顔をして、責めて小供でも生きてゐて呉れたら嘸ぞ可かつたらうと、つく/″\考へた事もありましたと自白した。
代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方から問ふのを控えた。帰りがけに、
「そんなに弱つちや不可ない。昔の様に元気に御成なさい。さうして些と遊びに御出でなさい」と勇気をつけた。
「本当ね」と三千代は笑つた。彼等は互ひの昔を互ひの顔の上に認めた。平岡はとう/\帰つて来なかつた。 (青空文庫より)
◇評論
「平岡は不在であつた。それを聞いた時、代助は話してゐ易い様な、又話してゐ悪い様な変な気がした」
…若夫婦の主人が不在の時に、その妻と若い男が一つ部屋でゆっくり話をすることははばかられるだろう。この危惧は、代助が彼女に好意を持っているということもある。平岡が不在なためふたりきりで話しやすい半面、いけないことをしている感覚。
「けれども三千代の方は常の通り落ち付いてゐた」
…このような場面では、男よりも女の方が肝が据わっていることが多い。また、三千代はそのような人として造形されている。
「洋燈も点けないで、暗い室を閉て切つた儘二人で坐つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた」
…ふたりだけの秘密めいた空間。秘密の共有。当然代助の心はときめいている。
平岡は職を得るために「相変らず奔走してゐる」ようだ。しかしそれがうまくいかないのか、「此一週間程は、あんまり外へ出なくなつた。疲れたと云つて、よく宅に寐てゐる。でなければ酒を飲む。人が尋ねて来れば猶飲む。さうして善く怒る。さかんに人を罵倒する。のださうである」 物事がうまくいかない不満は、心と生活を荒れさせる。些細なことも怒りにつながる。酒はそれを助長する。
「「昔と違つて気が荒くなつて困るわ」と云つて、三千代は暗に同情を求める様子であつた。代助は黙つてゐた」
…以前とは変わってしまった夫。トラブルが絶えず困り果てる三千代。彼女が愚痴をこぼす相手は、代助しかいないのだろう。三千代の嘆きを、代助は黙って受けとめる。安易な慰藉は、真の慰めにはならない。またこの三千代の言葉と様子には、別の意味が含まれている。平岡と三千代の結婚には、代助が深く関わっているからだ。ここまでのところまだそれは示されない。「あの時の判断に間違いはなかったのですか?」という意味が隠れている。
ふたりだけの濃密な空間に第三者が入り込む。
「下女が帰つて来て、勝手口でがた/\音をさせた。しばらくすると、胡摩竹の台の着いた洋燈を持つて出た。襖を締める時、代助の顔を偸む様に見て行つた」
…「偸む様に見る」の例文に上げたいくらい適切な比喩とその場面だ。夫の居ぬ間に暗い室内で明かりもつけずに妻と見知らぬ若い男が一緒にいたら、密会にしか見えない。イケナイコトをしていたにちがいないと思われても仕方がない。そのような興味から、下女が相手の男の顔を探りたくなる気持ちも分かる。主人に告げ口をしなければよいのだが。そうされたら大ごとだ。
胡摩竹…「胡麻竹」は「錆竹」とも呼ばれる竹で、7-8年もして自然に枯れ始めた竹は、表面に胡麻状の粒が現れます。胡麻の粒の大小や緻密さ、そして色など、あらわれ方はまちまち。それが個性となります。(胡麻竹_takehei より)
「代助は懐から例の小切手を出した」
…下女の視線にさらされた代助は、長居は無用と、いよいよ用件を三千代に切りだす。ふたりにとってうれしいはずの金だ。
「二つに折れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛かけた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた」
…「奥さん」と呼んだ代助の心には、無意識のうちに、この大金は平岡とあなたのための金=平岡家への援助なのだという気持ちが起こったのだろう。ここには直前の下女の盗み見も影響している。また、それだけの大金をあなたのために用意したのだと言うと、相手も受け取りにくいし、自分も渡しにくい。三千代への愛があからさまになってしまうし、三千代もそれは困るだろう。だから彼は「奥さん」という平岡の妻の立場の呼称を使った。
「「先達御頼みの金ですがね」
三千代は何にも答へなかつた。たゞ眼を挙げて代助を見た」
…期待していなかった大金を代助が用立ててくれたことへの驚き。
「「実は、直ぐにもと思つたんだけれども、此方の都合が付かなかつたものだから、遂遅くなつたんだが、何うですか、もう始末は付きましたか」と聞いた。
其時三千代は急に心細さうな低い声になつた。さうして怨ずる様に、「未だですわ。だつて、片付く訳が無いぢやありませんか」と云つた儘、眼をみはつて凝つと代助を見てゐた」
…金の工面の確認をする代助に、それはとても無理なことと愚痴とも恨みがましいこととも言えぬセリフを吐く三千代。代助は三千代の例の大きな「眼」に捉えられる。彼女の目にじっと見つめられると、自分の心の底までそれが徹るようにも、また、心が強く握られるようにも感じるだろう。
「代助は折れた小切手を取り上げて二つに開いた。
「是丈ぢや駄目ですか」
三千代は手を伸のばして小切手を受取つた。
「難有う。平岡が喜びますわ」と静かに小切手を畳の上に置いた」
…三千代はその金を夫が受け取った形にする。
「代助は金を借りて来た由来を、極と説明して、自分は斯ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を出さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは悪く思つて呉れない様にと言訳を付け加へた」
…この金の出どころの説明は不要なのではないか。相手に恩着せがましくなるし、無粋だ。代助は三千代に何でも話してしまう。「中途半端」な額しか準備できなかった言い訳として言っているのだろうが。
「「それは、私も承知してゐますわ。けれども、困つて、何うする事も出来ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに詫を述べた」
…三千代が頼れる相手は代助しかいない。そのことの詫び。
「代助はそこで念を押した。
「夫れ丈で、何うか始末が付きますか。もし何うしても付かなければ、もう一遍工面して見るんだが」
「もう一遍工面するつて」
「判を押して高い利のつく御金を借りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち消す様に云つた。「それこそ大変よ。貴方」」
…「判を押して高い利のつく御金を借りるんです」というセリフも不要だ。「その時には自分が何とかします」で曖昧にごまかせばいい。代助はやや恩着せがましい。「あなたのために頑張る自分」をアピールしすぎだ。
ただこの部分は、物語としては、次の平岡の借金の事情説明につながるのだが。
次は、平岡が抱える借金とそれに関係する三千代の説明がされる。
・「平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、性質の悪い金を借り始めたのが転々(てん/\)して祟つてゐる」ため。
・「平岡は、あの地(京阪)で、最初のうちは、非常な勤勉家として通つてゐた」
・しかし、「三千代が産後心臓が悪くなつて、ぶら/\し出すと、遊び始めた」
・「初めのうちは、夫程烈しくもなかつたので、三千代はたゞ交際上 已むを得ないんだらうと諦めてゐた」
・「仕舞にはそれが段々高じて、程度が無くなる許なので三千代も心配をする」→「すれば身体が悪くなる」→「なれば放蕩が猶募る」。
・「不親切なんぢやない。私が悪いんですと三千代はわざ/\断わつた」
・「けれども又淋しい顔をして、責めて小供でも生きてゐて呉れたら嘸ぞ可かつたらうと、つく/″\考へた事もありましたと自白した」
以上をまとめると、
非常な勤勉家だった平岡の借金の理由は、三千代が産後心臓が悪くなると平岡が遊び始め、それが段々高じて、程度が無くなってしまい、三千代の心配が募り体に悪影響を及ぼし、それがまた放蕩につながるという悪循環からだった、と三千代は考えている。つまり三千代は、自分の病気がすべての原因であり、平岡が作った借金の責めは自分が負うべきだと考えている。夫の放蕩は自分のせいと自責する三千代。彼女はその上愛する子まで失ってしまった。悔恨と喪失が三千代を暗く包む。
「代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方から問ふのを控えた」
…三千代の病気や子を失ったことを直接慰めることを控えたのだろう。内容がセンシティブであり、またその言葉は陳腐なものとなってしまう。だから代助は、「病気も子供も仕方がなかったことだよ」というセリフを飲み込み、「帰りがけに、「そんなに弱つちや不可ない。昔の様に元気に御成なさい。さうして些と遊びに御出でなさい」と勇気をつけた」のだ。「帰りがけ」にサラッと言うことで軽い励ましにとどめた。慰めではなく励ましの言葉を、三千代にかけてあげた。
「「本当ね」と三千代は笑つた。彼等は互ひの昔を互ひの顔の上に認めた」
…三千代は代助の励ましを好意的に受け取る。自分の弱みをすべて見せることができる相手、唯一相談できる相手。それが代助だった。三千代の笑顔は代助への感謝の表れだ。彼女は、笑うことで、「自分は大丈夫。元気づけてくれてありがとう」という気持ちを表現した。「本当ね」の後には、「あなたの言うとおりだわ。私も元気出さなくちゃ」が省略されている。
笑顔が互いの顔に浮かんでいたのは、「昔」のことだ。
「平岡はとう/\帰つて来なかつた」
…むかし仲良しだった若い三人の空間から、いま平岡だけが飛び出てしまった。これを裏返せば、三千代と代助の(愛の)世界に、もはや平岡が入る隙は無いことを暗示する。




