夏目漱石「それから」本文と評論7-3
◇本文
けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗ひ浚いしやべり散らす女ではなし、よしんば何うして、そんな金が要る様になつたかの事情を、詳しく聞き得たにした所で、夫婦の腹の中なんぞは容易に探られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼の本当に知りたい点は、却つて此所に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故に金が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても聞かなくつても、三千代に金を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金を拵へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有つてゐなかつたのである。
其上平岡の留守へ行き中てゝ、今日迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家にゐる以上は、詳しい話の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄 真に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄を張つてゐる。見栄の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。
代助は、兎も角もまづ嫂に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄嫂にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯う短兵急に痛め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持つてゐるから、或は出来ないとも限らない。夫で駄目なら、又高利でも借りるのだが、代助はまだ其所迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、一層此方から進んで、直接に三千代を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭の中に潜んでゐた。
生暖(なまあたゝ)かい風の吹く日であつた。曇つた天気が何時迄も無精に空に引掛かつて、中々暮れさうにない四時過から家を出て、兄の宅迄電車で行つた。青山御所の少し手前迄来ると、電車の左側を父と兄が綱曳で急がして通つた。挨拶をする暇もないうちに擦れ違つたから、向ふは元より気が付かずに過ぎ去つた。代助は次の停留所で下りた。
兄の家の門を這入ると、客間でピアノの音がした。代助は一寸と砂利の上に立ち留つたが、すぐ左へ切れて勝手口の方へ廻つた。其所には格子の外に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな口を革紐で縛られて臥てゐた。代助の足音を聞くや否や、ヘクターは毛の長い耳を振つて、斑な顔を急に上げた。さうして尾を揺かした。
入口の書生部屋を覗き込んで、敷居の上に立ちながら、二言三言愛嬌を云つた後、すぐ西洋間の方へ来て、戸を明けると、嫂がピヤノの前に腰を掛けて両手を動かして居た。其傍に縫子が袖の長い着物を着て、例の髪を肩迄掛けて立つてゐた。代助は縫子の髪を見るたんびに、ブランコに乗つた縫子の姿を思ひ出す。黒い髪と、淡紅色のリボンと、それから黄色い縮緬の帯が、一時に風に吹かれて空に流れる様を、鮮やかに頭の中に刻み込んでゐる。
母子は同時に振り向いた。
「おや」
縫子の方は、黙つて馳けて来た。さうして、代助の手をぐい/\引張つた。代助はピヤノの傍迄来た。
「如何なる名人が鳴らしてゐるのかと思つた」
梅子は何にも云はずに、額に八の字を寄せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、向ふから斯う云つた。
「代さん、此所(こゝ)ん所を一寸遣つて見せて下さい」
代助は黙つて嫂と入れ替はつた。譜を見ながら、両方の指をしばらく奇麗に働らかした後、
「斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。 (青空文庫より)
◇評論
前話に、母と兄が死に、父も北海道へ行ってしまった三千代は「今心細い境遇に居る」。代助は「どうかして、此東京に落付いてゐられる様にして遣りたい気が」し、「もう一返嫂に相談して」「金を調達する工面をして見やうかと思つた。又三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委しく聞いて見やうかと思つた」とあったのを承けた部分。
今話の前半部の説明は、何かまったりと滞る印象を受ける。語り手の説明がうまくない。伝えるべき内容が、まだまとまっていない感じだ。
「又三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委しく聞いて見やうかと思つた」「けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗ひ浚いしやべり散らす女ではなし、よしんば何うして、そんな金が要る様になつたかの事情を、詳しく聞き得たにした所で、夫婦の腹の中なんぞは容易に探られる訳のものではない」。気心が知れた仲とはいえ、三千代は夫婦のことをすべて話す女ではないし、もし話してくれたとしても、問題の核心は聞きえないだろう、と代助は推し量る。
さらに彼は、自分の「心の底を能く見詰めてゐると」、「本当に知りたい点は、却つて此所に在ると、自から承認しなければならなくなる」。「此所」とは、「夫婦の腹の中」のこと。夫婦が互いに現状と相手をどう思っているのかということだ。夫婦仲の現在に、代助の関心はある。
「だから正直を云ふと、何故に金が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐた」し、「実は外面の事情は聞いても聞かなくつても、三千代に金を貸して満足させたい方であつた」。代助は、金を貸すことで、愛する女を助け満足させたいという気持ちだけだった。「けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金を拵へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有つてゐなかつたのである」。三千代の「満足」は得たいが、「歓心」を買うような「政略的な料簡」はなかった。ここでの「余裕」は、そのような気持ちも、また金銭的余裕もなかったということ。
「今日迄の事情」について「平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄を張つてゐる。見栄の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる」。「一種の考」とは何かが読者は気になるところだ。これは後に明らかになる。
「兎も角もまづ」頼れる相手は嫂だ。彼女への相談を決心したが、「自分ながら甚だ覚束ない」と代助は思う。「今迄嫂にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯う短兵急に痛め付けるのは始めて」だからだ。
「梅子は自分の自由になる資産をいくらか持つてゐる」。へそくりだろうか。ここまでに梅子の情報がほとんどないので、彼女の実家の経済状況がわからない。また、夫からある程度の財産の提供を受けているということか。
「夫で駄目なら、又高利でも借りるのだが、代助はまだ其所迄には気が進んでゐなかつた」。しかし代助には嫌な予感がある。「早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない」というものだ。だからそうなる「位なら、一層此方から進んで、直接に三千代を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭の中に潜んでゐた」。
漱石の小説には、金のやり取りの場面がよく出てくる。そうしてそれは、貸す方の借りる側への愛情表現であることが多く、ここもその例となっている。代助は、金を貸すことによって、三千代への愛を表すのだ。
金を持たず、また稼ぐこともしない代助が、「夫で駄目なら、又高利でも借りる」と考える思考回路がおかしい。結局その代金はまた嫂の手を煩わせることになるからだ。他者の金で生き、他者の金で愛する人を助けようとする代助は、論理が破綻している。だから何か偉そうなことを言っても、まったく説得力を持たないのだ。批判の対象から経済的援助を受けても何も思わず恥ずかしさも感じない代助。
◇明治期の夫婦の財産について
「明治前期の夫婦財産関係」については、比較家族史研究_06-07近藤.pdf (jscfh.org) に詳しい。
「慣習においては、衣類等の身の回りの物は妻の特有財産と認められるが、金円や、とくに不動産に関しては、妻個人の権利は弱かったといえる。所有権を夫家に移す場合は勿論、妻側に留保する場合でも、権利の真の主体は妻よりも実家であった。これは、婚姻自体が、家と家との婚姻であったことから当然といえる。また、夫家に移された所有権も、離婚の際の返還義務によって制約されていたのであり、妻の持参財産は、実家の支配から、完全には断絶されていなかったのである。また、その故に、妻の持参財産は、不離縁の担保となり得たのであった。以上のような取扱いがなされていた妻の財産権は、維新政府が展開する戸主・家族の財産関係に組永込まれていくことになる。」
「二、戸主・家族の財産関係」・「(一)「戸主ノ法」の下での財産関係」「明治四年(一八七一)の戸籍法による戸籍は、戸主を頂点とす る一定の秩序に従って家族構成員を表示するものであった。さらに、当時の産業の中心をなしたのは家族経営であり、戸籍に定着された「家」は、取引と生産の単位でもあった。従って、政府は、戸籍を通して「臣民一般」の身分関係および財産関係を規制することができた。ここに形成される法体系が「戸主ノ法」と呼ばれるものである。
この法体系の下での戸主・家族の財産関係は、次のようにとらえられる。すなわち、一戸籍内の財産は、対外的にはすべて戸主の財産=家産とみなされ、取引主体としての戸主の資力を担保した。これにより、第一に、戸主の身代限処分は、一戸籍内のすべての財産に及ぶものとされた。明治六年(一八七三)三月二○日の司法省指令(第一条)は次の通りである。
「戸主身代限リノ処分ヲ受ル時ハ妻持参ノ衣類ハ勿論子弟別稼ヲ以儲置候品ト錐モ其戸籍内二編入ノ者ハ規則ノ品ヲ除キ其余ノ分ハ□売払二致シ済方可申付事
但戸籍ヲ異ニスル者ノ所有物〈身代限ノ処分二不及事
(中略)
このように、一戸籍内の財産は、積極、消極の両面より戸主の財産とみなされ、家族の特有財産は、対外的には否定された。
(中略)
このように、明治一五年の戸主連印制廃止を契機に夫婦財産関係が戸主・家族の財産関係から分化してくるが、明治民法が施行される迄は、完全に夫と妻との関係に純化されず、戸主との関係を断ち切ることはできなかった。これは、一般の家族についても、国家は、「家」的規制を排除して行きながらも、結局、完全にそこから独立した権利を家族に与えなかったこととも照応する。夫婦財産関係の純化は、民法が、日本資本主義の要請に基づいて、財産法において個人主義を貫徹し、家族の財産権に対する「家」的規制を排除したことによって完成する。
とはいえ、民法は、「戸主ノ法」を払拭する形で制定されたのではなかった。「戸主ノ法」は、近代法原理に貫かれた第一草案に対する批判とその修正を通じて、日本資本主義に適合的な形で再編成され、民法典に定着していったのである。
資本主義的諸関係の展開は、自由に流通する個人財産を要求する。明治民法は、この要求を容れる一方で、家産の分割を回避し経営の維持をはかるという方策を講じた。すなわち、家産を単独相続によって戸主に集中させると同時に、それを法的には戸主の個人財産と構成し、「家」的規制を受けない自由な流通を保証したのである。他方、家族についても、家産の相続からは排除されるものの、特有財産については、すべて、「家」の規制を受けない個人財産として権利が認められた。民法は、すべての財産を、「家」の規制を受けない個人財産と確定したのである。その結果、妻の財産権も戸主との関係を完全に断ち切って確立され、夫婦財産関係は、純粋に夫婦の関係として明確化するのである。しかし、個人所有を認める近代法の原理は、同時に、夫に対する妻の劣位をも認めるものであった。
民法の夫婦財産制は、法定財産制において別産制をとり、妻の特有財産を認めた。しかし、妻の財産の管理権は夫に属し、さらに、妻が一定の法律行為を為すには夫の許可を要するものとされ、妻の行為能力は制限されたのである。ここにおいて、明治初年には戸主権の中に埋没し、一五年以降分化のきざしを見せてきた夫権が、明確な形で民法に規定され、妻の財産は夫の管理権に属することになる。さらに、明治民法は女戸主が婚姻後も戸主の地位に留まることを認めたが、戸主として戸主権を行使する妻も、財産関係においては夫の支配下におかれることになったのである。」
また、明治民法(明治29年4月27日公布)は、次のような規定となっている。
801条「夫ハ妻ノ財産ヲ管理ス。夫カ妻ノ財産ヲ管理スルコト能ハサルトキハ妻自ラ之ヲ管理ス」
807条「妻又ハ入夫カ婚姻前ヨリ有セル財産及ヒ婚姻中自己ノ名ニ於テ得タル財産ハ其特有財産トス」
「へそくり」が妻の特有財産に当たる(=相続税がかからない)かどうかは、現在の民法でもケースバイケースのようだ。三千代の「自由になる資産」のもとは何で、どれくらいの額なのかが気になるところだ。また、夫の家計から黙って使っても叱られない夫婦関係・経済状況であったこともうかがわれる。
◇明治期の借金利息について
1877年(明治10年)に制定された利息制限法では、金銭貸借上の利息の最高利率が規制され、元金が100円未満の場合は年利15%、1000円未満の場合は年利12%、1000円以上は年利10%が上限とされた。しかし、当時の金貸し業者は非常に高い利率で貸し付けを行っていたようだ。
「生暖(なまあたゝ)かい風」はそれほど不快というわけではないが、嫂のもとに無心に赴く代助の気の進まなさを表しているだろう。「曇つた天気が何時迄も無精に空に引掛かつて」というのもそうだし、「中々暮れさうにない四時過から家を出」たのも、その表れだ。代助は嫂の所に行きたくないのだ。
「電車の左側を父と兄が綱曳で急がして通つた。挨拶をする暇もないうちに擦れ違つた」とは、金を稼ぐために仕事と社交に忙しい父と兄の様子を象徴したものだ。仕事中、ふたりは代助のことなど、まさに眼中にないので、暇な代助は気付き、「向ふは元より気が付かずに過ぎ去つた」。急いで家を出て、どこかへ向かったのだろう。急用の理由は後に判明するが、午後4時過ぎに綱引きまで付けて向かった先とその理由が、読者は気になるところだ。代助はふたりをやり過ごし、「次の停留所で下りた」。
「綱引」…人力車などで、急を要するとき、かじ棒に綱をつけてもう一人が先引きすること。(デジタル大辞泉)
「兄の家の門を這入ると、客間でピアノの音がした」。「兄の家」と、父の家は、別棟になっているのだろう。「代助は一寸と砂利の上に立ち留つた」のは、ピアノの弾き手を音から推測したのだ。そうしてそれは嫂だと認識する。
「すぐ左へ切れて勝手口の方へ廻つた。其所には格子の外に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな口を革紐で縛られて臥てゐた。」
家人だから勝手口から入ってもだれもとがめない。またそこにヘクターがいることを承知なのだろう。
「代助の足音を聞くや否や、ヘクターは毛の長い耳を振つて、斑な顔を急に上げた。さうして尾を揺かした。」
犬は正直だ。ヘクターは代助が好きなのだ。暇な彼は、犬の相手をする余裕がある。
「入口の書生部屋を覗き込んで、敷居の上に立ちながら、二言三言愛嬌を云つた後」
これも暇な彼だからできること。父と兄にそんな暇はない。
「すぐ西洋間の方へ来て、戸を明けると、嫂がピヤノの前に腰を掛けて両手を動かして居た。」
代助の予想は当たった。また、両手でピアノが弾ける嫂の技量が量られる。個人所有のピアノがあり、母親はそれを弾くことができ、その娘もそれを習うことができる文化的な家族・生活環境。
そもそも、この家はやはり資産家だ。門、それに続く砂利道、西洋間の客間、勝手口、外国犬種、入り口の書生部屋(と書生)、ピアノがある。
明治時代のピアノの価格は明治39年でグランドピアノ750円、アップライトピアノ320円だったようだ。(戦後昭和史 - ピアノの価格推移 (shouwashi.com)より)
また、「明治時代のグランドピアノの価格は750円、現在のお金で換算すると1500万円以上だったからであり、それこそ本当の大富豪でなければ手に入れることが出来なかったようです」とある。(明治時代のピアノはいつどのように作られた? | 明治時代を学ぼう! (meiji-jidai.com)より)
「其傍に縫子が袖の長い着物を着て、例の髪を肩迄掛けて立つてゐた。」
縫子と誠太郎はこの物語において一服の清涼剤だ。代助はこのふたりをよくからかう。「袖の長い着物」は上等な品質だろうし、「例の髪」は長くきれいに整えられているだろう。
「明治中期、女学生のファッションが注目を集めました。束髪(そくはつ:西洋婦人の髪型をまねて前髪を高く膨らませた髪型)に矢絣の着物、そして海老茶袴という姿です。 のちに世界的オペラ歌手となった三浦環が、女学生時代にその姿で自転車を乗りこなした姿は、西洋風でしゃれた人=ハイカラの代名詞となりました。以後、昭和期にセーラー服が普及するまで、これが女学生の定番スタイルでした。いまでも女子大生が卒業式で袴を着用するのは、当時の人気をあやかっているのです。」(戦前と戦後で女性のファッションはどう変わったの? | Japan's Wartime and Postwar Periods Recorded (jacar.go.jp) より)
「代助は縫子の髪を見るたんびに、ブランコに乗つた縫子の姿を思ひ出す。黒い髪と、淡紅色のリボンと、それから黄色い縮緬の帯が、一時に風に吹かれて空に流れる様を、鮮やかに頭の中に刻み込んでゐる。」
この部分は、過去の情景を思い出しながら述べているように読める。まるで映画の一シーンのような映像的な説明だ。つまり、代助はもう二度と縫子に会うことはできない。楽しく歓談した(じゃれあった)姪との交流の機会は断たれてしまった後の寂しさが感じられる文章だ。この物語が終わった現在から過去を思い出して述べている。それは、縫子がまだブランコに乗って遊んでいた昔を思い出しているだけでなく、そのような無邪気な姪との永遠の別れのようなものを感じさせる物言いだ。それらの良き記憶を「刻み込んで」、彼はどこへ行こうとするのか。
「最初に洋服を身に着けた女性は、上流社会の貴婦人でした。明治10年代後半、日本は欧化政策の推進に必死で取り組んでいました。不平等条約の改正を実現するためには、日本が欧米並みの文明国であることを示す必要があったからです。そこで、欧米風の社交施設として鹿鳴館を建設し、各国の外交官を招待して連日にわたり舞踏会を開きました。もちろん、そこには招待者側の日本政府の高官も、婦人同伴で参加しました。彼女たちには、国家的な使命が課せられていました。洋服を着こなすのはもちろんのこと、マナーやエチケットをわきまえ、洋服を着こなし踊ることで、文明国の一員であることを証明しなければならなかったのです。これが、洋服を着るようになったきっかけです。
しかし、明治20(1887)年頃には欧化政策の熱も冷め、男女ともに江戸時代のような和服が復活しました。一部の上流婦人はS字カーブのシルエットのドレスを着用しましたが、一般女性は和服が圧倒的に多数派でした。普段着として木綿製の紺絣や久留米絣、秩父縞が、上等な着物として結城紬や銘仙が、晴れ着として御召縮緬が流行しました。
※絣:先染めの糸で文様を織り出した着物
紬:真綿から紡いだ太くて節が多い紬糸による絹織物
銘仙:絹糸を密な平織りにした光沢ある絹織物
御召縮緬:たて糸・よこ糸ともに強く撚りをかけて
凹凸を織り出した最高級の絹織物」
(戦前と戦後で女性のファッションはどう変わったの? | Japan's Wartime and Postwar Periods Recorded (jacar.go.jp) より)
「西洋間の方へ来て、戸を明け」、中を覗き込むと、「母子は同時に振り向いた。」
ピアノの前に座る嫂と、その傍らに立つ縫子。似た顔が二つ並んでいる図だ。また、つい今まで鳴っていたピアノの音は、この瞬間、ぴたりと止んだだろう。
「おや」とは、代助の言葉だろう。これに対し、「縫子の方は、黙つて馳けて来た。」
かしこまった挨拶のいらない叔父と姪。
「さうして、代助の手をぐい/\引張つた。代助はピヤノの傍迄来た。」
縫子のざっくばらんで快活な様子。良家の12歳の少女らしく身を飾り立てている一方で、何も言わずすぐに行動する子供っぽい様子が、彼女の魅力だろう。だから代助も苦情を漏らさない。叔父は姪になつかれているのだ。
「如何なる名人が鳴らしてゐるのかと思つた」
嫂へのちょっかい。嫂と代助も、気のおけない仲だ。
「梅子は何にも云はずに、額に八の字を寄せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。」
このふたりも言葉はいらないのだ。動作で自分の気持ちを表現することができるし、その方がスムーズな関係を結ぶことができる。相手のじゃれつきへの対応としては、余計な言葉を発するよりもこの方がいい。仲良しの二人。
「「代さん、此所(こゝ)ん所を一寸遣つて見せて下さい」
代助は黙つて嫂と入れ替はつた。譜を見ながら、両方の指をしばらく奇麗に働らかした後、
「斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。」
当時、ピアノを習い、譜が読め、両手で弾けるレベルの男性はどれほどいただろう。当時ピアノは外国人に習うことが多かったようだし、生徒は女性が多かった。代助の教養は、絵画や美術品などにも及んでおり、文化や芸術の香り高い環境で育ったことがわかる。そこには父親の資本が投資されている。これまでの代助を作り、彼が今日存在できているのはすべて、父親のおかげだ。
代助は30歳前後に設定されており、この作品が発表されたのは明治42年なので、代助の生年は明治10年ごろになる。明治に入り導入されたばかりのピアノを外国人に習い、個人所有するというのは、やはり大富豪にしかできなかっただろう。前に父親(50歳前後)については、「役人をやめてから、実業界にはいって、なにかかにかしているうちに、自然と金がたまって、この14、5年来はだいぶんの財産家になった」(角川文庫P29)とあったが、「なにかかにか」については後に平岡によって明らかにされる。それにしてもわずかな期間でこれだけの財産を築くのは、並大抵のことではないだろう。だから父親は自分と自分の考えに自信があるのだ。
今でいえばニートだが、資産家の息子だから遊んで暮らしていける。平岡にはそれが我慢ならない部分だろう。




