夏目漱石「それから」本文と評論7-2(+都立上野高校の思い出)
◇本文
代助が三千代と知り合ひになつたのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃であつた。代助は長井家の関係から、当時交際社会の表面にあらはれて出た、若い女の顔も名も、沢山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。色合から云ふと、もつと地味で、気持ちから云ふと、もう少し沈んでゐた。其頃、代助の学友に菅沼と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく附合つてゐた。三千代は其妹である。
此菅沼は東京近県のもので、学生になつた二年目の春、修業の為と号して、国から妹を連れて来ると同時に、今迄の下宿を引き払つて、二人して家を持つた。其時妹は国の高等女学校を卒業した許で、年は慥か十八とか云ふ話であつたが、派出な半襟を掛けて、肩上をしてゐた。さうして程なくある女学校へ通ひ始めた。
菅沼の家は谷中の清水町で、庭のない代りに、椽側へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。それがまた、錆びた鉄の様に、頗る異しい色をしてゐた。其の一本は殆んど枯れ掛かつて、上の方には丸裸の骨許り残つた所に、夕方になると烏が沢山集まつて鳴いてゐた。隣には若い画家が住んでゐた。車もあまり通らない細い横町で、至極閑静な住居であつた。
代助は其所へ能く遊びに行つた。始めて三千代に逢つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して帰つて来た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を持つて出る丈であつた。其 癖狭い家だから、隣の室にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と話しながら、隣の室に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に行かなかつた。
三千代と口を利き出したのは、どんな機会であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて居ゐない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう。詩や小説に厭いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦口を利き出してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、二人はすぐ心安(こゝろやす)くなつて仕舞つた。
平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。あるときは二人連れ立つて、来た事もある。さうして、代助と前後して、三千代と懇意になつた。三千代は兄と此二人に食付いて、時々池の端抔を散歩した事がある。
四人は此関係で約二年足らず過ごした。すると菅沼の卒業する年の春、菅沼の母と云ふのが、田舎から遊びに出て来て、しばらく清水町に泊つてゐた。此母は年に一二度づつは上京して、子供の家に五六日寐起きする例になつてゐたんだが、其時は帰る前日から熱が出だして、全く動けなくなつた。それが一週間の後 窒扶斯と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の為附添ひとして一所に病院に移つた。病人の経過は、一時稍佳良であつたが、中途からぶり返して、とう/\死んで仕舞つた。それ許ではない。窒扶斯が、見舞に来た兄に伝染して、是も程なく亡くなつた。国にはたゞ父親が一人残つた。
それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て来て、始末をしたので、生前に関係の深かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を連れて国へ帰る時は、娘とともに二人の下宿を別々に訪ねて、暇乞旁礼を述べた。
其年しの秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其間に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なつて貰つたのだが、身体を動かして、三千代の方を纏めたものは代助であつた。
結婚して間まもなく二人は東京を去つた。国に居ゐた父は思はざるある事情の為に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。三千代は何方かと云へば、今心細い境遇に居る。どうかして、此東京に落付いてゐられる様にして遣りたい気がする。代助はもう一返嫂に相談して、此間の金を調達する工面をして見やうかと思つた。又三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委しく聞いて見やうかと思つた。 (青空文庫より)
◇評論
前話で、「三千代の事が気にかかる」ことについて代助が「別段不徳義とは感じ」ず、「寧ろ愉快な心持がした」とあった続き。今話は三千代の詳細が語られる。
〇三千代と兄
・代助が知り合ったのは、今から四五年前。代助がまだ学生(大学生)の頃。
代助と平岡は、「三年前わかれた」(角川文庫P17)のちに再会した。「学校を卒業して後、一年間というものはほとんど兄弟のように親しく往来」し、その「一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めている銀行のある支店詰になった」。(角川文庫P17)
・「交際社会の表面にあらはれて出た」「方面の婦人ではなかつた」。社交界の女性ではない。
・「地味」な「色合」(容姿・雰囲気)、「沈ん」だ「気持ち」(性格・気質)
・「代助の学友」の「菅沼」の妹。
・菅沼とは代助も平岡も、「親しく附合つてゐた」。
・菅沼は東京近県出身。
・菅沼は、「学生になつた二年目の春、修業の為と号して、国から妹を連れて来ると同時に、今迄の下宿を引き払つて、二人して家を持つた。其時妹は国の高等女学校を卒業した許で、年は」「十八とか云ふ話であつたが、派出な半襟を掛けて、肩上をしてゐた。さうして程なくある女学校へ通ひ始めた」。代助と三千代は6歳程度の差。
・「菅沼の家は谷中の清水町」。「庭のない代りに、椽側へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。それがまた、錆びた鉄の様に、頗る異しい色をしてゐた。其の一本は殆んど枯れ掛かつて、上の方には丸裸の骨許り残つた所に、夕方になると烏が沢山集まつて鳴いてゐた。隣には若い画家が住んでゐた」。これらの説明は結局、「車もあまり通らない細い横町で、至極閑静な住居であつた」ことを印象付ける意図があるのだろう。
「半襟」…夫人の、じゅばんの襟の上に飾りとして掛ける襟。
「肩上げ」…子供の着物のゆきの長さを調節するために、肩によせて縫い上げること・た部分。(いずれも、三省堂「新明解国語辞典」)
東京近県出身の菅沼が「国から妹を連れて来」た理由と意図は、妹に適切な結婚相手をあてがうためだろう。当時の女性の「十八」という年齢は結婚適齢期であり、「国の高等女学校を卒業した許」ということは、すぐにでも結婚することが可能という意味だ。さらに三千代は「派出な半襟を掛けて、肩上をしてゐた」。自分を美しく飾る努力をしている。「程なくある女学校へ通ひ始めた」のも、花嫁修業のためだ。「こころ」のお嬢さんもそうだが、女学校は花嫁修業のための学校であった。
従って、ここまで読むと、菅沼は妹に良い相手が見つかれば添わせようと考えている。また、それは妹自身も同じだ。その候補としては、代助か平岡が当然想定される。友人同士で気心も知れている。
〇代助と三千代のなれそめ
・「代助は其所(そこ・平岡家)へ能く遊びに行つた」。
・「始めて三千代に逢つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた」。
・「二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を持つて出る丈であつた。其 癖狭い家だから、隣の室にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と話しながら、隣の室に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に行かなかつた」。異性がすぐ近くにいるだけで、若い男性の心はときめく。アオハルですね。やや自意識過剰な代助。
・「三千代と口を利き出したのは、どんな機会であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて居ゐない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう」。
ごく自然な「はずみ・機会」により話し始めるふたり。両者ともに自分から積極的に行動したのではないことがわかる。そこにはテレもあるだろう。「機会」に「はずみ」というルビが面白い。たまたま偶然にという意味だ。
「詩や小説に厭いた代助には、それが却つて面白かつた」。それは、街角を曲がったら、食パンをくわえて慌てて走ってきた女子とぶつかるという劇的な出会い方ではない。しかしそこに、それだからこそ、自分と三千代はまるで神が仕組んだかのように出会ったと思いたいのだ。運命の必然で出会ったと代助は考えている。
・「けれども一旦口を利き出してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、二人はすぐ心安(こゝろやす)くなつて仕舞つた」。心ときめく時間をふたりで共有したのだ。恋の始まり。そもそも代助が「其所(そこ・平岡の家)へ能く遊びに行つた」のは、心の底では三千代への意識がある。
「平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。あるときは二人連れ立つて、来た事もある。さうして、代助と前後して、三千代と懇意になつた」。菅沼の友人としての代助と平岡は、三千代にとって同等の立場にあった。「三千代は兄と此二人に食付いて、時々池の端抔を散歩した事がある」。ふたりともに懇意にしていた。
「こころ」の三角関係と同じ関係が、ここでも現れる。
「四人は此関係で約二年足らず過ごした」が、変化が訪れる。「菅沼の卒業する年の春」、「田舎から遊びに出て来た」菅沼の母が、「帰る前日から熱が出だして、全く動けなくな」り、「窒扶斯」のために死ぬ。それが兄にも伝染し、「是も程なく亡くなつた。国にはたゞ父親が一人残つた」。
「それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て来て、始末をしたので、生前に関係の深かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を連れて国へ帰る時は、娘とともに二人の下宿を別々に訪ねて、暇乞旁礼を述べた」。
母と兄の死の後、三千代は父に連れられていったん故郷に帰った。
この場面から次の平岡と三千代の結婚に至るまでがかなり省略されており、読者はそのあたりの事情がとても気になるところだ。
「其年しの秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其間に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なつて貰つたのだが、身体を動かして、三千代の方を纏めたものは代助であつた」。
平岡が死んだ年の秋ということは、わずか半年での成婚ということになる。ふたりの「間に立つたものは代助」だった。「身体を動かして、三千代の方を纏めたものは代助であつた」とは、平岡との結婚を、三千代とその父に話をつけたということだろう。代助の働きかけがあり、それに動かされて三千代は平岡との結婚を決めた。つまり、平岡と三千代の結婚が成立したのは、代助のおかげということになる。
「結婚して間まもなく二人(平岡と三千代)は東京を去つた」。
「国に居ゐた父は思はざるある事情の為に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。三千代は何方かと云へば、今心細い境遇に居る」。
唯一の血縁者である父は遠い北海道にいる。夫の離職という状況にいて彼女が今頼れるものは誰もいない。だから代助は、「どうかして、此東京に落付いてゐられる様にして遣りたい気がする」。そのために代助は、「もう一返嫂に相談して、此間の金を調達する工面をして見やうかと思」い、さらに、「又三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委しく聞いて見やうかと思つた」。
ふがいなく何を考えているのかがわからない平岡とともにいる三千代をかわいそうに思う代助は、彼女への経済的な援助を再考する。
◇谷中清水町について
この町については、fudaya.comさんの「台東区旧町名由来」が分かりやすい。(https://fudaya.com/blog/blog/old-town-name/post-27731/)
私は、地下鉄千代田線の根津駅から都立上野高校に通っていたことがあり、この辺りは懐かしい場所だ。根津駅から言問通りを鶯谷方面へ北東に上る右手側一帯が、旧谷中清水町になる。この辺りは細い道が入り組む風情のある町で、「谷根千」と呼ばれる地域の一角になる。言問通り沿いには、煎餅屋さんなどの小さな商店が並び、交通量も多いが、通りを外れると住宅が広がり、マンションや小さな宿がある。路地には井戸があったり猫が遊んでいたりする。東大生向けの定食屋、法事にも利用される日本料理屋の西侊亭、言問通り沿いの煎餅屋、その反対側の豆腐屋。少し離れた所には、坂上に焼鳥屋、四つ角に和菓子屋などがあり、これらは懐かしいお店だ。
上野高校は上野公園に隣接しており、海獣の鳴く声が教室まで響いてきた。また、東京芸術大学もお隣で、その学食にはたまにお邪魔した。
ここから東大までは、根津まで下り、南東に坂を上ることになる。根津が谷底となっている。自転車で10分ほどの東大の学食にも、時々お邪魔した。
現在は昔ながらの家やマンションが多く、大学生が住む町というよりは一般の人の方が多い。坂の上には寛永寺や護国院などのお寺が静かにたたずむ。
昔の上野高校は実に自由だった。3年生にもなれば、卒業単位に合わせて午後は帰宅したり、昼休みには近隣の大学の学食に出かけたりした。体育祭の応援練習や卒業アルバムの写真撮影の場所は、上野公園だった。破天荒なやつもいて、生徒はみな個性豊かだった。
現在は制服があり、校則も厳しくなり、普通の高校になったようで寂しい。




