夏目漱石「それから」本文と評論6-8
◇本文
代助は盃へ唇を付けながら、是から先はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ直させる為の弁論でもなし、又平岡から意見されに来た訪問でもない。二人はいつ迄立つても、二人として離れてゐなければならない運命を有つてゐるんだと、始めから心付いてゐるから、議論は能い加減に引き上げて、三千代の仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて来やうと試みた。
けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。胸毛の奥迄赤くなつた胸を突き出して、斯う云つた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に当たつて、現実と悪闘してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が貧弱だつて、弱虫だつて、働いてるうちは、忘れてゐるからね。世の中が堕落したつて、世の中の堕落に気が付かないで、其 中に活動するんだからね。君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
平岡はしやべつてるうち、自然と此比喩に打つかつて、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所で得意に一段落をつけた。代助は仕方なしに薄笑ひをした。すると平岡はすぐ後を附加へた。
「君は金に不自由しないから不可ない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊つちやんだから、品の好い様なこと許かり云つてゐて、――」
代助は少々平岡が小憎らしくなつたので、突然中途で相手を遮つた。
「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働らきでなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺(うかゞ)つた。さうして、
「何故」と聞いた。
「何故つて、生活の為の労力は、労力の為の労力でないもの」
「そんな論理学の命題見た様なものは分からないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり食ふ為の職業は、誠実にや出来悪いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食ふ為の働らきと云ふと、つまり食ふのと、働らくのと何方が目的だと思ふ」
「無論食ふ方さ」
「夫れ見給へ。食ふ方が目的で働らく方が方便なら、食ひ易い様に、働らき方を合はせて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働らいたつて、又どう働らいたつて、構はない、只麺麭が得られゝば好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、何うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では極く上品な例で説明してやらう。古臭い話だが、ある本で斯んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵へたものを食つて見ると頗る不味かつたんで、大変小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食はして、叱られたものだから、其次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがつて、始終褒められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為に働らく事は抜目のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働らきでなくつちや、真面目な仕事は出来るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益ます遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話が、元へ戻つちまつた。是だから議論は不可ないよ」と云つて、代助は頭を掻いた。議論はそれで、とう/\御仕舞になつた。 (青空文庫より)
◇評論
酔っ払いの男二人が、正気のふりをしての論争が続く。それをそばで見守る三千代が不憫だ。
「代助は盃へ唇を付けながら」
この動作は、間を取るためと、惰性で酒を飲み続けている意味がある。代助自身、「是から先はもう云ふ必要がないと感じ」ている。「元来が平岡を自分の様に考へ直させる為の弁論でも」ない。「又平岡から意見されに来た訪問でもない」。代助は、「二人はいつ迄立つても、二人として離れてゐなければならない運命を有つてゐるんだと、始めから心付いてゐる」というが、それが今回の会話によってはっきりとしたのだ。
代助は、「議論は能い加減に引き上げて、三千代の仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて来やうと試みた」。
しかし「酔ふとしつこくなる男であつた」平岡がそれを許さない。また、代助自身、先ほど長い論陣を張ってしまった。
これに続く会話は、特に代助の言葉は、まだ社会に出ていない学生の発言ならばまだわかる。しかし平岡は既に社会に出て、さまざまな経験をしている。親の金でのんびり暮らしている代助と平岡の討論がかみ合うはずはない。
平岡は、「局部に当たつて、現実と悪闘してゐる」。現実社会の様々な場面で荒波にもまれているのだ。だから「日本が貧弱」だろうが「弱虫」だろうが、「世の中が堕落し」ようが、それらに「気が付かないで、其 中に活動」しているし、そうするしかない。それに対し代助は「暇人」・「社会に用のない傍観者」だから、「日本の貧乏や、僕等の堕落が気にな」り、「傍観者にして始めて口にす」るようなことを言うことができる。
平岡の言葉はもっともなので、「代助は仕方なしに薄笑ひ」をするしかない。
平岡は続ける。代助は金や生活に困らない「坊つちやんだから」、「不自由しない」し「働らく気になら」ず、「品の好い様なこと許かり云」うことができる。
この後に平岡が比喩として述べた「自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」という言葉は、物語冒頭部分の自己愛に満ちた代助の朝の様子を想起させる。ここはその部分と明らかに呼応している。
代助は丁寧に歯を磨く余裕がある。歯並びのいいのをうれしがる。肌の脂肪が薄くみなぎっていることに満足する。髪を分け、髭に満足し、頬をなでながら鏡に顔を映す。世に出て働く者にこのような余裕のある朝の過ごし方は不可能だ。ナルシシズムの塊のような代助の様子。
「少々平岡が小憎らしくなつた」代助(彼も酔っている)は、「突然中途で相手を遮」り、「働らくなら、生活以上の働らきでなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れてゐる」・「生活の為の労力は、労力の為の労力でない」と述べる。
ここで代助の言う「働らく」や「労力」の意味は、平岡とはその定義が全く異なっているだろう。平岡にとっての労働は、特に現在は、まさに生きるためのものだ。命をつなぐための労働の手段を、彼はいま探している。だから「平岡は不思議に不愉快な眼をし」たのだ。自分はまさに「パン」のために仕事を探しており、それが人間の真理だ。こいつはいったい何を言い出すのだという思いで彼は「代助の顔を窺(うかゞ)」い、「何故」と聞く。
代助は、「生活の為の労力は、労力の為の労力でない」・「食ふ為の職業は、誠実にや出来悪い」と答える。
平岡は、それは「論理学の命題見た様なもの」であり、「実際的の人間に通じ」ないと言う。彼は、食うために働くと考える。
これに対し代助は、働くことの目的を食うために置いてはいけないと論ずる。それは「誠実」さに欠ける態度で、働くこと自体を目的にすべきだ。
「労力の内容」・「方向」が「他から掣肘され」る「労力は堕落の労力だ」。
「掣肘」…何かにつけていらない手出しをして、自由な行動を妨げること。(三省堂「新明解国語辞典」)
「パンのための労働は堕落であり、労働のための労働でなければならない」というのが、代助の論理だ。
代助の説明は「まだ理論的」であり、「夫で一向差支ないぢやないか」という平岡。
代助は、織田信長付のある有名な料理人の例を示し、「自分の技芸たる料理其物のために働らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」、「衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働らきでなくつちや、真面目な仕事は出来るものぢやない」と結論付ける。
代助の主張は、「労働には誠実さや真面目さが必要であり、衣食に不自由のない人が物好きに行うことが前提・土台となる」ということになる。
前に代助は、自分は金に苦労していないから、この汚れた日本で働いても仕方がないと主張していた。それに対し今は、働く前提として金があることが必要だと述べている。この二つは矛盾しており、だから平岡によって、「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益ます遣る義務がある」と鋭く批判されることになる。
三千代も「本当ですわ」と、これに賛同する。
矛盾を突かれた代助は、「何だか話が、元へ戻つちまつた。是だから議論は不可ないよ」と、「頭を掻」くことしかできない。
代助は、何とか議論で平岡をやり込めようとするが、しょせんそれは机上の空論にすぎない。だからその矛盾点を最後に平岡に鋭く指摘されてしまい、自ら望んだ「議論」を否定するしかなくなる。
この時は代助も酔っている中での議論なのだが、そもそもそれは何のために行われていたのかということを、彼はすっかり忘れてしまっている。代助は、愛する三千代を救いたいのだった。生活費の援助を恥ずかしさを抑えて自分に申し出た三千代。彼女を救うために、自分も兄に金を借りようとし、平岡の就職を気に掛けた。だから話の流れとはいえ、いくら平岡から働かないお坊ちゃんだと批判されても、軽く受け流せばよかったのだ。この平岡の指摘は真理であり、これに反対することは容易ではない。代助の生活や思索は、親の金の土台がなければもろくも崩れ去る。(そして最後にはそれが現実化する) だから代助も、それを認めた上で議論しないと、反論にはならず一方的にやられてしまうということになる。
代助自身、自分の今の生活は他者の金によって成立しているのだということを、どれほど自覚しているのだろうか。うすうすは感じているが、それが彼の中では明確化されていないのか。自立・独立がしっかり確保されたうえでの主張なら、それは誰もが認めるものとなるだろう。聡明な彼が、そこに気づいていないのが不思議だ。これでは、他者だけでなく自分もごまかして生きていると言われても仕方がない。平岡の言うとおり、まさに「お坊ちゃん」だ。
「議論はそれで、とう/\御仕舞になつた」。という評言は、語り手がやや代助に同情したようにもとれる物言いだ。これは少し前に代助が、もう言うことはないと考えていたことを受けている。
補足
もし私が作者だったら、この議論の最後の言葉である、「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益ます遣る義務がある。」という言葉の話者は、三千代にする。こうすると、酔った男二人を冷めた目で見ている彼女の立ち位置が明確になるからだ。三千代は聡明な女性であり、前話にも、「なんだかさっきから、そばで伺ってると、あなたのほうがよっぽどお得意のようよ」と平岡をチクリと刺す場面があった。
ただ、「お得意」の方は身内である夫を諫める場面であり、「神聖の労力」の方は他人である代助に対してなので、女性の口からの批評は避け、夫の主張に「本当ですわ」と賛同する形にしたのだろう。また、これを三千代に言わせると、三千代の人物像に影響を及ぼす可能性もある。




