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夏目漱石「それから」本文と評論6-6

◇本文

 平岡は酔ふに従つて、段々口が多くなつて来た。此男はいくら酔つても、中なか平生を離れない事がある。かと思ふと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽を帯びて来る。さうなると、普通の酒家以上に、能く弁する上に、時としては比較的真面目な問題を持ち出して、相手と議論を上下して楽し気に見える。代助は其昔し、麦酒ビールの(びん)を互ひの間に並べて、よく平岡と戦つた事を覚えてゐる。代助に取つて不思議とも思はれるのは、平岡が斯う云ふ状態に陥つた時が、一番平岡と議論がしやすいと云ふ自覚であつた。又酒を呑んで本音を吐かうか、と平岡の方からよく云つたものだ。今日の二人の境界は其時分とは、大分離れて来た。さうして、其離れて、近づく(みち)を見出し(にく)い事実を、双方共に腹の中で心得てゐる。東京へ着いた翌日、三年振りで邂逅した二人は、其時既に、二人ともに何時か互ひの傍を立退いてゐたことを発見した。

 所が今日は妙である。酒に親しめば親しむ程、平岡が昔の調子を出して来た。旨い局所へ酒が回つて、刻下(こくか)の経済や、目前の生活や、又それに伴ふ苦痛やら、不平やら、心の底の騒がしさやらを全然痲痺して仕舞つた様に見える。平岡の談話は一躍して高い平面に飛び上がつた。

「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働いてゐる。又是からも働く積りだ。君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。――笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、其君は何も()ないぢやないか。君は世の中を、()りの儘(まゝ)で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは嘘だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに違ひない。僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、其現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の価値を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故(なぜ)と云つて見給へ。僕のは其不調和を外へ出だした迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、外面に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度は少ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可(いけ)ないんだらう」

(なに)笑つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」

「そりや、嘘だ。ねえ三千代」

 三千代は先刻(さつき)から黙つて坐つてゐたが、夫から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。

「本当でせう、三千代さん」と云ひながら、代助は(さかづき)を出して、酒を受けた。

「そりや嘘だ。おれの細君が、いくら弁護したつて、嘘だ。尤も君は人を笑つても、自分を笑つても、両方共頭の中で()る人だから、嘘か本当か其辺はしかと分らないが……」

「冗談云つちや不可(いけ)ない」

「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや昔の君はさうぢや無かつた。昔の君はさうぢや無かつたが、今の君は大分違つてるよ。ねえ三千代。長井は誰が見たつて、大得意ぢやないか」

「何だか先刻(さつき)から、(そば)(うかが)つてると、貴方(あなた)の方が余っ程御得意の様よ」

 平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。三千代は(かん)徳利を持つて次の間へ立つた。 (青空文庫より)


◇評論

「酔ふに従つて、段々口が多くなつて来た」平岡は、「昔の調子を出して来た」。

平岡の主張は次のとおり。

平岡…「失敗した」。「けれども失敗しても働いてゐる。又是からも働く積り」。「僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、其現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられない」し、「そこに僕と云ふものゝ存在の価値を認める」。「頭の中の世界と、頭の外の世界」の「不調和」を「外面に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度は少ないかも知れない」。「でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可(いけ)ないんだらう」

代助…「僕の失敗したのを見て笑つてゐる」。「笑つてゐるが、其君は何も()ない」。「世の中を、()りの儘(まゝ)で受け取る男」=「意志を発展させる事の出来ない男」。人間には意志があり、「始終物足りないに違ひない」。「たゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか」。「不調和」を「内に押し込んで置く」。


これに続き、「(なに)笑つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」と自嘲する代助に、平岡は「そりや、嘘だ。ねえ三千代」と、妻に同意を求める。「先刻(さつき)から黙つて坐つてゐた」三千代は、「夫から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た」。

三千代は静かだが確固としてふたりのそばに存在している。代助の自嘲は半ば自分の負けを認めた形だが、しかし負けを認めた上での反撃の卑下の言葉だ。だから平岡は、三千代に助けを求めた。妻を味方にすることで、代助に対抗しようとしている。

そこで代助の方も、「本当でせう、三千代さん」と、三千代に賛同を求める。議論の過程で話が平行線をたどり、互いの主張がすれ違う場面で、男二人が女に助けを求めるふがいなさ。論理で相手をやり込められないので、女性の感情を助けとしたいという思惑がうかがわれる。代助が「(さかづき)を出して、酒を受けた」のには、その意図も含まれる。冗談めかした形で、賛同を乞うている。


それにしても、平岡の「君は何も()ない」という批判は、代助には痛かっただろう。彼は、「親の金とも兄の金ともつかぬものを使って生きている」からだ。代助という存在の成立には、どんなに嫌っていても、親や兄が不可欠なのだ。彼らに頼らなければ、愛する三千代を救うともできない。代助に偉そうなことを言う資格はない。だから代助は、「(なに)笑つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」と自嘲するしかないのだ。人の金で生きている代助よりも、もがきながらも自立している平岡を認める人は多いだろう。


ふたりの男に対する三千代の批評は鋭い。

彼女はまず、「何だか先刻(さつき)から、(そば)(うかが)つてると、貴方(あなた)の方が余っ程御得意の様よ」と平岡を批評し、そのまま代助も見捨てて「(かん)徳利を持つて次の間へ立つた」。酔っ払いふたりの相手は辞退する体。水入りである。

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