夏目漱石「それから」本文と評論6-5
◇本文
三千代は小供の着物を膝の上に乗せた儘、返事もせずしばらく俯向いて眺めてゐたが、
「貴方のと同じに拵へたのよ」と云つて夫の方を見た。
「是か」
平岡は絣の袷の下へ、ネルを重ねて、素肌に着てゐた。
「是はもう不可ん。暑くて駄目だ」
代助は始めて、昔の平岡を当面に見た。
「袷の下にネルを重ねちやもう暑い。繻絆にすると可い」
「うん、面倒だから着てゐるが」
「洗濯をするから御脱ぎなさいと云つても、中々脱がないのよ」
「いや、もう脱ぐ、己も少々 厭になつた」
話は死んだ小供の事をとう/\離れて仕舞つた。さうして、来た時よりは幾分か空気に暖味(あたゝかみ)が出来た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ出だした。三千代も支度をするから、緩りして行つて呉れと頼む様に留めて、次の間へ立つた。代助は其後姿を見て、どうかして金を拵へてやりたいと思つた。
「君 何所か奉公 口の見当は付いたか」と聞いた。
「うん、まあ、ある様な無い様なもんだ。無ければ当分遊ぶ丈の事だ。緩くり探してゐるうちには何うかなるだらう」
云ふ事は落ち付いてゐるが、代助が聞くと却つて焦つて探してゐる様にしか取れない。代助は、昨日兄と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構へてゐる向ふの体面を、わざと此方から毀損する様な気がしたからである。其上金の事に付いては平岡からはまだ一言の相談も受けた事もない。だから表向挨拶をする必要もないのである。たゞ、斯うして黙つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴だと悪く思はれるに極つてゐる。けれども今の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な人間ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回してゐた。渡金を金に通用させ様とする切ない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である。と今は考へてゐる。
代助が真鍮を以て甘んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来したといふ様な、小説じみた歴史を有つてゐる為ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金を自分で剥がして来たに過ぎない。代助は此渡金の大半をもつて、親爺が捺摺り付けたものと信じてゐる。其 時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金に見えた。だから自分の渡金が辛かつた。早く金になりたいと焦つて見た。所が、他のものゝ地金へ、自分の眼光がぢかに打つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出した。
代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には兄と喧嘩をしても、父と口論をしても、平岡の為に計つたらう、又其計つた通りを平岡の所へ来て事々(ことごと)しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。
それで肝心の話は一二言で已めて、あとは色々な雑談に時を過ごすうちに酒が出た。三千代が徳利の尻を持つて御酌をした。
(青空文庫より)
◇評論
「三千代は小供の着物を膝の上に乗せた儘、返事もせずしばらく俯向いて眺めてゐたが、
「貴方のと同じに拵へたのよ」と云つて夫の方を見た。」
ここは三千代が、「赤ん坊の着物」が「今行李の底を見たら有つたから、出して来たんです」と言いながら、「左右に開い」て見せたことに対し、平岡が、「こら」、「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く壊して雑巾にでもして仕舞へ」と言った後の場面。
三千代が「小供の着物を膝の上に乗せた儘、返事もせずしばらく俯向いて眺めてゐ」る様子は、死んだ子を失った母の悲しみを感じさせ涙を誘うが、前回も述べたとおり、いくら友人とはいえ、その前でふつうこのようなことはしないだろう。そのような観点からすると、平岡と代助の前で三千代は明らかにわざとこうしているし、そうすることによって、何かを消極的に訴えようとしているということになる。たとえて言うならば、失った子の亡骸をふたりの前に示しているようなものだ。そんなものを出してくるんじゃないという夫に対し、「返事もせずしばらく俯向いて眺めてゐ」るという反応は、静かな抵抗だ。子の形見を簡単に「壊」すことなどできないという気持ちを表す静かな反抗。
やがて三千代の口から出てきたセリフは「貴方のと同じに拵へたのよ」というものだった。
ネル製の子の産着とその父親の肌着。同じ素材の、しかも母手製の着物。それを着せようと思った子は亡くなり、父親はまだ生きているという対比が鋭く際立つ言葉であり場面だ。表面上は、父子が仲良くお揃いの着物を着ていたはずなのにという意味だが、これを突き詰めると、「あの子は亡くなってしまったのに、あなたはまだ生きている」という意味にもなってしまう、とてもきわどい言葉だ。
そう「云つて夫の方を見た」三千代の視線はどのようなものだったろう。想像する楽しさを、漱石は読者に与えてくれる。
普通の夫・父であれば、「そうだったね、強く言って悪かった。それはあの子の形見として大切にしまっておきなさい」とでも言う場面だ。しかし平岡の反応は全く違う。
「是か」と、絣の袷の下へ重ねて、素肌に着てゐたネルを見て、「是はもう不可ん。暑くて駄目だ」と言う。
平岡は、自分が着ている肌着を、単なるモノとしてしか見ていない。だから気候に合わないと単純に何の配慮もなく「是はもう不可ん。暑くて駄目だ」と言い捨てることができる。つまり、三千代にとっての形見が、平岡にとってはただの下着なのだ。この認識の隔たりはあまりにも遠い。これだけでも、この夫婦はうまくいくはずがない。
この場面に遭遇した代助の反応は、私の予測を裏切るものだった。友人とはいえ非常に気まずい場面である。それなのに「代助は始めて、昔の平岡を当面に見た」、と語られる。ふつうであれば、愛する三千代の心情に寄り添った反応が予測される。少なくとも平岡に対する反感が述べられてもおかしくない。だからこの代助の反応も奇妙な感じがする。
この場面の三人の登場人物は、それぞれが別々のことを考えている。一般の予想に反する感想を持ち行動をとる。普通でないからぎこちない。まともなコミュニケーションが成立していない。だから読者は違和感を抱く。
昔から平岡はこのような人物だったのならば、はじめからこの夫婦はうまくいくはずがなかったのだ。また、まるで「昔の平岡に戻って良かった」とでも言わんばかりの表現になっているところが不審だ。
ところで、このかぎかっこは、代助と語り手が微妙に溶け合った表現になっている。代助の、「昔の平岡を当面に見た」という感想を、語り手が代弁している構造であるところが面白い。
①代助「袷の下にネルを重ねちやもう暑い。繻絆にすると可い」
②平岡「うん、面倒だから着てゐるが」
③三千代「洗濯をするから御脱ぎなさいと云つても、中々脱がないのよ」
④平岡「いや、もう脱ぐ、己も少々 厭になつた」
①のモノとしてのネルの評価に、平岡も②と答える。③でとうとう三千代もふたりの話に合わせる会話の内容になっている。④の平岡のセリフは深い意味を持つ。先に子の形見を「壊せ」と言い、ここでは同じネルで作った肌着を「己も少々 厭になつた」と吐き捨てる。これは当然、子のことも三千代も今の生活も「厭になつた」という意味だ。だから平岡はこんな生活や人間関係を早く「脱」ぎたいのだ。すべてを捨てたいと彼は思っていることを暗示させる表現。
三千代も含め、「話は死んだ小供の事をとう/\離れて仕舞つた。」
これも深い意味を持つ。実は三千代も、子の死は既に消化・解決済であることを暗示する。ここも、たとえば、死んだ子のことを思わないふたりに対して三千代があくまでもこだわり続けるとか、ふたりを批判する言葉を吐くとかが考えられる。しかし彼女はそうしない。意外にすんなりふたりに同化する。それどころか、その場の雰囲気には、「来た時よりは幾分か空気に暖味(あたゝかみ)が出来た」だけでなく、酒盛りが始まるのだ。
そうすると、これまでの三千代の行動はすべて演技・うそだったということになる。そうしてその目的は、代助の気を引くためだ。怖い女だ。
三人とも、人の情が欠けている。(亡くなった子が化けて出ないことを祈る)
「話は死んだ小供の事をとう/\離れて仕舞つた。さうして、来た時よりは幾分か空気に暖味(あたゝかみ)が出来た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ出だした。三千代も支度をするから、緩りして行つて呉れと頼む様に留めて、次の間へ立つた。代助は其後姿を見て、どうかして金を拵へてやりたいと思つた。」
やはりこの三人は妙だ。これでは「死んだ小供」が浮かばれぬ。「久し振りに一杯飲まうと云ひ出だした」平岡も、「支度をするから、緩りして行つて呉れと頼む様に留め」た三千代も、さらには、「其後姿を見て、どうかして金を拵へてやりたいと思つた」代助も、全員アウトだ。特に代助のこの感想は、微妙にエロい。自分の好きな女が困っており、自分のものにする代償に「金を拵へてやりたい」と考えている。この時誰かが代助に、お前はそうたくらんでいるだろうと詰問しても、彼はとぼけるだろうが、そう思われても仕方がない唐突さがある。まず、三千代の「後姿」がエロい。それを見守る代助はさらにエロい。それによって欲情し、その解消として「金を拵へてやりたい」と思うのもエロい。エロ爺が考えることだ。自分で自由になる金などないくせに。
そうしてその先には、金の提供によって三千代を自分のものにしたいという気持ちが隠れているとしか説明がつかない。
先ほど唐突と言ったが、子の産着を手にし悲しみに沈む女が、次の瞬間には酒盛りの仕度を進んでしようとし、その後ろ姿を見送る代助が彼女のために金を工面しようと思うことなど、すべてが唐突で不自然だ。悲しみに沈む女を何とか助けたいと思っての援助ならわかるが、その女は既に笑顔になっている。そこがおかしい。死んだ子の話のすぐ後にエロが発動する不自然さ。
このように、『それから』には、奇妙とも思えるような場面設定があり、特に代助と三千代の恋愛の理由付けや展開に無理があると感じられることが多い。おかしな三人の不器用な恋愛物語という設定ならばわかる。しかし漱石が目指したのは、そうではないだろう。
代助の耳には、「少しお金の工面ができなくって?」という三千代の言葉が繰り返し響いているはずだ。だから平岡に、「何所か奉公 口の見当は付いたか」と聞いたのだ。
「うん、まあ、ある様な無い様なもんだ。無ければ当分遊ぶ丈の事だ。緩くり探してゐるうちには何うかなるだらう」
何とも曖昧で無責任な返事だ。病身の妻がいる。その妻は生活の困窮を憂え、本当は頼みたくない相手に頼みたくない金策の依頼をした。恥を忍んでの行動だ。平岡のこのセリフは、それらをまったく顧慮しないいい加減な態度だ。「無ければ当分遊」んでいては生きてはいけないし、「緩くり探してゐるうちには何うかなる」ものでもない。
だから代助には、「焦つて探してゐる様にしか取れない」。積極的に金の工面を考えない平岡のいい加減な態度に、代助は、金は貸せないと言わないことにする。「昨日兄と自分の間に起つた問答の結果」とは、金は貸せないということだ。なぜかというと、「構へてゐる向ふの体面を、わざと此方から毀損する様な気がしたから」だった。金の工面を考えない鷹揚な平岡に対し、代助の方から金は貸せないと言うのは、直接「平岡からはまだ一言の相談も受けた事もない」こともあり、やめておこうと思ったからだ。「だから表向挨拶をする必要もないのである」。
「たゞ、斯うして黙つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴だと悪く思はれるに極つてゐる。けれども今の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な人間ぢやないと考へてゐる。」
この時代助の耳には、「お前は、どういうものか、誠実と熱心が欠けているようだ。それじゃいかん。だからなんにもできないんだ」という父の言葉が響いているだろう。冷めた視野と感情の持ち主である代助は、「冷淡」という「非難」に「無自覚」だった。
これは三千代との恋愛の成就に向かう場面で変化することになる。
「三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回してゐた。渡金を金に通用させ様とする切ない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である。と今は考へてゐる。」
「自然」な自分の肯定。それによる他者からの批判は甘んじて受ける覚悟。
「道念」…①道義心 ②人間として正しい生き方を求める心(三省堂「新明解国語辞典」)
「代助が真鍮を以て甘んずる様になつたのは」、「全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金を自分で剥がして来たに過ぎない」。「此渡金の大半」は、「親爺が捺摺り付けたもの」だ。「其 時分は親爺」も「多くの先輩」も、「みな金に見えた」。「だから自分の渡金が辛かつた。早く金になりたいと焦つて見た。所が、他のものゝ地金へ、自分の眼光がぢかに打つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出した」。
自分も他者も、すべての人の「地金」は金ではなく「真鍮」だと代助は考えている。他者はその上に「渡金」を「捺摺り付け」ている。しかし代助は「真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である。と今は考へてゐる。」
「代助は同時に斯う考へた」。自分は「三四年の間に、是迄変化した」。「平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう」。また、「昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から」、「兄と喧嘩をしても、父と口論をしても、平岡の為に計つたらう、又其計つた通りを平岡の所へ来て事々(ことごと)しく吹聴したらう」。しかし「今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい」。互いの「変化」は互いを思う気持ちに翳りをもたらし、冷めたふたりになってしまった。
代助に金の無心をした三千代も、「徳利の尻を持つて御酌を」する。平岡との生活を成り立たせる努力をやがて彼女は放棄する。




