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夏目漱石「それから」本文と評論5-5

◇本文

 其所(そこ)(かは)が流れて、柳があつて、古風な家であつた。黒くなつた床柱(とこばしら)(わき)の違ひ棚に、絹帽(シルクハツト)引繰返(ひつくりかへ)しに、二つ並べて置いて見て、代助は妙だなと()つた。然し()(はな)した二階の間に、たつた二人で胡坐(あぐら)をかいてゐるのは、園遊会より却つて楽であつた。

 二人は好い心持ちに酒を飲んだ。兄は飲んで、食つて、世間話をすれば其外に用はないと云ふ態度であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を忘れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り掛ゝつた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間三千代から頼まれた金策の件である。

 実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、其尻を兄になすり付けた覚はある。其時兄は叱るかと思ひの(ほか)、さうか、困り者だな、親爺には内々で置けと云つて嫂を通して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には一口(ひとくち)小言(こごと)も云はなかつた。代助は其時から、(あに)きに恐縮して仕舞つた。其後小遣ひに困る事はよくあるが、困るたんびに嫂を痛めて事を済ましてゐた。従つて斯う云ふ事件に関して兄との交渉は、まあ初対面の様なものである。

 代助から見ると、誠吾は(つる)のない薬鑵(やくわん)と同じことで、何処(どこ)から手を出して好いか分からない。然しそこが代助には興味があつた。

 代助は世間話の(てい)にして、平岡夫婦の経歴をそろ/\話し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ/\と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が金を借りに来た一段になつても、矢っ張りへえ/\と合槌を打つてゐる丈である。代助は、仕方なしに、

「で、私も気の毒だから、()うにか心配して見様つて受合つたんですがね」と云つた。

「へえ。左様(さう)かい」

()うでせう」

「御前金が出来るのかい」

(わたし)や一文も出来やしません。借りるんです」

「誰から」

 代助は始めから此所こゝへ落す積りだつたんだから、判然(はつきり)した調子で、

貴方(あなた)から借りて置かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の顔を見た。兄は矢っ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平気に、

「そりや、御 ()しよ」と答へた。

 誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない(ばかり)ではない、返す返さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には放つて置けば自づから何うかなるもんだと云ふ単純な断定である。

 誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて住んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ息子を頼まれて(うち)へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、前以て国から送つてある学資も旅費も藤野が使ひ込んでゐると云ふので、一時の繰り合せを頼みに来た事がある。無論誠吾が(ぢか)に逢つたのではないが、妻に云ひ付けて断わらした。夫でも其子は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を済ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる貸家の敷金を、つい使つて仕舞つて、借家人が明日引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて来た事がある。然し是も断わらした。夫でも別に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ()んな種類の例ばかりであつた。

「そりや、姉さんが(かげ)(まわ)つて(めぐ)んでゐるに違ひない。ハヽヽヽ。兄さんも余っ程呑気だなあ」

と代助は大きい声を出して笑つた。

「何、そんな事があるものか」

 誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて口へ持つて行つた。 (青空文庫より)


◇評論

 「其所(そこ)」とは、三千代から頼まれた金を工面するために、兄に談判を開こうと代助が申し出て、「そんなに急ぐなら、今日ぢや、()うだ。今日なら()い。久し振りで一所に飯でも食はうか」という兄の提案に従い、ふたりで向かった鰻屋のこと。

「二人は園遊会を辞して、車に乗つて、金杉橋(かなすぎばし)(たもと)にある鰻屋へ(あが)つた」(前話)


「古風な家」の「床柱」は「黒く」なっており、その「(わき)の違ひ棚に、絹帽(シルクハツト)引繰返(ひつくりかへ)しに」置くことは、躊躇しただろう。鰻の匂いと油が付いてしまわないかと、置くのがためらわれる場面だ。シルクハットを「二つ並べて置い」たところは、この兄弟の仲の良さと、場所とモノがミスマッチな少しの滑稽さを感じる。「妙だな」とは、古風な鰻屋の違い棚に並べて置かれた西洋のシルクハットが、場違いな感じがしたのだ。

()(はな)した二階の間に、たつた二人で胡坐(あぐら)をかいてゐる」解放感を、「園遊会より却つて楽であつた」と代助は感じる。


「二人は好い心持ちに酒を飲んだ」。「飲んで、食つて、世間話をすれば其外に用はないと云ふ」兄の「態度」。兄は、久しぶりの兄弟での会食に、ただそれだけで満足なのだ。しかし代助はそうではない。彼にはしなければならないことがある。それは、「此間三千代から頼まれた金策の件」だ。酒の効果もあり、幸い兄の機嫌は良さそうだ。「下女が三本目の銚子を置いて行つた」ことをきっかけに、代助は「始めて用談に取り掛ゝ」る。


兄への初めての「無心」。「学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、其尻を兄になすり付け」、「其時兄は叱るかと思ひの(ほか)、さうか、困り者だな、親爺には内々で置けと云つて嫂を通して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には一口(ひとくち)小言(こごと)も云はなかつた」。これは、その借金が弟本人のものであり、また、まだ学生の時のことなので、大目に見たのだろう。

代助が「小遣ひに困る事はよくあるが、困るたんびに嫂を痛めて事を済ましてゐた」。嫂は、この家族間の緩衝材の役割を果たしている。


(つる)のない薬鑵(やくわん)」とは、もしそのヤカンに熱湯が入っていたら無理に持ち上げようと触るとやけどをしてしまう。また、中身の量や内容が確認できない不明瞭さ。兄という人物の本性や考えていることがわからない不気味さが感じられる比喩。下手に触る・刺激すると、どんな反応が返ってくるかがわからない。それで代助は、「何処(どこ)から手を出して好いか分からない」ということになる。そうしてそこに恐怖ではなく「興味」を彼は感じる。これは兄弟ゆえだろう。

 金の無心は、しかもそれが初めてのことであれば、いくら兄弟の仲とはいえ、なかなか言い出しにくいものだろう。だから代助は、「世間話の(てい)にして、平岡夫婦の経歴をそろ/\話し始めた」。対して兄は、「面倒な顔色もせず、へえ/\と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる」。暖簾に腕押しの体。

いよいよ話題は核心に入り、「三千代が金を借りに来た一段になつても、矢っ張りへえ/\と合槌を打つてゐる丈である」。

この後の代助の様子や言葉は、まったく他人事のようだ。

代助「で、私も気の毒だから、()うにか心配して見様つて受合つたんですがね」

自分が金を借りたいのではない。友人のためにあなたから借りてやるのだ、という言い方だ。これでは、たとえ初めは貸してあげる気があったとしても、その気持ちはたちまち失せてしまうだろう。


次の兄弟の会話は、読んでいていつも不思議な感覚に陥る。

「御前金が出来るのかい」…弟が自分を誘ってわざわざこのような話をしているのだから、自分に金を無心したいのだろうと兄は察しないのだろうか。

(わたし)や一文も出来やしません。借りるんです」…代助のこの言い方は、とても違和感がある。友人を助けるために自分の働きで金を用意しようとするのではなく、それを人から借りることで工面しようとする考え方がおかしい。友情のために自分が人から借金をするとも読めるが、言い方がそっけなくてそのようには理解しにくい。無い金は借りればいいと安易に考えているように読める。

「誰から」…ここまでの話の展開から、自分に無心していると全く思わない兄の言葉。初手から自分は貸さないよという意味を込めているとも読めるが、ここまでの兄の様子からは、まさか自分に借金を申し出るとは夢にも思っていないというように読める。

従って、多少の期待を込めて兄に事情を説明した流れから、代助はこのような返事が返ってくるとは思わなかっただろう。何をとぼけているのだと言われても仕方がない兄の言葉だし、普通であれば代助はがっかりするところだ。しかし彼は、落胆しない。逆に、「判然(はつきり)した調子」で言う。

貴方(あなた)から借りて置かうと思ふんです」

傲慢な言い方だ。人から金を借りる者の言葉ではない。

こんな言葉をかけられた相手の兄は、「矢っ張り普通の顔をしてゐた」。「さうして、平気に、「そりや、御 ()しよ」と答へた」。

妙な兄弟である。心というものがない。ふつう金が貸せなければ、「いや、貸せないよ」と言わないか。「そりや、御 ()しよ」という言葉を予測した読者はどれだけいるだろう。

貴方(あなた)から借りて置かうと思ふんです」という弟の言葉と、これに対する、「そりや、御 ()しよ」という兄の言葉。ともにこんな言い方はふつうしない。この兄弟は、普通ではない。


ただ、これに続く説明を読むと、兄の言葉の真意は、「人から金を借りて友人を助けるのは、やめた方がいい」という意味だと分かる。それがあまりにも簡潔に述べられているので、読者は先のように解釈してしまう。


誠吾が「そりや、御 ()しよ」と言った理由である、「義理や人情に関係がない(ばかり)ではない、返す返さないと云ふ損得にも関係がなかつた」とは、借金の申し出を断るのは、義理や人情がないからではない。貸した金が返ってこないことを恐れたわけでもない。ということ。

兄の言葉の真意は、「たゞ、そんな場合には放つて置けば自づから何うかなるもんだと云ふ単純な断定」だった。

兄はその理由を「証明する為めに、色々な例を挙げた」が、兄が頼まれた借金は、「そりや、姉さんが(かげ)(まわ)つて(めぐ)んでゐるに違ひない。」と、代助は指摘し、「大きい声を出して笑つた」。

後に代助の借金の依頼を嫂が隠れて工面してくれたところを見ると、おそらくこの代助の読みは当たっているのだろう。

それでも、「何、そんな事があるものか」と「呑気」に「当り前の顔」をし、「さうして前にある猪口を取つて口へ持つて行つた」誠吾。この兄の様子は、妻の手配はありえないと本気で考えているのか、それとも本当は知っているのかがわからないように、わざと曖昧に描かれている。前者だと愚者だし、後者だと狸ということになる。とらえどころのない兄の様子が、上手に描かれている。


美的世界や体の働き、人間関係に敏感・繊細な弟と、それらに全く興味を持たない兄の対比。本当に血のつながった兄弟かと思われるほどだ。

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