夏目漱石「それから」本文と評論5-4
◇本文
代助は、誠吾の始終忙しがつてゐる様子を知つてゐる。又その忙しさの過半は、斯う云ふ会合から出来上がつてゐるといふ事実も心得てゐる。さうして、別に厭な顔もせず、一口の不平も零さず、不規則に酒を飲んだり、物を食つたり、女を相手にしたり、してゐながら、何時見ても疲れた態もなく、噪ぐ気色もなく、物外に平然として、年々肥満してくる技倆に敬服してゐる。
誠吾が待合へ這入つたり、料理茶屋へ上つたり、晩餐に出たり、午餐に呼ばれたり、倶楽部に行つたり、新橋に人を送つたり、横浜に人を迎へたり、大磯へ御機嫌伺ひに行つたり、朝から晩迄多勢の集まる所へ顔を出して、得意にも見えなければ、失意にも思はれない様子は、斯う云ふ生活に慣れ抜いて、海月が海に漂ひながら、塩水を辛く感じ得ない様なものだらうと代助は考へてゐる。
其所が代助には難有い。と云ふのは、誠吾は父と異つて、嘗て小六づかしい説法抔を代助に向つて遣つた事がない。主義だとか、主張だとか、人生観だとか云ふ窮窟なものは、てんで、これつ許も口にしないんだから、有るんだか、無いんだか、殆んど要領を得ない。其代り、此窮窟な主義だとか、主張だとか、人生観だとかいふものを積極的に打ち壊して懸つた試もない。実に平凡で好い。
だが面白くはない。話し相手としては、兄よりも嫂の方が、代助に取つて遥かに興味がある。兄に逢ふと屹度 何うだいと云ふ。以太利に地震があつたぢやないかと云ふ。土耳古の天子が廃されたぢやないかと云ふ。其外、向ふ島の花はもう駄目になつた、横浜にある外国船の船底に大蛇が飼つてあつた、誰が鉄道で轢かれた、ぢやないかと云ふ。みんな新聞に出た事 許である。其代り、当らず障らずの材料はいくらでも持つて居る。いつ迄 経つても種が尽きる様子が見えない。
さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔と妙な事を聞く事がある。今日本の小説家では誰が一番偉いのかねと聞く事もある。要するに文芸には丸で無頓着で且つ驚ろくべく無識であるが、尊敬と軽蔑以上に立つて平気で聞くんだから、代助も返事がし易い。
斯う云ふ兄と差し向ひで話をしてゐると、刺激の乏しい代りには、灰汁がなくつて、気楽で好い。たゞ朝から晩迄出歩いてゐるから滅多に捕まへる事が出来ない。嫂でも、誠太郎でも、縫子でも、兄が終日 宅に居て、三度の食事を家族と共に欠かさず食ふと、却つて珍しがる位である。
だから木蔭に立つて、兄と肩を比べた時、代助は丁度好い機会だと思つた。
「兄さん、貴方に少し話があるんだが。何時か暇はありませんか」
「暇」と繰り返した誠吾は、何にも説明せずに笑つて見せた。
「明日の朝は何うです」
「明日の朝は浜迄行つて来なくつちやならない」
「午からは」
「午からは、会社の方に居る事はゐるが、少し相談があるから、来ても緩り話ちやゐられない」
「ぢや晩なら宜からう」
「晩は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日の晩帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」
代助は口を尖がらかして、兄を凝つと見た。さうして二人で笑ひ出した。
「そんなに急ぐなら、今日ぢや、何うだ。今日なら可い。久し振りで一所に飯でも食はうか」
代助は賛成した。所が倶楽部へでも行くかと思ひの外、誠吾は鰻が可からうと云ひ出した。
「絹帽で鰻屋へ行くのは始めてだな」と代助は逡巡した。
「何構ふものか」
二人は園遊会を辞して、車に乗つて、金杉橋の袂にある鰻屋へ上つた。 (青空文庫より)
◇評論
今話は兄弟の会話が続く。
誠吾は「始終忙し」い男だ。そうして「その忙しさの過半は、斯う云ふ会合から出来上がつてゐる」。兄は、「別に厭な顔もせず、一口の不平も零さず、不規則に酒を飲んだり、物を食つたり、女を相手にしたり、してゐながら、何時見ても疲れた態もなく、噪ぐ気色もなく、物外に平然として」いる。代助は、「年々肥満してくる技倆に敬服してゐる」と皮肉る。結論から言うと、これが兄の仕事・人生なのだ。
続いて兄の具体的な活動内容が縷々(るる)説明される。
「待合」…待合は、待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業(貸座敷とも呼ばれる)で、(東京などで)主に芸妓との遊興や飲食を目的として利用された。京都でお茶屋と呼ばれる業態に相当する。(Wikipediaより)
「倶楽部」…一例として、東京倶楽部をあげる
「一般社団法人東京倶楽部は、1884年(明治17年)5月に創設された会員制社交クラブである。交詢社、日本倶楽部などと並び、日本の社交クラブの草分けとして知られる。「立派な紳士であること」が入会条件で、会員は旧華族や皇族の他、政・財・官の大物など多岐にわたり、常陸宮正仁親王が名誉総裁を務める。
日本が日英修好通商条約の改正に取り組んでいた時代に、英国の駐日大使ハリー・パークスがビクトリア女王に宛てて「日本は紳士が集う社交クラブがない野蛮国」といった内容の書簡を送ったという情報を聞きつけた明治天皇が、英国に留学経験のある伊藤博文から社交クラブに関する情報を集め、外務卿で鹿鳴館の設立者井上馨に命じてつくらせた社交クラブである。設立当初の会員は75人。英国に範をとったジェントルマンズ・クラブとして設立された。国際親善の増進と会員相互の親睦、知識の交換を図ることを目的とする。「内外人の交際を一層親密ならしめん」との旨趣が、1883年(明治16年)竣工の鹿鳴館の設立意図とも重なることから、同館内の一室に拠点および最初のクラブハウスを置いた。
1908年(明治41年)に社団法人として認可され、1912年(大正元年)に麹町(現・霞が関)の国有地に赤レンガのビルを建築し、拠点を移した。」(Wikipediaより)
「新橋に人を送つたり」…日本における鉄道は1872(明治5)年に新橋~横浜間が開業した。この時の様子や画像は、新橋駅からはじまった鉄道の歴史 未来をつくる、駅のこれから(前編) | JR東日本:and E│ひと、まち、せかいをつなぐ (andemagazine.jp)がわかりやすい。
「横浜に人を迎へたり」…「市民革命をへて18世紀後半から急激な工業化を進めた欧米諸国は、18世紀末になるとアジアへの進出を強めました。1853(嘉永6)年、前年にその来航が予告されていた米国東インド艦隊司令長官ペリーが、最新鋭の蒸気軍艦2艘を含む艦隊を率いて来航すると、翌年幕府は通商を拒否しつつ条約を締結しました。そして1858(安政5)年米・蘭・露・英・仏国と通商条約を締結し、神奈川(横浜)をはじめとする5港が世界へ向けて開かれることになりました。
開港後の横浜は、西洋文化をいち早く取り入れる場であるとともに、日本文化を海外へ発信する場でもありました。来日外国人が洋画や写真技術を伝え、陶磁器や漆器など、日本の伝統工芸品が海外へ輸出されています。さらに、戊辰戦争を経て成立した新政権は、新橋―横浜間に鉄道を開通させるなどの欧化政策を推し進め、工業国家を目指します。」(【テーマ4】近代「横浜開港と近代化」 | 神奈川県立歴史博物館 (kanagawa-museum.jp)より)
「大磯へ御機嫌伺ひに行つたり」…
「「湘南の奥座敷」
南は相模湾、北は高麗山と鷹取山と豊かな自然に囲まれた大磯。海岸一帯は古くから名勝として知られ、その景観を詠った歌は、万葉集や古今和歌集など幾多の歌集に収められています。平安時代末期には、相模国の中心として国府が置かれていました。東海道の宿場町として栄えた江戸時代には、「湘南」という言葉が、ここ大磯で誕生したといわれています。明治時代に入ると、政財界の重鎮たちがこぞって別荘を建築し、保養地として脚光を浴びました。2020(令和2)年からは、明治記念大磯邸園として、旧別荘地の庭園部分が公開されています。」(日本一住みたいまち・大磯の創造 ~さぁ、大磯で君の物語をはじめよう~ - 神奈川県ホームページ (pref.kanagawa.jp)より)
「「政財界のビックネームのオンパレード。まるでそのまま永田町な大磯の住人たち」
ちなみに、一体どんな人たちが大磯に別荘を構えていたのか?というと、幕末には土佐藩の藩士として、明治になってからは政治家として活躍した後藤象二郎、明治時代の外交官であり特に日英同盟の終結に尽力したことでその手腕が知られる林董、総理大臣も務めた吉田健三や山縣有朋、三菱財閥二代目の岩崎弥之助、大成建設の創業者であり鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などの設立にも関わった大倉喜八郎、旧土佐藩主家当主であった山内豊景や、旧尾張藩主家当主の徳川義禮など、歴史の教科書に名を連ねるそうそうたる人物名が並びます。外務大臣の陸奥宗光、伊藤博文、大隈重信らも邸宅を構え、結局、大磯にはなんと8人もの日本の総理大臣が邸を構えていたことになるのです。」(明治の余韻。日本の偉人たちに愛された「大磯別荘街」を訪ねて - TRiP EDiTORより)
このように見てくると、兄は、「朝から晩迄多勢の集まる所へ顔を出して」おり、その「得意にも見えなければ、失意にも思はれない様子は、斯う云ふ生活に慣れ抜いて、海月が海に漂ひながら、塩水を辛く感じ得ない様なものだらうと代助は考へてゐる」のもうなずける。兄は常に政界と財界を泳ぎ回っているのだ。
この様子は、日々の仕事の忙しさに次第に慣れてしまい、やがては何とも思わなくなる現代人と同じだ。(このクラゲの比喩は適切だし面白い)
日々の仕事と生活に慣れ切った兄の感覚は次第に鈍くなり、物事へのこだわりが喪失する。しかしこれは代助にとっては好都合だ。自分に対する批評も鈍くなると考えるからだ。「其所が代助には難有い」の「其所」とは、このことを指す。
「誠吾は父と異つて、嘗て小六づかしい説法抔を代助に向つて遣つた事がない。主義だとか、主張だとか、人生観だとか云ふ窮窟なものは、てんで、これつ許も口にしないんだから、有るんだか、無いんだか、殆んど要領を得ない。其代り、此窮窟な主義だとか、主張だとか、人生観だとかいふものを積極的に打ち壊して懸つた試もない。実に平凡で好い。」
社会の海を渡る兄は、おそらく代助をこう考えている。
弟には、「小六づかしい説法抔を」してもしようがない。「主義」、「主張」、「人生観」などの「窮窟なもの」を弟は受け付けないだろう。無職のアラサーは困ったものだが、とりあえず父親と自分の稼ぎと財産で、弟一人くらいは養うことができる。下手な論を吹っ掛けると、何を返されるかわからない。だから今は、弟に触れずに放っておこう。
代助は、父と兄の働きによってやっと生きていることもできるし、趣味の世界に逍遥することもできるのだ。しかし彼はまだそのことをしっかりと自覚していない。このしっぺ返しは、遠からず受けることになるだろう。
たしかに代助にとって兄の話題は「面白くはない」だろう。兄が「逢ふと屹度 何うだいと云ふ」のは、ひねくれ者の弟への当たり障りのない挨拶だ。代助に向かっては、むしろこう言うしかないだろう。また、以太利の地震や土耳古の天子が廃された話、向島の花、横浜にある外国船の船底の大蛇の話などはみな「新聞に出た事 許」だが、これらの「当らず障らずの材料」、「種」は、社交によって仕事をなしている兄には必要な情報だ。仕事の話は、これらから始まるのだから。雑談もできない者は、コミュニケーションに劣ると捉えられてしまう。話の導入としての話題は、むしろたくさんあった方がいい。代助にはそれがわからない。代助にとっては無駄で価値のない話だと思われるものが、社会では必要なのだ。
兄は、「文芸には丸で無頓着で且つ驚ろくべく無識」であり、トルストイや日本の小説家は社交上、あまり話題に上らないと見える。作家について「尊敬と軽蔑以上に立つて平気で聞く」ので、「代助も返事がし易い」。
もしかしたら兄は、文芸に多少の興味があるのかもしれない。
兄は弟を正面から相手にしていない。弟の方も同じだ。だから「斯う云ふ兄と差し向ひで話をしてゐると、刺激の乏しい代りには、灰汁がなくつて、気楽で好い」ということになる。
兄の忙しさは、「朝から晩迄出歩いてゐるから滅多に捕まへる事が出来ない。嫂でも、誠太郎でも、縫子でも、兄が終日 宅に居て、三度の食事を家族と共に欠かさず食ふと、却つて珍しがる位である」ほどだ。
「滅多に捕まへる事が出来ない」兄と、今は話ができている。「だから木蔭に立つて、兄と肩を比べた時、代助は丁度好い機会だと思つた」。「丁度好い機会」というのは、「このあいだ三千代から頼まれた金策の件」(5-5)である。
この後、気のおけない兄弟の雰囲気が感じられる会話が続き、最終的に忙しくて会う時間が取れないという兄に対し、「代助は口を尖がらかして、兄を凝つと見た。さうして二人で笑ひ出した」。かみ合わないが全く仲が悪いというわけでもないふたり。
結局この後「久し振りで一所に飯でも食はうか」という話になり、兄の提案で鰻屋へ行くことになる。
「絹帽で鰻屋へ行くのは始めてだな」と逡巡する代助。
「何構ふものか」と平気な兄。
ふたりの個性が現れている。
また、「絹帽で鰻屋へ行く」というのは、西洋と日本の文化が混在している当時の日本をよく表している。日本文化に西洋を接木した様子。
「金杉橋の袂にある鰻屋」…
「「港区橋物語02 金杉橋」
赤穂浪士たちが討ち入り後、泉岳寺に向かう道中に渡ったとされる金杉橋。時代小説にもたびたび描かれていて、池波正太郎時代小説「鬼平犯科帳」では、主人公の平蔵が下手人を追う場面などに登場します。
日本橋から東海道を出発してちょうど一里。現在の芝1丁目と浜松町2丁目の間、古川にかけられています。江戸後期の資料によると、当時の大きさは長さ11間(約20m)、幅4間(約7.3m)。橋のほんの数十m先には海が広がっていました。安藤広重の「名所江戸百景」の一枚「金杉橋芝浦」には、橋から展望できる江戸湾が描かれています。
現在も金杉橋付近の川面には、小さな屋形船がビッシリ。夏の夜には屋形船に付けられた色とりどりの提灯が周囲を照らします。
東京で初めてガス灯がともった場所としても金杉橋はその名を知られています。明治7(1874)年、京橋との間に設置されたガス灯は近代化の象徴として(わずか15W程度の明るさでしたが)、発展する東京の夜を照らしました。」
港区ホームページ/港区橋物語02 金杉橋 (city.minato.tokyo.jp)より
この近辺には鰻問屋があったらしく、現在も近隣に鰻屋が数件ある。漱石は鰻が好きだったようだ。




