夏目漱石「それから」本文と評論5-3
◇本文
それから二三日は、代助も門野も平岡の消息を聞かずに過ごした。四日目の午過ぎに代助は麻布のある家へ園遊会に呼ばれて行つた。御客は男女を合せて、大分来たが、正賓と云ふのは、英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた。これは中々の美人で、日本抔へ来るには勿体ない位な容色だが、何処で買つたものか、岐阜 出来の絵日傘を得意に差してゐた。
尤も其日は大変な好い天気で、広い芝生の上にフロツクで立つてゐると、もう夏が来たといふ感じが、肩から脊中へ掛けて著しく起つた位、空が真蒼に透き通つてゐた。英国の紳士は顔をしかめて空を見て、実に美くしいと云つた。すると細君がすぐ、ラツヴレイと答へた。非常に疳の高い声で尤も力を入れた挨拶の仕様であつたので、代助は英国の御世辞は、また格別のものだと思つた。
代助も二言三言此細君から話しかけられた。が三分と経たないうちに、遣り切れなくなつて、すぐ退却した。あとは、日本服を着て、わざと島田に結つた令嬢と、長らく紐育で商業に従事してゐたと云ふ某が引き受けた。此某は英語を喋舌る天才を以て自ら任ずる男で、欠かさず英語会へ出席して、日本人と英語の会話を遣つて、それから英語で卓上演説をするのを、何よりの楽しみにしてゐる。何か云つては、あとでさも可笑しさうに、げら/\笑ふ癖がある。英国人が時によると怪訝な顔をしてゐる。代助はあれ丈は已めたら可からうと思つた。令嬢も中々旨い。是は米国婦人を家庭教師に雇つて、英語を使ふ事を研究した、ある物持ちの娘である。代助は、顔より言葉の方が達者だと考へながら、つく/″\感心して聞いてゐた。
代助が此所(こゝ)へ呼ばれたのは、個人的に此所の主人や、此英国人夫婦に関係があるからではない。全く自分の父と兄との社交的勢力の余波で、招待状が廻つて来たのである。だから、万遍なく方々へ行つて、好い加減に頭を下げて、ぶら/\してゐた。其中に兄も居た。
「やあ、来たな」と云つた儘、帽子に手も掛けない。
「何うも、好い天気ですね」
「あゝ。結構だ」
代助も脊の低い方ではないが、兄は一層高く出来てゐる。其上この五六年来次第に肥満して来たので、中々立派に見える。
「何うです、彼方へ行つて、ちと外国人と話でもしちや」
「いや、真平だ」と云つて兄は苦笑ひをした。さうして大きな腹にぶら下がつてゐる金鎖を指の先で弄つた。
「何うも外国人は調子が可いですね。少し可すぎる位だ。あゝ賞められると、天気の方でも是非 好くならなくつちやならなくなる」
「そんなに天気を賞めてゐたのかい。へえ。少し暑過ぎるぢやないか」
「私にも暑過ぎる」
誠吾と代助は申し合せた様に、白い手巾を出して額を拭いた。両人共重い絹帽を被つてゐる。
兄弟は芝生の外れの木蔭迄来て留つた。近所には誰もゐない。向ふの方で余興か何か始まつてゐる。それを、誠吾は、宅にゐると同じ様な顔をして、遠くから眺めた。
「兄の様になると、宅にゐても、客に来ても同じ心持ちなんだらう。斯う世の中に慣れ切つて仕舞つても、楽しみがなくつて、詰らないものだらう」と思ひながら代助は誠吾の様子を見てゐた。
「今日は御父さんは何うしました」
「御父さんは詩の会だ」
誠吾は相変らず普通の顔で答へたが、代助の方は多少 可笑しかつた。
「姉さんは」
「御客の接待掛りだ」
また嫂が後で不平を云ふ事だらうと考へると、代助は又 可笑しくなつた。
(青空文庫より)
◇評論
今話のような何気ない情景描写に、漱石の巧みさを感じる。話の流れが自然で嫌味がない。当たり前の話を当たり前に語る。だからすっと読んでしまうし、次話が期待される。
「それから二三日」とは、帰京した平岡の引っ越しが済んでからという意味。「代助も門野も平岡の消息を聞かずに過ごした」からは、平岡が自身で就職活動をしていることをうかがわせる。三千代も細かな荷物整理で忙しいのだろう。
代助は、「四日目の午過ぎに」「麻布のある家へ園遊会に呼ばれて行つた」。「御客は男女を合せて、大分来た」。「正賓と云ふのは、英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた」。
次の部分は英国婦人の説明と感想となっているのだが、それが語り手のものなのか、代助のものなのかが曖昧になっている。しかし読者は、この感想は代助の眼から見たものだと自然と理解できるようになっており、文章表現として面白い。
「これは中々の美人で、日本抔へ来るには勿体ない位な容色だが、何処で買つたものか、岐阜 出来の絵日傘を得意に差してゐた」。
これはあきらかに男性である代助から見てこのように判断されたという語り口であり、彼の美に対する批評精神が現れている。まず夫人は、「中々の美人」であり、「日本抔へ来るには勿体ない位な容色」だ。美的観念に優れる代助にしては、最大級の肯定的評価ということになる。しかし彼女には唯一欠点がある。「岐阜 出来の絵日傘を得意に差してゐた」のだ。これに、「何処で買つたものか」という表現が付いているところが代助らしい。今でも来日客は、日本人からすると変なものへの興味を示したり、おかしな文字が書かれたTシャツを平気で着たりする。それと同じだ。
美しいものに一点、欠点がある。そうしてそれは、その美全体を台無しにする。代助の美への評価は厳しい。(そうしてその厳しい目にかなった三千代はどれほどだろうと想像される)
西洋の美を備えている英国夫人と、日本の絵日傘のアンバランス・不調和が、代助は気に入らないのだ。それぞれはそれぞれに美しい。しかしその二つの取り合わせが何とも調和していない。ミスマッチと代助の目には映ったのだ。
明治時代の麻布について。
「麻布の変化――武家地から住宅地へ」220 ~ 221 / 353ページ
麻布地域では、明治初期から市兵衛町、鳥居坂、飯倉などを中心に皇族・華族、政財官界の有力者などの邸宅地が集まっていたが、複雑な地形で街道筋から外れており、市区改正事業での道路改良は小規模なものに留まり、三等道路以下のみが指定されていた。このため麻布の道路網は江戸時代からあまり変わらず、中規模な大名屋敷の土地形状、地割が維持された形で住宅地が形成された。その例として、麻布区霞町(現在の西麻布交差点付近)の棚倉藩阿部家下屋敷が挙げられる。
阿部家本家の旧福山藩主・阿部正桓は、帝国大学に近く「学者町」と称された本郷西片町で貸家貸地経営を行ったが、分家の棚倉藩阿部家も、麻布区霞町の下屋敷跡地で同じく貸家貸地経営を営んだ。棚倉藩阿部家下屋敷は明治維新後も阿部家私邸であったが、明治五年(一八七二)の武家地・町人地区分の廃止に伴い、霞山稲荷にちなんで麻布霞町と命名された。明治二〇年代初頭から屋敷跡の敷地内に小路を開設、井戸や排水施設が整備され、阿部家所有の貸地・貸家からなる住宅地に変化した。
市区改正事業により、屋敷跡西側の笄川沿いの低地が整備され、南北に通る道路が拡幅された(現在の外苑西通り。四等道路、幅員八間)。明治三九年には市街電車が開通した(品川駅前~天現寺~青山一丁目の区間、後の都電第七系統・品川駅前~四谷三丁目の一部)。屋敷跡付近には霞町停車場が設置され、交通至便となった霞町周辺は繁栄期を迎えた。明治末の阿部屋敷跡には、平均一七坪程度の建坪に木造平屋建て三六五戸が建ち並び、阿部家は華族のうちで六番目の大土地所有者となった。
(「港区史」(テキスト / 麻布の変化――武家地から住宅地へ (adeac.jp))
明治期の麻布・赤坂は、大名の中・下屋敷の広大な跡地が広がる郊外であり、軍用地のほか、墓地、療養のための病院などの施設も置かれた。麻布には「東京天文台」も置かれたが、明治末期には周辺の都市化が進み、明かりが天体観測の障害となるようになったため移転が検討されるようになった。
(3:明治期に誕生した施設 ~ 麻布・赤坂 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産 (smtrc.jp))
「麻布のある家」で行われている「園遊会」に客は「大分来た」。「正賓」は「英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた」。英国の議員兼実業家ということは、英国との関係を取り結ぶだけでなく、実業的にも関係を深める目的があっただろう。
「其日は大変な好い天気」で、「広い芝生の上にフロツクで立つてゐると、もう夏が来たといふ感じが、肩から脊中へ掛けて著しく」起こるほど、「空が真蒼に透き通つてゐた」。英国の紳士が「空を見て、実に美くしいと云つた」のに「細君がすぐ」反応し、「ラツヴレイと答へた」。「非常に疳の高い声で尤も力を入れた挨拶の仕様」に、「代助は英国の御世辞は、また格別のものだと思つた」。
このあたりを読むと、代助は無批判に西洋文化を礼賛しているのではないことがわかる。英国婦人の「ラツヴレイ」という「非常に疳の高い声」が耳障りで、「尤も力を入れた挨拶の仕様」を「御世辞」・「格別」と感じる。この「格別」は、褒める意味ではない。声が高すぎるし、力を入れすぎだ。それほどでもないものをことさら強調して褒める偽善を、代助は感じている。英国婦人のこの言葉には、演技と、周囲にいる日本人への侮蔑に近い気持ちがうかがわれる。周りの者に英語でわざと聞かせた言葉だ。代助はそれを「格別」と表現したのだろう。
「フロックコート」
男子が昼間着る洋式の礼服の一つ。黒ラシャ製。上着はダブルでひざまであり、すそはまっすぐに切る。縦じまのズボンをはく。(三省堂「新明解国語辞典」第6版)
「代助も二言三言此細君から話しかけられた。が三分と経たないうちに、遣り切れなくなつて、すぐ退却した。」
前に、「代助と平岡とは中学時代からの知り合いで、ことに学校を卒業して後、一年間というものは、ほとんど兄弟のように親しく往来した」。「一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めている銀行の、京阪地方のある支店詰めになった」とあった。この「学校」は、東京大学の事だろう。西洋への関心と知識がある代助ならば、英会話もそれほど苦にはならないだろう。しかしここで彼は、3分ももたずに美しい英国婦人との会話をやめてしまう。「遣り切れなくなつて」の詳細が描かれないが、甲高い相手の口調や園遊会そのものへの退屈などが影響しているだろう。英会話が不得手なためではなく、すべてが面倒くさいため、「退却した」のだろう。
代助の代わりはちゃんといる。「日本服を着て、わざと島田に結つた令嬢と、長らく紐育で商業に従事してゐたと云ふ某が引き受けた」。「日本服を着て、わざと島田に結つた」のは、英国からの客をもてなすあざとい手段だ。
「英語を喋舌る天才を以て自ら任ずる男」と、「米国婦人を家庭教師に雇つて、英語を使ふ事を研究した、ある物持ちの娘」。男の「げら/\笑ふ癖」は、英国人に取り入ろうとする陽気さの演出なのだろうが、それは相手に好まれない。英国人は時に「怪訝な顔」しか返さない。娘に至っては、代助により「顔より言葉の方が達者だ」と酷評される始末。代助が「つく/″\感心して聞いてゐた」には、ふたりの達者な英語と、厚かましさ、どぎつさ、違和感がないまぜになっている。「感心」には、よくもああのようななりと態度ができるものだという批判が含まれる。
早くも「退却」を願う代助。彼がなぜそこにいるのかが次に説明される。
「代助が此所(こゝ)へ呼ばれたのは、個人的に此所の主人や、此英国人夫婦に関係があるからではない。全く自分の父と兄との社交的勢力の余波で、招待状が廻つて来たのである。だから、万遍なく方々へ行つて、好い加減に頭を下げて、ぶら/\してゐた。」
いわば父と兄の代役としてのふるまい。ふたりには経済的な恩がある。誘いをむげに断ることもできず、曖昧な対応でお茶を濁す。代助はそうやって生きている。他者から見れば、「好い加減」。
たくさんの人が集まり、主賓は英国の国会議員夫婦。そのような世界に関係する父と兄の社会的立場がうかがわれる。代助だけが一人、働きもせず他人の金で生きている。
やがて兄が登場する。
「「やあ、来たな」と云つた儘、帽子に手も掛けない。」
兄としては、もしかしたら弟は来ないのではないかと思っていただろう。また、来てくれた礼を改めて述べるのも気恥ずかしい二人なのだ。
「何うも、好い天気ですね」
「あゝ。結構だ」
時候の挨拶は定型で無味乾燥だが、便利でもある。黙っているよりはましだとふたりとも思っている。
「代助も脊の低い方ではないが、兄は一層高く出来てゐる。其上この五六年来次第に肥満して来たので、中々立派に見える。」
兄は大学卒業後に父の関係の会社に就職し、現在はその要職にあることが前に述べられた。地位にふさわしい貫禄が付いてきた様子だろう。
「「何うです、彼方へ行つて、ちと外国人と話でもしちや」
「いや、真平だ」と云つて兄は苦笑ひをした。」
このあたりは気質が同じ兄弟だ。兄も付き合いで参加しているだけなのだ。
「さうして大きな腹にぶら下がつてゐる金鎖を指の先で弄つた。」
兄の手慰みのしぐさ。金鎖は、上の画像に見える。
「「何うも外国人は調子が可いですね。少し可すぎる位だ。あゝ賞められると、天気の方でも是非 好くならなくつちやならなくなる」
「そんなに天気を賞めてゐたのかい。へえ。少し暑過ぎるぢやないか」
「私にも暑過ぎる」」
先ほどの英国人夫婦の大げさなやり取りをふたりが批判する場面。
しかしふたりは、批判対象の西洋の文物・文化に浸らざるを得ない。次の、「誠吾と代助は申し合せた様に、白い手巾を出して額を拭いた。両人共重い絹帽を被つてゐる」は、それを表している。
「兄弟は芝生の外れの木蔭迄来て留つた。近所には誰もゐない。」
兄弟ともに「退散」した図。
「向ふの方で余興か何か始まつてゐる。それを、誠吾は、宅にゐると同じ様な顔をして、遠くから眺めた。
「兄の様になると、宅にゐても、客に来ても同じ心持ちなんだらう。斯う世の中に慣れ切つて仕舞つても、楽しみがなくつて、詰らないものだらう」と思ひながら代助は誠吾の様子を見てゐた。」
ここでは兄弟の違いが描かれる。「世の中に慣れ切つて仕舞つ」た兄は、「宅にゐても、客に来ても同じ心持ち」であり、「楽しみがなくつて、詰らないものだらう」と代助は推測する。兄は実業界へ出て、会社の要職にあり、園遊会にも誘いがかかる。それに対し無職の代助は、美的世界・精神世界の活動は活発だが、しかしやはり退屈を感じている。違う環境にいる兄弟は、同じように退屈を抱いているのだ。ここで代助は、そのようなことを思っている。
「「今日は御父さんは何うしました」
「御父さんは詩の会だ」
誠吾は相変らず普通の顔で答へたが、代助の方は多少 可笑しかつた。
「姉さんは」
「御客の接待掛りだ」
また嫂が後で不平を云ふ事だらうと考へると、代助は又 可笑しくなつた。」
長井家の代表であるはずの父親の欠席。それを兄はいつものことと無関心・無感動に扱う。そこに代助は、「多少」の「可笑し」みを感じたのだ。姉も一緒に来ていたようだが、「御客の接待掛り」に忙しいようで姿が見えない。嫂ばかりが働かされ、男兄弟は木陰で退屈がっている。嫂の「不平」はそこにある。それなのに兄は全く動こうともしない。それが代助の「可笑し」みの理由だ。
今話は父と兄の社交界との接点が描かれていた。英国夫婦の派手さ。それに追従する日本人たち。退屈を持て余す兄弟。一人忙しい嫂。不在の父親。登場人物全てがばらばらに存在する。
ほとんどの者は来たくないのに参加せざるを得ない。来る気満々の奴は厚かましく振舞う。これは当時の日本と西洋との関係を暗示している。




