夏目漱石「それから」本文と評論16-2「貴方は夫程僕を信用してゐるんですか」「信用してゐなくつちや、斯(か)うして居られないぢやありませんか」
◇本文
中二日置いて三千代が来る迄、代助の頭は何等の新しい路を開拓し得なかつた。彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書で焼き付けられてゐた。それを押し退けると、物質的供給の杜絶がしきりに踊り狂つた。それが影を隠すと、三千代の未来が凄まじく荒れた。彼の頭には不安の旋風が吹き込んだ。三つのものが巴の如く瞬時の休みなく回転した。其結果として、彼の周囲が悉く回転しだした。彼は船に乗つた人と一般であつた。回転する頭と、回転する世界の中に、依然として落ち付いてゐた。
青山の宅からは何の消息もなかつた。代助は固よりそれを予期してゐなかつた。彼は力めて門野を相手にして他愛ない雑談に耽つた。門野は此暑さに自分の身体を持ち扱つてゐる位、用のない男であつたから、頗る得意に代助の思ふ通り口を動かした。それでも話し草臥れると、
「先生、将棋は何うです」抔と持ち掛けた。夕方には庭に水を打つた。二人共 跣足になつて、手桶を一杯 宛(づゝ)持つて、無分別に其所等を濡らして歩いた。門野が隣の梧桐の天辺迄水にして御目にかけると云つて、手桶の底を振り上げる拍子に、滑つて尻持を突いた。白粉草が垣根の傍で花を着けた。手水鉢の蔭に生えた秋海棠の葉が著(いちゞる)しく大きくなつた。梅雨は漸く晴れて、昼は雲の峰の世界となつた。強い日は大きな空を透き通す程焼いて、空一杯の熱を地上に射り付ける天気となつた。
代助は夜に入つて頭の上の星ばかり眺めてゐた。朝は書斎に這入つた。二三日は朝から蝉の声が聞こえる様になつた。風呂場へ行つて、度々頭を冷やした。すると門野がもう好い時分だと思つて、
「何うも非常な暑さですな」と云つて、這入つて来た。代助は斯う云ふ上の空の生活を二日程送つた。三日目の日盛りに、彼は書斎の中から、ぎら/\する空の色を見詰めて、上から吐き下ろす焔の息を嗅いだ時に、非常に恐ろしくなつた。それは彼の精神が此猛烈なる気候から永久の変化を受けつゝあると考へた為であつた。
三千代は此暑さを冒して前日の約を履んだ。代助は女の声を聞き付けた時、自分で玄関迄飛び出した。三千代は傘をつぼめて、風呂敷包みを抱へて、格子の外に立つてゐた。不断着の儘(まゝ)宅を出たと見えて、質素な白地の浴衣の袂から手帛を出し掛けた所であつた。代助は其姿を一目見た時、運命が三千代の未来を切り抜いて、意地悪く自分の眼の前に持つて来た様に感じた。われ知らず、笑ひながら、
「馳落ちでもしさうな風ぢやありませんか」と云つた。三千代は穏かに、
「でも買物をした序でないと上がり悪いから」と真面目な答をして、代助の後に跟いて奥迄這入つて来た。代助はすぐ団扇を出した。照り付けられた所為で三千代の頬が心持よく輝いた。何時もの疲れた色は何処にも見えなかつた。眼の中にも若い沢が宿つてゐた。代助は生々した此美くしさに、自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れて仕舞つた。が、やがて、此美くしさを冥々の裡に打ち崩しつゝあるものは自分であると考へ出したら悲しくなつた。彼は今日も此美しさの一部分を曇らす為に三千代を呼んだに違ひなかつた。
代助は幾度か己れを語る事を躊躇した。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉 一筋にしろ心配の為に動かさせるのは、代助から云ふと非常な不徳義であつた。もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに鋭く働らいてゐなかつたなら、彼は夫れから以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達ての告白を再び同じ室のうちに繰り返して、単純なる愛の快感の下に、一切を放擲して仕舞つたかも知れなかつた。
代助は漸くにして思ひ切つた。
「其後貴方と平岡との関係は別に変りはありませんか」
三千代は此問を受けた時でも、依然として幸福であつた。
「あつたつて、構はないわ」
「貴方は夫程僕を信用してゐるんですか」
「信用してゐなくつちや、斯うして居られないぢやありませんか」
代助は目映しさうに、熱い鏡の様な遠い空を眺めた。 (青空文庫より)
◇評論
「中二日置いて三千代が来る」とは、前話の、「「すこし又話したい事があるから来て下さい」と前よりは稍真面目に云つて代助は三千代と別れた」を承けた場面。
「中二日置いて三千代が来る迄、代助の頭は何等の新しい路を開拓し得なかつた」。本来であれば、三千代との愛の貫徹のために、「職業」を探し、決定しなければならない。むしろ積極的にそれをするのが普通だろうが、代助はやはり働くことがとても嫌なのだ。
「彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書で焼き付けられてゐた。それを押し退けると、物質的供給の杜絶がしきりに踊り狂つた」。「物理的供給」は自ら行うもので、世の人はみな辛くともそうしている。ましてやその後には、「三千代の未来が凄まじく荒れ」ることになってしまう。「不安の旋風」など代助の方から吹き飛ばさねばならぬ。それができるのが、人を愛することであり、愛する人のためである。だから読者は彼の愛に不信感を抱いてしまう。いまの代助にとって焦眉の急は「職業」であり、その次に三千代への愛が来る。この前後は本来逆ではないか。
「三つのものが巴の如く瞬時の休みなく回転した。其結果として、彼の周囲が悉く回転しだした。彼は船に乗つた人と一般であつた。回転する頭と、回転する世界の中に、依然として落ち付いてゐた」。「三つのもの」とは、「職業」と「物質的供給の杜絶」と「三千代の未来」。代助はこれらの「回転」によってひどいめまいを感じるが、されでも「依然として落ち付いて」おり、何もしない。すぐにでも職探しに出るべきなのに、何の行動も起こさない。
「青山の宅からは何の消息もなかつた」、は、代助が実家からの連絡を待っていることを表す。だから、「代助は固よりそれを予期してゐなかつた」は強がりだ。従って、「彼は力めて門野を相手にして他愛ない雑談に耽」ることなる。気分を外の事で紛らせようとする態度。門野との雑談も、将棋も、水打ちも、すべて無意味なこと。
「梅雨は漸く晴れて、昼は雲の峰の世界となつた。強い日は大きな空を透き通す程焼いて、空一杯の熱を地上に射り付ける天気となつた」。やがて、「ぎら/\する」太陽が「上から吐き下ろす焔の息を」代助に吹きかける。嗅いだ時に、非常に恐ろしくなつた。「此猛烈なる気候から永久の変化を受けつゝあると考へ」、恐怖を感じる代助。しかしそれは、彼自ら望んだ「変化」ではないか。
「三千代は傘をつぼめて、風呂敷包みを抱へて、格子の外に立つてゐた。不断着の儘(まゝ)宅を出たと見えて、質素な白地の浴衣の袂から手帛を出し掛けた所であつた」。
これを、Copilotに生成してもらいました。突っ込みどころ満載ですが、雰囲気はうかがえるので載せます。
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「傘をすぼめ、風呂敷包みを抱え、格子の外に立つており、質素な白地の浴衣の袂からハンカチを出しかけた、明治時代の女の画像を作ってください」Copilotによる生成
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「代助は其姿を一目見た時、運命が三千代の未来を切り抜いて、意地悪く自分の眼の前に持つて来た様に感じた」。「質素な白地の浴衣」とはまさに「質素」であり、そのようなものしか身にまとうことができない貧しいふたりの「未来」を想像したということ。代助はここでもやはり、「三千代との愛ある暮らしができるのであれば、そのようなことはいとわない」とはならないのだ。「意地悪く自分の眼の前に持つて来た」に、その不快感が表れている。
また、「質素な白地の浴衣」は不吉な符号となっている。これには死の影がまとわりつく。
この三千代の姿を見て、代助は「われ知らず、笑ひながら、「馳落ちでもしさうな風ぢやありませんか」」と、下手な冗談を言う。もちろん「馳落ちでもしさう」は実際にそうなるだろうふたりを暗示する。
だか三千代はこれに取り合わない。「穏かに、「でも買物をした序でないと上がり悪いから」と」という「真面目な答をして、代助の後に跟いて奥迄這入つて来た」。
代助とは異なり、三千代は「照り付けられた所為で」「頬が心持よく輝」く。彼女は愛の喜びにある。「何時もの疲れた色は何処にも見えなかつた。眼の中にも若い沢が宿つてゐた」。三千代の「生々した」「美くしさ」。それは、代助との愛を確信しているからだ。
そうであるならばなおさら代助は、ふたりの生活の確立のために「職業」に就かなければならないし、そのための行動をすぐにでもすべきだ。しかし彼は相変わらず、三千代の美しさに「自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れて仕舞つた」。「やがて、此美くしさを冥々の裡に打ち崩しつゝあるものは自分であると考へ出したら悲しくなつた」とあるが、悲しがっている場合ではないはずだ。まさに「彼は今日も此美しさの一部分を曇らす為に」存在しているようなものだ。つまりこんな代助によって三千代が幸せになるはずは無いのだ。平岡といても不幸。代助といても不幸。真にかわいそうな女だ。
「自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉 一筋にしろ心配の為に動かさせるのは、代助から云ふと非常な不徳義であつた」と考えるならば、なぜ働かない。彼は三千代に「己れを語る」という「義務」がある。「先達ての告白を再び同じ室のうちに繰り返して、単純なる愛の快感の下に、一切を放擲して」いる場合ではない。
「代助は漸くにして思ひ切つた」の説明の後には、「これから仕事を探そうと思う。ふたりの生活を始めるために。だから君は安心して」というセリフを読者は予想する。しかしそれは代助によって見事に裏切られる。
「其後貴方と平岡との関係は別に変りはありませんか」
これを聞いてはいけないとは言わない。しかし、聞いてどうするとも思う。平岡と三千代の関係は既に冷え切っていることは以前確認済みだ。だから代助はここで、自分たちの今後について話さなければならなかった。相手の三千代もそう思っていただろう。三千代の心は決まっている。だから「三千代は此問を受けた時でも、依然として幸福」であり、「あつたつて、構はないわ」と答えるのだ。
次の代助の、「貴方は夫程僕を信用してゐるんですか」というセリフもいかにも弱い。相手の気持ちを確信できない「恐れる男」がここにも顔を出す。
当然三千代は、「信用してゐなくつちや、斯うして居られないぢやありませんか」と強く言う。(三千代はなぜこんな男を好きになったのだろう?)
「代助は目映しさうに、熱い鏡の様な遠い空を眺めた」。夢見がちな代助少年であった。(皮肉) やがて彼はその「熱」によって焼かれる運命だ。




