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前編

初投稿です!!

長い間放置していました。供養!


「おい、貧乏人」


果てしなく長い王宮の外廊下をほうきで掃除していたミシャは、男の声が聞こえなかった振りをして手を止めなかった。


「貴様のことだミシャ・リード。聞こえなかったか。」

男が薄ら笑いでいうと、取り巻きの男たちが援護するようにミシャを煽った。


「恐れ多くもルイス様がお前ごときに話しかけているんだ。何か言ったらどうだ。」

「……。」


内心は全く平気ではない。しかし、こんな挑発に乗って思いのままに言い返すのはプライドが許さないし、そもそもそんな勇気はなかった。それに、この状況を誰かが助けてはくれないし、今日の自分のノルマが終わるまではこの場から立ち去ることだってできないのである。

こういうときは変に荒立てないのが一番だ。


「ルイス様、ご機嫌麗しゅうございます。本日もお勤めご苦労様です。」

「ふん。最初からそう愛想よくしていればいいものを。」


ルイスは冷たく馬鹿にした目でミシャを一瞥した。平静を装っているが、確かに屈辱を感じているミシャの表情に満足すると、取り巻きを引き連れて去っていった。

ルイスたちの姿が長い外廊下の向こうに消えると、ミシャは深いため息をついて委縮した心臓が緩むのを感じた。


「私が何をしたっていうのよ。」


ミシャは鼻の奥がつんとするのに耐えながら、再び掃除を始めたのだった。

掃除しながら、ミシャは事の発端は何だったか思い出していた。






きっかけは些細すぎて、何がきっかけかもわからなかった。

死んだ父が残した多額の借金を返済するために、少しでも金を稼ぐ必要があった。

王宮の掃除婦は、しがない町娘のミシャにとってこれ以上にない仕事だった。田舎でカフェやパン屋の店員をしていた時と比べてかなり生活はよくなった。

だが、贅沢ができるわけではない。同僚が新作の服や化粧を身にまといおしゃれを楽しんでいる中、ミシャは少しでも借金返済に充てるために同じ服を着古していた。化粧道具はかろうじて色付きリップをつけるくらいだった。仕事が終われば真っ直ぐに寮に帰る。休日もめったに出歩かない。

そんな慎ましい姿が、きらびやかな王宮では浮いた存在だったのだろうか。気づけば宮廷騎士のルイス・ターナーに目をつけられていた。

最初は遠くから嫌な視線を感じるくらいだったのが、徐々に嫌味がミシャの耳に届くようになり、しまいには直接馬鹿にされるようになった。


「貧乏人はいるだけで空気を湿らせるな。」

「陰気な顔をどうにかしたらどうなんだ。」

「その品のなさは王宮にはふさわしくない。」


ミシャが掃除を担当しているのは、主に王宮の職員が活動している区画である。その中で一番時間がかかるのが、職員が王宮の正門へ向かう際に必ず通る外廊下であり、当然宮廷騎士も頻繁に通る。

ルイスは1日に最低2回その外廊下を通り、そのたびにミシャに嫌味を言うと長い黒のマントを翻して去っていくのであった。

この国では階級意識が根強い。階級は知らないが、とにかくやんごとない家の生まれであるだろうルイスも漏れなくそうであった。そんなルイスにとって、ミシャを下に見ることは息を吸うくらい普通のことなのだろう。理由はない、ただそれが当たり前であるからそうしているのだ。それをひしひしと感じているミシャは、自然災害にでもあっているのだと思うことにして、この仕事を始めてから半年間耐えてきた。

ルイスの興味が他にそれることを期待しているが、いまだその兆しはない。自分よりいじめがいのある素朴な新人が入って来てほしいと思ったが、そんな性格の悪いこと考えてはだめだと頭を振った。








一通り担当の区画の掃除が終わると、あたりはもう暗くなっていた。

今日も1日良く働いた。職員食堂の食事がミシャのささやかな楽しみだ。何を食べようか考えながら掃除用具をロッカーにしまっていた時、不意に男性が話しかけてきた。


「久しぶりだね、ミシャちゃん。」


その声を聴いた瞬間、全身が粟立った。


「ジーンの街から急にいなくなってしまったから、どこに行ってしまったのかと思っていたよ。」

「……お久しぶりですカイト様。」



ミシャの母は商人の父と結婚した元貴族だった。カイト・ベイリーはそんな母の遠い親戚である。柔和な笑みを浮かべたその顔は、いかにも人が好さそうである。

ミシャの実家は、とにかく親戚づきあいが多かった。新年のあいさつ、季節ごとの集まりなど、ことあるごとに親戚一同が集まるのである。幼かった頃のミシャはその集まりが退屈で苦手だった。そんな中で、7つ上のカイトと遊ぶのは楽しかった。面倒見がよく優しいカイトを慕い、カイトお兄様と呼んでよくあとをついていったものである。



雲行きが怪しくなっていったのはミシャが10歳の時だった。その日は郊外の川辺で春の茶会が開かれていた。いつものようにミシャはカイトと手をつないで遊んでいた。ふと気が付くと大人たちの集団から離れていて、ミシャは少し不安になった。


「カイトお兄様、迷子になってしまうわ。お母さまたちのところに戻りましょう?」

「僕がいるから迷子になんてならないよ。それよりもあっちの方に魚が沢山泳いでいるところがあるんだ。見たくはないかい?」

「本当!見たいですお兄様!」


親から離れる不安より好奇心が勝ったミシャはそのままカイトについていった。


大人たちが豆粒くらいに見えるところまで歩くと、川の水深が浅く、流れが穏やかなところに着いた。

川をのぞいてみると、確かに小さな魚たちが沢山泳いでいたのである。ミシャは興奮した。


「カイトお兄様!見て。小さな魚がこんなに沢山泳いでるわ。」

「おっと、そんなにのぞき込んでしまっては危ないよ。川に落ちてしまう。」


そんなに危険ではないと思ったミシャだったが、何か言う前に後ろからカイトに抱きすくめられてしまった。


「危ないから僕が支えていてあげよう。」

「あ、ありがとうございます。」


腹に回されたカイトの腕の力の強さに、ミシャは戸惑った。それを隠すように笑顔で後ろを振り返る。


「こんなところを見つけるなんて、カイトお兄様すごいわ。」


そういってカイトの顔をみたミシャは固まってしまった。

いつもの優しいカイトではあるのだが、いつものカイトではないような感じがしたのだ。

目を細め、口元に笑みを浮かべたカイトは、じぃっとミシャのことを見つめていた。


「ミシャちゃんに喜んでほしくてね。何か面白いものはないかと思ってこの辺りを散策していたんだよ。」

「そうだったのですね……。私のためにありがとうございます。」


後から思い返せば、この時カイトのことを怖いと思ったのだろう。しかし、子供だったミシャは今までカイトを慕ってきた事実を前に、すぐにその感情には気づけなかった。

ミシャはなんだかカイトから離れたくなって、やんわりと腕を振りほどこうとしたが、カイトの腕はミシャから離れなかった。


「こら、ダメだろう。放してしまえばミシャちゃんは周りも見ずに飛び出して行ってしまうのだから。」

カイトはそのままミシャを持ち上げると、川から離れて大きな岩の平らなところに腰を下ろし、足の間にミシャを置いた。


「お、お兄様。もう大丈夫ですよ。ほら、こんなに川から離れたし。」

「ふふっ。ミシャちゃんはわがままだなぁ。」


子供扱いされたミシャはむっとして、嫌だったがカイトの腕の中でじっとすることにした。

いつもはカイトに沢山話しかけるミシャだったが、なんだか急に話題が浮かばず何も言えなかった。

早く両親の元に戻りたいと思っていると、カイトがミシャを抱えたまま立ち上がった。


「さて、そろそろみんなの元に戻ろうか。」


さっきまでの嫌な感じが消えて、いつもの優しい表情でカイトはミシャの手を引いた。いつも通りのカイトに戻ったことと、みんなのところに戻れる安心感で、さっきまでカイトに感じていた変な空気をミシャは忘れてしまった。


しかし、それから顔を合わせるたびにカイトはミシャを二人だけの場所に連れてゆき、いつもの優しい目とは少し違う表情でミシャを抱きしめたり頭をなでたりした。


「カイトお兄様が少し変なの。」


そう母親に相談したこともあったが、はたから見れば面倒見のいい青年とかわいらしい女の子のほほえましい交流なのだろう。


「カイト様はとても素敵な方だから照れているのね。」


と軽く流されてしまった。カイトは貴族でありながらいい意味でそれを感じさせない気さくさで、周りの評判も良かった。それ以上は何も言えなかったミシャではあったが、カイトと遊び続けることはなかった。年を重ねるにつれて親戚の集まりではカイトを避け、両親から離れないようになった。だが、皆の言う通りカイトは心優しい青年で、嫌な感じがするのも自分の勘違いなのではないだろうかと思ったこともあった。実際、他の大人たちがいる場所ではいつも通りの優しいカイトなのだ。

カイトを避けている罪悪感から一度だけ誘いに乗って、幼いころのように二人で小道を散策したことがあった。自分の思い違いならいい、昔のように優しい兄のようなカイトが本当のカイトだと信じたかった。しかし、それはカイト自身に裏切られた。二人きりになった途端、カイトはあの怪しい目でミシャを見つめ、愛おしそうにその頭を、腰を撫でたのだった。 


「最近はミシャちゃんが僕のことを避けているようでとても寂しかったよ。反抗期だったのかな?」


カイトはミシャの腰を自分に引き寄せると、首筋に顔をうずめて思い切り息を吸い込んだ。


「すぅーっ。はぁぁっ、本当に君は可憐な香りがするね。僕を誘っているようだ。」


ミシャは背筋に悪寒が走ったのを感じた。とっさにカイトを押しのけて拘束が緩んだすきに、失礼しますと言ってその場から走り去った。そこからの記憶はあいまいで、気づいたら両親とともに帰宅していた。その時、ミシャははっきりと気づいたのだ。今も昔も、カイトは自分をただの子供として、妹のような存在としては見ていなかったのだ。そう気づいた瞬間に今まで言葉に言い表せなかった不快感が明確に形になったようで、妙に腑に落ちた。カイトからは徹底的に離れようと思った。そして高等学校に通い始めてからは学業の忙しさを理由に集まりにも参加しなくなった。行かないという自由を得たミシャは、その後カイトと顔を合わせることもなく穏やかな日々を過ごしていた。


高等学校を卒業すると、ミシャは地元のカフェに就職した。働き始めて数日たったある日、突然彼が店にやってきたのである。


「ミシャちゃん。就職おめでとう。見ないうちに大きくなったね。」

実に3年ぶりに会うカイトであった。ミシャは血の気が引いた。2年前にカイトは豪商の娘と結婚して、子供もいると風のうわさで聞いており、いろんな意味で安心していた。何故今頃ミシャの前に現れたのか全く分からなかった。

それからというものの、カイトは度々ミシャの勤めるカフェに来てはミシャに贈り物をした。ミシャは全く以て嬉しくないので、最低限の礼だけしてそっけなく対応していた。しかし、外面の良いカイトは他の店員からの人気をどんどん得て、ミシャは居心地が悪くなっていった。

結局働き始めて1年でカフェを辞めてしまった。そして逃げるように地元から少し離れたジーンの街のパン屋で働き始めたのだがそこにもカイトが現れ、カフェの時と同じような状況になってしまった。付きまとうカイトにうんざりしていたが、打開策を見いだせず気づけば2年がたっていた。


そんな折、父が亡くなった。投資に手を出していた父は、私たち家族が知らない間に多額の借金をこさえていた。きっと死ぬまで隠したかったのだろう。ミシャは父に激しく怒りを覚えたが、もうこの世にはいないのでぶつけようもない。母の実家に頼れればよかったが、当主となった叔父と母は折り合いが悪い。自分が返していくしかないのだ。そうとなればパン屋の仕事では到底やっていけない。ミシャはその時人生で一番奔走した。ありとあらゆるひとに頭を下げた。どうにか待遇のいい仕事を紹介してくれないか聞いて回った。そうして色々なつてを手繰り寄せて今の王宮の掃除婦に落ち着いたのであった。今のところ、あと5~6年は働けば全額返済できる計算だ。ミシャは馬車馬のように働いた。






せっかく地元から離れた都会に来て、やっとカイトからも離れられたと思っていたのに。どうしてこの男は自分の目の前にいるのだろうか。


「今度から王宮で使われる食品の搬送に関わることになってね。こうしてここに出向くことも増えると思うよ。」

「……そうなのですね。」

「そんなことより、昔のようにカイトお兄様とは呼んでくれないのかな。」

「私はもう大人です。あの頃は幼かったですから……。では私はこれで。」


わざと恭しく頭を下げると、くるりと背を向けて小走りにならないぎりぎりの速さで歩いた。早くこの場から立ち去りたい。まだ後ろにカイトの気配を感じる。この角を曲がればあの長い外廊下に出る。とにかく開けたところに出たかった。


「おい。そんなに急いでどこに行くんだ。廊下を走るな。」


外廊下に出たところでルイスに出くわした。まだ走っていないじゃないか。しかし、いつもなら最悪な気分になるが、今日に限っては救いの神のように見えた。これでカイトと二人きりになることはない。


「はしたない所をお見せしてしまい申し訳ございません。ルイス様はこれからお勤めでしょうか?」


カイトから逃げきれた安心感から、普段は必要以上に会話を広げないのに余計な一言を加えてしまった。


「そうだ。ただ掃除すればいい貴様たち掃除婦はお気楽なものだな。」


前言撤回だ。救いの神ではない。ミシャはやっぱりこの男が大嫌いだと再認識した。

ふとルイスがミシャの後ろを見たので、その視線をたどると、カイトがこちらに手を振って奥に消えていくところだった。


「はっ。貴様のような色気のない女にも懸想する変わり者がいたものだ。」

「ちっ、違います!彼はそのようなものでは」

「どうでもいいが、王宮の風紀を乱すようなことは慎めよ、品がない。」


心底軽蔑した目でミシャを見ると、ルイスは靴音を響かせてその場を立ち去った。

ミシャはとても悔しかった。カイトのような男と1ミリでもあんな風に誤解されたことが気持ち悪かった。

あんたなんて大っ嫌いよ!この外道騎士が!心の中でそう毒づいたが、気を取り直して職員食堂に向かうのだった。


「んんーーー、おいしい!」


ミシャは食堂でオムライスを食べていた。食堂はピークの時間を過ぎたのか人はまばらである。オムライスのソースは日替わりで、今日はホワイトソースだった。ビジュアルがいい。幸せ気分に浸っていたミシャだったが、今日あったことを思い返して途方にくれたのだった。

カイトはこれから王宮に出入りすると言っていた。きっと顔を合わせることもあるだろう。カイトから離れたかったが、ここの仕事は色んな人の厚意があって始めることができたので、簡単にやめることはできない。それに、これ以上に好待遇な仕事なんてそうそう見つからないだろう。


「カイト様だって別に私に嫌がらせをしているわけじゃないし。私が過剰に怖がらなければいいだけよね。」


自分に言い聞かせてミシャは無理やり心に折り合いをつけた。そしてもう一人の厄介男のことも考える。


「あの高慢ちき男、私が本気になればあんたなんてっ!

あんたなんて……。」


怒りを込めてオムライスをスプーンでぐりぐりとしたが、本気を出したところでミシャがルイスにできることなどたかが知れている。相手は宮廷騎士様だ。貴族だからと言って、簡単になれる職業ではない。それなりの実力と知識が必要なのだ。対して自分はしがない掃除婦。ミシャはちょっぴり落ち込んだ。

だが、オムライスをルイスに見立ててけちょんけちょんにしてやったことで少し気分が晴れた。

明日も頑張ろう、ミシャはそう思った。



翌日、仕事を終え寮に戻ると、寮母に声をかけられた。


「リードさん。あなた宛に届け物よ。」


はて、なにか注文しただろうか。心当たりが無かったミシャは、渡された小包を受け取って差出人の名前を確認すると愕然とした。流れるような綺麗な文字で、カイト・ベイリーと書かれていた。


「優しそうでとても素敵な方だったわ。あなたのことよろしくお願いしますって。素敵ねぇ。」


寮母はうっとりしていたが、ミシャはとてもそんな気分にはなれない。

「あはは……。ありがとうございます。」

ミシャはなんとか笑顔で寮母に挨拶すると自分の部屋に戻った。小包を開けると、いかにも高級そうなネックレスとピアスのセットだった。


ーーーーーーかわいい僕の子猫ちゃん

君は本当に魅力的な大人の女性になったね。

そんな君に似合うアクセサリーを選んだよ。

それを着けた君と今度オペラでも見に行けたらいいな。

       カイトーーーーーー


添えられたメッセージを読んで、ミシャはこれ以上無く鳥肌が立った。


当然贈り物はこれだけで終わらず、週に2~3回は贈られるようになった。そしていつの間にか王宮の女性職員寮で噂となり、興味津々の同僚に突撃されることが増えた。


「ねぇ、贈り物を届けに来てる男の人って、あなたの恋人?」

「いえ違います。彼はただの親戚で、」

「照れなくったっていいのよー。この前彼が王宮にいるところを見たんだけど、かっこよかったわ。」

「羨ましいわ。私も気遣いができて優しい恋人ほしい!」

「だからちがくて!!」


ミシャは否定しようとしたが、それを気にも留めず同僚たちはキャッキャしながらどこかに行ってしまった。ミシャは深いため息をついた。



休日を利用して、ミシャはカイトからの贈り物を質屋に持っていくことにした。カフェの時もパン屋の時も、贈り物はすべて売って金に換えていた。最初は本人に突っ返すか捨てるかしようと思っていたが、カイトがおとなしく受け取るわけがないし、物に罪はないので、一番有意義な使い方をすることにしたのだった。

アクセサリーや何故かサイズがぴったりのドレス、バッグ、化粧品、どれも一級品だ。こんなところに金をかけて、とミシャは呆れたが、受け取った金額を見て口角が上がった。これで今度の母の誕生日は少し豪勢にできるかもしれない。ミシャは自分と同じように朝から晩まで働いている故郷の母を思い、会いたくなった。


感傷的になりながら質屋を出ると、思いがけない人物と遭遇してミシャは顔をしかめた。


「ミシャ・リードじゃないか。休日に会うとはな。」


それはこっちのセリフだと思いながらミシャはルイスを見た。確かこの辺りには貴族御用達のクラブがあった。ルイスはかっちりとした青い制服ではなく、白のシャツにグレーのベストとパンツを身にまとっており、いつもと違ってラフに見えた。


「ルイス様、ご機嫌麗しゅうございます。」


はっきりと名前を呼ばれ話しかけられてしまえば、無視することはできない。

ミシャがカーテシーをすると、ルイスの連れたちが好奇の目を向けてきた。ルイスが明らかに貴族ではない女に話しかけているのだから当然だろう。

いつもは黄色いワンピースと白いエプロンの制服を着ているミシャだったが、今日は薄緑の地味なワンピースだった。ルイスが連れに手を挙げて先に行くよう促すと、連れたちは興味津々でこちらを見ながらもその場を去っていった。この場にはルイスとミシャだけが残された。


「せっかくの休日にこんなところで何をやっていたんだ。」

「不要なものがあったので質屋に持ってきていたのです。」

「ほう。貴様に売って金になるような物があったのか。まさか王宮で盗んだものではないだろうな。」

「そのようなわけ……。人から貰ったものですのでご心配なく。もう用は済みましたのでこれで。」


強引にその場を立ち去ろうとすると、ルイスに腕をつかまれた。


「な、なんでしょうか。」

「人からの貰い物を売りに出すほど貧しいのか貴様は。はっ。そんなに金に困っているなら、哀れな貴様を俺が助けてやろうか。」


鼻で笑いながらルイスはミシャを見下ろした。ミシャはわかっていた。ルイスはミシャが屈辱を感じれば感じるほど喜ぶのだ。だから反応しないで空気を荒立てず、静かにやり過ごすのが最適解だ。いつもそうしている。いつもならできるはずなのに。

この時ばかりはそうもいかなかった。必死に働きただでさえ疲れているところに、カイトのことや野次馬な職員たち、借金のこと、そして目の前のルイス、色んなことがミシャに重なりすぎて、自分でも気づかないうちにミシャはかなり追い詰められていた。それに、今は王宮の外で、いつもの制服ではなく私服だ。ミシャは立場も何もかも忘れて声を荒げた。


「私はあなたのことが大嫌いです。」

「なっ、」


普段は何も言い返してこないし静かで地味な女がこんな声を出せるとは思わなかったのだろう。

ルイスは突然大きな声を出したミシャに驚いて目を丸くした。


「私があなたに何かしましたか?私のことが嫌いなら、今日だって別に話しかけないで気づかないふりをすればよかったではないですか。」

「ちょっと、落ち着け、」

「毎日毎日飽きもせずに嫌味を言ってきて……。そんなにお貴族様が偉いんですか。もし、万が一、私が誰かに助けを求めなければいけなくなったとしても、ルイス様にだけは絶対に頼みませんから。私はルイス様のことが大っ嫌いなので。」


力いっぱい掴まれた腕を振りほどくと、ミシャは駆け出した。


「おい、待て!!」


ルイスの焦った声を聴きながら、ミシャは全速力でその場から逃げたのだった。



翌週、それはもう憂鬱な気分でミシャは出勤した。ルイスが大嫌いなのは事実だが、それにしても言い過ぎた。あれでは完全に八つ当たりだ。


「私、クビになるかも。」


まだ通達されていないだけで、もうクビになっているのかもしれない。ミシャは盛大なため息をついて掃除用具が入ったロッカーに向かった。今日は午前中に大規模な搬出入があって人の出入りが多かったらしく、ミシャの出勤は夕方からだった。ロッカーの前に着くと、いつものようにカートに掃除用具を載せていく。


「こんばんは、ミシャちゃん。」


ミシャは驚いて声を上げそうになった。


「カイト様、どうしてここに?」


いつだかと同じような状況で、ミシャは冷や汗をかいた。


「ミシャちゃんに会いに来たんだ。僕からのプレゼントはどうだったかな?喜んでくれたかい。」


カイトは徐々に距離を詰めてきて、ミシャは壁側に追い込まれてゆく。


「あんな高価なもの、もらっても困ります。もう十分いただいたので結構です。」


言いながらミシャは逃げ道を探していたが、あっという間に壁とカイトに挟まれて身動きが取れなくなってしまった。


「それは残念だなぁ。君は絶対喜んでくれると思ったのに。」


ミシャの頬を手の甲でなぜながらカイトはいかにも残念という顔をした。

ミシャは幼い頃を思い出しながら、怯えていた。この有無を言わさぬような圧迫感と、過剰なボディータッチ。今すぐこの場から逃げ出したかったが、体がすくんでしまって全く動かない。


「仕事があるので、離れてください。」

「ミシャちゃん。君の借金、僕が肩代わりしてあげよう。」


何故今、突然その話題になるのか。ミシャからカイトに話したことはなかったが、ミシャは借金のことで色んな人に頭を下げに行ったので、カイトが知っているのも不思議ではなかった。


「借金なら、私と母で返せます。あと数年も働けば全額返済できる予定です。」

「そうは言っても君……。こんなに瘦せてしまって。君の母君のリタさんだってもう限界なのではないかい。」

「それは……。」


自分のことはどうだっていい。だが母のことを持ち出されると弱かった。確かに母は節々が痛む体に鞭打ちながら、お針子や工場の仕事をしている。そんな母に無理して働かなくていいと言えないのは悔しかった。


「君だって限界だろ?僕なら君の家が抱えた借金をすぐに返してあげられるよ。君は僕にそれを返さなくてもいい。ただ……。」


カイトはミシャの頬をなぜていた手を顎に滑らせて掴むと、上を向かせた。


「ただ、ミシャちゃんは僕と結婚しないとダメだ。」

「何を、んぅっ」


何を馬鹿なことを、その言葉はカイトの唇に呑み込まれた。カイトは執拗にミシャの唇をむさぼると、強引に舌をねじ込ませた。


「カイトっさま、やめっんっ、んぅぅぅ」


ミシャは混乱していた。カイトは既婚者で、子供もいる。どこかで一線は超えてこないだろうと思っていたのだ。それに自分と結婚とはどういうことだ。


「近々隣国に長いこと行かなくてはいけなくなってね、ぢゅうぅぅっはぁっ。そこで一緒に暮らそう。」

「はぁっはぁっ。何を言っているんですか。あなたには奥さんもお子さんもいるはずです。」


ようやくカイトが唇から離れていき、ミシャは必死に酸素を取り込みながらカイトをにらみつけた。


「妻と結婚したのは貴族としての義務を果たしたまでさ。子供もね。書類上は君と夫婦にはなれないけれど、そんなの関係ない。僕が昔から好きなのは君だけなんだからね。」


カイトは情欲を孕んだ目でミシャを見ると、首までかっちりととめられたミシャのワンピースのボタンを片手で器用に外して首元をはだけさせた。


「この細い首筋の匂いを思い切り吸いこんで、舐めまわす想像をしては自分を慰めていたんだ。すぅぅぅっ、はぁぁぁ、君は本当にいい香りがするよ。」


カイトはミシャの香りに酔いしれると、鎖骨から首筋を緩慢な動きで舐め上げた。舐めながら所々唇を当てて吸うといくつも痕を残した。


「もうっ、やめて」

「はぁぁっ、君はどこもかしこも滑らかだ。ぢゅるぅぅぅぅ、完璧だよ。」


青い表情を浮かべるミシャに対して、カイトは興奮しきって上気した顔を晒していた。徐に片手をミシャの腰に回して自分に引き寄せると、自らの下半身をミシャの腹に擦り付けた。


「はあ゙ぁぁっ、んぁ゙っみしゃちゃん、好きだっ愛してるっ。」

「いやっ誰か!」

「君の借金は僕が全部返してあげるから。だから安心して僕のお嫁においでっ、はあっはぁ。ねっ、いい子だから。」


目を閉じたカイトの顔が再びミシャに口づけようと近づいてきた。


「やめて!!」


その瞬間、ミシャは渾身の力でカイトの腹を膝で蹴り上げた。


「ぐっっっ!」


カイトはその場にうずくまり、ミシャはその場から走り出した。

誰でもいい、とにかく誰か人のいる場所へ。前と同じように角を曲がって長い外廊下に出たが、人ひとりの気配もしない。この時間は帰宅ラッシュが過ぎて、夜勤交代も済んでいるので人通りが非常に少ないのである。そのことを思い出したミシャは絶望的な気分になったが、それでも長い外廊下の端を目指して必死に走った。突き当りの角を曲がれば、職員用入口がある。そこにはいつも居眠りをしている門衛のおじいさんがいるはずだ。


「ミシャちゃん。ひどいじゃないか。そこで待ってなさい。今そっちに行くから。」


遠くから聞こえたカイトの声にぎょっとして振り向くと、怒った様子でこちらへ歩いてきていた。

まずい、こっちに来てしまう。誰でもいい、誰か!

そう祈りながら角を曲がると、薄暗い電灯のせいでよく見えなかったが、確かに人影があった。

助かった!門衛のおじいさんを起こさなくて済む。心の底から安堵したミシャはその人物に向かって走り、勢いが止められずそのまま追突してしまったが、彼は軽々とミシャを受け止めた。


「お願いですっ、たすけてくだ……さい……。」


ミシャは顔を上げると、顔面蒼白になった。

何故よりにもよってこの人なのだろう。










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