やさぐれ王妃と飼われ竜
ドラゴン。
かつては空にその影を見ない日はないという程のありふれた種族だったらしいが、後に大災害と称される縄張り争いの勃発と、それに乗じて人間側が仕掛けた生息地での卵狩りによって、今ではめっきり数を減らしていた。
が、覇を唱える事こそなくなったとはいえ個体の持つ強大な力は健在であり、幸運にもドラゴンを手懐け、擁するのに成功した国は国境付近の警備を解いても構わないとさえ言われている。
それも妥当な評価だった。数度の羽ばたきで軽々と領土を横切り、弓さえ届かぬ遥か天空の高みから一帯を焼き尽くす焔を吐く生物にどう対抗しろというのか。
この小国もまた、そうした強運に恵まれた国のひとつである。
周辺諸国がいまだドラゴンを得るのに成功していない事もあって、飛び抜けた軍事力を備えていないにも関わらず数十年という平和を享受していた。
当然ながらそんな貴重なドラゴンの機嫌を損ねてはならぬと、住まいであるところの竜舎には多くの予算を割いている。王宮の敷居より広いスペースには日の当たる場所と寝床となる建物、そして水場や木陰がバランス良く配置され、清掃夫たちによって常に清潔に保たれている。
つまり、ひとたび警備を潜り抜けて紛れ込んでしまえばそうそう見付かりはしない。
食い殺されるか焼き殺される危険を犯してまで、視覚にも嗅覚にも優れるドラゴンの縄張りに忍び込もうとする命知らずが果たしているのかという話になるが、それが、いるのだ。
「あーもう、やってられねぇー……」
日向ぼっこをしている一頭のドラゴンを背にそうぼやくのは、この国の王妃だった。
心底うんざりした声に、濃い青銅色の鱗を持つその竜は申し訳程度に彼女を嗜める。
「見付かったら大目玉を食うのが分かりきっていながら、何故性懲りもなく脱走を繰り返すのかね」
「ワタシの動向なんて誰も気にしちゃいないさ。家畜番のお仕事をさせられてる可哀想な兵士を除いて」
「誰が家畜だ、誰が」
竜の文句を無視して、王妃のツンとすぼめた唇から、白い煙が細く吐き出される。
煙の源は、ドラゴンの糞を苗床として育つキノコだった。
排泄物は毎日掃除されているとはいえ、土に染み込んだ僅かな残滓を糧として夜のうちに生えてくる。茸の成長は早い為、一晩明ければすっかり傘を開いた状態になっていた。
それを摘み、指先で繊維状にほぐし、くるくると紙で器用に巻いてタバコとして吸う。天日干しにして乾燥させたものを適量用いれば薬効があるらしいが、生のままだと若干の幻覚作用を使用者にもたらした。
先程から瞼をぱちぱちと素早く瞬いている王妃は、明滅する赤や青の光を追いかけてでもいるのか。
「おまえ、脱走よりもそちらの癖を矯正した方がいいぞ。本当に」
「糞から生えた茸を吸うこと? 野菜だって同じようにして作ってるのに、今更何?」
「王妃が躊躇いもなく糞という言葉を使うな。そして吸うな。あえて言わなかったが茸を摘んだ時に指先に少し付着していたぞ」
「ちゃんとスカートで拭いたよ。こんなもんでも吸ってなきゃ毎日毎日あの息が詰まる場所でやってられないっての。気持ちは一人目の愛妾だの四人目の愛妾だのに向いちゃってるし」
「二人目と三人目はどうした」
「ワタシと同じ。飽きて放置。といってもワタシはそもそも飽きられるって段階さえ踏んでないから、一時でも愛が向いてた分まだマシなのかしらねえ」
贅沢な悩みだなと、竜は鼻から息を吹いた。
こもった熱気で、近場に咲いていた花がチリチリと揺れる。
「ここに来て10年近いだろう。いい加減に慣れたらどうだ」
「10年も、よ。畜生は気楽でいいわねー……」
「事あるごとに宮廷を抜け出しては茸で遊んでいるおまえにだけは気楽と言われたくない。辛くても耐えて働くのが、おまえのような血筋に生まれた人間の務めだろうに」
「飼われてるだけの奴に説教されたかないっつーの。あんたこそ逃げようとか考えないの?」
「いま逃げてもなあ、外に出ても餌を捕るくらいしかやる事がないから。
なら黙ってても飯が出てくるここにいた方が楽だ。元々の棲家も、ここに移る際の約束で綺麗にしてくれてるしな。いつでも帰れると思うと案外帰る気にならないものだよ」
「怠惰な奴。そんなんでホントにお隣さんらが攻めてきた時に役に立つん?」
「食うか食われるかの日常送ってる連中と比べたら実戦経験には劣るが、そのぶん栄養は行き渡ってるからなぁ。まあ野生下の研ぎ澄まされてる奴の七割くらいの強さってところじゃないか」
「ダメじゃないのそれ」
「撃ち落とされるまでに相手方の領地を全て焦土にするくらいは出来るだろ」
「ヒュウ、さすが伝説の生きもん。頼りになるぅ」
いまいち気のない感嘆を口笛と共に漏らすと、王妃は椅子代わりに凭れていた竜の鱗をぱしぱしと掌で叩く。
むず痒そうに竜は身じろぎした。王妃の手にした紙巻き煙草から、ぽとりと灰が落ちる。
「政略結婚なんてするもんじゃない……」
「するもんじゃないというより、する事になった時には逃げられないもの、だろう正確には」
「元々は姉貴がこの国に送られる予定だったんだ。実際、根っからのお貴族様だった姉貴なら何だってそつなく立ち回っただろう。放置されたなら放置されたで派閥を作りにかかっただろうし、自分も愛人こさえて楽しんだかもしれないし、ひょっとしたら奇跡的に旦那に気に入られたかもしれない。でもワタシはね、習い事やお勉強より外で遊んでる方が好きだった」
「元から期待されていなかったから好きにさせていたのが裏目に出たか。しかしまあ、わざわざ遠方から招いた相手を冷遇するというのもおれには良く分からないのだがね」
「欲しかったのは家と家、国と国の繋がりだ。血さえ確かなら、人間だろうが猿だろうがどうでも良かったのさ。
どうせ女は政治に関わらない。戦にも。外交にも。家の仕事にも。世継ぎさえ生んじまえば、あとは飯だけ食って着飾って遊んでりゃいいんだ、この国では。ワタシが祖国に今の待遇を不満だとして訴えりゃ、多少は改善されるかもしれないけど……」
逆にますます疎まれて最悪修道院送りか幽閉される危険がある事を考えると、そんな行動を起こす気にもなれない。
ふう、とそろそろ薄くなりつつある煙を王妃は吐いた。
そもそも連絡を取ろうと試みたところで、手紙はどうせ検閲される。
よしんば届いたとて、そのくらい耐えろと逆に説教されるだけだというのは目に見えている。
薬でぼんやりと霞む頭に浮かぶのは、じき七歳になろうかという息子の顔。
「坊やは初めから王の子として生まれ、王となるべく育てられた。ワタシとは違う。ワタシは時々あれが本当に自分の子供なのか分からなくなるよ。育てば育つほどに、自分とは違う生き物にしか見えない」
「おいおいしっかりしろ、間違いなくおまえが腹を痛めて産んだ仔だろう」
「子供とはいうが、私はあれのオムツもまともに替えさせてもらってないんだ。風呂に入れるのも乳をやるのも服を選ぶのも、全部乳母と教育係に任せっきり」
「大切な跡取りに田舎臭さがうつっては堪ったものではないからな」
竜なりに慰めたつもりなのだろう。
言葉選びが著しくずれていた為に、ただの追い打ちにしかなっていなかったが。
「母上、とは呼んでくれる。それが救いかな。いつ役職呼びになるかは分からないけど」
「公の場ではそうなっても、他では母と呼んでくれるさ」
「だといいね。……いずれどっかの適当な地方領主へ嫁にやられて、母ちゃん、と呼ばれるような母になる。ワタシはそうだと思っていたのにな――あっ、ネズミ!」
咄嗟に王妃が掴んだのは、隅に落ちていた竜の抜け毛だった。
抜け毛といってもそれは尾の先端付近にまとまって生える硬い体毛で、見てくれを正確に表現するなら毛ではなく針状の棍棒である。
王妃の握るそれが、唸りをあげて真っ直ぐに鼠へと振り下ろされた。短い鳴き声は、棍棒の先端が地面を叩く鈍い音に紛れて消える。
鼠は素早かったが、王妃の一撃はそれ以上に疾かった。
棍棒を退けた後に残されたのは、赤黒い血を口と鼻から流しながら断末魔の痙攣をする鼠と、飛び散った土。
「いっちょあがり」
「なんでお前はそう生き物を棒で殴る事にためらいがないんだ」
「罠にかかった害獣はしょっちゅう殴り殺して捨ててたからね」
「捨てるな、せめて食え」
「まずいんだアレ。肉から肥料の匂いがしてさ」
あっけらかんと笑い飛ばした王妃の表情が、不意に引き締まる。
同時かそれよりやや早く、竜が鼻先をついと遠方へ向けていた。
竜舎の出入り口付近に、何やら騒がしく集まっている人影がある。
人数にすれば四人。見張り役なのかうち半分をそこへ留まらせて、残りの二人が急ぎ足で竜と王妃の元へ駆けてくる。一人は引き締まった体躯の近衛兵。もう一人は、耳障りなキンキン声を張り上げる小太りの中年男。
王妃は、短くなった紙巻き煙草をそっと体の後ろに隠すように置いた。
草が燃えるぞと、それを爪で揉み消しながら竜が苦情を言う。
「ああまたこのような場所に! しかも直に土の上に座るなど!」
王の補佐役の一人だった。大臣、と王妃は呼んでいるが、正確に何という役職なのかは知らない。冷淡な貴族と取り巻きばかりの中で珍しく自分を気にかけてくれている――といえば聞こえはいいが、自分のいない所で散々あのようなまともな教育も受けていない女はこの国の宮廷に相応しくないだのと貶しているのを彼女は知っていた。
だからといって、その事実を正面からぶつけて糾弾したりはしない。表立って貶すか裏で貶すかの違いしかないからだ。遠慮のない激しい諫言も、案じるが故にではなく本質的に見下しているからだという事を彼女は知っていた。
「何度も何度も申し上げているでしょう、外出先も告げずに出歩かれては困ります! どうかご身分をお考えください! しかも竜舎に入り浸るなど……市民の耳に入ればよからぬ噂を立てられかねませんぞ!」
王妃は顔をやや後方へ傾けると、小声で竜に囁く。
「獣姦に興味ねーよワタシ」
「安心しろ、おれも無い。それとそういう意味で言ってるんじゃあないと思うぞあれは」
「そういえばあんた、発情期って……」
「20年に一度くらいの周期だから、まだ大丈夫。それに竜族の発情は短い上に薄いんだ」
「そんなだから絶滅しかかるんだよ。あ、そういえばドラゴンって卵産む奴らと子供産む奴らがいるって本当?」
「ああ、仔で増える種もいる。ただ数は少ないな」
「聞いているのですか!!」
一向に自分を見ようともしないままひそひそ声で会話を続ける王妃に、業を煮やしたように大臣が叫ぶ。
冷や汗を垂らしている近衛兵と違い、強大な竜を前にしても怯む様子はない。
その態度が豪胆さや信頼から生まれるものではなく、ドラゴンという生物自体を見下しているからだというのを竜は知っていた。だからといって、指摘して狼狽させたり形ばかりの謝罪を求めたりはしない。人間は人間以外の生物を本質的に見下すものだという事も、また竜は知っていた。
知っていて、あえて意地悪く王妃に言う。
「おまえの事を気にしてくれている者もいるようだな」
「あれは自分の立場が悪くなるのを気にしてるんだよ。つまりクズだ」
「それだけでクズ呼ばわりは酷いな。保身くらい誰だって考えるさ」
「でもあいつ無茶な借金させた商人の家から15歳の娘を強引に結婚相手として差し出させて、教会に金積んで認めさせたんだぞ。みんな知ってる。ワタシでも知ってる。それがクズ以外の何なんだ」
「ここ最近おれの最も近くにいる人間が昼間からキノコ吸って遊んでるクズだからな。仕事はしているだけあちらの方がマシに思えるよ。というより、おまえの場合はこちらの方こそ露見したら問題だろう」
「それは確かに洒落になってないかも。あんたアレ殺せないかな?」
「殺したら責任がおれに来るだろうが」
「大丈夫、大臣一人より周辺国に睨みきかせられるドラゴンの方が大事だからたぶん何のお咎めもなしで片付く」
「つくづくお前はクズだな」
とはいえ、いつまでも座ったまま無視を決め込んでいる訳にもいかない。
いかにも仕方なくといった様子で、緩慢に王妃は立ち上がった。
「やれやれ……また不毛な時間に戻らないと」
スカートに付いた土や草の切れ端を手で払いながら、冗談めかして王妃は笑う。
ドレスはどこも窮屈で、軽く身を捩る動作さえ思うようにならない。
明るい作り声は、却って彼女の暗い心を強調するようだった。
「気が向いたらまた来るといい」
「そうだね、またそのうち」
「ああ言い間違えた。その気になったら、というのかな。こういう時の人間は」
大臣の元へ向かおうとしていた王妃の足が止まる。
背後で竜が大欠伸をした。ぞろりと牙が覗く。
が、息は全く吐き出されなかった。付近の草も花も不気味な程にそよいでいない。
竜はただ口を開けて、開けた時よりゆっくりと閉じてみせただけだ。
まるで、そこにある何かを噛み千切るように。
「翔ぶのでも。灼くのでも。本当に選びたくなったのなら来るがいいよ。
おれはどちらでも良く、何でもいいのだ。留まるのでも、与えるのでも」
「……そう、そりゃ頼もしいね」
振り返らないままひらりと軽やかに翻る、指輪だらけの手を竜は見た。
王妃はそれきりふっつりと竜舎を訪ねる事なく、二年後に娘をもうけ、王子の成長を見届けるかのように十一年後に病で死んだ。