深淵
「なに、この異常な気配……!」
インクリウス学院地下。
『対深淵学』の授業を終えたフロンは、学院内に満ちていく膨大な魔力、根源的恐怖の灰燼の現出を感じた。
いつの間にか、足首まで、赤色の液体で満ちている。
強烈に――引っ張り込まれる。
くらりと、フロンは、気が遠ざかるのを感じた。
足下に満ちている赤色の液体は、赤渇海に違いない。深淵生物、中でも異形は、獲物を己の境界に引っ張り込んで狩ることを好む。
根源的恐怖の灰燼、赤渇海、落日月……灰から始まり、海が生じて、日と月が陰る。段階を経るごとに、人の精神に与える影響は段違いに大きい。
眩む視界の中で、フロンは考える。
赤渇海が生じるということは、黒粘獣を超える格上が現れたということだ。平時であれば、軍が動いても、不思議ではない事態。人死には、万を超えるだろう。
案の定、生徒たちは、ぽかんと口を開けて乗っ取られていた。
傀儡となった彼らは、口端から涎を垂れ流しながら、赤色の夢を視ている。深淵に心を奪われたのだ。
「焦らずに、魔力で、体表を覆え。学院内に、校長が敷いた境界のお陰で、赤渇海は足首までしか届かんから問題ない」
ぽんと、クラウス先生に肩を叩かれる。
言われたとおりに、フロンは、足首に集中して魔力で体表を覆う。根源的恐怖の灰燼を吸い込まないように、クラウス先生から手渡された黒色のマスクで、口元を覆い込んだ。
「どうやら、ベツヘレムの星が解放されたらしい」
傀儡となった生徒たちを、魔力による膜で覆ってから失神させたクラウス先生は、静かにそうささやいた。
「ベツヘレムの星……!? なんで、そんなものが学院の地下に!? アレは、とっくの昔に封印されて、誰も知らない秘境に飛ばされたと聞いていましたが!?」
ベツヘレムの星と言えば、伝承では、数万を超える魔術師を殺した星型の異形である。八芒星の形をしたその生物は、宿主とする魔術師の血液を通して顕現し、自分の世界に引っ張り込んだ者たちを夢で“吸血”する。
寄生された人間たちは、幸福な夢を見せられながら、じわじわと魔力と血を吸われて干からびて死んでいく。
その吸血範囲は、国ひとつに及ぶと言う。
「その秘境がココだよ」
「ココは、王都の第7区、生活区画の地下ですよ!? なんで、そんな危険な深淵生物を学院なんかに封印しておくんですかっ!?」
「逆に聞くがね、他に、どこに封印しておけばいいんだ?」
問われて、フロンは声に詰まる。
「理論上、校長が存在しているココが最も安全なんだよ。歴史上、類を視ない程の力を持つ魔術師だからな。破壊が不可能な以上、ココに封印するのが最も適切だ。
事実、校長が敷いた境界のお陰で、赤渇海の威力は大幅に減衰してる。力の弱まっていないベツヘレムの星が解放されてれば、学院どころか、第7区を中心として第13区あたりまで赤い海の底だよ」
あくびをして、クラウス先生は頭の後ろを掻いた。
「学院の魔窟に封印されてるのは、ベツヘレムの星どころじゃあないんだなあコレが。
あ、もちろん、ふつーの学生は、まかり間違っても目にすることもないから安心して」
「そんなこと、言ってる場合ですか……」
「まぁ、校長は、今、お留守なんだけどな……こんなことになるなら、有給消化しとけば良かったわ……まったく、中年ってのは、色々と悲しいことが巻き起こる時期なのかなぁ……というか、まかり間違っても、こんなこと起こるわけがないんだが……」
再度、ぽんぽんと、肩を叩いて――クラウス先生は、上を見上げた。
「あぁ、なるほど、ヤバいのが来たな」
「え?」
「主席、ココ、任せた。俺は、上がるわ」
「いや、上がるって……ちょっと!?」
魔術を発動させたクラウス先生は、一気に階段を駆け上がって、扉をぶち抜いてから飛び出していった。あそこまで、急いでいるということは異常事態だ。恐らく、学院に迫っている危機はベツヘレムの星どころではない。
そうであれば、自分はただの一生徒、クラウス先生に任された以上は、ココにいる生徒たちを全力で守ることにしよう。
フロンは、決心して、欠員がいないかを目で確認し――凍りついた。
「……グール」
クラウス先生の手で、傀儡から解放されたグールは、頭を揺らしながら答える。
「うわー、頭、くらくらする……ん? なに?」
「ラウは?」
「え?」
グールは、きょろきょろと辺りを見回してから絶句する。
「ラウはっ!?」
思わず、肩を掴んで揺さぶると、硬直が解けたグールは口を開いた。
「わ、わからない……さ、さっきまで、そこにいたのに……もしかして、上に……ね、ねぇ!? どこ行くの!?」
フロンは、勢い良く駆け出して、階段を駆け上がる。
「あの子、Eランクなのよ!? 上なんかにいたら、手遅れになる!! 私は、あの子のパートナーなの!! 行かなきゃ!!
ファイッ!!」
「なに?」
興味がなさそうに、静観していたもうひとりの主席に声を張り上げる。
「ココは、頼んだ!!」
「…………」
返事も聞かずに、フロンは、階段を上り切って廊下に出る。
そして、その気配に止まる。
廊下――その最奥、金色の魔術衣を着た魔術師が立っていた。
赤色の海、白色の天井、その狭間で黄金は起立している。
外套で、その顔は隠されている。ただ、相当な実力者であることはわかった。首からぶら下げている銀色の六芒星、黒色の干からびた腕が魔術衣の上から伸びてきて、懐中時計を取り出した。
「御機嫌よう、アイシクル家のご令嬢」
「……退け」
「うむ、定刻通り。侵入も果たした。予想外の計画とはなったが、我が心晴れやか也、アイシクル家の令嬢の身柄も拘束出来れば万事解決」
「……そこを退け」
「さて、どうするかな。口が開けば良いから、四肢は要らんか。出来れば、我が蒐集物に加えたい。
少し、腿の辺りは色気に欠けるが、ヤスリにかければ多少はマシにな――」
「そこを」
顔を上げて、フロンは、感情を露わにする。
「退けッ!!」
吠えて――彼女は、魔力を解放した。




