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蝶の王国

花泥棒カチューシャ

 思い返せば、つくづく自分は恵まれていた。

 同じ時期に同じ母のもとに生まれ落ちた良血花の兄弟姉妹はたくさんいたが、その中でも私を買い取ってくださったフェロニエール様ほど美しく身分あるお方はいなかった。

 春の市場にお忍びで現れた際にも、その美しさは隠しきれていなかった。そんな彼女から初めて贈られたのが主従の契りの証となる真っ赤なリボンだった。

 毛並みの良い花の子をひとり。それが彼女の目的だったが、この私がそのお眼鏡に適う妖精となれたことは誇らしい限り。兄弟姉妹の羨む中で、誇らしげにリボンをつけてお淑やかに座っていた日の事は、昨日のことのように思い出せる。

 あの頃の私の思い描く未来はとにかく華やかで、祝福に満ち溢れていた。


 実際、フェロニエール様との日々は幸せ以外の何物でもなかった。初めての贈り物となったリボンは役目を終えると生家の妖精売りがさっさと回収してしまったけれど、二つ目の贈り物はいまも大事に残されている。シュシュという名前。それこそが、フェロニエール様が私に遺してくれた最大の宝物だ。

 その名を刻んだチョーカーが贈られた日。あの日こそが私にとって幸せの絶頂でもあっただろうけれど、幸せだったのはその日に限らない。フェロニエール様のもとで私は良血花として理想の生活を送っていた。美しい彼女のもとで咲けることはそれ自体が悦びだったのだ。

 思い返せば、つくづく自分は恵まれていた。

 けれど、その幸運はいつまでも続かなかった。一生、幸せのまま過ごせる者もいれば、いきなり運命の歯車が狂ってしまう者だっているのだ。

 私は後者だった。それだけのこと。


 その日、私はフェロニエール様の帰りをじっと待ち続けていた。いつもならば日が暮れてしまわないうちにお屋敷に戻ってくる。そうしたらお出迎えして、一緒に夕飯を食べるのが日課だった。まるで人間の親と子とそうするように、私は当然のようにフェロニエール様との団欒を楽しんでいた。しかし、あの日、フェロニエール様は帰ってこなかった。

 外は危険がいっぱいなのだという。だから、妖精は人間の庇護を受けなければならない。それは、生家の人間たちが口酸っぱく言い続けてきた教えでもあった。では、人間にとって外は危険でないのかと好奇心から問いかけたことがあったが、あの時は余計な質問をするのは良血花としてよくないと叱られて終わってしまった。

 だが、その日、私はようやくあの時の疑問の答えを知ったのだ。やっぱり外は危険なのだ。妖精にとっても、人間にとっても。


 フェロニエール様の命を奪ったのは、外を走る鉄の馬だったという。血の通っていないその馬のことは私も知っている。生家からこのお屋敷に貰われていく時に乗ったから。そして、その危険性の事も聞いたことはあった。鉄の馬たちは本物の馬たちよりもずっと強い力を持っている。だから、とても速く走ることが出来る。しかし、強い力は危険をもたらすものだ。

 並みの馬だってぶつかればただでは済まない。鉄の馬ともなればなおさらのこと。

 フェロニエール様と再び会えたのは、葬儀の行われる会場でのことだった。故人の遺志により使用人たちに付き添われて参列したその場所で、私はようやく変わり果てた主人に会うことが出来た。そして、フェロニエール様に何が起こったのを、私は知る事が出来た。


 事故当時、道路には小さな子供がいた。どういう事情があったのか、理由ははっきりと分からないけれど、その子供は鉄の馬の走る前に倒れてしまった。その時、真っ先に子供を助けに行ったのが、たまたま居合わせたフェロニエール様だった。放っておけなかったのだろう。身体が動いてしまったのだろう。結果的に子供は助かったが、フェロニエール様は助からなかった。

 命の輝きを失ったフェロニエール様は、まるで眠っているような死に顔で、そのことは子供だけでも助かったことと同じく神の奇跡だと人々が口にした。それほど大きな事故だったと。

 けれど、私には少しも奇跡には思えなかった。奇跡が起こるならば、どうしてフェロニエール様の命を守って下さらなかったのか。そのことばかりを恨んでしまった。

 葬儀の間、涙は不思議と出なかった。

 信じられなかったからだ。これが本当の事だなんてどうして思えよう。悪い夢を見ているのだ。違いない。違いない。ずっとそう思いながら人間たちに手を繋がれて、フェロニエール様の入った棺が埋葬される様子をただただ見つめていることしか出来なかった。


 あれから、私の日常もまた変わり果てた。

 私が人間の子のようでいられたことも、幸せだったことも、全てはフェロニエール様のお陰だったのだと嫌というほど思い知らされていった。

 フェロニエール様は私のことを実の娘のようだとおっしゃったけれど、他の人間たちにとって私はそういう存在ではないのだ。

 そのことをはっきり教えてくれたのが、フェロニエール様の実の妹であるバレッタ様だった。


「親族会議の結果、この屋敷と共にお前の所有権も私が引き継ぐことになった。今日から姉のことは忘れて私に従うのよ」


 葬儀が終わって程なくして、バレッタ様は私にそう言った。

 良血花の条件は、いかなる主人であろうと従順でいる事。フェロニエール様のことが実感できずとも、その教えが心身の隅々にまで染み込んでいた私には、頷くことしか出来なかった。


 それでも最初の頃は、ほんのわずかであっても希望は残っていた。

 優しかったフェロニエール様の死を認めることは辛かったけれど、新しい主人であるバレッタ様はフェロニエール様に姿がよく似ていらしたから。

 その上、バレッタ様はフェロニエール様に勝るとも劣らないほど聡明なお方で、周囲はもちろんフェロニエール様だって信頼していたことを私もよく知っていた。

 だから、別れの痛みは消えずとも、徐々に新しいことに慣れていくはず。そんな期待を抱くことが出来ていた。

 でも、それがとんでもない間違いだと気づかされたのは、バレッタ様との生活が始まってほんの数日後のことだった。


 フェロニエール様がご主人様だった頃、私の日々のささやかな楽しみは中庭の散歩だった。

 色とりどりのお花は、花の妖精として生まれた私にとって親近感を抱けるお友達のようなもので、その蜜の香りに誘われてやってくる鮮やかかつユーモラスな見た目の虫たちは、私にとって非常に愛しい癒しの存在だった。この世界を自由に歩けるからこそ、フェロニエール様がいらっしゃらない時も私は寂しくならずに済んだのだ。

 だが、そんな日課はバレッタ様の下では許されなかった。中庭だからとフェロニエール様は心配なさらなかったけれど、バレッタ様は違ったようだ。それに加えて、特別な事情まで重なった。


「巷では良血花ばかりを狙うカチューシャという名の女怪盗が現れている。とんでもない女狐で、ちょっと人目が離れたすきに目当ての妖精だけを攫っていってしまうそうよ。こういう吹き抜けの場所は危険だわ。とても許可できない」


 その一言で、中庭遊びは禁じられてしまったのだ。

 窓辺からそっと中庭を窺うことくらいは許されたけれど、かつてのように美しく咲く花に近づいて話しかけたり、指先に蝶を止まらせたりすることも出来ない。時には小鳥が来て賑やかな歌声を披露してくれたこともあったけれど、あの頃のように青空を見つめながら楽しむことも出来なくなってしまった。

 私はただそれに従った。それが良血花の条件だから。逆らうなんてとんでもない。はしたない事だし、フェロニエール様も天国でがっかりなさるだろうと思っていた。だから、私はバレッタ様の方針に従い、屋内で過ごすことにしたのだ。


 それからしばらくは平穏な日々が続いた。平穏ではあったけれども、バレッタ様はことあるごとに妖精の正しい飼い方を口になさり、その度に、フェロニエール様の方針を否定された。

 それは世間的に見れば、もしかしたら本当に正しい事だったのかもしれない。けれど、私にとって正直なところ窮屈なことばかりで、フェロニエール様が生きていらしたら、と、つい思ってしまうのだ。

 その度に私は自分を叱った。

 バレッタ様はフェロニエール様によく似ていらっしゃるけれど、中身は全く違う。そのことは徐々にはっきりとして来たけれど、それでも幸いなことに、妖精がお嫌いなわけではないらしい。ただちょっと、厳しい御方なだけ。親しくなれれば少しは違ってくるはず。

 何度も自分に言い聞かせ、騙し騙し過ごしていた。


 そう、よくよく考えれば、騙し、騙しだった。

 そのことは黙っていても伝わってしまうのだろうか。日に日にバレッタ様の厳しさは増していくばかりに感じた。それは私のせいだけではなかったかもしれない。花泥棒のカチューシャの噂は広がり続けていたし、毎週のように誰かが攫われていく事件が起こっていたから。


「シュシュ」


 ある日の昼下がり、廊下からそっと外庭を窺っていると、バレッタ様に声をかけられた。すぐに振り向くと、彼女はとても厳しい眼差しでこう言った。


「そっちは外庭でしょう。覗いては駄目」


 普通ならば、ここですぐに頭を下げるのが良き妖精の振る舞いのはずだった。

 けれど、どうしてだろう。この時に限って私は良き妖精ではいられなかった。真っすぐバレッタ様を見つめたまま、私は問い返してしまったのだ。


「どうしてですか?」


 そんな私の態度にバレッタ様は眉を顰めた。怒らせてしまった、そう気づいた時にはもう遅い。それでも、私が謝る前に、バレッタ様は落ち着きを取り戻して教えてくれた。


「お外にはカチューシャがいるから。とっても怖いあの花泥棒がね。盗まれた花たちがどうなってしまったのかは今も分からない。あなただって他人事ではないの。盗まれたら助けてあげられないかもしれない。それが理由よ。ご理解いただけたかしら?」


 睨まれるようにそう言われ、私はただ謝る事しか出来なかった。謝る私にバレッタ様はもう口を聞いて下さらなかった。たまたま通りかかった使用人に私を託すと、その使用人に向かってこう言った。


「これから出かけるから、その子を部屋に閉じ込めておいて」

「ですが……」


 使用人が何か言いかけると、バレッタ様は苛立ちをその美しいお顔に薄っすらと宿した。


「いいからそうしなさい。私が帰ってくるまで外に出さないで」


 その威圧に若き使用人は逆らえなかったらしい。


「かしこまりました」


 慌てて頭を下げると、私の背を押してその場を立ち去らせた。

 私は恐る恐る振り返り、バレッタ様のご様子を窺ったけれど、冷たい表情は全く変わらなかった。フェロニエール様があのように怒ったことはあっただろうか。いいや、今は状況が違う。きっとすべて花泥棒のカチューシャのせいなのだ。そう自分に言い聞かせ、私は使用人に押されながら自室へと戻っていった。


「シュシュ、どうか恨まないで」


 若き使用人はたどり着くなりそう言った。


「フェロニエール様がいた頃は、もっと気が楽だったのにね。でも、これも仕方のないことなの。だから、お部屋でいい子にしているのよ」


 そして、あっさりと部屋を出ると鍵を閉めて何処かにいってしまった。

 フェロニエール様がいらした頃だって、お部屋に鍵がかかる事はあった。でも、それは誰もが眠りにつく夜の間だけのことだ。悪い泥棒が入ってきたら怖いから、と、やむを得ずのことだった。それに、特別な日に限っては、フェロニエール様と一緒のベッドで眠ることを許された時もあった。

 いずれにせよ、起きている間に閉じ込められるなんてことは今までにない事だった。これまでに一度だって。


 私のしたことはそんなに悪いことだったのだろうか。

 いや、悪いことだったかもしれない。フェロニエール様に引き取られるまでの間は、人間に言われたことに問い返してはいけないと確かに教えられていた。

 けれど、フェロニエール様は問い返すことを許して下さっていた。だから、すっかり忘れていたのだ。自分の立場というものを。


 バレッタ様がお戻りになるまでの間、私はすっかり落ち込んでいた。そして、再び部屋の鍵が開いた時には、数日ほど経ったかのような気持ちになっていた。

 迎えに来たバレッタ様のお顔は相変わらず不機嫌そうだった。けれど、もうお叱りにはならないようだったので、私はようやくほっとしたのだった。


「おかえりなさいませ」


 頭を下げてそう言うと、バレッタ様は少しだけ微笑んだ。


「問題なかったようね。それならいいわ。あの後、少し考えていたの。これからの事を。世間じゃすっかりカチューシャ騒ぎで混乱している。昨日までは他人事だと思っていたお家から、高価な良血花が次々に盗まれていっているのですって。でもね、私は思うの。皆、油断しすぎているって」


 私は黙ってバレッタ様のお話を聞いていた。先ほどの失敗を繰り返さないためには、黙って、ただ聞いて、それでいて聞き流すようなことをしてはいけない。その事を肝に銘じた。

 それが良かったのだろうか。注意深く耳を澄ませている私の態度に、バレッタ様は少しだけ機嫌を直されたようだった。


「幸いにも、あなたには気品がある。美しいだけでなかなか言う事を聞かない妖精を抱えたよそのお家の事を聞くとつくづくそう思うの。姉が大金をはたいただけの価値はあるのでしょうね。……だから、私の新しい言いつけも、あなたならちゃんと守れるでしょう」


 そして、バレッタ様はきっぱりと宣告なさったのだ。


「今後、あなたにはこの部屋にずっと居てもらう。今までのようにお屋敷をふらふらと歩かせたりはしない。ここには全てがあるもの。食事だって運んできてあげる。だから、問題はないでしょう」


 私は驚いてバレッタ様のお顔を見つめた。思わず口が開きそうになったけれど、それを許さない眼差しがそこにあった。


「バレッタ様」


 私の代わりに口を開いたのは、傍に控えていた使用人だった。


「フェロニエール様はシュシュを連れて様々な集会にご参加しておりました。バレッタ様にも招待状が複数届いておりますが……」

「それについては送り主のお方々と今日まさに直接お話してきたの。こういうご時勢よ。高価な妖精を連れだしてカチューシャの餌食にならないとも限らない。そういうわけだから、ひとまずカチューシャが捕まるまでの間は参加を見送らせてもらうと伝えたの」


 淡々と告げるバレッタ様の言葉に、私は空虚なものを感じ始めていた。

 新しい主人がそうするというのだから、それに従わなければ。そう思いつつも、やはり私は良い花の器でなかったのだろう。先ほどの事があったにも関わらず、許されてもいないのに問いかけてしまったのだ。


「──では、カチューシャが捕まったら、またお外に出てもよろしいのでしょうか?」


 その問いに、使用人が息を呑んだ。

 バレッタ様は冷静な表情のままじっと私を見つめていた。すぐには答えて下さらなかった。

 沈黙の流れる間、私はどんな答えを期待していただろうか。分かるのは、望んでいる答えと予想している答えが一致していないことだった。きっとバレッタ様は私の期待する答えをくださらないだろうという諦めは既に心の中にあった。そして、残念な事に、その予想はぴたりと的中したのだった。


「いいえ」


 冷たさをも感じる落ち着いた声でバレッタ様はそう言った。


「私は姉とは違う。必要以上に妖精好き同士でつるむつもりはないの。それに、不安でしょう。カチューシャが捕まったとしても、第二、第三のカチューシャが現れてもおかしくない。そんな状況で、あなたを連れ回す覚悟なんて私にはないわ」


 分かっていたはずだけれど、はっきりと言われてしまうとさすがに重みが違った。それでも、私に言えるのはここまでだ。主人が行かないと言っている以上、それに意を唱えることは出来ない。

 俯く私にバレッタ様は訊ねてきた。


「怒っているの、シュシュ?」


 問いかけられて、私は慌てて顔を上げた。出来る返事は一つだけ。恐る恐る首を横に振り、誤解をとこうと努めた。

 恨むならば、主人ではなくカチューシャを恨むべきだ。人々の心に不安を生んだ顔も知らない彼女のことを憎めばいいのだろう。

 いや、そもそも恨んだり憎んだりする元気すら今の私には残されていなかった。私に出来ることはただ悲しむことだけ。そして、絶対に手の届かない場所へと行ってしまったフェロニエール様のことを心の奥底でそっと恋しがることだけだった。


 再び俯く私をバレッタ様の鋭い眼差しが突き刺してくる。


「そう。それは良かった」


 その視線と同じくらい鋭さのある声で彼女は言った。


「では、さっそく夕食を運ばせましょう」


 そして、その日はそれっきり、バレッタ様は私の前に現れてはくれなかった。運ばれてきた食事を一人で食べながら、その味を噛みしめていると、私はまたフェロニエール様のことを思い出してしまった。

 出された食事の味は変わっていないはずだ。けれど、あの頃に食べていた食事の方がずっと甘く美味しかったように思えるのは何故だろう。黙々と食事を終えると、それから先はひたすら退屈な時間が過ぎていった。


 ほんの少し前であったら、眠る前に中庭を散歩することも許された。けれど、今は出来ない。外から鍵を閉められてしまっては、こっそり夜風に当たるなんてことも出来ない。

 今出来る退屈しのぎは何かと言えば、与えられた部屋の窓から見える殆ど変わらない景色を眺めることくらいだった。不審者対策の格子の先に見える景色は、その魅力がいくらか落ちてしまったように感じる。前はそんな風に思ったりしなかったのに何故だろう。淡々とした思考の中で、私の心はじわじわと色を失っていった。


 このようにして、私にとっての世界が急に狭まった最初の夜はとにかく長かった。

 しかし、それも慣れるものなのだろうかと、少しは期待した。期待したけれど、やはりそんな期待に意味はなかった。日が経てば経つほど、かつてフェロニエール様と過ごした日々の事が遠くなっていく。その度に、私は今の状況が暗く、苦しいものとしか思えなくなっていった。

 全てはカチューシャのせい。そう思ったところで、恨んだところで、何になろう。カチューシャが囚われたとしても、バレッタ様が私の主人である限り、この生活が変わることはないのだから。


 そんな事を延々と考え続けているうちに、私は疑問に思うようになっていった。

 はたして私は幸せなのだろうかと。

 かつて人々は言っていた。人間の愛を失った良血花──つまり野良となった妖精たちは不幸なのだと。何故なら彼らは衣食住のいずれも確保できず、その日を生き抜くことで精一杯なのだからと。私はその言葉を噛みしめ、そして自分の幸福さを有難く思っていた。

 今だって同じはず。フェロニエール様とバレッタ様はだいぶ違う御方であるけれど、衣食住は保障されている。だから、私は幸せであるはず。

 それでも、満足に外へ出られない日が続くと、私は疑問を抱くようになっていった。

 カチューシャに攫われた花たちは、何処へ向かったのだろうか。それが仮に生者がたどり着けるような世界でなかったとしても、フェロニエール様の戻ってこないこの場所でただ咲き続けるよりも、救いがあるのではないだろうかと。

 単なる気の迷いだ。それほど閉じ込められ続けていることが辛かったのだろう。

 けれど、一度起こった気の迷いはどうしても振り払えず、朝と夜が繰り返されていく度に、私は段々と思うようになっていった。

 カチューシャに攫われたとしたら、どんな未来が待っているのだろう。


 それからしばらく経っても、騒動は治まる気配すらなかった。

 バレッタ様は次第に神経質になっていった。親しいご友人の飼っていた良血花がとうとう女怪盗の被害に遭い、次はどこが狙われるかという話題で持ち切りとなっていたらしい。

 もちろん、この屋敷も例外ではない。他者の侵入を許さないこの状況で、私のもとにカチューシャが忍び込めるなんて思いもしないけれど、ほんのわずかな可能性であっても潰したかったのだろう。バレッタ様はついに私の部屋の格子窓は全て重たいカーテンで閉め切られ、決して開けてはならないとご命令になったのだ。


 誰も見ていない隙にこっそり覗くことくらいは出来るだろうけれど、それは他ならぬ私の性質が不可能にしていた。フェロニエール様ほど親しみを持てる相手ではないとはいえ、バレッタ様はまごうことなき私の今の主人なのだ。逆らうなんてことは、こんな私の中にもわずかながらもしぶとくこびりついていた良血花としてのプライドが許さなかった。

 そんな性質のお陰で私は全ての娯楽を失った。娯楽などなくたって生き物は生きていける。それこそ、かつて憐れんだ野良妖精たちは、娯楽を楽しむ余裕もない。だから、贅沢な悩みなのだろう。そうは分かっていても、耐え難かった。


 このままずっと、私は思い出に縛られて苦しみながら生きるしかないのだろうかと。そんな不安が一気に押し寄せてくると、いよいよ私は強く願うようになっていた。


 ああ、カチューシャが来てくれたら、と。

 カチューシャが私を攫ってくれたらいいのに、と。


 その願いが都合よく通じるなんてことは、私も信じてはいない。

 恐らく、これは偶然だったのだろう。偶然だったにせよ、天に仕組まれていたにせよ、それから数日も経たないうちに、静かすぎるこの屋敷もとうとう侵された。

 騒動が起こってからしばらく、何が起こっているのかも分からない私の下に、その大声は聞こえてきた。


「間違いない、カチューシャだ!」


 使用人の誰かと思われるその声に、私は目が覚めるような気持ちになった。

 怪盗が怪盗と呼ばれる所以を思い知らせるように、屋敷は瞬く間に混乱に落とされていく。その様子を音だけで察しながら、私は息を潜めていた。本当ならば開かない扉を叩いて、侵入者に居場所を知らせたって良かった。けれど、そんな事をしてしまえるほどの勇気は、私にはなかったのだ。

 それに、いざとなると怖かった。あの侵入者がカチューシャだったとして、攫われてしまったら私はどうなるのだろう。カチューシャに攫われた花たちがどうなったかは知らない。この騒ぎが起こってからしばらく経つが、攫われていった被害花たちは今もまだ誰一人として見つかっていないというのだ。

 この場から連れ出してもらえたとして、その先に待っているのは何だろう。天国か、はたまた地獄か。ここで淡白な日々を過ごしていた方が良いとさえ思えるような、そんな恐ろしい結果が待ち受けているのではないかと。


 様々なことが頭を過ぎっていくうちに、私は唐突に風を感じた。

 あり得ない。だって、窓は締め切られ、カーテンだって開けていないはずなのに。そう思って振り返った途端、周りの空気が凍り付くような恐怖に見舞われた。

 いつの間に、そして、どうやって。

 閉め切られていたはずの窓は開け放たれていた。そして、当たり前のように佇んでいる人物がそこにいた。仮面で目元を隠しているその妖艶な姿は、話に聞いていた女怪盗の印象そのものだった。


「ああ……」


 カチューシャだ。きっと、間違いなく。

 いざ前にすると恐ろしくてたまらなかった。だが、感じたのは恐怖だけではなかった。その姿を目にした瞬間、まるで生まれる前から出会うことを待ちわびていたような感覚に浸ったのだ。

 どうしてなのかは分からない。ただ、ひと目惚れでもするかのように、私はカチューシャから目を逸らせなくなっていた。


「やっと見つけた」


 カチューシャは小さくそう言った。


「可哀想に。こんなところに閉じ込められていたなんて。こんな狭い部屋に──」


 そして彼女は近寄ってきた。逃げなくては。理性が私に叱咤する。けれど、動くことは出来なかった。まるでぐるぐる巻きにされてしまったように、私はカチューシャを見つめたまま動けなくなっていた。

 そんな私の前にふわりと彼女は現れて、そっと屈んで目を合わせてきた。


「この香り、間違いないわね。登録名はシュシュだったかしら。初めまして。あたしの事は、人間たちと同じようにカチューシャと呼んで」

「人間たちと……」


 その言葉に私はようやく気付かされた。目と目が合い、じわじわと彼女の正体が脳裏に刻まれていく。そして、直感的に私は知ったのだ。

 ああ、この人は人間ではない。かといって、良血花でもない。そもそも花ではないのだ。

 花の妖精と古来より密接な関係にあった種族のうちの一種。花の妖精の蜜を求め、美しい容姿と言葉で誘惑する一族。人々は彼女らの事を虫に例えて蝶の妖精と呼んだ。

 間違いない。カチューシャは、その血を引いている。


「迎えに来たの。良い血を引いているはずの貴女を。良い蜜を持っているはずの貴女を。貴女が咲くべき場所はここではない。だから、あたしと来て」


 差し伸べられたその手を見つめていると、とんと背中を押されたような気がした。その手に触れようとしている自分にふと気づき、私は我に返った。


「貴女は何者なの? ここでないなら私は何処に行けばいいの?」


 目を逸らしてそう訊ねると、カチューシャは小さく微笑んだ。


「世間知らずの花には珍しく警戒心が強いのね。いいわ、教えてあげましょう」


 そして彼女は窓の外を見つめた。夜風の吹き込むカーテンの向こうでは頑丈なはずの格子が外されていた。その先には月明かりに照らされた外の景色が広がっている。

 格子がなくなったお陰で、今まで見たことがないほど鮮明にその向こうに広がる森を見つめることが出来た。カチューシャは窓の外を見つめたまま、私に言った。


「美しいでしょう。あの向こうに広がる森は、ここよりもずっと綺麗な場所よ。その中には自由がある。少なくともここよりは広くて自由な世界がある。妖精は妖精の為に。貴女たちが仕えるべき相手は、人間なんかじゃない」


 振り向くカチューシャに、私は恐る恐る訊ねた。


「今まで攫った花たちは、皆そこにいるの?」


 すると、彼女は仮面の下から面白がるような視線をこちらに向けてきた。


「ええ、そうよ。皆、あの場所にいる。あの場所で新しい生活を受け入れているわ。望もうとも、望まざろうともね」

「それってつまり──」


 私が言いかけると、カチューシャは不意に近づいてきた。今度は私の反応なんて待たないだろう。彼女の目的は初めから決まっている。大声を出すべきだろうか。それとも。

 迷っているうちに、カチューシャは私の手を掴み上げた。


「さあ、そろそろ行きましょう。野蛮な人間たちが来てしまう前に」


 と、その時だった。


「シュシュ、そこに誰かいるの?」


 聞こえてきたのはバレッタ様の声だった。直後、すぐに扉の鍵が開かれ、なだれ込むように彼女は入ってきた。これまで見たこともないほど取り乱した様子で。

 そして、カチューシャの姿を確認すると、見る見るうちに青ざめていった。


「やめて」


 バレッタ様は言った。


「連れて行かないで。その子は私の花よ」


 だが、カチューシャはくすりと笑った。引っ張り上げられ、私は大人しく従った。バレッタ様の視線で足が竦んでしまいそうだったけれど、それ以上にカチューシャの醸し出す魅惑には敵わなかった。

 私の頭はひたすら考え続けていた。仕えるべきはどちらなのか。


「お願い。返して」


 バレッタ様はそう言った。聞いたことがないほど、悲しそうな声で。


「姉の忘れ形見なの。とても大切な花なのよ」


 けれど、カチューシャは何も言わなかった。人間と会話をするつもりはないのだろうか。心情に訴えようとしても無駄だと言わんばかりに表情を変えず、私の身体を引き寄せた。

 こうされれば、もう抗えない。いかに良き花としてのプライドを植え付けられていたとしても、本能を無視することなど出来ないのだろう。


 古来、花というものは人間ではなく別の妖精に仕えていた。その歴史は長くこの血に刻まれている。人間たちが好奇心のままに私の先祖たちを改良していった歴史とは比べ物にならないほどに。

 そのことを私は肌で感じていた。そして、バレッタ様に対して罪悪感を抱いていた。かつて愛した主人によく似た人があんな表情を見せるのは心が痛い。それなのに、私は逃げようという気にすらなっていないのだから。


「シュシュ!」


 名を呼ばれても、私はそれに応えなかった。カチューシャに抱き寄せられると、瞬く間に景色は移り変わった。バレッタ様が走り寄ってくるよりも先に、私は狭い世界から引っ張り出されていた。魔法にでもかかったかのようにあっという間だった。

 痛みもなければ違和感もない。呆気にとられていると、今し方、通ってきた窓の向こうからバレッタ様が手を伸ばしてきた。


「行かないで……」


 けれど、その言葉もまた、無力だった。

 カチューシャに手を引かれ、私は宵闇に呑まれていった。この先に待っている世界がどんなものなのかは分からない。結局は主人が人間からカチューシャたちの一族に代わるだけで、窮屈さは何も変わらないかもしれない。それでも、わずかながらの期待が、希望が、すでに私の胸に宿っていた。

 暗闇の中で、カチューシャに引っ張られながらも私は途中から自らの意志で歩み始めた。連れていかれるのではない。ついて行くのだ。そう意識しながら一歩一歩踏みしめた。

 本当に咲くべき場所はきっとこの先にあると、そう信じて。

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― 新着の感想 ―
[良い点] バレッタ様も、彼女なりに愛をもっていたのだろうなぁと思いつつも。思いつつも! シュシュちゃんの未来に幸福な道のあることを祈ります!
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