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ハロー、アイオライト

作者: 蒼井ふうろ

 悪夢のようだ、と呟いていた。


 じっとりと湿ったものが男の背中を流れ落ちていく。ごくり、唾を飲み込む音が頭の奥底でガンガンと響いた。


 目の前にいる男を睨みつける。彼は大きな目を見開いたきょとんとした顔で自分を見つめている。



「兄ちゃん?」



 男にーー弟にそう呼びかけられて、一葉は大きくかぶりを振った。



「……いや、何でもねえ。悪い」


「大丈夫? 体調が悪いなら、俺……」


「何でもねえ!」



 思っていたよりも大きな声が出た。弟はびくっと体を縮めると、「ごめん、ごめんよ兄ちゃん」と情けない声で謝ってくる。先ほどまでまん丸に見開いていた大きな目は伏し目がちにされ、うっすらと水の膜が張っているようにも見えた。下唇を噛んでいる様子の弟から目を逸らし、言いすぎた、と一葉は思う。



「疲れてるのかもしれねえから、部屋戻るわ」



 しかし罪悪感というのはうまく語調に乗ってくれないらしい。二葉は何かを感じ取ったのか一葉に手を伸ばしたが、それを掴むこともせず、ぶっきらぼうに聞こえる声のトーンでそう言うと一葉はそのまま自室に駆け込んで扉を閉めた。


 扉の前でへたり込む。自分の手を見ればわずかに震えているのが見て取れた。


 扉一枚隔てた向こうに弟がいる気配がする。気遣わしげな声で「兄ちゃん、無理しないでね」と言われる。おう、と返した声が震えていたことに彼は気づいただろうか。ひとつ息を吐いて、弟が遠ざかっていく足音がする。



「なんで……」



 口から声が漏れた。



「なんで……」



 目から涙が零れた。



「なんで……」



 身体中から何かが溢れた。



「なんで……」



 身支度の際に開いたままだったコンパクトミラーが、座り込んだ一葉の顔を写している。真っ青になって震える一葉の顔は、どう見ても大丈夫と言える代物ではなかった。


 その顔に浮かぶ感情は、恐怖。



「なんで、お前が……!」 



 耳の奥で轟々とうねる水の音が響いている。鼻の奥がつんと痺れる感覚と息のできなくなる感覚がする。もみくちゃにされる視界に映る透明な水と、そこに浮かんでいる葉っぱと、枯れ枝と、それから。




ーーにいちゃあーー……ん……




 それは、思い出したくもない記憶だった。切って潰して散々細切れにしてから、見えないように何重にもくるんで捨てたはずの記憶。実際ここ十数年思い出さずに済んでいたのに、なぜ。なぜよりにもよって今日なのか。


 八月十一日、朝八時。


 死んだはずの双子の弟が、一人暮らしの自分の家に現れるなど、誰が想像しただろうか。







ハロー、アイオライト







 高槻一葉には弟がいる。いや、厳密に言えば弟が〈いた〉。


 一葉の双子の弟だった高槻二葉は、十歳の夏に死んでしまった。


 両親と一葉と二葉の家族四人で出掛けたキャンプの二日目、川遊びをしていた二葉が苔の生えた石に足を滑らせたのだ。それだけならよかったが、倒れた方向が悪かった。いかに浅瀬といえども、その中にだって深浅は存在する。二葉が倒れ込んだのは比較的深いところだったのだ。


 どぷん、という重い音に気がついたのは一葉だった。二葉がふざけて川に飛び込んだのだと思った一葉は「何やってんのぉ」と笑っていた。


 ずっと後になってから知ったことだが、溺水反応というものがあり、子供は溺れる時に大声をあげたり手足をバタつかせたりしない。いや、強いパニック状態に陥るためそういったことすらできなくなるのだという。二葉は水しぶきを上げて倒れ込んだあと上がってこなかった。


 十数秒がたってようやく、二葉の様子がおかしいことに気づいた一葉はゴーグルをつけて水に潜り、二葉が倒れ込んだあたりを確認した。


 そうしたら、二葉はそこにいなかった。ばくばくと脈打つ心臓のまま水から上がる。そうしたら、十数メートル先に小さな手だけが見えた。


 一葉は力のまま叫んだ。



「だめえーーーっ!」



 川辺でバーベキューの準備をしていた両親がそれに気づく。慌てた様子で川に飛び込んでくる父親を待てず、一葉はそのまま川の流れに乗って泳ぎ始めた。自分が死ぬかもしれないとか、そんなことは一切合切頭になかった。ただ目の前で流されてゆく小さな掌を握らなければと、それだけが頭にあった。後ろから追いかけていたはずの父は遠く、また川の流れは速かった。



「たす…け…てえー……」



 二葉が叫ぶ声がした。近い、と感じて一葉はがむしゃらに水の中を進んでいく。


 そうして泳ぎ着いた先、目の前に二葉がいた。水を相当飲んだのだろう、気持ち悪そうにしていたが一葉を見ると安心したように口を開こうとした。



「も、だいじょ、ぶ、おれ、きた、からな」



 一葉は息も絶え絶えにそう告げて二葉の手を握った。冷え切っている手は必死に泳いだ後の手に妙に心地よかったのを覚えている。


 ほっと息をつこうとした。



「あ」



 だが、息をすることすら許されなかった。


 どちらが発したのか分からない短い言葉の後、するりと水が通り過ぎた。繋いだ手が水の勢いでほどける。


 二葉の姿が、遠ざかる。



「ふたばああああああ!!」



 大声で叫ぶ声が頭の中でハウリングする。みるみるうちに流されていく二葉は見たこともないような顔で一葉を見て、そうして細い声で叫んだ。



「にいちゃあーー……ん……」



 それが最後だった。


 次に目を覚ました時、一葉は病院の天井を見上げていた。目を覚ましたことに気づいた看護師たちが来て検査をしてくれたが、自分を見て気の毒そうな顔をしていて居心地が悪かった。目を覚まして数時間が経ったのに、両親が姿を見せないことと二葉が隣にいないことも居心地の悪さに拍車をかけていた。あちこち打ち身や擦り傷まみれでその治療があったため、時間を潰すことには事欠かなかったが。


 そういった検査を終えて眠らなければ、という段になってようやく父親が病室にやってきた。やっと姿を見せた父親に安堵し、お父さん、と呼びかける。父親は顔を上げて一葉を見た。能面のような白い顔に、目と鼻と口を模した穴が開いていると言われた方がしっくりくる無表情。その感情のない顔についている目に水が湧き上がると、次から次へと頬を伝って流れ落ちていく。



「一葉」



 父親が名前を呼んだ。その声のトーンに嫌なものを感じたが、一葉は「なに」と努めて冷静に返事をした。



「一葉、二葉が……」



 二葉が見つからないんだ。


 父親の言葉は一葉の思考を止めるには十分すぎる威力を持っていた。



「どうして……?」



 口から出たのはそんな、なんの変哲もない疑問詞。



「おれ、おれ……二葉の手、つかんだよ。でも、水が、きてて、それで手を離して……」


「違う、違うんだ一葉」


「おれが、手を離さなかったら、おれと一緒にふたば、見つかった?」


「……」



 何かを言おうとしたのだろう父親は、しかし言葉に詰まる。数秒の後に「それは違う」と言葉を捻り出したものの、その沈黙で十分に伝わってしまった。一瞬でも、「なぜ手を離したのか」と考えてしまったのは至極当然のことだろう。当事者である自分自身が最もそう感じているのだから。


 一葉は溢れかけた涙を拭う。自分がこれだけの怪我で済んだのだから、二葉とてどこかに流れ着いているはずだ。運悪く足の骨でも折れて、自分で行動ができていないだけかもしれない。それなら早く迎えに行ってやらなければ。


 靴を探そうときょろきょろする一葉の様子で何かを察したらしい父親は、静かに靴を差し出した。その靴を受け取って履いて、さあ立ち上がるかという段になって血相を変えた女性が駆け込んでくる。よく見れば遠方に住んでいた父方の叔母だった。



「兄さん……!」



 一葉に聞こえないくらいの声で叔母が何事かを告げる。その瞬間、さあっと父親の血の気が引いたのは一葉の目にも明らかだった。


 何かあった。その〈何か〉の内容を知りたくないと思うのに、確信めいた悪寒が背中を滑り落ちていく。そんなはずはないのに生唾を飲む音が反響したようにさえ感じた。


 よろよろと父親が病室を出ていく。その後を追おうとした一葉の肩をしっかりと叔母が掴んだ。離してと口で言う代わりに振りほどこうとしたのに、びくともしないその力に驚いたことを覚えている。小刻みに震える叔母の手の感触が気持ち悪かった。



「おばさん、はなして」


「離せへんのよ、ごめんねかずくん」


「はなして、俺、二葉を」



 迎えに行ってやらなくちゃという言葉は音になる前に消えた。叔母の口から到底押し殺すことのできていない泣き声が漏れたから。眉間にしわを寄せて口を引き結んではいたけれど、両目からは大粒の涙がこぼれ出ていた。ああ、似ていないと思っていたけれど泣いた顔は父さんにそっくりだと妙なところに感心したのを覚えている。


 足の震えが止まらない。泣き声が徐々に嗚咽に変わっていく叔母に力一杯抱かれても、頭に浮かんだ最悪の事象を否定してみても、彼を探しにいくために一歩を踏み出さないといけないと奮ってみても、どうしても前に進めない。



「かずくん、ふたくんはね……」



 やめろその先を告げるな。喉の奥から声にならない空気が抜ける。



「ふたくんは……川で溺れて、死んじゃったのよ」





 はっ、と目が開いた。自分の荒い呼吸音が部屋に響いている。鈍く痛む頭を振ってみれば、視界がだんだんと鮮明になっていった。


 二度と思い出したくない記憶を夢に見たのは随分久しぶりだ。それこそあれから数年の間は頻繁に見たものの、十年を超えてからは時折思い出したかのように見る程度だった。今日この夢を見たのは間違いなく二葉と思しき男が家の中に現れたからだ。



「くそ……」



 短く悪態をつく。言ったところで事態が好転するとは到底思えなかったが、言わないよりはましだった。ばくばくとうるさい心臓の音がほんの少し弱まる。



「兄ちゃん?」



 扉の向こうから控えめにかけられた声に再び心臓が跳ね上がる。悪夢であってくれればと思ったのに、どうもこれは夢ではなかったらしい。



「……どうした」



 故に、低く唸るように返事をする。二葉、と名前を呼んではいけない気がした。二葉は死んだはずなのだ。その報を受けてすぐならいざ知らず、すでに十年以上の歳月が経過している。実は生きていましたというには随分な時間だった。



「ああ、うん。兄ちゃん体つらそうだったからさ。なんか食える? 兄ちゃん好きだったからうどんは用意してるんだけど」



 言われた途端にぐう、と腹が間抜けな音を立てる。一葉は見られているわけでもないのに赤面してしまった。この年になって、こんなに大きな音で腹を鳴らすのは久しぶりだった。


 扉向こうの二葉にも聞こえたらしい。笑いを噛み殺すような声で「休みの日だからってあんまり寝てちゃ、体がエネルギー不足になっちゃうんじゃないの?」と言われた。


 つられて思わず笑いかけて、一葉は唇を噛む。今を異常事態だと認識しているはずなのに、この緊張感のなさは何事かと自分の頬を一度叩いた。


 死んだ人間は戻ってこない。受け入れがたいその事実を長い時間をかけてようやく飲み込んだのに、どうしてその努力を打ち崩すようなことが目の前で起こっているのか。



「兄ちゃん? また寝ちゃった?」



 二葉が自分を呼んでいる。自分の声とそっくり似ている声なのに、話し方や間の取り方は一葉のものではない。自分の声よりも幾分か柔らかな印象を与えるその声に、たった今再確認したはずの決意さえ滲む。



「……起きてる、と、思う」


「なんだよそれ。兄ちゃんは相変わらず、ぼんやりしてるなあ」



 二葉が笑う。昔となんら変わらない柔らかな雰囲気で。十数年前と寸分違わぬ無邪気な声色で。


 それを聞いたら限界だった。


 一葉は飛びかかるようにドアノブに手をかけて扉を開ける。二葉、と扉の向こうにいる弟の名を呼び、手を伸ばそうとする。


 そうして。




『……お前は、馬鹿だなあ』



 扉の向こう、廊下の壁に設置された鏡の中で彼は困ったように笑った。



『わかってるくせに受け入れられないのは相変わらずか?』


「それを、お前が言うのかよ」



 二葉が話し、一葉が話す。両方が同時に話すことはない。二葉が話せば一葉の口が動き、一葉が話せば二葉の口が動いた。


 一葉は分かっている。先ほどまでの問答も、今の会話も、自分が自分の姿を写した鏡に片割れの姿を投影し、あたかも彼がいるように振る舞っているだけだと理解している。今朝扉を開けた時は寝ぼけて見間違えただけだったが、今は意識的に鏡の中にいるのは双子の弟だと思おうとしていた。


 そう思い直さなければならない時期なのだと、頭の奥で自分の声がしている。



『俺だから言うんだ』



 鏡の中の、二葉の姿をした自分が言う。じっとこちらを見据える様は自分の顔のはずなのに、やはり二葉のものに見えた。



『いつまで、俺のフリを続けるんだ?』



 ここ数年、下手をすれば十数年。絶対に意識しないようにしていた問いだった。



『あの時の記憶が都合のいいように書き換わってるんだろ、わかるよ。俺も立場が逆だったら、きっとそうしたから』



ーーにいちゃあーー…ん……



 頭の中で叫び声が響く。見たこともない顔で二葉が自分のことを見たのなんて、当たり前だ。〈なにを言っているんだ〉と言葉以上に雄弁に語ったその顔が二葉のものだったはずがない。


 本当は分かっている。なぜあんな顔をしたのか、なぜ聞いたこともないような細い声を上げたのか。


 あの時川で死んだのは、本当は。



「ち、違う……あの時死んだのは、二葉だ。俺が一葉で、二葉が溺れて、俺が助けられなくて……」


『二葉』


「やめろ! 俺をその名前で呼ぶな!」



 分かっている、分かっている。自分の認識がおかしいのだと本当は分かっている。しかし分かっているからといって認められるものではない。



「川で死んだのは二葉だ! そうだろ、俺がちゃんと手をつかめなかったからお前は死んだんだ!」



 だって認めてしまったら、自分がそうだと認めてしまったら、今度こそ本当に一葉は死んでしまうじゃないか。


 弟を助けにいった勇敢で優しい兄が死に、助けを求めた弟だけが生き残るなんてことが許されるはずないじゃないか。



『二葉、お前が俺として生きることを咎めたいわけじゃないんだ。なにせあの時お前は必死だった。俺が流されそうになった時、お前は必死で俺を助けようとした。でも、あの川の中でお前が物理的に俺を助けることは不可能だった』


「違う、ちがう、あれは二葉で、俺は一葉だ……!」


『……お前はそう思うことで、俺が死なないようにしてくれたんだろう。助けられないから、そもそもの条件を変えたんだ。俺たちはもみくちゃになっていたから後ろから追いかけてた父さんにもどっちがどっちか分からなかったはずだ』



 〈一葉〉の言葉は止まらない。〈二葉〉が意識的に封じ込めていた考えをいとも簡単に口にする。耳を塞いで頭を振っても一葉の声は耳に届き続けた。



『お前が一生懸命だったのはわかるよ。俺のことを助けようとしてくれたことも、俺が死んだことで残されたお前がどれほど罪悪感に苦しんだかもわかる。お前は俺だから。だから俺はあの時、二葉の言葉に乗った。俺を二葉と呼んだお前の意図がわかったから、お前を兄ちゃんと呼んだ』



 でもな、と一葉が息を吸う。鏡の中の彼は怒った顔をしていた。怒った顔なのに両の目からは涙がこぼれ落ちていた。



『それでーーそれでお前が死んだことになったら、俺が命はった意味もなくなっちゃうじゃんか』



 そう言って一葉は笑った。



『俺はお前に生きててほしくてお前のこと助けに行ったのに、お前が死んだら意味ないじゃんか』



 ほろほろと涙をこぼしながら一葉は笑う。泣いているのに笑っていて、笑っているのに怒っている。


 鏡の中から一葉が手を伸ばす。二葉も同じように手を伸ばす。指先が触れ、ヒヤリとした鏡面の感覚が掌へと伝わっていく。


 人の手の感覚ではない。一葉はここにいない。


 ずっと分かっていた。


 いくら鏡写しのようでも、一葉として生きた年数が二葉として生きた年数を上回っても、二葉は一葉にはなれない。


 今更それを認識してこうして振る舞ってみたって、所詮は自己満足だ。死んでしまった片割れに許しを乞うたというポーズはポーズでしかない。死んだ人間は帰ってこないし、ましてや一人二役を演じているのだから自己陶酔もいいところだ。



『おーおー、甘ったれ』



 それでも、一葉の笑い声が柔らかく耳朶を叩く。声を出しているのは自分だと分かっていても、一葉が本当に話しているようだと錯覚してしまう。


 許されたのではないかと思ってしまう。



「俺は……」


『お前は高槻二葉。俺の双子の弟で、水難事故から幸運にも生還した男。双子の兄貴がいて、そいつはお前のことを愛しきった。それ以上の事実が必要か?』



 揶揄うような声色で一葉が告げる。二葉は少し口ごもり、反論しようとしたが口を閉じた。これが都合のいい一人芝居であることは百も承知だが、こう言われてみれば一葉の言い分はもっともらしく聞こえるから不思議だ。



「……必要ない」


『だろ? まあ、二葉が死んだことになってんのに本当は一葉が死んでたってわかれば色々と問題もあるだろうからお前のこれまでを急に変える必要もないな』


「そう……だね、俺も正直最近は一葉って呼ばれる方が慣れてるし」


『ん。だからお前がしなきゃならねえことはたった一つだけだ』



 こいこい、と一葉が手招きする。二葉は言われるがまま鏡に近づいた。内緒話をするように額を合わせる。



『〈二葉〉を忘れるな。それは俺たち二人の名前だ』


「……うん」



 頷く。鏡と額が擦れて場違いな音が鳴った。ふっと空気が緩む。



『これも何かの機会だから、いつまでも申し訳ないとか思うのやめろよ。俺も心配で浮かばれねえ』


「努力する」


『それからたまには実家に顔出せよ。父さんも母さんもあれで心配してんだからな、お前に一番きついとこ見せちまったって』


「……善処する」


『馬鹿、善処するじゃなくて間違いなくやります、だろうが』



 からりと笑う一葉に二葉もつられて笑う。


 きっと兄ならこう言うだろうという予想は何の問題もなくできた。本物の兄に会うことは叶わないが、こうして鏡を見ればその中に兄がいる。抱えてきた歪な感覚を手放せることに一歩遅れて寂しさと安心感が追いかけてきた。涙と一緒に嗚咽がこみ上げてきて二葉は唇を噛む。



『ああ、そうだ』




 だからとっさに声は出なかった。ただ呆然と、大きな目を見開いたきょとんとした顔で〈彼〉を見るしかなかった。



 鏡に映った一葉は心底楽しそうに口角を持ち上げている。二葉は口を閉じて泣いているのに、鏡に映る一葉は全く異なる顔をしている。ありえないはずなのに、そんな、ではまさか。




「今回だけの特別サービスだからな」




 頭にあたたかな感覚があった。そのままワシワシと、乱暴さすら感じるような手つきで頭を撫でられる。



「しっかりやれよ、二葉!」


「待っ……!」



 自分の頭上にある手をつかもうと二葉は腕を持ち上げる。二度と離してなるものかと手を伸ばす。



 ごつん。



 硬い音がして手が鏡面に触れた。鏡には必死の形相で手を伸ばす男の顔が映っているのみで、一葉の手などどこにもない。


 夢だったのかと鏡を見て、二葉は自分の髪の毛がぐしゃぐしゃになっていることに気づく。



「……へへ」



 その部分に自分の手を重ねて、二葉は笑った。兄の手の感触を思い出すように、確かに自分は兄と会話をしたのだと確かめるように。


 窓から差し込む光は白色に近く、日没までには時間がある。二葉は立ち上がると服を着替えるために自室に戻った。


 まずは実家に帰ろう。両親に顔を見せて、元気にやっていると安心させよう。そして向こうにある一葉の墓に心配をかけた詫びと、礼を言いに行くのだ。



「ありがとな、にいちゃん」



 そういえばきっと鏡の中の一葉は恥ずかしそうに嬉しそうに笑うから。


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