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「おかえりなさい……あの……どうかされたんですか?」
部屋に入ってくるなり、よったよったと足元をふらつかせながら自身の机に着席しようとするシドレイに向け、ウィレイムは心配そうな眼差しを送る。
よほど疲れているのだろう。
無理もない。シドレイは自分の父親とそう年齢は変わらない。そして自分と同じように連日ここで書類の海を泳ぎ、朝日を拝んでいるのだ。
人並み外れた体躯のせいで、体力も無駄にあると思っていたけれど、寄る年波には勝てないのだろう。
ウィレイムは、挙動不審なシドレイの態度をそんなふうに分析した。
ただ、そのことは口に出すことはせず、机の引き出しから常備している菓子を取り出す。気休めにしかならないが、せめてこれで疲労回復をしてもらおうと思って、それを手にしてシドレイの席まで移動する。
「……あの……どうぞ。お茶もすぐに用意させますので、一先ず召し上がってください。あと、一応書類は整いました。ですので、一度お屋敷にお戻りになっていただいても」
「ウィレイム君」
「───……君?」
シドレイの言葉に、ウィレイムは怖気が立った。
それは労わる言葉をつらつらと紡いでいたのにそれを遮ったことに対してではなく、これまで一度も”君”付けなどされたことが無いのに藪から棒に、そんなふうに名を呼ばれたことに対して。
……とてつもなく嫌な予感がする。
ウィレイムは手にしていた菓子を放り投げるようにシドレイの机に置くと、すたこらと部屋を出ようとした。
だが、その腕をがしっと強い力で掴まれてしまう。
疲労困憊だと心配した自分が愚かだったと悔やんでも、もう遅い。
シドレイの力はすさまじく、この手から逃れるためには、自分の腕を切り落とさなければならないと思うほどだった。
「あの……宰相」
「ウィレイム君、良い話と悪い話がある。君はどちらから聞きたい」
「……どちらもご遠慮させて」
「駄目だ。二つに一つだ。ゼロはない。そして君に拒否権は無いし、結局どちらも聞いてもうことになる」
「……なっ」
横暴すぎるシドレイの物言いに、ウィレイムは予感が的中してしまったことに気付く。
「愛するマリーに関わることではないなら、宰相殿のお好きな順番で聞きます」
「君はいつから預言者になったんだ?すごいぞ。そして、お前のいう通り、マリアンヌ嬢についてのお話だ」
「……聞きません。帰ります」
「帰るな、聞け。あと今から話すことは決定事項で、誰にも覆すことができないっ」
「んなっ、横暴なっ」
くわっと目を剥いて叫ぶウィレイムを見て、シドレイはこのままでは埒が明かないと判断した。
そんな訳で、空いている方の手を懐に入れると、そこから一通の書簡を取り出した。次いで器用に片手で広げ、ウィレイムの眼前に突き出した。
「もう良いっ。せめて言葉を選びながらお前に伝えようと思ったが面倒だ。これを読めっ。宰相命令だ!!」
細胞レベルで植え付けられているその言葉に、ウィレイムの目は自分の意思に反して、突き出された書簡の文字を追ってしまう。
そして、数行黙読した後───ウィレイムは、シドレイの視界から消えた。
「お、おいっ。大丈夫か!?」
絶対に大丈夫ではないとわかっているが、咄嗟にこの言葉が出てしまうのはなぜだろうとシドレイは頭の隅でふと思う。
だが今は、そんなことはどうでも良い。それより、部下の命の方が心配だ。
シドレイは慌てて、席を立つと崩れ落ちてしまったウィレイムのそばに膝を突く。
ウィレイムは辛うじて生きてはいるが、顔面蒼白で目は虚ろだった。そして、ぶつぶつと呪詛のような言葉を吐き続けている。
「......嘘だろ......マジか......なぜ、なぜこんな......そうならないために頑張ってきた俺の努力は......くそっ、アイツ絞め殺す」
シドレイは、ウィレイムの最後の言葉を気合いで脳内から消去した。
誰に向けてのそれなのかは、聞かなくてもわかっているし、そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。
けれど、相手は腐っても王族だ。安易に口にして良い言葉では無い。そして、これまで汗水垂らしてこの国のために尽力してきてくれた若い部下を反逆罪などで拘束したくはない。
そんなことを考えていたシドレイは油断していた。あっと思ったときには、自分が手にしていた書簡が、消えていた。
───ビリッ、ビリビリッ、ビリビリビリリリリッー
ウィレイムがかっさらったと気づいた時には時既に遅し。
第一王子ことガーウィンの署名入りの書簡───第ニ王子クリストファーとマリアンヌの婚約を命ずるそれは、紙吹雪と化してしまった。
「あー......ははははっ、宰相殿、どうやら自分は悪い夢を見ていたようです。やはり寝不足でしょうかね」
爽やかな顔をしながら立ち上がろうとするウィレイムから、シドレイはそっと目を逸らした。
......実は、こうなることを見越して、書簡は35枚用意してある。
そして、「これを破り捨てる程度で、気が済むならいくらでも破らせてあげて。足りなきゃ幾らでもまた書くからさっ」というガーウィンからの指示も受けていたりもする。
「ウィレイム、気が済んだか?もし良ければ、まだ……あるぞ?」
そぉっと尋ねるシドレイにウィレイムは、どう足掻こうがこれは変えられぬ現状なのだと知り......再び崩れ落ちた。
そんな瀕死の部下の背をシドレイはそっと撫でる。
ウィレイムとはそこそこ長い付き合いだった。なんてことはない態度で、常日頃、官僚たちに揉まれているが、実はとても苦労性な長男だということも知っているし、たゆまぬ努力をし続ける青年だということも知っている。
だからシドレイは静かに立ち上がると、自身の机の上に投げ捨ててある菓子を手に取った。
「ま、とりあえず食え」
そう言って差し出された菓子を目にした瞬間、ウィレイムは思わず素の自分に戻って、こう言った。
「いや、それ、俺のだしっ」




