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マリアンヌがいるこの建物には、アラバの金で雇った10数名の傭兵がいる。服装こそみすぼらしいが、皆、腕に覚えがある者達だ。
けれど、傭兵たちは、この場に突如現れた騎士に対して、ただ息を呑むばかりであった。あきらかに雇い主の商談を妨害するであろう存在なのに。
エリーゼとレイドリック、そしてアラバも例に漏れず、足が地面に埋め込まれてしまったかのように、その場から動くことができなかった。口を開くことさえも。
それほどクリスの視線は鋭く、ただここにいるだけで威圧感を与えていた。
「……随分なことをしてくれたな」
マリアンヌを自身の背に庇いながら抑揚無く呟いて、クリスは低く笑った。
アイスブルーの瞳は真っすぐに、レイドリックに向けられている。
「ぼっ、僕は……何も……」
完璧にクリスに気圧されたレイドリックは、首を横に振りながら後退しようと足を動かした。
けれど突然、彼はマリアンヌの視界から消えた。
「どこに行こうとしてるんだ?」
クリスは視線を下に向けてそう言った。
マリアンヌもそれを追う。そうすれば、地面に突っ伏しているレイドリックが視界に飛び込んで来た。しかもクリスが足で、彼の背を踏んでいる。
───……え?一体いつの間に?
マリアンヌは茫然とこの光景を見つめることしかできない。
けれども恐怖心は既に消えている。まだまだ油断できない状況だというのに。それはクリスがここに居るというだけで、絶対的な安堵に包まれるから。
張り詰めいていた緊張が解れ、自分がどれほどの恐怖を覚えていたかを知る。
視界が涙で歪む。自身を護るかのように、後ろに伸ばされた彼の腕に縋りつきたい。でも、今それをする時ではない。だから衝動をぐっと堪え、マリアンヌは嗚咽を堪えるために両手を口を覆った。
けれどクリスは微かに漏れたそれに気付き、一瞬だけマリアンヌに視線を向ける。”すぐに終わらせる”そう目だけで伝えると、再び前を向く。
本当は泣いている愛しい人を優しく抱きしめ落ち着かせたいところ。だがクリスは、まず個人的な制裁をしなければ気が済まなかった。
「誰に刃を向けたかわかっているのか?誰に向けて暴言を吐いたのかわかっているのか?」
そう言いながらクリスは、足でレイドリックの背をぐりぐりと押す。靴のつま先が埋め込まれた箇所は肺だ。息すら満足にできないだろう。
およそ人の声とは思えない、くぐもった音がしんとした建物内に響き渡る。それに被せるように、再びクリスが口を開いた。
「残念な親の元に生まれたお前たちは確かに不幸者だ。そこは同情してやる。だが、お嬢様がお前たちを侮辱したことがあったか?家柄で区別をなさったことがあったか?下僕のような扱いを一度でもしたことがあったか?」
クリスはエリーゼとレイドリックを交互に見ながら問い詰める。
二人からは返事はない。クリスとて返答を期待していない。だから、すぐに言葉を続けた。
「お前たちがお嬢様にしていたことは、ただの八つ当たりだ。問題をすり替えるな。都合の良い解釈は許さない。親に虐げられた不満を、一番近くにいる弱い存在にぶつけていただけという現実を受け入れろ」
罪名を告げるようにクリスは静かにそう言った。
だがここで、クリスはふっと表情を緩めた。
「ああ、でも一つだけ、俺はお前を褒めてやる」
「な゛……なに……が」
急に声音が変わったクリスに、レイドリックは慈悲を求めるように顔を上げる。
「惚れた女とともに地獄に落ちたことだ。誰かを傷付けようが、どんな手段を使おうが構わないっていう覚悟を決めたところも悪くない。が、その覚悟は間違っていたがな」
「……な゛」
「お前は手っ取り早い方法を選ぼうとした。根本的に解決することを放棄した。自ら辛い状況に落ちたくせに、代償を払うことなく楽になろうとした。まとまった金が手に入ったのだから、駆け落ちでもすれば良かったのに……実に愚かなことだ」
淡々と語るクリスはこちらに背を向けているので、どんな表情をしているのかわからない。
ただエリーゼとアラバは蛇に睨まれた蛙のようだ。アラバはここに来たことを心底後悔しているようで、逃げ出す機会を窺うように、視線を忙しく彷徨わせている。
もちろん、それに気付かぬクリスではない。
「動くなよ、デブ。お前は、運が悪かったな。ああ……旨すぎる話だと警戒することなく、ほいほいこんなところに来たんだから頭も悪かったな。あと、お前はどうやら色々やらかしてくれているようだ。首が飛ぶかどうかはわからんが、これ以上贅肉を付けることはできないのは確かだな。あと……あなたは、運が良かったようですね」
「え?」
突然、クリスから視線を向けられ、エリーゼはものの見事に狼狽えた。だが、自分だけは何か特別なのかもしれないと淡い期待を持っている。
そんな彼女に向け、クリスはさらりとこう言った。
「あなたが男だったら、今すぐここで首を飛ばしてましたよ。断首台に行くまでの間、命が伸びたんです。あなたを女性として生んでくれた親に感謝すべきですね」
やたらと丁寧な口調でそう言って、クリスは笑った。慈悲の欠片も伝わらない、凍り付くような笑みで。
けれど、ここにいる人間はこの程度で観念するような者たちではなかった。自分達が悪事を犯していることなど重々承知の上。そしてそれを止めるつもりなど無い連中だった。
「お、お前たち、何をぼさっとしているんだ?!殺せっ。この男を殺せっ」
アラバのヒステリックで耳障りな罵声で、気迫に押されて突っ立ったままでいた傭兵たちは、はっと我に返ってしまった。
そして次々に服の中に隠していた武器を手にして、クリスに向かって行く。
クリス一人に対して、傭兵は十数人。圧倒的不利な状況だった。
けれどクリスは、やれやれといった表情を浮かべただけ。そしてすぐにマリアンヌを抱き寄せる。
「マリアンヌ様、しばらくの間だけ目をつぶっていてください」
そう耳元で囁かれた声は、窮地に立たされた者のそれでななかった。
余裕さえ感じられ─── 場違いなほど甘かった。




