12
あまりに衝撃的な二人の過去を知り、マリアンヌはぐらりとよろめいてしまった。
けれど近くにあった枯れた名も知らぬ木に手を突き、姿勢を戻す。
そしてまとまらない思考の中、エリーゼとレイドリックが辛い環境に置かれている間、自分はどんなふうに過ごしていたのかをマリアンヌは思い出してみる。
腹が立つほど幸せな日々を過ごしていた。
不条理に叱られたことも、頬を張られたことも、親を軽蔑してしまうようなこともなかった。
両親も兄も過保護ではあったが、優しかった。
欲しいと思う前に、たくさんの物を与えられた。
帽子、ドレス、靴、お菓子、リボンに宝石。信頼の置ける侍女。そしてエリーゼとレイドリックの3人で過ごす楽しい時間。
そう。何不自由なく暮らしていた。
でもそれは、誰かの……いや、エリーゼとレイドリックの犠牲の上で成り立っていたものだったのだ。
二人は自分の見えないところで、親の顔色を窺い、時には暴力を振るわれ、でも逃げることもできず、お勤めのように格上のお嬢様のお相手をしていた。
自分と過ごす時間は、それはそれは苦痛だっただろう。
なのに自分は、見えるがままの二人の笑顔を信じ切り、その笑顔が本物なのか、作り物なのか気付くこともなければ考えることもしなかった。
ただただ自分は、深い傷を抱える二人に向かい無邪気に笑いかけていた。
マリアンヌは、在りし日の二人は、どんな気持ちで自分を見ていたのだろうと考える。
そうすれば、すぐあの日のレイドリックを思い出した。
”自分勝手だね。ワガママだね。”
”常識がないんじゃない?そんなことをして恥ずかしくないの?”
彼の目は隠すことなく、自分にそう訴えていた。
マリアンヌは、レイドリックは婚約してから変わってしまったと思っていた。
違う。そうじゃなかった。
あれが、レイドリックの本心だった。
ずっと隠していた”憎悪”を剥き出しにしたまでだったのだ。
今にして思えば、レイドリックとエリーゼの態度に傷付いた自分がひどく滑稽だった。
自分が先に二人を傷付けていたというのに。
だから二人には、自分を責めて、詰って、傷付ける権利があったというのに。
「……ご、ごめんなさい」
もう一度謝罪の言葉を紡いだ後、マリアンヌは俯き両手で顔を覆った。
二人と過ごした時間は、自分が重ね続けた罪の重さと比例する。
マリアンヌは、自分の犯してしまった罪があまりに大きすぎて、二人の顔を直視できない。
「マリー、謝らないで。顔を上げてちょうだい」
真っ暗な視界の中、エリーゼの優しい声が耳朶に響いた。
それでも顔を上げないマリアンヌに、エリーゼは一歩近づいた。そして少し膝を折り、マリアンヌの両肩に手を置いて覗き込むように口を開いた。
「ねえマリー......私たちがどれだけ辛かったかわかってくれた?」
「......ええ。ごめんなさい。私......何も知らなくて」
「そう。わかってくれたら良いの。この話をしたのは、あなたを責めたかったわけじゃないの。知って欲しかっただけ。ねぇ、だからもう謝らないで」
エリーゼの口調は駄々をこねる妹を宥めるような、慈愛と困惑が入り混じったものだった。怒りも苛立ちも、感じられない。
マリアンヌは恐る恐る両手を離して顔を上げた。
そうすれば眉を下げ、苦笑を浮かべるエリーゼと目が合った。
ああ、いつものエリーゼだ。
馴染み深いその笑みを見た途端、マリアンヌは嗚咽をこらえることができなかった。
こんな自分に微笑んでくれることが、嬉しいけれど、たまらなく申し訳ない。
マリアンヌの瞳から、止めどなく涙が溢れ頬に伝う。
「泣かないで、マリー」
エリーゼは自身のポケットからハンカチを取り出すと、マリアンヌの頬に流れた涙を拭き取った。
そして優しくマリアンヌを抱きしめる。
「過ぎ去ったことを後悔しても、仕方がないことなんだから。だから、ね?マリー」
一旦言葉を止めたエリーゼは、腕を緩めマリアンヌの耳元に唇を寄せるとこんな言葉を落とした。
─── これからは一緒に未来を見ましょう、と。
意味深なその言葉を聞いた途端、マリアンヌの頭の隅で微かな、でも見逃してはいけない警鐘が鳴った。
しかし、罪悪感に囚われているマリアンヌは、それに気付くことができなかった。
「あのねマリー、本当のところ今日はこんな話をしたかったんじゃないの。実はあなたに見せたいものがあるの。秘密の場所よ。もちろん、一緒に来てくれるわよね?」
そう言いながらエリーゼは、マリアンヌの手を取った。
「……え、ええ」
涙で視界がぼやけてしまったマリアンヌは、エリーゼの顔が良く見えない。
だがもし仮に、しっかりとその表情を見ることができたとしても、マリアンヌは握られた手を振り払うことはできなかっただろう。
そっと気付かれぬようマリアンヌの背後に回ったレイドリックの手には、ナイフが握られていたから。




