10
エリーゼを先頭にして、マリアンヌ達はゆっくりと貧民街を歩いている。
どこを歩いても瓦礫の塊のような建物が連なり、すえた臭いがどんどん強くなっていく。
そして、建物の陰から不躾な視線を感じ、マリアンヌはひたすら足を交互に動かすことだけに専念する。
ただ道はとても悪かった。お世辞にも歩道と呼べるようなものでは無い。
舗装されていないのはもちろんだけれど、大小さまざまな穴があり、気を付けて歩かないとすぐに足を取られてしまいそうになる。
けれどエリーゼの歩調は、マリアンヌが知っている王都の街並みを歩くように滑らかだった。レイドリックもぐらつくことなく、黙々と歩いている。
「─── ねぇ、マリー。ここはとても汚いところでしょ?ちょっと歩くだけでも髪や服に、嫌な臭いがついちゃうんだもん。本当に嫌になっちゃう」
「……そうかしら?」
歩きながらそう言って不満そうに口を尖らすエリーゼは、どことなく演じているような気がする。
だからマリアンヌは頷くのを躊躇ってしまう。本当のところは、大きな声で「そうだ」と言いたいけれど。
でも、何かを試されているような予感がして、マリアンヌはハンカチで口元を覆うこともせず、だからと言って全然平気よと嘘を吐くこともしない。
あまり意識していないといった感じで曖昧な表情を作って返答を濁すだけにする。
それを見たエリーゼは、軽く眉を上げただけで、それ以上深く追求することはしなかった。再び歩き出す。
変わらない風景が続き、歩く速度も変わらない。
どこまで歩くのだろう。
どこか目的地があるのだろうか。
迷いなく歩くエリーゼの背を見つめながら、マリアンヌはそんなことを思う。いつの間にかレイドリックはエリーゼと肩を並べて歩いている。
でも互いに、腰に手を回すことも、互いの顔を見つめ微笑みあうことも、腕を組むこともしなかった。
それにほっとする気持ちは今はもう無いことにマリアンヌは気付く。
もっと早く、こんなふうに思えるようになれば良かったのに。
あの夏の日───クリスは連れ出してくれた小川で言った。「同じことをすれば、二人の気持ちがわかる」と。本当にその通りだった。
マリアンヌは言いようのない感情を胸に抱きながら、二人の背をぼんやりと見つめる。でも、二人からはぐれないように、足元に気を付けながら歩き続ける。
そして貯水池……と呼ぶには躊躇われる溜池に到着すると、エリーゼはやっと足を止めた。
「ねえ、マリー。昔、少し遠出をしてピクニックに行ったのを覚えてる?ちょっと大きい池がある場所だったんだけど」
こちらに振り返りながら問いかけるエリーゼは、純粋に昔を懐かしんでいるように見えて、マリアンヌは素直な気持ちを口にした。
「ええ、覚えているわ。水面がキラキラして奇麗で……そんな素敵なところで3人と一緒に過ごすことができて、私、とっても楽しかったわ」
マリアンヌはあの頃を思いだしながら、ほんの少し口元を綻ばせた。
純粋に、エリーゼが自分でも言われなければ思い出せないことを覚えていてくれたのが、こんな時なのに嬉しかった。
でもその温かな気持ちは、一瞬で凍りついた。
エリーゼが見たことも無い笑みを浮かべていたから。
「ふぅーん、そう。楽しかった……か。そうね、あなたにとっては、そういう思い出になっているのね」
ゾッとするような暗い瞳をマリアンヌに向けたエリーゼは、まるで知らない人のようだった。
マリアンヌは咄嗟に謝ろうとした。でも、できなかった。息が止まる程の強い視線に射抜かれて、唇を微かに開いただけだった。
そんなマリアンヌを見たエリーゼは、猫のように目を細めて再び口を開く。
「あのね、この際だからはっきり言わせてもらうわ」
エリーゼは口元を歪ませてそう言った。
もしかしたら笑みを浮かべているのかもしれない。でも、マリアンヌはどうしてもそうは思えなかった。
マルベリー色の瞳には怒りとか、憎しみとか、嫌悪とか、侮蔑とか、苛立ちとか、そんな負の感情を宿して、真っすぐマリアンヌに向けられている。その視線が強すぎて、エリーゼの顔がぼやけて良く見えない。
でも、声は鮮明に聞こえてくる。
「私にとってあの日は、人生最悪と呼ぶべきものだったわ。でもね、それはずっと続いているの。あの日だけじゃないわ、今でもずっとね」
低い声で紡がれた言葉が、マリアンヌの頭にこだまする。
想像を超えたそれに、すぐには理解ができそうにもない。受けた言葉の衝撃で、今、自分がどんな表情をしているのかすらわからなかった。
なのに別の人に変わってしまったその女性は、怯え動揺するマリアンヌを無視して、ゆっくりと語り出した。
マリアンヌの知らない……でも、レイドリックを含めた3人の過去を。




