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馬車が停まった途端、レイドリックは一人でさっさと降りてから、マリアンヌに声を掛けた。
「着いたよ。降りて」
「……ええ」
手を差し出されることも無く、ぶっきらぼうにそんなことを言われても、マリアンヌは文句を言わず素直に馬車から降りる。
そしてゆっくりと辺りを見渡した。
まったく知らない場所だった。
くすんだ色の家々がごちゃごちゃと建っていて、まるで大きな瓦礫の塊のようだった。でもそこは、間違いなく人が住んでおり、生活している気配がする。
ただまばらに見える人達の表情は皆、荒んでいた。まるで生まれてから一度も楽しさを味わったことがないようなそれ。
とにかく息をし続けることに、全精力を使っているといった感じだった。
マリアンヌは見てはいけないものを見てしまったような気持ちで、視線を泳がす。遥か向こうに見慣れたお城があった。
でも、それは不思議に思うほど小さく見えた。
つまり、自分が随分遠くへ来てしまったということでもある。
それに気付いた途端、乾いた風に乗って、嗅ぎなれないすえた匂いが鼻に付く。
馴染みのない香りだった。でも、こういう匂いがする場所を何と言うかマリアンヌは知識としては知っている。
一度も足を踏み入れたことがないので、あくまで推測ではあるがここは平民街ではなく、貧民街と呼ばれるところであろう。
こんなところに足を踏み入れてしまったことを兄に知られたら、大目玉を喰らうこと間違いない。
ふとそんなことを思った自分が少しおかしかった。
なぜならそんなふうに思っているのは自分だけのようだったから。
すぐ横にいるレイドリックは、もう何度もここに足を運んでいるようで、不快な匂いにも顔を顰めたりしない。
そして、こちらへとゆっくり向かってくる女性も、恐ろしいほどこの光景に馴染んでいた。
「久しぶりね、マリー」
「ええ。……2ヶ月ぶりかしら?」
小首を傾げてマリアンヌはエリーゼに応える。
ただ、いつもと変わらない態度でいようと決めていたけれど、やはり本人を目の前にするとどうしてもぎこちなさを隠すことができない。
なのにエリーゼはとても落ち着いていた。微笑んでさえいた。
それがなぜかとても不気味に思えた。
ちらりと視線をずらせばバツの悪そうな表情を作るレイドリックがいる。何かを隠していて、それでいてもう後戻りはできないという、半ば諦めたもの。
とても嫌な予感がする。
マリアンヌは知らず知らずのうちに一歩後退していた。
今を逃せば、もう二人と向かい合って話をする機会は二度と訪れないことはわかっている。
マリアンヌは、既にクリスから聞いているのだ。
婚約破棄をしたいと言った時、ウィレイムがあっさり承諾してくれ、尚且つ、こちらが請求すべき慰謝料を支払う側に回ってくれたのも、全部理由があったのだ。
妹にことのほか弱い兄が、ワガママに付き合ってくれたわけではない。
ウィレイムは完全にレイドリックとエリーゼの二人と縁を切らせたかったのだ。赤の他人という関係になって欲しかったのだ。
だからマリアンヌの望むまま金を支払うことにした。
きっとウィレイムにしたら、それは慰謝料ではなく手切れ金といった類のものだったのだろう。
………そう。そこまではちゃんと理解している。そしてきちんと向き合って話をしたい気持ちも変わらない。でも、やはり怖いものは怖い。
再びマリアンヌは一歩後退る。動かした足は情けない程に震えていた。でも自分の意思とは無関係に、また一歩後退しようと足が動く。
それを制止するようにエリーゼが口を開いた。
「マリー立ち話も何だから、少し歩きましょう。レイ、それで良いわよね?」
「ああ、構わないさ」
ずっと傍観を決め込んでいたレイドリックは、エリーゼの問い掛けに即座に頷いた。
その声音は、クリスが自分に向けるものによく似ていることに気付いて、マリアンヌは唇を噛む。
いつからレイドリックは、エリーゼに向けてこんなふうに言葉をかけていたのだろう。
多分、二人が同じ馬車に乗り込むのを目撃した時より、ずっとずっと前からだ。
だってそんなふうにレイドリックがエリーゼに語りかけるのを何度も耳にしてきたから。ただ単に自分が、気付けなかっただけなのだ。
話しかける口調が違うのは、レイドリックにとって、自分は妹のような存在で、エリーゼは性別を超えた友人だからだと勝手に思っていた。でも、それは違ったのだ。
そして、もう一つ気付いてしまう。
二人は自分に隠れて、こそこそと男女の付き合いをしていたわけではなかったのだと。
もちろん自分の知らないところで、二人っきりで会っていたのは隠しようのない事実だ。でも、全てを騙し隠そうとしていたわけでもなかった。
もしかして、あからさまに口調を変えることで、気付いてくれるのを待っていたのだろうか。
そんなふうにすら思ってしまう。
もし仮に、もっと早く自分が誰かに恋をする気持ちを知って、二人の関係に気付いていたら……こんなにもこじれることは無かったのだろうか。
詮無いことだとはわかっている。だが、そう思わずにはいられない。
「さぁ行きましょう、マリー」
じっとこの場から動かないマリアンヌを急かすように、エリーゼは進行方向を手のひらで示した。
「……ええ」
いつのまにか小刻みになってしまった息を整え、マリアンヌは顔を上げて頷いた。そして、歩き出す。
その時、真っ黒な騎士服を身に付けたあの人が視界の端をかすめたような気がした。




