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レイドリックが婚約破棄に同意してしまえば、後はもう話すことはなかった。
婚約者でもなければ、友人でもない。ただの他人になってしまった彼に向かい、マリアンヌは「では、これで」と暇を告げる。
レイドリックは引き留めることはしなかった。
さりとて、客人を見送るために一緒に席を立つこともしなかった。
だからマリアンヌも、何も言わず応接間を後にした。
行きがけに目にしたリッツ邸の庭は相変わらず荒んでいるが、もうマリアンヌはそれを見ても感情を動かすことはなかった。
ただ左右の足を動かすことに専念する。
でも並んで歩く侍女は、何か言葉を掛けたいがどんな言葉を掛けて良いのかわからず、まごまごとしている。
「ジル、じゃあ約束通り街に行きましょう」
マリアンヌは歩調を変えず、つとめて明るい口調で言った。
「……ですが」
ジルはそこまで言って、困ったように俯いてしまった。
ただ屋敷の門まで到着すれば、視線を下げたままそれを押す。
人が通れるほど開いた鉄格子のような扉からは、キィッと女性の悲し気な嗚咽ような音が聞こえてくる。
すぐにジルが顔を顰めたのがわかったけれど、マリアンヌは素知らぬフリする。それから短く礼を言って、錆びついてしまった門を通り抜けた。
馬車までは、少し歩かなくてはならない。
本来貴族の屋敷には門番がいる。
そして訪問の際には、まず屋敷の前に到着すると、御者が門番に要件を伝え、門を開けてもらうというのが一般的な流れだ。
なのだがリッツ邸には門番は居なかった。侯爵家の立場としては、無理矢理門を開けて、玄関まで馬車を横付けすることも可能だった。御者もそうすべきだと言った。
でも、マリアンヌは御者の提案を断り、馬車を通行の妨げにならない場所に停めるよう指示をした。
というわけで、馬車は住宅街の小さな広場に停車している。
そしてマリアンヌとジルは並んでそこまで歩いている。ただ、ジルは俯いたまま、一向に口を開くことはしない。
「───……ねえ、ジル」
「はい。……なんでしょう?」
「街へ行くっていうお話なんだけれど、ジルは乗り気じゃないのかしら?」
「そんなことはございません」
しゅんと肩を落としてマリアンヌが尋ねれば、ジルはゆっくりと首を振った。ただいくら待っても、行きましょうとは、言ってくれない。
……さっきは頷いてくれたのに。
マリアンヌは、ほんの少しだけじれったい気持ちになる。
でも、ジルは侍女なのだ。何かあった場合、咎められるのは自分ではなく彼女だ。
といっても、ジルの立場を考え早々に帰宅するのは、やっぱり嫌だった。
「じゃあ、お芝居を見に行くのはどうかしら?美術館もそんなに遠くないわ。あと、ノノのおもちゃを扱っているお店があるそうだから、覗いてみたいわ。……そうね、あとは」
「マリーさま」
次々に寄り道の提案をするマリアンヌに、ジルは足を止めて言葉を遮った。
2歩進んでしまったマリアンヌも足を止めて振り返る。
「……どうしたの?ジル ─── っ!!」
何気なく声を掛けた途端、マリアンヌは大きく目を瞠った。
ジルが大粒の涙を流していたのだ。
「え?ちょ、ちょっと……ジル、ねえ、どうしたの?」
予想だにしない展開にぎょっとしたマリアンヌは、ジルの肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
「具合が悪いの?それともどこか痛いの?……ごめんなさいジル。私……そんなに困らせてしまっていたのね」
ポケットからハンカチを取り出してジルに差し出したマリアンヌは、今にも泣きそうな顔になる。
そんなマリアンヌを見て、ジルはハンカチを受け取ると小さく首を横に振った。
「違います……マリー様……ジルはですね」
「なあに?」
「ジルは……」
「うん」
辛抱強く続きの言葉を待っているマリアンヌの手を、ジルはそっと握った。
そして顔を上げ、くしゃりと顔を歪めながらこう言った。
「マリーさまが嫁がれることに寂しさを覚えておりましたが、でも、こんな終わり方なんて一度も望んだことはございませんっ」
「……っ」
零れた涙を拭うこともしないで必死に伝えてくれたジルの言葉に、マリアンヌは言葉にできない衝撃を覚えた。
そして少し遅れて気付く。
この件で涙を流すことができなかった自分の代わりに、ジルが泣いてくれているのだと。
気付けばマリアンヌは、ぎゅっとジルを抱きしめていた。
「ジル……ありがとう」
マリアンヌが心からの感謝を伝えれば、ジルもそっと抱き返してくれる。
でも、ジルはマリアンヌの腕の中で、とても残念な言葉を紡ぐ。
「マリーさま、今日のお出かけは中止にさせてください」
「……そう」
抱く腕を弱めることはしないから、しょげてしまっているのは隠しようがないだろう。
だからジルは、きっと自分を優しく宥めて、馬車へと戻ろうとするのだろうと思っていた。けれど、そうはならなかった。
「でも、お屋敷に戻るのはもっと後で良いと思います」
「え?」
矛盾するジルの発言に、マリアンヌは腕を緩めながら目をぱちくりとさせる。と、同時に視界がくるりと回った。
ジルが自分の肩を掴んで身体を回転させたのだ。
でも戸惑ったのは一瞬だった。すぐにジルがそんなことを言ったのかが、わかったから。
一変した視界には、ついさっきまで居なかった人物がそこにいた。
いつものように真っ黒な騎士服に身を包んで、綺麗な立ち姿で真っすぐ自分を見つめている。髪は少し伸びていた。
「さぁマリーさま、いってらっしゃいませ」
とんっと背中に軽い衝撃を受けて、押し出されるように一歩、足が前に動く。でも、二歩目からは自分の意思で足を動かした。
「本日も、お兄様に内緒にしておきますね」
足を進めるごとに歩調が早まる中、背後からジルのそんな言葉が聞こえてきた。
とても優しく温かな声音だった。




