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まるで威嚇するように乱暴な手つきでティーカップをソーサーに戻したレイドリックに対して、マリアンヌはもう身を強張らせることはしなかった。
ただ、この時間を長引かすつもりもなかった。
けれども、マリアンヌが何か言うよりも先に、レイドリックが口を開く。
マリアンヌの発言など、ただの気の迷いと決めつけているかのような、うんざりとした口調で。
「あのさぁ、まだマリッジブルーなわけ?いい加減にしてくれないかな?僕だって、そういうのに付き合っている暇はないんだよ」
「そうね。時間を取らせてごめんなさい。でも、もう婚約を撤回したいという旨は、兄に伝えてあるの。だから、この後のことは兄とあなたのお父様との話し合いになるわ」
「……嘘だろ?おい」
「いいえ、嘘じゃないわ」
静かに答えたマリアンヌを見て、レイドリックはようやくこれが戯言でないことに気付く。
でもレイドリックは動揺することはしない。不貞腐れた顔をして、そっぽを向く。
「ったく、勝手なことをするなよ」
「……ごめんなさい。でも、撤回はしないわ」
今度はマリアンヌは語尾を強めて言った。
後ろにいるジルがハラハラとしているのがわかる。でも、今はそこに視線を向ける時ではない。
本当は少し怖いのだ。
この会話が終わる時に、ずっとずっと大切にしてきたものを手放さないといけないのだ。
だから意識を集中しないと、過去の自分が待ったをかけてしまいそうになる。
そして目の前にいるレイドリックも、少し前の自分に戻れと、その瞳が強く訴えている。痛い程に。
「なぁマリー。僕たちを裏切る気かい?」
「そう思ってもらっても構わないわ」
「……3人ずっと一緒に居たいって言いだしたのは君だろ?今更、何だよ……」
レイドリックの言葉が尻すぼみになってしまったけれど、それは友情が壊れてしまったことに嘆いているからではない。
自分と……いや、侯爵家という後ろ盾を失うことが嫌だから。
まるで子供が駄々をこねているようだ。
マリアンヌは至極冷静に、レイドリックの姿を見て思った。
でもきっと少し前の自分なら、それに気付かなかっただろう。
なぜなら自分はレイドリックより、もっともっと子供だったから。そして駄々をこね続けていたのは、彼だけではない。自分だってそうだ。
大切なものを壊さないように、手っ取り早い方法で守ろうとしていたのだ。
無くしたくない、壊したくないという感情だけをむき出しにして、抱え込んでいたのだ。
その結果、ちゃんと物事を考えるということを放棄して、自分の都合の良い解釈をして、見ないフリをし続けていたのだ。
でも、もう向き合わないといけない。
クリスの言った通りだ。友情を壊さないという理由だけで結婚するというのは、愚かなことだったのだ。
他の人はどうなのかわからない。でも、自分達はそんな選択をしてはいけなかった。
なぜならもうレイドリックは自分を見ていない。相手に隠れてその立場を利用しようとした時点で、それは親友という関係ではない。
そして一度でも怖い、恐ろしいと思ってしまった相手と結婚はできないから。
「ええ、そうね今更ね。あのね、私は3人ずっと一緒に居たかったわ。でも……でもね、私達の関係はもう友情とは呼べないものになっていると思うの。違う?」
いっそ無邪気と呼んでいい程、マリアンヌは軽やかな声で尋ねた。
そこでレイドリックは、気付く。マリアンヌがレイドリックとエリーゼの関係を、疑っているわけではないと。
しっかりと確信を持って、そう言っていることを。
だからこの婚約はどんなに足掻いても白紙になる。
レイドリックは瞬時に考えた。マリアンヌとの結婚はそこに情はなくても捨てがたいものだったから。
いや、彼にとってマリアンヌとの結婚はこの先のステップに進むために無くてはならないものだった。
「なぁマリー、今頃になってそれはないだろう?僕の立場もわかってくれよ」
「ええ。わかっています」
「ならさ、このまま結婚ってことで」
「慰謝料をお支払いします」
「……っ」
マリアンヌがレイドリックの言葉を遮って、そう言えば彼は驚いたように小さく息を呑んだ。
その表情は思いもよらぬ提案に目を丸くするだけで、プライドを傷つけられた顔はしてなかった。
……そっか。やっぱりそうなんだ。
マリアンヌは本当のところ、この発言をしてレイドリックが激怒することを心のどこかで期待していた。
「これは、お金の問題じゃない」と、はっきり言葉で聞きたかった。
けれどそれは自分よがりの願望で、レイドリックはそんなことを微塵も思っていないことがはっきりわかった。
その証拠に、彼はこう尋ねた。
「い、幾らだ?」
マリアンヌは澱みなく、慰謝料の金額を口にした。
その金額は、ロゼット家にしては懐が痛むことのないものであったが、婚約破棄における慰謝料の相場としてはかなり高額なものであった。
世界中の時計の針を止めてしまったような、無機質な沈黙が部屋に落ちる。
それからティーカップからの湯気が消え、口に含まなくても苦みが鋭くなっていることがわかる頃、レイドリックはこの婚約を破棄することに同意した。
 




