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ウィレイムが公園でアンジェラと密会をした一週間後、マリアンヌはロゼット邸に帰宅した。
一ヶ月近く部屋を空けていたというのに、自室は昨日までマリアンヌが過ごしていたかのように清潔に保たれていた。
別荘に持って行くかどうか出発ギリギリまで悩んで、結局やめてしまったウェディングドレスや小物のサンプル画は、ローテーブルに積み重ねたまま。
そして結婚式の招待状だって宛先が書かれていないまま、出発前と同じように文机に置いてある。
そう。この部屋だけは、マリアンヌが別荘で過ごす以前と同じままだった。
何も変わっていないのだ。
でも、見えない場所───マリアンヌの心の中は大きく変化していた。
クリスに付けられた胸の赤い印はとうに消えてしまったというのに、そこが疼いて仕方がない。
鬱々とした気持ちも相変わらず心の中にあるけれど、それはレイドリックとエリーゼのことだけではない。いや、割合的には別のことが大きく占めていた。
帰宅して3日後、一人夕食を終えたマリアンヌは、自室に戻ろうと廊下を歩いていた。けれど、その途中で足を止めた。
仕事でまだ王宮にいるはずの兄のウィレイムが、そこにいたからだ。
「あっ、お兄様、おかえりなさいませ。出迎えもせず、申し訳ないです」
小走りに駆け寄ったマリアンヌに、クリスはゆるく首を横に振った。
「いや、いいんだ。マリーが食事中だと思ったから、こっそり裏口から入ったんだ」
「そんな……マリーはお兄様の出迎えをしたかったです。今後はそんなことしないでくださいませ」
「それは嬉しいな。じゃあ約束するよマリー。今後はちゃんと玄関から入るようにする」
「ええ、そうしてくださいませ」
にこりとマリアンヌが笑えば、ウィレイムもつられて笑みを浮かべた。
けれどすぐウィレイムは、その表情を生真面目なものに変えた。
「ところでマリー、話があるんだ。すぐに私の部屋に来なさい」
「はい。お兄様」
めったに目にすることはない兄のそんな顔を見ても、マリアンヌは首を傾げることはしない。素直に頷くだけ。
ウィレイムが自分に何を話したいのか、わかっていたから。
そしてマリアンヌも、兄にきちんと話さなければならないことがあったから。
といっても、マリアンヌはすぐにウィレイムの部屋に行くことはしなかった。
兄に伝えないといけない言葉を組み立てるために、マリアンヌは一度、自室に戻ることにした。
そして、気持ちを落ち着かせるために鏡台に着席して、髪にブラシを当てる。
鏡に映る自分は、緊張のせいかいつもより顔色が悪い。そしてその奥で侍女のジルが心配そうにこちらを見ている。
ただ、鏡越しに目が合った途端、ジルは足早に近づいてきた。
「マリー様、わたくしがやります」
そう言うが早いかジルは、マリアンヌからブラシを取り上げた。
「……今日は自分でやりたかったのに……」
拗ねた口調でそう言っても、ジルはブラシを返してはくれない。でも、一度鏡台から離れて、すぐに戻ってきた。
「今のマリー様には、こちらのほうがよろしいかと。どうぞ」
そう言ってジルはマリアンヌの膝の上に、ノノを乗せた。
抱かれることがあまり好きではないノノは不満そうな顔をしている。
が、抗議の声を上げることをしなければ、その爪でひっかくこともしない。大人しくマリアンヌの膝の上に鎮座している。
「ありがとう、ジル。……ノノもね」
鏡越しに侍女にお礼を言ってから、マリアンヌは愛猫の喉をそっと撫でた。
びっくりするほど気持ちが落ち着いていく。確かにジルの言う通りだった。
「ジルは、どんなことがあってもマリー様の味方です」
「……うん」
「ウィレイム様も、マリー様の味方です」
「……うん」
「だから怖いことなど、なにもございません」
「……うん」
ジルは髪を梳く手を止めずにそう言った。
マリアンヌも、ノノを撫でる手を止めずに相槌を打つ。
そして、耐え切れなくなったノノが主の膝から飛び降りたのをきっかけに、マリアンヌは立ち上がった。
ウィレイムにすぐに来いと言われたのに、だいぶ待たせてしまった。
妹に殊の外甘い兄だということは知っているが、それでも気を悪くしているだろう。
そんなふうにマリアンヌは思っていたけれど、それは杞憂に終わった。
ウィレイムは待ちくたびれた様子は無かった。ただじっとマリアンヌを待っていたわけではなく、自室の執務机で書類に目を通していた。
「……あ、マリーすまない。ソファに座っててくれるか?すぐにそっちに行くから」
「はい」
「あと、ジル。悪いがお茶を用意してくれるか?二人分、頼む」
「かしこまりました」
会話の合間に書類にサインをしながら、ウィレイムはマリアンヌとジルに指示を出す。もちろん指示を出された方の2人は、それに大人しく従う。
それからウィレイムがマリアンヌの向かいのソファに着席したのは、10枚ほど書類に目を通してからだった。
「待たせてすまなかったな」
「いいえ、とんでもないです。でも、お仕事がお忙しいのですね。マリーはお兄様の身体が心配です」
「ははっ。忙しいのは今に始まったことじゃないから大丈夫。でも、心配してくれてありがとう、マリー。嬉しいよ」
目を細めてお茶を飲むウィレイムの目の下には隠しようのない隈がある。
自分がのんびりと別荘で過ごしている間も、兄は政務に追われていたのだろう。そのことにマリアンヌは胸が痛んだ。
そしてこれからもっと兄に心労をかけてしまうことも。
でも、言わなければならない。
マリアンヌは膝に置いていた手を、ぎゅっと組み合わせた。
時間は何もしていなくても刻一刻と過ぎていく。そしてマリアンヌがウィレイムに伝えなければならないことに猶予は残されていなかった。
「お兄様、お話の前にお伝えしたいことがあるんです」
マリアンヌの言葉を聞いた途端、ウィレイムはティーカップをソーサーに戻し、姿勢を正した。
「うん、わかった。ではマリーの話から先に聞こう」
「はい」
マリアンヌは息を整え、ウィレイムの目をしっかり見つめる。そして、口を開いた。
「お兄様、ごめんなさい。レイドリックとの婚約を白紙に戻してください」
しんとした部屋に、その声はやけに大きく響いた。




