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「貴方は本気でそう言っているんですか?」
馬が1拍おいて足を止めたと同時に、そんな問いが下から聞こえてマリアンヌは視線をそこに向ける。
クリスは真剣な眼差しで、こちらをじっと見ている。でも、すぐに口を開く。
「わたくしが、ただ慰めるだけの為にあんなことができる人間だと思っているんですか?」
「......それは......その......」
そうじゃなければ良いと思っている。でも、それを口にするのがなんだか怖い。
マリアンヌはもじもじと馬上で、目を泳がせながら適切な言葉を探す。でも、なかなか見つからない。
クリスの視線を痛いほど感じる。間違いなく答えない自分に苛立ちを感じているのだろう。そして彼は、答えをもらう前に、再び語り出す。
「私は見ての通り冷徹な人間です。傷付いた人間を平気で見捨てることができる人間です。たかだが婚約者に浮気されたくらいで、女性を慰めるような優しい心など持ち合わせてはいいません」
「嘘つき。だって、クリスは───」
「貴方だから、そうしたんです」
マリアンヌの言葉を遮って、クリスはきっぱりと言い切った。
「……私……だから?」
「そうです。わたくはマリアンヌさまを慰めたつもりなどございません。ただ貴方に触れたかったんです」
「どうして?」
「……なっ」
馬鹿なことを聞くなと言いたげに、クリスが顔をしかめた。
それからその表情は、呆れたというか拗ねたものに変わり、観念したように小さく息を吐く。
ここで、さわりと風が吹いた。
マリアンヌは靡く髪を片手で押さえる。でも、クリスは漆黒の髪を風に遊ばせたまま、下を向いた。
「......ったく、わざわざ言葉にして聞きたがるのは、わざとか?それともそんなに意外だったってことか?……まぁ、いいか。別に」
風に乗って、クリスのものとは思えない呟きが聞こえてくる。
でも、これは自分に向けての言葉ではなく、ただの……いや、クリスが決心する為のものだとマリアンヌはわかった。
胸が、高鳴る。
「聞いてください、マリアンヌさま」
「……はい」
掠れた声で返事をしたマリアンヌの手をクリスは取った。
そっと自分の手を持ち上げるように握るクリスの手は、温かかった。
その一連の動作をずっと見続けていたら、当然のように目が合った。クリスはもう不機嫌な顔をしていなかった。
期待は、確信に変わった。
「好きです。マリアンヌ様」
ああ、人は真剣に何かを伝えたいときには、こんな顔をするんだ。
伝えられた言葉を受け止めるより先にマリアンヌはそう思った。
でも、少し遅れて言葉の意味を理解すると、顔がみるみるうちに火照ってしまう。心臓が壊れてしまいそうな程、暴れまわっている。このまま止まってしまいそうだ。
自分でも情けないほどに慌ててふためくその姿は間違いなくクリスの目に映っているはずだ。なのに彼は、自分の手に口づけを落とす。
ついさっきの熱の籠ったそれではなく、伝えきれない気持ちをここに乗せるといった感じで、優しく丁寧に。
「......クリス、あ、あのね」
「さあ、戻りましょう」
マリアンヌの言葉を遮って、クリスは身体を進行方向に向ける。
そして再びハーネスをしっかり握って、歩き出してしまった。その横顔は、変わらず美しくて感情が読めない。でも、どことなく長年抱えていた胸の重石がとれて晴れ晴れとしたものだった。
───私も、あなたと同じ気持ちです。
マリアンヌは、遮られてしまった言葉の続きを心の中で呟く。
最後まで言わせてもらえなかったのは、聞きたくなかったのではなく、きっとこれもクリスの優しさなのだろう。......そう、思いたい。
「もし、ジルさんが怒っていたら、マリアンヌさまは急いで自室にお戻り下さい。わたくしが足止めします」
「いいえ、あなただけのせいじゃないわ。私も一緒に怒られます」
「それは頼もしい」
くすりとクリスが小さく笑った。
軽口を叩けることが、とても嬉しい。彼の漆黒の髪が、夕日が当たる部分だけ柔らかな黄金色に変わっているのを見て、不意に泣きたくなった。
「ねえ、クリス。この前、私あなたの香り以外は全部嫌いと言ってしまったけれどね、」
「はい」
「あなたの髪の色も結構好きになったわ」
「なら、この髪は迂闊に切ることができませんね」
「ええ、そうしてちょうだい」
「......ははっ、それはちょっと困りますね。長すぎるのは邪魔になります」
「伸ばしたのを見たいわ。邪魔になるのなら、私のリボンを差し上げるわ」
「それは勘弁ください。ウィレイム様に叱られてしまいます」
口ではそう言いながらも、クリスはまったく困った顔をしていなかった。
それから会話が途切れ、沈黙が落ちた。息苦しさを覚えない、心地よい沈黙が。
伸びる影法師をクリスは踏んで歩く。馬はゆっくりと蹄の音を鳴らす。
夏の陽は長く、太陽はゆっくりと西の空に落ちていく。
でも、マリアンヌの鼓動だけは、早鐘を打っていた。




