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「クリス、待ってっ」
これまでのような甘い響きではなく、怯えを含んだ口調でそう叫んだマリアンヌは、クリスの肩を掴んだ。
けれども、クリスの耳には届かない。
彼の手は脇腹を撫でながら、胸のふくらみへと移動しようとしていた。
「駄目っ、やめてっ」
麻薬のようなクリスの言葉に流されてしまっていたけれど、これ以上は駄目だ。
なのに渾身の力でもがいても、クリスはびくともしない。まったく重みを感じさせないのに、どうして?
マリアンヌは混乱を極めた。
確かに触れることを許可したのは他でもない自分自身だ。でもまだ自分は、レイドリックの婚約者なのだ。
これ以上先に進んでは取り返しのつかないことになってしまう。
自分だけではない。クリスにだって迷惑がかかってしまう。
そう思った途端、マリアンヌは、ありったけの力で強く強くクリスの下でもがいた。そしてとうとう、手を伸ばして彼を押しのけようとする。
でもクリスは、その手にすら口付けをしようと唇を寄せる。
駄目、本当に駄目。そんなことをされたら、なけなしの理性が溶けてしまう。
だからマリアンヌは抱えている気持ちとは裏腹に、手を振り払った。でもそれは勢いが強すぎた。
───パシンッ
「……あ」
気付いたときには、もう遅かった。
マリアンヌはクリスの頬を叩いてしまっていた。
「ご、ごめんなさい。……あ、あの……」
そんなつもりじゃなかった。
クリスを傷付けるつもりなんて、これっぽっちもなかった。
そう伝えたいのに、初めて人を叩いてしまった衝撃は、自分が思っていたより激しく、唇が震えて何も言えなくなってしまう。
クリスを叩いてしまった手も震えていた。手のひらがじんじんする。
叩いていないほうの手をクリスの頬に伸ばす。
彼は嫌がる素振りはしなかったけれど、もう微笑んではくれなかった。その頬は腫れてはいないが、赤くなっている。
「……っ」
自分の手のひらより強い痛みをクリスに与えてしまったかと思うと申し訳なさで、胸が締め付けられるように傷んだ。
じわりと目頭が熱くなったと同時に視界が歪む。クリスの顔がよく見れない。
「申し訳ありませんでした」
クリスが身体を離して、苦しげにそう言った。
「ち、違うの、そうじゃなくて。あ……あのね聞いて……っ」
しどろもどろになりながら、弁解しようとしたマリアンヌの腕をクリスは掴んだ。次いで壊れ物を扱う慎重さで、マリアンヌを起き上がらせる。
そして立ち上がると2歩後退して、その場に跪いた。
「いえ、約束を破ったのはわたくしです。どうかお許し下さい」
うなじが見えるほど深く頭を下げたクリスに、マリアンヌは掛ける言葉が見つからなかった。沢山あり過ぎて、何をどう伝えて良いのかわからなくて。
そんな気持ちも、言葉にしなければ伝わらない。
そしてマリアンヌの無言をクリスは、どう受け止めたのかはわからない。
ただクリスは顔を上げると、うっすらと微笑んで口を開いた。
「私は後ろを向いています。どうか身なりを整えて下さい」
そう言ってクリスはピクニッククロスに投げ出されたままの上着を手にすると、それに袖を通しながらマリアンヌに背を向けた。
陽はいつの間にか西に傾き、木々の影を長く伸ばしている。夕日が小川に反射して、そよそよと流れる水面は黄金色だった。
けれどマリアンヌは、そんな幻想的な光景など目に入らない。とにかく焦っている。背中のボタンが、なかなかはまらなくて。
出かける前は自分で着たのだから、できないわけが無い。でも、指先が震えて、何度やっても上手くいかないのだ。
なぜなら胸のふくらみの少し上にある部分に、紅い印を見つけてしまったから。
それは染みというよりは、花びらのようで。
ついさっき過ごした甘く濃密な時間が確かにあったことを示していた。
そして一人思い出してしまったマリアンヌが、動揺してしまうのは致し方ないこと。また焦れば焦るほど指が言うことを聞いてくれないのも、もたもたしてしまう原因で。
「そろそろよろしいでしょうか?」
辛抱強くマリアンヌから声をかけられるのを待っていたクリスだが、さすがに待ちきれなかったのだろう。背を向けたまま、マリアンヌに伺いを立てる。
「あ、まだ……いえ、すぐです。あ、あと少し……」
取り乱す声に異変を感じたクリスは、無言で振り返った。途端に、呆れたように眉間に皺を刻む。
「失礼します」
目にも止まらぬ速さでマリアンヌの背後に回ったクリスは、一言断りを入れると、慣れた手付きでボタンをはめていく。
夏とはいえ、アンダードレスは着ている。だから、直接クリスの指が素肌に触れることはない。
でも、まるで楽器を奏でるかのようにリズミカルに動く彼の指の動きはちゃんと伝わってくる。
肌がほてる。きっと僅かに見えている背や、片側に流した髪の隙間から見えるうなじは紅く染まっているだろう。
「はい。終わりましたよ」
感情を殺したクリスの声が聞こえて、俯いてしまっていた顔をあげる。
その拍子に、首筋にクリスの指が触れた。けれどもう、クリスの手はひんやりとしていた。
それが無性に寂しかった。
「……ジルは心配しているかしら」
「そうかもしれません。ですが、お叱りを受けるのはわたくしですから。ご安心下さい」
馬上でマリアンヌがポツリと呟けば、蹄の音に紛れてそんな言葉が返ってきた。
マリアンヌは、そっと視線を下に向ける。
ハーネスを手にして歩くクリスの横顔は、夕陽に照らされてとても綺麗だったけれど、整いすぎているせいで何を考えているのかわからなかった。
小川から別荘までは意外と近い距離にあった。
行きがけはクリスがわざわざ遠回りをしてくれたのだろうと、今更ながらその気遣いに気付く。
でも帰路は、まっすぐ別荘へと向かっている。しかもクリスはハーネスを手にして、歩いている。
彼の表情は決して不機嫌ではない。でも自分からマリアンヌに声を掛けることはしない。ただ黙々と歩いている。
彼の足取りが急ぎ足になっていないのが、せめてもの救いだった。
でもどんなにゆっくり歩いても、別荘はもうすぐそこだった。クリスはきっと戻ったら、すぐにここを離れてしまうだろう。
嫌、帰らないで。まだここに居て。と、言えないマリアンヌは、引き留める代わりの言葉を急いで探す。
「……ねえ、クリス」
「はい、なんでしょう」
「ありがとう」
「いえ」
哀しい程そっけない返事に、マリアンヌは唇を噛んだ。
嫌われてしまったのだろうか。……いや、きっと嫌われてしまったのだ。無理もない。あんなことをしてしまったのだから。
これまでずっと自分はクリスを苦手だと思っていた。正直、そう思う気持ちはまだ少し残っている。
でも、苦手と思う理由はなんとなくわかった。
彼が自分より遥かに大人で、なんだか違う生き物に見えてしまっていたからだ。
話しかけても、自分の言葉は届かないと思って、距離を置いてしまっていた。
つまらないことを言って、あの綺麗な顔で馬鹿にされてしまったら、子供とはいえ矜持を傷付けられることを知っていたから。
なのに、クリスは自分が思っていた人とは違っていた。
自分の言葉はちゃんと彼に届いてくれた。そしてどんな言葉でも、彼はきちんと受け止めてくれた。
そして今日も、落ち込んでいる自分に……。
「クリス、今日は私のことを慰めてくれて、ありがとう」
心から感謝の気持ちを述べてみたけれど、きっとこれもそっけない返事で流されると思った。
けれどクリスはここでピタリと足を止めた。




