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マリアンヌとレイドリックは婚約した。
きっと社交界に席を置く人々は、それだけの事実を聞いたのなら、レイドリックのことを逆玉の輿と揶揄するだろう。
でも、身分差はあるけれど、二人は幼馴染。だから、幼少の頃から密かに結婚の約束を交わしていたのだ。そして、それが叶った。
なんて素敵な恋物語。
どうか二人に幸多い未来をと、やっかみや嫉妬を混ぜながらも、そう口にするだろう。
でも、実際のところ、レイドリックは「結婚してください」とちゃんと言葉にしてマリアンヌにプロポーズをしてはいない。
それに、求婚をすると心に決めて家長であるマリアンヌの兄と対峙したのなら、ある程度、マリアンヌに対して想いがあってしかるべきだった。
でも、マリアンヌとレイドリックの関係は、なにも変わっていない。
他の人に見られたら赤面してしまうような愛を綴る手紙も、情熱的な気持ちを表す花束も贈ってくることはない。
もちろんマリアンヌが手紙を書けば、返事は届く。
但し、その内容は、誰に見せても困ることは書かれていない。いや、むしろそっけないと思われるもの。
でも、マリアンヌは気にすることはなかった。
なぜなら、レイドリックとは【親友】でいた期間のほうが遥かに長いから。
友情は、愛とか恋とかそんな生々しいものではない。自分達は、次元を越えた関係を築いてきたのだから、それを急に変えることなんて不可能なのだと、何度も考えて、そういう結論に達した。
だからマリアンヌは自分に言い聞かせた。
あの時は、ちょっと自分が浮かれていだけ。
雰囲気に流されて、特別を求め過ぎていただけ、と。
そして、そんな自分を心から恥じた。
大人になりきれていない16歳の少女は、まだ恋を知らなかった。それ故に、結婚に対してあまりに無知だった。
***
マリアンヌは自室の鏡台に腰掛けて、身なりを整えていた。
今日は待ちに待った、親友二人とのお茶会なのだ。
「晴れてよかった」
「そうですね、マリー様。席の準備もすでに整っております。なにか他に追加の菓子や軽食が必要でしたら、なんなりとおっしゃってください」
「ありがとう、ジル。でも、あなたのお茶があれば完璧よ」
「まぁ、光栄でございますわ」
自分の髪にブラシを当ててくれているジルと鏡越しに目が合い、マリアンヌは微笑むことで返事とする。
それから窓に目を向け、更に口許をほころばせる。昨日までの雨が嘘のように、雲一つない青空だった。
レイドリックからの婚約を受けて見送りをした後すぐに、どしゃ降りの雨になった。
しかもそれは数日間続き、王都が大きな水溜まりになってしまうのではないかと心配するほどの降水量だった。
けれど王宮で働く兄のウィレイムは、雨ごときで休むわけには行かない。マリアンヌは毎日心配で、見送りと出迎えを欠かさず、また、御者に対してまで、どうか気を付けてと何度も頭を下げてしまった。
お屋敷の大切なお嬢様に頭を下げられた御者は、恐縮のあまり膝に頭が付くほど深く腰を折り、それを見ていたフットマンやメイドたちは、慌ててマリアンヌを止めた。
なんていうちょっとした騒ぎがあったけれど、御者は事故を起こすことなく、ウィレイムは今日も元気に王宮に勤めに出ている。
でも、兄を心配しながらも、マリアンヌはこんなふうに思ってしまっていた。
───良かった。レイドリックの言う通りになって、と。
なぜかわからないけれど、ほっとしていた。でも、その理由を深くは考えることはしない。
......したくなかった。レイドリックがすぐに帰りたくて嘘を吐いたと疑った自分を認めたくなかったから。
「10日も会えないなんて、随分久しぶりだわ」
マリアンヌはざらりとした気持ちを隠すように呟いた。
その独り言に答えてくれたのは、今度はジルではなくて、愛猫のノノだった。
ノノはとても気まぐれで、機嫌が悪いときはご主人様とて触れることを許してはくれない。けれど、甘えたいときは、ご主人様の予定などお構いなしに膝に乗る。
マリアンヌはノノの背を優しく撫でながら、鏡台に写る自分を見つめる。
今日は、レイドリックから求婚された時に着ていたドレスを選んだ。もう一人の親友エリーゼに見てもらおうと思って。
そして、あの日レイドリックはこのドレスに気づいてくれなかった話をしようと決めている。
レイドリックとエリーゼとは、長い付き合いなのだ。時には上手くいかないときだってあるし、些細なことでギクシャクしてしまうことだってあった。
でも、一緒にお茶を飲んで、お菓子を食べて、他愛もないことを喋って笑えばいつしか仲直りしている。
だから......この、ざらつく気持ちは、すぐに消えてくれるはず。
マリアンヌは確信を持っていた。疑うことすら頭になかった。ただただ2人の到着が待ち遠しかった。
「さあ、できましたよ、マリー様」
ドレスに合わせたシフォンのリボンを髪に編み込んだジルは、自信満々にブラシを鏡台に置いた。
「ありがとう、ジル。とっても素敵」
女性は髪型一つで気持ちが変わるもの。
鏡に映るマリアンヌは、ついさっきまで浮かべていたぎこちない笑みは消えていた。
「ノノ、ごめんね。ちょっとだけ降りてちょうだい」
不満げにニャーと鳴く愛猫を床に下ろすと、マリアンヌは立ち上がり、窓辺に足を向ける。
見下ろした庭は、久方ぶりの日の光を浴びて、芝生が眩しいくらいに輝いていた。
目がチカチカして、マリアンヌは目を閉じる。と、同時に来客を知らせに来たメイドが、部屋の扉をノックした。