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どれだけ羽目を外しても、どれだけ楽しい時間を過ごしても、それで全てがなかったことにはできない。
アンジェラから聞いた話は、マリアンヌの心の中で硬い結晶となって残っている。
そして、体の一部をもぎ取られてしまったような痛みは確かにあり、じくじくと熱を持ったまま、夢の中にいるマリアンヌの心を浸食していった。
同じ馬車に乗り込もうとしているレイドリックとエリーゼが見える。
腕を組みながら宝石店から出て来るレイドリックとエリーゼが見える。
楽団の演奏に合わせてダンスを踊るレイドリックとエリーゼが見える。
二人はとても幸せそうだった。互いの事しか目に入っていないようだった。
『そっかぁ……そうなんだね。幸せになってね、二人とも』
夢の中にいるマリアンヌは、笑顔を浮かべて祝福の言葉を述べた。
レイドリックとエリーゼが、その声に気付いて振り返った。こっちにおいでと言うように笑みを返してくれた。
マリアンヌは嬉しくなって、二人の元に近づく。
けれど、あと少しで二人と並ぶ位置に歩を進めた途端、レイドリックから突き飛ばされてしまった。
よろめいたマリアンヌは、そのまま尻もちをつく。夢の中だから衝撃も痛みも無い。でも、心の痛みだけはやけに鮮明だった。
立ち上がることができないでいるマリアンヌをレイドリックとエリーゼは、手を貸すどころか嘲笑っている。
そして見下ろしたまま、二人は口を開いた。
『まったく、────よ』
『あーあ、────だな』
胸の内側を刃物でえぐり取られるような言葉が、レイドリックとエリーゼの口から紡がれる。
マリアンヌは咄嗟に両手で耳を覆った。
けれど、ここは夢の中。残酷な言葉は、何をしてもマリアンヌの元に届いてしまう。
─── これが気付かないフリをしていた、真実なんだ。
これまで目を逸らしてきたそれを認めた途端、自分の心が死んでいくのがわかった。
レイドリックとエリーゼは、まだマリアンヌに向けて何かを言っている。でも、もうそれはだたの無機質な”音”にしか聞こえなかった。
ずるりと黒い靄がマリアンヌを包む。それはマリアンヌの手や足、そして胴や首に絡みつく。
マリアンヌは、それを振り払うことはしない。身を縮めて丸くなるだけ。
意思を持った黒い霧は、仄暗い底へとマリアンヌを引き寄せる。なす術もなく、それに身を委ねようとした。その時、
「マリー、泣かないで」
聞き覚えのある、でも少し違和感を覚えてしまう男の声が聞こえ、マリアンヌは導かれるように目を開けた。
「───……ああ、申し訳ありません。起こしてしまいましたか」
馴染みのある声が頭上から聞こえて、マリアンヌはぼんやりしたまま顔を上げる。アイスブルーの瞳と目が合った。
「……っ?!」
やけに変な位置からクリスの顔が見えるなと思ったけれど、2拍置いて気付いた。
あろうことか、自分は彼の膝に頭を預けて寝入ってしまっていたのだ。
「も、申し訳ありませんっ」
マリアンヌは慌てて、肘を突いて半身を起こそうとする。けれどクリスの手でそれを阻まれてしまった。
「良いんです。まだ、このままで」
そっと肩を抱かれ、再び彼の膝に頭が乗る。そして、言葉通り大きな手がマリアンヌの頭を優しく押さえつけた。
「あまり眠れていないようですね。もう少しお眠りください」
そんな言葉と共に、身体の上でかさりと布が動く音がする。ムスクの香りがして、それがクリスの上着だと気付く。
彼は自分のそれを掛布代わりにしてくれているのだ。
「……ありがとうございます」
小さな声でお礼を言ったら「どうも」とクリスも小さな声で言う。きっとマリアンヌの眠りを妨げないようにしてくれているのだろう。
クリスは優しい。見た目は冷徹そうに見えるけれど、本当はとても優しい人。
そんなことを改めて思ったら、そうだと肯定するように、クリスの手がマリアンヌの髪を優しく梳く。
すごい偶然だ。でも、この偶然にマリアンヌは、甘えてしまうことにした。
「……ねえクリス、あなたの言う通りになってしまいそうだわ」
「でしょうね」
今度のクリスの声はしっかりと意思のあるものだった。
もうマリアンヌが眠らないことに気付いたのだろう。彼が小さく息を吐いたのがわかった。せっかく膝枕をしているのになぜ寝ないのかとでも、言いたかったのか。
そんなことを取り留めも無く考えていたら、クリスが再び口を開いた。
「望んだ相手と結婚する直前の女性は、人生で一番綺麗になるというのに、あなたは変わらない。それどころか、どんどんやつれていってしまう。……見ていられませんよ」
「心配してくれていたの?」
「それを言葉で聞くのは、少し意地が悪いのでは?」
「ふふっ。そうね、ごめんなさい。でも、あなたは……」
「なんですか?マリアンヌ様。変なところで止めるのはやめてください。気になって仕方がないです」
「そうね。ごめんなさい。あのね」
「はい」
「あなた、何を考えているのかわからないから」
「……さようですか」
苦虫を噛み潰したようなクリスの声音に、マリアンヌは今彼がどんな顔をしているのか想像する。
彫刻のように整った顔が、悔し気に歪んでいるのか、それとも拗ねているのか。声だけ聴けば後者だ。そして、そんな顔をしているクリスを想像したら可笑しかった。
「……ふふっ」
「笑わないでください」
「ふふっ、ごめんなさい。でも……ふふっ」
笑いを止めようとすればするほど、可笑しくなる。
クリスの上着を鼻先まで引っ張り上げて口元を隠しても、これだけ彼に密着していれば、小刻みに震える肩は隠しようがない。
「……やめなさい」
主語の無いその言葉は、笑いを止めろと言っているわけではないと、マリアンヌはなぜかすぐに気付く。
「あの男との婚約なんて解消してしまいなさい」
こんどはきっぱりとクリスは言った。
マリアンヌは同意しなかった。でも反論もせず、無言のままでいる。
「今なら間に合います。婚約破棄をしてしまいなさい。ウィレイム様も叱りはしません。もしお怒りになるなら、わたくしが盾になりましょう。マリアンヌ様、あの二人を友として大事にしたいのは、ちゃんとわかっています。でもですね、友情とは無理矢理繋ぎ止めるものじゃないんです。たとえ遠く離れても、住む環境が変われど、それでも変わらないのが友情というものなんです」
子供に噛んで含めるような言い方をするクリスの声音は、慈愛に満ちたものだった。
いつぞやのロゼット邸の玄関ホールで同じようなことを言われた時、ものすごく腹が立って反発してしまったけれど、今は何の抵抗も無く胸に納めることができる。
「そうね。あなたの言う通りだわ……でも」
マリアンヌはくぐもった声で「でも」ともう一度言った。
「でもね、無くしたくないの」
「あの二人は、友という絆で結ばれてはいないのに?」
「ええ。でも無くしたくないの。……私、どうしたら良いのかしら?」
現実を知ったとしても、それでもレイドリックとエリーゼはマリアンヌにとってかけがえのない存在だった。
だからこそ、これからどうして良いのかわからない。
こんなことをクリスに聞いても、彼を困らすだけだとは、わかっているけれど。
でも、クリスは答えてくれた。
「簡単ですよ、マリアンヌさま」
あっさりとクリスは言った。
と同時に、彼の手が自分の頭と背に触れ、すぐに視界がぐるりと回る。寝そべっていた身体を起こされたのだ。
大事な話だから、ちゃんと聞く態勢を取らされたのだとマリアンヌは思った。
でもそれにしては、少し変だ。今の現状は向き合っているというよりは、彼の腕の中にいるという表現の方が正しい。
不思議に思ってクリスを見る。彼は今まで見たことも無い顔をしていた。そして、小さく息を呑んだ瞬間、顎を掴まれ彼の唇が動く。
「あなたも二人がしたことと同じことをすれば良いんです。そうすれば……」
─── わかりますよ。
最後の言葉はほとんど吐息で良く聞き取れなかった。でも、マリアンヌは聞き返すことができなかった。
クリスの唇が、マリアンヌの唇を塞いでいたから。




