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クリスがマリアンヌから顔を逸らしたのは僅かな間だった。
気持ちを落ち着かせるように息を吐いたクリスは、マリアンヌに向かい口を開く。
「そろそろお昼にしましょう」
ついさっきマリアンヌが言った言葉など忘れたかのような、そっけない言い方だった。
だけれど、その声は上ずっていて、一生懸命に平静を装っているのが、ありありとわかった。
ジルから預かった大きなバスケットには、何でも入っていた。
ハムとレタスとチーズのサンドイッチと、エッグサンド。それからレモンの砂糖漬けに、ドライフルーツがぎっしりと入ったカップケーキ。スコーンも数種類のジャムもある。
飲み物もベリーのジュースに、冷たいハーブティー。お酒は残念ながら入っていなかったけれど、ハチミツは小瓶に詰められていた。それからマスカットとさくらんぼ。
もちろん取り分けられる小皿も、スプーンなどの食器も抜かりなく入っている。
それらをクリスは水色のギンガムチェックのピクニッククロスに並べた。次いでマリアンヌもそこに座らせる。
ちなみに岩からの移動手段は、クリスに片腕で抱き上げられて。なぜ片腕かというと、彼の反対の手は小さな靴を持っていたから。
「さぁ、いただきましょう」
「……はい」
クリスからにこやかに差し出されたサンドウィッチを受け取り、マリアンヌは小さな口で齧る。
シャクっとしたレタスの触感と、ハムとチーズの濃い味が絶妙だった。
昨晩から何も食していないマリアンヌは、始めの一口こそ戸惑っていたけれど、二口目には黙々と頬張っている。
もちろんクリスも同じサンドウィッチを食べている。食べ方はびっくりするほど綺麗だった。
クリスと二人っきりで食事をしたのは、記憶の限りこれが初めてだ。
しかもピクニックのような開放感があるこの状況で、何を喋って良いのかわからない。でも沈黙が続くのは居心地が悪い。
そのことにクリスが気付いてくれたのか、他愛もない話題を振ってくれて、マリアンヌもポツリポツリと言葉を交わす。
クリスの上着は、頭上の木の枝に無造作に掛かっている。真っ白なシャツ姿のクリスは、とても新鮮だった。
それから勧められるまま、エッグサンドも食べて、果物も少し戴く。でも、もともと小食のマリアンヌは、これで十分満足だった。
クリスもそれ以上無理を言うことも無く、空いた食器をバスケットに片付ける。
ただ彼は曲がりなりにも、兄の護衛騎士。ロゼット家の使用人ではない。このような雑用を押し付けるわけにはいかない。なので、マリアンヌも手伝おうをした。
けれどクリスは、持ち前の目力でマリアンヌに皿の一つも触らせることはなかった。
あっという間に片づけを終えたクリスは、ちょっと馬の様子を見てきますと言って、この場を離れた。
と言っても、見えない場所に移動したわけではない。馬は少し離れた場所の大きな木に繋がれ、大人しく名も知らぬ葉っぱを美味しそうに食んでいる。
ただクリスが傍に近づくと、目を細めて鼻をすり寄せた。
信頼を深めるように、馬の頭や首を優しく叩くクリスの姿をぼんやりと見ていたら、マリアンヌは、ふぁっと小さく欠伸を漏らしてしまった。
無理もない。昨日はほとんど眠ることができなかったのだ。
そして、水遊びをしてはしゃいでしまったせいで、身体は思ったより疲れている。
マリアンヌは、再び欠伸をする。さっきよりも大きく。
口元に手を当ててしたとはいえ、大っぴらにそんなことをするのは無作法にも程がある。
慌ててクリスの方を見る。幸いにも彼は馬とじゃれ合うのに忙しそうで、気付いてはいなかった。
ほっと胸をなでおろすと同時に、瞼がとろりと落ちる。
目を閉じると、枝葉のこすれ合う音と小鳥のさえずりが美しい音楽を奏でている。水辺のそよ風が涼しくて、気持ちが良い。
羽目を外すのは、行儀の悪いことをすること。でも、心を豊かにさせてくれる。ここに来て、良かった。
─── ありがとうございます。
少し離れた場所にいる騎士にマリアンヌは、心の中で感謝の言葉を送った。
そしてそのまま、心地よい眠りにと落ちていった。
「無防備すぎじゃないですかね」
拗ねた口調でクリスは言った。
すやすやと無邪気な寝息を立てるマリアンヌを、すぐ傍で見下ろしながら。
手には上着を持っている。先ほど濡れてしまったけれど、この陽気のおかげですっかり乾いてくれたようだ。
クリスは跪くと、それをそっとマリアンヌに掛けた。
「あなたは何もわかっていないようですね」
慈愛のこもった眼差しの中に、飢えた獣のような危険な色がある。
節ばった大きな手がマリアンヌの頬を撫でる。そのまま顎に手をかけ、親指の腹でマリアンヌの唇をそっと刷いた。すぐに「んっ」と、桜色の唇が震える。
クリスの目が猫のように細くなる。そしてマリアンヌの耳元に唇を寄せ、こんな言葉を落とした。
「羽目を外すのは、なにも貴方だけではないんですよ」と。




