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嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ。絶対に嘘だ。
マリアンヌは別荘の自室でベッドにうつ伏せになりながら、そう心の中で叫んだ。
枕をぎゅっと顔に押し付ける。そうしないと、なんだかわからない声が漏れてしまいそうな気がして。
外は変わらず良い天気だ。木々の梢の葉が青々と茂り、夏の日差しを心地良さそうに受け止めている。
時折風が吹き、開け放たれた窓から、朝の森の独特の香りが部屋を満たす。
けれど、マリアンヌは顔をあげることはしない。ずっとずっとベッドにうつ伏せになったまま動かない。食事も手付かずのまま。
アンジェラは昨日帰った。
森の中とはいえ、ここは王都の一部。日帰りで行き来ができる距離にあるから、泊まることはせず、日が落ちる前に別荘を後にした。
マリアンヌは馬車までアンジェラを見送った。気を付けてと気遣う言葉と、訪ねてきてくれたお礼もちゃんと言った。
でも、そこから部屋に閉じ籠ったまま。
ジルが心配して何度も扉越しに声をかけてくれたけれど、「お願いだから一人にして」と言って、ずっと部屋に閉じ籠っている。
ジルに対してそんな態度を取ったのは初めてだ。
きっとジルはわけもわからないまま拒絶されて傷ついているだろう。
だから、「あなたのせいじゃない。気にしないで」と気遣う言葉をかけなければならない。笑って「なんでもないの」と言わなければならない。
でも、それがとてつもなく苦痛だった。
とにかく一人でいたかった。自分の殻に閉じ籠りたかった。何も考えたくはなかった。
なのに、頭の中ではアンジェラが語ったことが、ぐるぐると回る。
思い出したくなくて、一生懸命に別のことを考えようとしても、なぜだかわからないけれど、最終的にアンジェラが語ったことに辿りついてしまうのだ。
当たり前だ。だって、アンジェラが語ったことは、レイドリックとエリーゼのことなのだから。
─── アンジェラが耳にした噂話とはこうだった。
レイドリックとエリーゼは恋仲であるということ。
二人は1年くらい前から堂々と、街で逢い引きをしていたそうだ。
マリアンヌと婚約をしても、レイドリックはエリーゼと共に、街で買い物をして、公園で語り合い、そしてひっそりと人気のないところで口付けをしていたそうだ。
......いや、違う。していたのではなく、しているのだ。現在進行形で。
マリアンヌとレイドリックが婚約したことは公表してはいない。大々的に夜会を開いてもいない。でも、知っている人は知っている。
もちろんレイドリックもエリーゼだってそのことは知っているはずだ。
なのに、レイドリックは堂々とエリーゼと逢っている。恋人なのかと聞かれても否定はしない。そしてマリアンヌとの婚約も否定しないそうだ。
つまり下衆な言い方をすれば、二股をかけられているのだ。
レイドリックとエリーゼが想い合っていることは薄々気付いていた。あれだけのものを見せられたのだから。
大好きな二人が恋人になったのなら、親友の自分は祝福すべきだと思っている。幸せになって欲しいとも。
でも、素直にそんな気持ちになれないのが現状だ。
なぜなら噂が本当なら、二人が恋人同士になったのは1年以上前から。
言い換えると、3人でずっと一緒にいるための計画を練っていた時は既にそういう仲だったのだ。
なのに、エリーゼは自分にレイドリックとの結婚を強く勧めた。
そしてレイドリックも、自分と婚約したことを受け入れている。
とても矛盾がある。
マリアンヌは、レイドリックと婚約した時、とても嬉しかった。
でも、どうしても彼じゃないと嫌だという、強い恋慕の情は無かった。そこにあったのは絆を守ろうとする強い友情だけ。
変わらない日常を手に入れることができた安堵の方が強かった。
あの時、レイドリックはどんな気持ちで自分を見ていたのだろう。浮かれ上がっていた自分を客観的に思い出すことはできても、彼の表情は思い出せない。
ただその後、レイドリックの態度が変わったことは間違いない。マリッジブルーという都合のよい言葉にすり替えられただけ。
レイドリックは本当は、マリアンヌと婚約なんかしたくなかったのだ。
でも……でも……。
マリアンヌはそこでまた思考が止まる。
どうして望まない相手と婚約なんかしたんだろう、と。
エリーゼがそうしろと言ったから?
それとも、他に何か自分に言えない理由があるから?
自分と結婚することで、何か利点があるから?
そこまで考えて、マリアンヌはベッドからガバリと身を起こした。次いで、両手を顔で覆った。
「……ふ、あはっ、あははっ」
指の隙間から、笑い声というには、おぞましい声が漏れる。
マリアンヌは、わかってしまったのだ。レイドリックがどうして婚約をしたかを。エリーゼがどうして強く勧めたのかを。
マリアンヌは、フラフラとベッドから降りて、窓に近づく。身を乗り出して下を覗けば、なぜか花壇の向日葵が、降りておいでと呼んでいるような気がする。
─── このまま飛び降りてしまおうか。
そんな縁起でもないことを衝動的に思った瞬間、見慣れない一台の馬車が、別荘の敷地内に入ろうとしているのが視界に入る。
「……っ」
マリアンヌは、弾かれたように身を起こした。次いで、廊下に飛び出した。
メイド達がぎょっとした顔をしているのが、流れる景色の中で見えるけれど気にしない。部屋履きのまま、玄関ホールを飛び出し、馬車の前に立つ。
荒い息を整えていれば、ガチャリと馬車の扉が開いた。
マリアンヌは、期待に胸を膨らませた。扉から現れるのはレイドリックとエリーゼだと信じていた。
そして怒ってもらおうと思っていた。つまらない噂を信じてしまった自分を。
でも馬車から現れたのは、レイドリックとエリーゼではなかった。ウィレイムでも、昨日会ったアンジェラでもなかった。
大きな籠を抱えたクリスだった。