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「王都なのに、ここはとっても静かね。緑がとっても綺麗。素敵な別荘だわ」
「はい。ありがとうございます」
「それに、見て。あそこ、小川が流れているわ。もう行ってみたかしら?」
「残念ながら、まだなのです」
「そう。......元気がないわね。大丈夫?ふふっ、もしかしてお兄様が恋しくなったかしら?」
「いいえ、まったく」
最後の質問だけきっぱりと答えた途端、目の前にいる貴族令嬢───アンジェラは堪えきれないといった感じで、小さく吹き出した。
ここは王都の外れにある、ロゼット家の別荘。
マリアンヌはエリーゼから気分転換を勧められてすぐ、ジルを伴いここに来た。
正直、別荘に行きたいと言っても、兄に却下されると思っていた。なのに、ウィレイムは拍子抜けするほどあっさり許可を出してくれて、たった3日で手はずを整え、マリアンヌを送り出してくれた。
毎日手紙を書くという約束付きではあったけれど。
とても意外だった。
街に出たいと言ってもなかなか頷いてくれない兄のこと、気分転換をしたいという曖昧な理由で頷いてくれるとは、思いもよらなかった。
マリッジブルーという単語を出さなかったのが幸いしたのか、今年の夏がことのほか暑いからなのか判断しかねるが。
......ただ、仕事が多忙で、自分がここに足を向けることができないからといって、公爵令嬢を視察によこすのはどうかと思う。手紙は言われた通り、毎日書いているというのに。
「兄がご無理を言ったみたいで......本当に申し訳ありません」
一言も責めず、にこやかに接してくれるアンジェラに、良心の呵責を覚えたマリアンヌは深く頭を下げた。
森の中にあるロゼット家の別荘は、かなりの大きさがある。その屋敷の2階のテラスは心地よい風が吹き抜ける。
今、マリアンヌとアンジェラはそこにあるテーブルに着席してお茶を飲んでいる。
視線を下に落とした途端、真っ白なテーブルクロスが風にあおられ、ふわりと浮くのが見えた。と同時に、アンジェラの柔らかい笑い声も聞こえる。
「良いのよ。優しくて、素敵なお兄様ね。わたくしには兄がおりませんので、羨ましいですわ」
「差し上げられるものでしたら、差し上げたいです」
盲目的に過保護で、他人に迷惑を掛け続ける兄に対して寛大な言葉を述べてくれても嬉しくはない。
若干、拗ね気味にマリアンヌはそう言えば、アンジェラはまんざらでも無さそうに笑った。
でも、アンジェラはその表情を変え、マリアンヌの手にそっと自身の手を重ねる。
「マリアンヌさん、そんなに気を遣わないで。実はね、ここに来たのはウィレイムさんから頼まれたわけじゃないのよ。わたくしがここに行きたいってお願いしたの」
「まぁ」
意外な展開に、驚いて短く声をあげるマリアンヌに、アンジェラはなぜかわからないけれど、しゅんと肩を落とした。
「ごめんなさい。わたくしあなたをダシに使ってしまったの。だって、毎日暑いのに、家庭教師はしかめっ面で難しいお話ばかり。ダンスのレッスンも未だにあるんですのよ。もううんざりしちゃって。だから、ここに逃げてきたの」
「そ、そうなんですか?」
どもりながらマリアンヌがそう問えば、アンジェラは大きく頷いた。
そして重ねていた手に力がこもる。
「だから、謝ったりしないで。それよりお礼を言わせてちょうだい」
「そんな、めっそうもございませんっ」
マリアンヌが慌てて首を横に振れば、アンジェラはちょっと困ったように笑う。でも、すぐに何かひらめいたようだ。
その表情は、いたずらを思い付いた子供のそれ。
「なら、おあいこね。わたくしもお礼を言いませんわ。その代わり、あなたももう謝ったりしないでくださいな。あと、これは二人だけの秘密ね」
空いている方の人指し指をぴんと立ててそれを唇に当てるアンジェラの仕草は、今年で19歳となるのに、とても可憐で可愛らしかった。
「もちろんです」
つられて笑みを浮かべるマリアンヌだけれど、はっと気づく。
アンジェラがわざわざ秘密を語ってくれて、ぎこちない空気を取り払ってくれたのに、それを甘受するだけなのは不公平ではないのかと。
だからマリアンヌは兄にも伝えていない秘密を口にした。
「そう言ってもらえて肩の荷がおりました。あの......実は私、マリッジブルーみたいなんです」
「え?」
今度はアンジェラが驚く番だった。
「私、ぜんぜん自分では気づいていなかったみたいで、先日親友に......えっと、舞踏会で紹介させてもらったエリーゼに教えてもらったんです。だから、本当は式の準備とか色々しないといけないのに、全部投げ出して、ここに遊びに来てしまったんです。でも、兄にはマリッジブルーだとは伝えてないんです。ただの気分転換だと。だから、内緒にしておいてください」
一気に言い切ったマリアンヌは、ペコリと頭を下げた。
きっとこの後アンジェラから「じゃあ、これもおあいこね」と言って貰えるはずと思いながら。───でも、返ってきた言葉は違った。
「......そう。あなた結婚するのだったわね」
祝福の欠片も伝わらない言葉に、マリアンヌは強張る。
なにか失礼なことを言ってしまったのであろうかと不安になる。
アンジェラは今年19歳の限りなく黒に近い藍色の髪と、すみれ色の瞳を持つ美しい公爵令嬢だ。噂では第二王子の婚約者候補だとも聞く。しかもその噂は、かなり信憑性があるもの。
マリアンヌも候補に入っていると耳にしたことはあるけれど、それは家柄で無理矢理候補にあげられただけだと思っている。
でも、アンジェラは違う。
父親はこの国でもっとも偉い官職である宰相閣下の一人娘。過去、アンジェラ家は、王族に娘を嫁がせた経歴だってある。
貴族の血を引く限り、婚姻は自分の意思で決められるわけではない。家の繁栄のために駒として使われることなどざらにある。
もしアンジェラも、その駒にされなければいけない一人であるなら、自分はとても失礼なことを言ってしまったのかもしれない。
だって、悩んでも落ち込んでも、それでも相手は幼馴染みで、自分の意思で結婚を決めたのだから。
「アンジェラさま、失礼なことを言って、申し訳ありませ───」
「ねえ、あなたの結婚相手って伯爵家のレイドリック・リッツさんで間違いないかしら?」
「は、はい」
謝罪の言葉を遮られ、唐突に尋ねられたマリアンヌは、質問の意味もわからないまま頷いてしまう。
そうすれば、アンジェラは再び沈黙してしまった。
「あのね、嫌な噂を聞いてしまったの」
「......噂......ですか」
貴族社会で噂話は当たり前に飛び交っている。自分の話題も見えないところで、いくらでもされているとは思っている。
でも、わざわざアンジェラが”嫌な噂”と言うくらいだから、きっと余程の内容なのだろう。
アンジェラの手は、未だにマリアンヌの手に重ねられている。爪の先まで磨かれたその手の温度が低くなったと感じるのは気のせいだろうか。
そんなふうによそに意識を飛ばしても、アンジェラの言葉は耳に届いてしまう。
「きっと、王都に戻ればあなたの耳にすぐに入ってしまう話だと思うの。でも、他人から聞いてほしくない。わたくしからお伝えしても良いかしら?」
最近どうも前置きをされることが多い。
マリアンヌはそんなことを頭の隅で思った。
でも、聞かなければならないとも思った。聞きたくはないという感情は強かったけれど。
「どうぞ、お聞かせください」
マリアンヌはアンジェラの手からそっと自分の手を引き抜き、お行儀良く膝の上に置いた。そして、背筋をぴんと伸ばして頭を下げた。
どんな内容でも、凛とした姿勢で聞こうと心に決めて。
そんなふうに気丈に振る舞おうとしたマリアンヌだったけれど、思うようにはいかなかった。
アンジェラが語った内容は、前置きが必要な程、辛いものだったから。




