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驚いて見上げれば、抱えていた気持ちを抑えきれないといった声と同じ表情を浮かべるクリスがいた。
マリアンヌは驚きのあまり、ステップを踏み外してしまう。身体がバランスを崩してぐらりと揺れる。けれど、腰に回された大きな手が支えてくれる。
クリスのおかげで、みっともなく転倒せずに済んだけれど、そもそも原因は彼にある。
マリアンヌは、驚かすなと言いたげに非難の目をクリスに向ける。そうすれば彼は片方の口の端を少し持ち上げた。
「私だけに集中してください。そうすれば、他の事に意識を向ける余裕はないでしょう?こんな嫌いな相手と一緒に踊っているんですから。それ以上、嫌なことはないはずです」
───ああ、この人はわざとそんな言い方をしてくれているんだ。
それに気付いた途端、マリアンヌの胸の中に正体不明な感情が湧いた。
2回ターンをして、それが何なのかわかった。
心臓をぎゅっと鷲掴みにするようなこの感情は、切なさだ。
クリスが今日の事をどこまで知っているのかはわからない。
でも、自分が落ち込んでいることに気付いてはいるのだ。そして慰める代わりに、己に負の感情が向くようにして、これ以上傷付かないようにしようとしてくれている。
マリアンヌがクリスの事を苦手と知っているから、それを逆手に取って盾になろうとしてくれている。
この人は、もしかして優しい人なのかもしれない。自分が思っているよりずっと、ずっと。
マリアンヌは今更ながら、そう思った。
ただその優しさは、不器用と言うにはあまりに自己犠牲感が強すぎて、慎ましいと言うには少しわかりやすい。
つまり、クリスらしい優しさという表現が一番しっくりくる。
けれども───だからといって、先日玄関ホールの死角で受けた屈辱は、なかったことにはできない。
「ねえクリス。私ね、」
「なんですか?」
マリアンヌは、曲に合わせてターンをしてから口を開く。
「あなたの香り以外は、全部嫌いだわ」
「………っ」
頭上でクリスが小さく息を呑んだのがわかった。
度を超えた憎まれ口を叩いてしまったせいで、彼は傷付いてしまったのだろうか。
マリアンヌは、恐る恐る見上げる。でも視線の先にいたクリスの顔は、予想に反したものだった。
子供がご褒美を与えられたかのように、くしゃりと笑っていた。
「ムスクの香りに感謝をしなければいけないな」
普段とは違う砕けた口調が、彼の独り言だということに気付く。
でも、何に対して感謝をしたいのだろう。まかり間違っても、自分とダンスをすることではあるまいし。
直球で聞いてみたい気もするが、どうせはぐらかされてしまうだろう。
そんなことを思った途端、彼のリードが少し荒くなる。
ダンスは嫌というほどレッスンを受けたから、どんな曲でも自然に体が動く。でも気を抜くと彼のステップに遅れてしまいそうになる。
マリアンヌは楽団の奏でる曲に意識を集中させる。
今日の為に新しく仕立てた萌黄色のシフォンのドレスの裾が大きく揺れる。裏地の淡い桃色がちらりと見える。
クリスが今身に付けている異国の服は濃紺のゆったりとした上着。腰には同じ色の刺繍が艶やかな帯を巻いている。それが自分のドレスと重なる。
シャンデリアの光を浴びるそれは、とても綺麗で目を奪われてしまう。
もう、レイドリックとエリーゼを探す余裕はなくなっていた。
周囲の人々の視線も気にならなくなっていた。
それから少しして、ヴァイオリンの音色が消える。ハープがポロンと最後の旋律を引き終える。そして余韻を残して曲が終わった。
ダンスホールにいる男女のペアは、同時に足を止めた。
マリアンヌとクリスもダンスの作法に則り、向き合って礼を取る。そして、
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
同時に同じ言葉を紡いでしまい、吹き出してしまう。1拍遅れて、クリスも照れくさそうな笑みを浮かべた。
本日は舞踏会。楽団は少しの間を置いて、また美しい演奏を奏で始めた。それは奇しくもマリアンヌが好きな曲だった。
「どうされます?マリアンヌさま」
「……えっと、兄を見付けたら、すぐに手を離しますが……」
「それでも、あなたと踊れるなら光栄です」
歯の浮くような台詞を吐かれ、マリアンヌは目を丸くする。
恐ろしいほど、冷静沈着な彼に似合わない言葉だった。
けれど、不快ではなかった。
「では、よろしいでしょうか?」
「ええ、いつでも」
向き合った身体を少し密着させて、マリアンヌとクリスは曲に集中する。
そして、クリスは先ほどより強くマリアンヌの腰に手を回して、ステップを踏み出した。




