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ここセレーヌディア国は階級社会だ。
平民と貴族には絶対的な壁があり、そして貴族の中にもヒエラルキーは存在している。
貴族の血が流れる者は、皆それを身体に刻み付けられている。
だから、エリーゼだってわかっているはずだ。
公爵令嬢と、侯爵令嬢の会話に男爵令嬢が割って入るなど、無礼にもほどがあるということを。
「マリー、かなり探したわ。ねえ、レイ」
エリーゼは礼儀を無視して、にこやかに笑みを浮かべながら、半歩後ろにいるレイドリックに振り返った。
緩く結い上げたワインローズの髪がふわりと揺れる。
夏の空を連想させるインクブルーのドレスもエリーゼによく似あっていたけれど、胸元を飾っているはずのブローチが無かったことが悲しかった。
「ああ、そうだよ。会場中、歩き回ったさ」
そう言うレイドリックも、にこやかに笑っている。
でも、二人の目は笑っていない。
マリアンヌはこくりと息を呑む。二人がなんでそんな顔をしているのかが、わかってしまったから。
試されているのだ。
今ここで、親友をとるか、家柄を取るのかを。
だから、わざわざアンジェラが話しかけたタイミングで、話しかけてきたのだろう。
過去、二人が一度も格上の相手が話しかけている最中、割り込むような真似をしたことがないという事実がそれを明確に伝えている。
マリアンヌは、両手をぎゅっと組み合わせた。
ウェイターが飲み物を勧めてくる声が聞こえてくる。要らないと手だけで合図を送るアンジェラのバラ色のドレスの袖口が視界の隅に入る。
ああ、そうだ。ここは舞踏会会場。たくさんの人がいるのだ。
貴族はもちろん、王族ももちろんいるし、異国の偉い人達だっている。
自分の行動が、兄に迷惑をかけるかもしれない。
だから、今は一つも間違えてはいけない。絶対に後に響く問題を起こしてはいけない。
マリアンヌは覚悟を決めると、息を整える。そして少し悩んでから、この方法を選んだ。
「ご紹介しますわ、アンジェラ様。わたくしの友人のエリーゼとレイドリックです」
微笑んでから、手のひらをレイドリックとエリーゼに向ける。視線はアンジェラに固定したままで。
アンジェラは公爵令嬢だけれど、むやみやたらに格下の相手を蔑ろにしないのは知っている。
ただ会話の途中で割り込まれたことは、不快感を感じているだろう。この後は、彼女次第だ。
背中に冷たい汗が流れる。でも、アンジェラはマリアンヌの意図を汲んでくれた。
「こんばんは。お会いするのは初めてかしら?素敵な夜ですね」
公爵令嬢らしく優雅に微笑んでくれたアンジェラは、レイドリックとエリーゼに声をかけてくれた。
ただ限りなく黒に近い藍色の髪を直すふりをしたのは、多少は苛立っているのだろう。でも、表情を変えることはしない。
そしてレイドリックとエリーゼも、公爵令嬢のことを無視できるほどの神経は持ち合わせていなかったようで、すぐに初めましてと礼を取る。
それから当たり障りのない会話が続く。
天気の話とか、季節の話とか、王族を褒め称える言葉とか。にこやかに、朗らかに。
でもマリアンヌとしては氷上を歩いているような心境だった。
いつ、どのタイミングで触れて欲しくない話題が出てくるかもしれない。
レイドリックには事前に、今日は婚約の事は伏せておいて欲しい旨の手紙は送ってある。返事はもらえなかったけれど、読んでもらってはいるはずだ。
それでもハラハラとした気持ちは、時間が経てば経つほど大きくなる。
「───それじゃあ、わたくしはこれで」
そんな中、挨拶をしたい人を見かけたのだろう。アンジェラは、視線を一度向こうに向けた後、すぐに元に戻して小さく会釈をした。
そしてふわりとバラ色のドレスを翻して、会場の奥へと消えて行った。
一先ず、危機は乗り切った。
マリアンヌは、胸を撫でおろした。でもそれは一時の安堵でしかなかった。
「ねぇ、マリー。あのことちゃんと伝えてくれた?」
3人だけになった途端、レイドリックからストレートに聞かれて、マリアンヌは言葉に詰まってしまった。
「まだ断ってないの?」
「……ごめんなさい」
「あれから何日も経ってるよね。君、何やってたの?遊んでた?」
「……ごめんなさい」
伝えたいことは沢山あるけれど、どれもが言い訳にしかならないような気がして、マリアンヌは馬鹿の一つ覚えのように同じ言葉を繰り返すことしかできない。
レイドリックがあからさまに、侮蔑の視線を向ける。露骨なため息も。
でも、ここでエリーゼが口を挟んだ。
「もう、そんなに責めたらマリーが可哀そうよ」
まさかここでエリーゼが肩を持ってくれるとは思わず、マリアンヌは嬉しさのあまり、彼女の腕に縋りついてしまう。
「ほら、マリーも泣きそうな顔をしないで。せっかくの舞踏会なんですから」
優しく腕を解きながら、マリアンヌを覗き込むエリーゼは、少し前のままだった。
けれど紅を塗られたその唇は、意地悪く歪んだ。
「あの件は、もう少し猶予をあげる。だから、今日は楽しみましょう」
「そうだな。せっかくの機会だしな。……あ、ダンスが始まったみたいだ」
「じゃあ、行きましょう。マリー後でね」
「……ええ。また後で」
仲良く腕を組んだ二人は、振り返ることなくダンスホールに向かった。
───……けれども。
演奏が終わっても、2人は組んだ腕をはなさない。
2曲目が終わっても、2人は戻ってはこなかった。
マリアンヌは壁に背を預けたまま、じっと二人がここに戻って来るのを待っている。
待てを命じられ、そのまま主に忘れられてしまった飼い犬のように。
「……マリアンヌ様お可哀想に……お一人にされて」
ざわめきの中、誰かが言った心からの同情の言葉が、マリアンヌを惨めな気持ちにさせる。
続いて誰かがくすっと笑ったのが聞こえた。とても嬉しそうだった。もっと惨めになる。
すぐにマリアンヌは、咄嗟に心の中で反論する。
違う、違うっ。
レイドリックとエリーゼは、兄と一緒に居る自分に気を利かせてくれただけなのだ。
まだ兄が戻ってきてないから、ダンスに誘うのは悪いと思ってくれただけ。兄が過保護なことは、二人ともよく知っているから。
勝手に可哀想だと決めつけないで。
惨めな気持ちになっている自分が間違っているだけなのだから。
そう心の中で叫んだ。でも、すぐにこんなことを思ってしまう。
───……なら、どうして戻ってきてくれないのだろう。二人は一緒に居てくれないのだろう。
見せつけられる現実はあまりに酷くて、そして遠巻きながらも物珍しそうに見られている視線が辛くて、マリアンヌは顔を上げることができなかった。
今、自分はひどい顔をしているのがわかっているから。
ぎゅっとドレスの裾を握る。兄には悪いがこのまま馬車に駆け戻りたい。そう強く願った瞬間、カツンと足音が響いた。
俯いた視界に、男の靴が見えた。つやつやの黒皮の靴は、銀の装飾がとても美しかった。
「───失礼、そこのお嬢様。私とダンスを踊っていただけますか?」
滑らかなビロードのような声が頭上から聞こえる。靴の主からだ。多分……いや、自分に向けてなのだろう。
「あいにく、兄と……あ」
顔を上げながら断り文句を紡ごうとしたマリアンヌだけれど、ものの見事に固まってしまった。
なぜなら、ダンスを誘ってきた相手は、異国の服を着たクリスだったから。




