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「さ、足元に気を付けて降りなさい」
「はい。お兄様」
マリアンヌはウィレイムの手を借りて馬車を降りる。
すぐに侍女のジルも下車するなり跪くと、少し乱れてしまったマリアンヌのドレスの裾を直す。それから立ち上がり、にっこりと笑った。
「マリアンヌ様、とっても綺麗です。今日は楽しんできてくださいませ」
「うん。ありがとう、ジル」
マリアンヌも微笑み返す。
でも内心、この笑みがぎこちないものではないかとハラハラしている。
でも、今日はどんなに気持ちが重くても、覇気の無い顔などしてはいけない。
ここは王城。
そして、これから向かう先はお城の中にある舞踏会の会場。
今夜は、セレーヌディア国第一王子の婚約を祝しての大舞踏会なのだ。
マリアンヌは自分が、セレーヌディアの真珠と呼ばれているのを知っている。その名に恥じるようなことはできない。兄が隣にいるなら、なおさら。
───……と自分に言い聞かせてはいるが、自信は無い。
その理由は、本日の舞踏会にはレイドリックとエリーゼも招待を受けているから。
でも、それ自体は本当のところ別に問題ではない。
むしろ、身分差があるせいで、3人揃って舞踏会に参加できる機会はとても少ないから、はしゃぐべきこと。
けれど、今回に限ってはその2人がマリアンヌの心を苛んでいる。
***
さかのぼる事10日前のこと、マリアンヌはレイドリックとエリーゼを自宅に招いて、お茶会をしていた。
3人で会うのは、レイドリックを怒らせてしまってから初めてだった。
別にマリアンヌが会うのを避けていたわけではない。会えない理由があったのだ。
それは、レイドリックに言われた結婚式の招待客のリストアップが、なかなか進まなかったから。
レイドリックを怒らせてしまった後、マリアンヌは仲直りの意味を込めて、お茶会の誘いを綴った手紙を彼に送った。
返事はすぐ届いたけれど、その内容はこうだった。
【招待客のリストアップがちゃんとできたら、会おう】と。
マリアンヌとしては、そこまで急ぐものでは無いと思っていた。
ロゼット家の当主は兄のウィレイムだ。マリアンヌの意向は聞いてくれるけれど、最終的に招待客を決める権限は兄にある。
その兄は今、仕事が多忙で連日深夜まで王宮で働いている。顔色が悪い日もあり、目の下に隈を作っている時もある。
そんな兄に、急かすのは心苦しい。結婚式は、秋の終わりか冬の初めと聞いている。だから、そんなに慌てなくても良いと思っていた。
でも、レイドリックは違っていた。急かす手紙が、何度も届いた。
同じ内容の手紙を読むたびに、マリアンヌは次第に直接レイドリックに責められているような気持ちになってしまった。ただの文字のはずなのに。
結局、マリアンヌはレイドリックの言葉に従った。
疲れている兄の顔に気付かないフリをして、無邪気におねだりをする演技をして。兄が自分に殊の外甘いという事実に付け込んで。
そしてマリアンヌはすぐに、レイドリックにリストアップが終わったと手紙を書いた。
あれだけ急かしたくせにレイドリックからの返事は遅く、そしてそっけない内容だった。
それでもマリアンヌは3人でのお茶会を楽しみにしていた。
罪悪感で重くなっているはずなのに、エリーゼは招待客が書かれた一覧の紙を自身の目の前で揺らしながら眺めている。
そしてマルベリー色の瞳が最後の行まで移動した途端、乱暴にそれをテーブルに置いた。
『ねえマリー。私、この娘のこと、好きじゃないの。だから式には呼ばないで』
エリーゼの言葉に、マリアンヌは耳を疑った。彼女の指先に押しつぶされている、名前を見つめて。
エリーゼが”この娘”と言ったのは、アンジェラ・デュアール。
レイドリックとエリーゼを除けば、マリアンヌにとって数少ない友人の一人である。
アンジェラは、宰相閣下の一人娘。しかもロゼット家より格上の公爵家。そして兄の上司の娘ときている。
こちらから来て良いとか悪いなど言える相手ではない。むしろ光栄だと喜ぶべき相手である。
『ごめんなさい、エリー。それは……無理よ』
全ての理由を伝え、マリアンヌはエリーに向かって首を横に振った。
けれど、エリーゼは納得するどころか、きっと眉を吊り上げた。
『マリーは、私よりアンジェラを選ぶのね』
自分を試すようなことを言うエリーゼの言葉が、上手く聞き取れなかった。
まるで知らない世界に自分だけ突き落とされたような気がして。
これまで築いてきた友情とか絆とか、信じていたこととか、そういうこと全てが覆ってしまったような気がした。
『まさか……そんなわけないわ』
マリアンヌは壊れたおもちゃのように、首を左右に振った。何度も。
元の世界に戻れるたった一本の細い綱を握りしめるような心境で。
でも、暖かく優しい元の世界には戻れない。違う世界にいるエリーゼは「なら、アンジェラは欠席ね」と勝手に結論付ける。
そんなこと勝手に決められるわけがない。なのに───
『ねえ、マリー。この前の話、忘れたの?』
横から、そんな声が聞こえてきた。
ぎこちなくそこに顔を向ければ、いつぞやの時と同じように、ひどく厳しい顔をしたレイドリックが、マリアンヌに冷たい視線を向けていた。