小さな違和感と、大きな後悔②
マリアンヌは急いで廊下を歩いている。いや、それはもうほとんど小走りに近い状態だった。
背後からジルが「お、お待ちください、お嬢様っ」と声を掛けてくるが、足を止めることができない。ジルが追いついてくれるのを祈るのみだ。
ロゼット邸は長い歴史を持つ名門侯爵家の邸宅だ。だから他の貴族の邸宅より広い。
生まれた時からずっとここで過ごしているから、それが当たり前だと思っていたけれど、逸る気持ちを抱えている今は、この広さがちょっとだけ憎らしい。
そんなことを考えながらも、マリアンヌの足は止まらない。でもドレスの裾が乱れるのが嫌で、一歩足を出すごとに片手で皺を伸ばしてしまう。
きっと自分の後ろを追いかけているジルから見たら、変な歩き方をしているのに違いない。
とはいえ、今日は特別な日だから、そんな日に相応しいドレスを用意したのだ。
そしてこれを見せたい人は応接室で待っている。しわくちゃな状態で会うなんてとんでもない。
マリアンヌは歩きながら視線を下に落とす。レイドリックの瞳と同じ亜麻色のレースを少しだけ使った藤色のドレスが視界に入る。
本当は彼の瞳と同じドレスにしたかったけれど、あからさまなのは少し……いやかなり恥ずかしいから我慢した。
などと一人で葛藤してみたけれど、よくよく見たらレースは胸元と袖口にしか使っていないから、気付いてもらえない可能性がある。
もっとたくさんレースをあしらっておけば良かったのかも。
男性はそういうところに気が回らないと、もう一人の幼馴染のエリーゼが言っていた。
そうだ。もし気付いてくれなかったら、エリーゼに言いつけてやろう。きっと自分の代わりにレイドリックを叱ってくれるはず。
そんなことを思い付いた途端、マリアンヌの不安はどこかに消えてしまった。それより次に会う3人だけのお茶会が楽しみで仕方がない。
マリアンヌの口元が知らず知らずのうちに弧を描く。
指先は自然に胸のリボンに触れていた。
もう一人の親友の瞳と同じ熟した果実のようなマルベリー色のサテン素材のそれを。
そしてようやっとジルが追いついたのと、応接室に到着したのは、ほぼ同時だった。
「お兄様、お待たせしました」
ジルの手で開けられた扉から2歩進んで、兄に向けてマリアンヌは腰を落とす。
ついさっきまでバサバサと音を立てて廊下を競歩していたなど、微塵も感じさせぬ優雅さで。
「いや、待つどころか、こんなに早くて驚いたよ」
口調だけは落ち着いているが、ウィレイムは驚いた表情を隠すことはしない。
あ、しまった。急ぎ過ぎてしまったか。
マリアンヌは心の中で舌を出した。
年が離れている兄のウィレイムは、マリアンヌにとって優しい存在だったが、とても過保護なところがある。
だから廊下を小走りで移動したのがバレたら、絶対に小言が始まってしまうだろう。
お行儀が悪いという内容ではなく、走って転倒したら危ないとか、階段を踏み外したらどうするんだとか。
きっと兄の目には、まだ自分が小さな子供に見えているのだろう。
もう16歳で社交界にだってデビューしたというのに。
と、少し兄に対して不愉快な気持ちを持ってしまうマリアンヌだが、いつまで経っても心配されることに、呆れてしまう時もあるが嫌ではない。ただ、くすぐったいだけだ。
でも、さすがにレイドリックの前でそれを披露されるのは居心地悪い。
だからマリアンヌは、そうですか?と不思議そうに首を傾げた後、にっこりとウィレイムに微笑みかけた。
「……ま、良いか。さぁ、座りなさいマリー」
ウィレイムは何か言いかけようとして、でもすぐにやめた。そして、普段通りの穏やかな表情に戻るとマリアンヌに着席するよう促した。
この応接室には、中央にテーブルがあって、そこを囲むようにソファが3つある。一つは一人掛けで、残り2つは3人掛け。
一人掛けのソファには、ウィレイムが既に腰かけていて、3人掛けのソファにはレイドリックが背筋を伸ばして着席している。
本当ならレイドリックの隣に座りたいけれど、それは兄を不機嫌にさせてしまうかもしれない。悩んだ挙句、マリアンヌは空いている方の3人掛けのソファに腰かけた。
そこでやっとレイドリックと目が合った。
彼は少し疲れた顔をしていたけれど、マリアンヌと視線が合えば、少しおどけた表情を作って軽く眉を上げてくれた。
それを見ただけでマリアンヌの気持ちは浮き立ってしまう。
「レイ、あのね」
「お茶のお代わりを用意させよう。マリー、お前も飲むだろう?」
まるで二人の仲を裂くように、ウィレイムはマリアンヌの言葉を遮って、そう問いかけた。
「……お兄様」
少しばかり非難を込めてマリアンヌがそう言っても、ウィレイムは意に介さない。それどころか、同じ問いを繰り返す始末。
普段のウィレイムは、既に家督を継いでいるので、年齢より落ち着いて見える。周りの評価も高く、マリアンヌにとって自慢の兄である。
なのに昔からマリアンヌが他の異性と会話をしていると、こんなふうに子供じみた態度を取る。妹が他の男と楽しそうにしているのが、それほど嫌なのだろうか。
マリアンヌは小さく息を吐いた。でも、それ以上不満げな態度を表に出すことはしない。ここで兄の……いや、侯爵家当主の機嫌を悪くするのは得策ではないのを知っているから。
「わたくしもお茶を飲みたいですわ、お兄様」
にこやかに返事をすれば、ウィレイムは小さく頷いてからヨーゼフにお茶を淹れ直すように指示を出した。
それから数分後、ハーブティーではないが、馴染みのある香り高いお茶が並べられ、ここにいる3人は静かにお茶を口に含む。
「───……さて、マリアンヌ」
ティーカップをソーサーに戻してから、ウィレイムは口火を切った。
「兄としてはとても不本意ではあるが、お前の結婚相手が決まった」
「はい」
マリアンヌは緩んでしまう頬を叱咤しつつ、小さく顎を引く。
「ここにいるレイドリックがお前を妻にと求婚をしてきた。そして私は一応同意をした。あとは、お前の気持ち次第だが」
「謹んでお受けさせていただきます」
「……マリー、私はまだ全部話し終わっていないぞ」
「あ、ご、ごめ……いえ、失礼しました。お兄様」
ほほっと手の甲を口元に当てて、マリアンヌは誤魔化し笑いをする。
ウィレイムは『まったくお前は』と言いたげに、顔を顰めた。
対してレイドリックは、じゃれ合うような兄弟のやり取りを、微笑みながら眺めていた。
ただ、その目の奥は笑っていなかった。
亜麻色の瞳の奥には、冷え冷えとした蔑みの色が表れていた。