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16

 レイドリックの姿が消えた途端、マリアンヌの隣に誰かが並んだ。


 顔など見なくてもわかる。

 これだけ威圧感を感じるのは、一人しかいないから。


「どうぞ兄に、ふしだらなことは何一つしていなかったとお伝えください」


 顔を見ずに、マリアンヌはクリスにそう言い捨てて自室に戻ろうとした。けれども。


「先日お渡しした菓子はお口に合いましたか?」

「え?」


 虚を衝く質問が返ってきて、マリアンヌは不覚にも、振り返ってしまった。


 クリスと目が合う。

 彼は端正な顔を動かすことなく、返事を待っている。


「……お、美味しかったです」


 あんなもの番犬にくれてやったと言えば、クリスに多大なダメージを与えることができるのに、マリアンヌは馬鹿正直に答えてしまう。


「それは良かった。ところで、ビスケットとカヌレはどちらが美味しかったですか?」

「……どちらも。でも、ビスケットの方が好きです」

「私と同じですね」

 

 そう言ってクリスは、にこりと笑った。街で会った時に見せた屈託のない笑顔を。


 マリアンヌは見慣れないものを目にして、心の内側に小さな波が立つ。それは不快なものではなかったので、一瞬だけ警戒心が解けてしまう。


 クリスがそれを見逃すはずはなかった。


 あっという間にマリアンヌの腰を抱いたかと思うと、玄関ホールの死角に引っ張り込む。


 壁際にマリアンヌを追い込み、自分の両手を壁に突き、その中にマリアンヌを囲う。


 次いで状況が飲み込めず、目を白黒させるマリアンヌの耳にこんな言葉を落とした。


「ふしだらな事は何一つしていないですと?そりゃあそうでしょう。あなたとアイツの間には友情しかないんだから」

「それの何が悪いの?」


 食い気味に言い返したマリアンヌは、過ちを犯してしまったことに気付かない。


 クリスのアイスブルーの瞳が、獲物を狙う獰猛な獣のように細められる。形の良い唇が、嘲笑うかのように歪んだ。


「悪くはないですよ。ただ、友達ごっこの延長で結婚を決めるのは、あまりに愚かだと思いますが」

「……っ」


 さらりと紡がれたその言葉で、クリスがずっと3人が親友のままでいるための計画を知っているような気がしてしまう。


 情けないほど狼狽えてしまう。


 マリアンヌは、クリスの手で壁に追い込まれてしまった。左右は彼の腕で阻まれている。


 だからこれ以上後退できるわけがないのに、それでも無意味に背を壁に押し付けて、距離を取ろうとしてしまう。


 そんな姿のマリアンヌを目にしてクリスは哀れだと思う。怖がらせてしまうことに、胸の片隅が痛んでいる。


 けれど、それだけだった。


「結婚などやめておきなさい。あの男は、あなたに相応しくない」

「……レイドリックを悪く言わないでください。私の方が彼に相応しくないんです」

「はっ」


 クリスは間髪入れずに鼻で笑った。


 なのにその目は、マリアンヌを案じるように憂いていた。お仕えする主の妹の行く末を心配しているというには、大袈裟だとは思ったけれど。


 ただ、そんな器用な表情を見せられてしまえば、マリアンヌの不快気に歪められていた眉が、自然と下りてしまう。 


「なら、そう思っていればいいですよ。マリアンヌ様」


 クリスは静かに言った。

 レイドリックに間違いを指摘された時と同じ声音だったのに、遥かに優しい響きで。


「あなたは昔っから頑固なところがありますからね。今は何を言っても無駄だというのがわかりました。だから、」


 途中で言葉を止めたクリスは、肩を竦めて苦笑を浮かべた。


「好きにすればいいですよ」

「あなたに指図される覚えはないです」


 これ以上ないほど馬鹿にされたような気がして、マリアンヌはぷいっとそっぽを向く。


 呆れた笑いが降ってくるけれど、気付かないフリをする。


 横を向いた瞬間に、微かに独特な甘い香りが鼻孔をくすぐった。

 それは兄のコロンの香りでもなく、レイドリックの慣れ親しんだ香りでもなく、大人の男の香り───クリスの香りだった。


「で、今回は私に言わなくても良いんですか?」

「え?何をですか?」


 香りの原料は何なのだろうと意識をよそに向けた途端、そんなことを問いかけられ、マリアンヌはきょとんとした顔をしてしまう。


「婚約者は他の女性の腰に手を回して歩く軽薄な男だけれど、どうかお兄様には黙っていて、と」

「……っ」


 マリアンヌは、あの日、宝石店から出てくるレイドリックとエリーゼを見たのは、自分だけではなかったことを知って眩暈を覚えた。


「言いたいのでしたら、言えば良いです。……兄が信じるかどうかは、別ですが」


 半ば投げやりに言ったマリアンヌに、クリスは壁に突いている片方の手を離した。


 次いで彼はへそを曲げてしまった子供の機嫌を取るように、マリアンヌの頭を軽くたたく。


「そんな顔をしないでください。大丈夫、ウィレイム様には言わないでおきますよ」

 ───クリスは、ね。

 

 最後の言葉は、クリスの胸の中で紡がれて声に出すことはなかった。


 そして、マリアンヌを探すジルの声が玄関ホールに響いたと同時に、クリスは壁に突いていた反対の手も離して、大きく一歩後退した。


 そして、綺麗な所作で一礼してマリアンヌに背を向け歩き出した。


 



 去っていく彼の後ろ姿を見ながら、マリアンヌはこんなことを思う。


 クリスはこんな強引な態度を取る人だったのだろうかと。そして───

 

 レイドリックは、あんなキツイ言い方をする人だったのだろうか。

 エリーゼは、何でも相談できる姉のような存在だと思っていたけれど、違っていたのだろうか。


 婚約を決めたのは、春の中頃。そして、もう春は終わろうとしている。


 春は凍てつく季節を乗り越えて、若葉が芽吹く季節。

 始まりの季節。躍動の季節。花舞う季節。


 マリアンヌにとって、この季節は一年で一番好きなそれ。


 けれど今年は、何かが違うことを知ってしまった苦い季節になってしまった。 

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