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店内に一歩足を踏み入れたマリアンヌは、不機嫌だった気持ちなど、どこかに吹き飛んでしまった。
ここロワゾー・ブリュのチョコレートは、何度も食したことはある。
他の店より、まろやかな舌触りと優しい甘さがとても好きで、お茶の時間にそれがお皿に載って現れるのが、とても楽しみだった。
けれど、いつも店から取り寄せるだけで、実際に自分の足で出向いたことはなかった。
「……なんて素敵なお店」
マリアンヌは、気付けばそんな言葉を呟いていた。
オフホワイトと淡い桃色を基調とした店内は、とても可愛らしくて、ますますこの店のチョコレートが好きになる。
ショーケースに飾られている一粒一粒丁寧にデコレーションしたそれも、まるで宝石のようで見ているだけで気持ちが躍る。
マリアンヌはここへ来て良かったと心から思った。
遅れて、我ながら単純だとも思てしまったけれど。
、
それからウィレイムに贈るチョコレートを選ぶ。
売り子のアドバイスを聞きながら、兄の味の好みを思い出しながら、選択するのはなかなか骨が折れる作業だった。けれど、とても楽しかった。
ただ、クリスのお勧めであるザッハプンシュを注文しようとしたら、売り子に困った顔をされてしまった。
すぐにクリスが「彼女の兄が食べます」と言ってくれたので、快く包んではもらえたけれど、売り子にまで子供扱いされ、マリアンヌはちょっとだけムッとしてしまった。
でもやっぱり、楽しかった。
ジルが支払いを終えて、外に出る。
マリアンヌは2つの包みを抱えていた。
一つはウィレイムに贈るもの。
もう一つはジルに渡すもの。帽子は拒まれてしまったけれど、消えてなくなるものなら、きっとジルは嫌とは言わないだろう。
「気に入ったのがあったようで、良かったです」
「ええ。ご一緒してくださり、ありがとうございました」
マリアンヌは素直に礼を言った。
ザッハプンシュを購入できたのは、彼が居たからこそ。
ジルはマリアンヌより2つ年上だが、童顔だから売り子を説得するのは難しかっただろう。
そんな気持ちで、もう一度お礼を言って頭を下げる。くすりとクリスが小さく笑ったのが気配で伝わった。
「とんでもないです。では、馬車まで送りましょう」
「……」
やはり、そうなってしまったか。
ちょっとだけ、ここで彼が去ってくれるのを期待していたのだが、そう上手く事は運ばない。
街での買い物が楽しいと知ってしまったのだ。できれば、もう少し他のお店を見て回りたかったのに。
そんな気持ちでクリスを見つめれば、彼は聞き分けの無い子供をどう諫めるか悩ます親のような顔をしていた。これは、もう諦めるしかない。
「……馬車はあっちに停めてます」
指で示した方向にクリスが、僅かに眉を寄せた。
てっきり広場に馬車を停めたと思っていたのだろう。
でも、指差した方向は真逆の場所。人混みの中を歩きたかったせいで、今日はかなり離れた場所に停めてもらったのだ。
でも、そこまでの説明をする必要はないだろう。いや、したくはない。
だからマリアンヌはこれ以上聞くなと言いたげに、身体の向きを変えた。そして先頭きって歩き出そうとした。
でも、できなかった。
レイドリックとエリーゼの姿を見つけてしまったから。
二人は腕を組んで、ちょうどはす向かいの店から出て来たところだった。
そこは宝石店で、エリーゼは小さな化粧箱を手にしている。
先日馬車に乗り込んだ時と同じように、レイドリックはエリーゼの腰に手を回していた。
そして見つめ合いながら微笑みあう二人は、どう見たって友達同士とは思えなかった。
心が、身体が、これ以上この光景を見たくないと判断したのだろう──マリアンヌの視界がぐらりと揺れた。
「マリー様っ」
悲鳴に近い声でジルに名を呼ばれたと同時に、不安定になった足元が、突然、ふわりと浮く。
誰かが自分の身体を抱き上げているのだ。
その相手が誰だがわかった時には、既にマリアンヌは歩道にあるベンチに座っていた。
「……ごめんなさい。ちょっと人に酔ってしまったみたい」
心配げな視線を二人から受けて、マリアンヌは居たたまれない気持ちで、両手で顔を覆った。
瞬間、チョコレートの包みを落としてしまったことに気付く。
慌てて片手を外せば、すぐ前にいるジルが包みを手にしているのが目に入る。ほっとした。けれど、
「馬車を呼んできます。少しお待ちください」
これまでにない程、硬い声でクリスがそう言った。
そして身を翻す彼の上着を、マリアンヌは慌てて掴んだ。
「大丈夫、歩けるわ……でも、少し休ませて」
マリアンヌはそう言って、クリスの上着を更に自分の方へと引っ張った。
「ですが」
「大丈夫。お願い。ここにいて」
「……わかりました」
本当は、もう眩暈は治まっている。
馬車までは距離があるけれど、きっと大丈夫。ふらつかずに歩けるはずだ。
でも、今、動くのは困る。
なぜならレイドリックとエリーゼは、馬車を停めてある方向に歩いて行ったから。
ジルにもクリスにも、二人が恋人のように歩いているのを見られたくはない。
だからマリアンヌは、必死に気分が悪い演技を続けた。
何のために、そんな馬鹿みたいなことをしているのか、自分でもわからなかったけれど。




