82章:有と無 正と奇
気が付けば、辺りは真っ暗だった。
いや、正確には真っ暗じゃない。上も下も、右も左も、夜空が広がる。星屑の光が、辺りで煌々と輝いている。そのためか、今自分が下を向いているのか、上を向いているのかわからない。
ちょろちょろと、小川を流れる水の音がどこからともなく聴こえる。どんなに見渡しても、水らしきものは見当たらないのに。
ここは……一体どこなんだろう。
確実に、生きている世界じゃないのは確かだ。
「…………」
あの時、僕はたしかに消えた。死んだ。
確かな事実。
「死んだんだな……とうとう……」
来るべきであろう未来。逃れることのできない、確実に訪れる未来。
「じゃあ、ここは…………リーヴェ……か?」
聖域リーヴェ――
聖域とは名ばかりに、怨念渦巻く失われた次元。2つの世界どころか、あらゆる次元からも隔離された場所。
僕は底に沈んでいる。
ただ、ただ沈んでいるだけ。
僕にはもう、何もない。この掌には、何も残されちゃいない。あるのは、己の意識のみ。肉体という器さえ持たない、ただの幻影。
「なぁ、ソラ」
声がした。後ろへ振り向いても、そこには誰もいない。遥か彼方まで続く、星空だけ。
「俺はどうしたらよかったんだ?」
この声は……ヴァルバ? どうして、死んだはずの彼の声が聞こえるんだ?
「俺は国とリノアン、どちらを選べばよかったんだ?」
声のみが届く、暗い世界。その中で、彼の想いが届けられる。
ここは――リーヴェ。
「兄は俺を掬い上げてくれた。父に忌み嫌われ、母を失った俺を」
そこにあるのは、温かさだろうか。半分しか血の繋がらない兄からもらった、温かい心。
「皇室の髪を持たぬ俺を、兄は愛してくれた。家族として……」
ああ、わからないよ。ヴァルバ、僕にそれを言ってどうしろって言うんだ?
「国を愛し、民を愛した兄上……。戦争に奔走する国を、変えようとした」
だから、平和を愛したのか?
「そうさ。……だけど、俺はリノアンと出逢ってしまった。あまりにも美しすぎる、彼女に」
一目惚れ。それは、僕が空に感じたものに近いのだろうか。
「アンナと同じレモン色の髪……聖女という民衆の創り出した偶像は、彼女のためにありそうだった。苦しむ彼女を、護りたくなった」
でも……死なせてしまったんだろ? それだけ愛していたのに……。
「ああ、そうだ。俺が兄に結婚の承諾を得るために帰国したせいで……リノアンは……」
なんでだよ。なんで、行っちまったんだよ?
「俺にとって、どちらも同等に大切だったんだ。俺はどちらも裏切ることが出来なかった。“捨てる勇気”がなかった」
捨てる――勇気?
「そう。何かを得るには、何かを捨てなければならない。それはまさに、“心の等価交換”と言える。中途半端な勇気が、多くのものを俺から奪っていった。……奪っていったのではない。壊したのだ。自らが」
それは勇気と言えるのか?
「勇気、すなわち非情――ともいえるのだろう。国を背負う者は、その非情さが必要不可欠なのだ。だがどうだ? 非情さを持ち、国を強くたらしめたものは所詮、暴力だ。それが俺たちが望んだものなのか? 平和を築くために、俺も兄上も胸に秘めたナイフを持ち、闇夜に光るその刃で臓器をえぐり、溢れる血肉を理想に捧げた。結果はどうだ。何もなかったじゃないか。俺たちが描いたあの日の夢は、どこで血塗られたんだ?」
僕には理解できない。
「……理解されないというのは、寂しいものだ。そして同時に、それは己の無力さを計り知る上で非常に簡潔な方法であるともいえる」
そう、と彼は続ける。
「誰のために――我々は血で血を洗い続けるのだろうか。兄も、父も、祖父も――」
遠くなっていく、一つの意識。僕に語りかけてきていたそれは、遥か深淵に沈んでしまったのだろうか。
「私もそうだよ」
違う声。僕はすぐにわかった。
――リサ?
「ヴァルバに言われたもの。祖国を持たないお前には、わからないって」
その時、その声は小さく鼻で笑うかのように微笑した。
「どうせ、私には祖国なんてものはないさ。……それに値するものは、あいつらに滅ぼされたのだから」
……憎んでいるのか?
「憎しみ……ええ、そうとも言えるわ。だって、あなたに出逢うまで私は、それだけを糧として生きてきたもの」
本当に、そうなのか?
「私には必要ない。愛も信頼も、何もかも。世界中の馬鹿な人たちが望むものなんて、いらない。ただ、二人を殺せればって」
ただ、それだけを望んでいたって言うのか?
「そうよ。そうしないと、私は私を形作れない。中身がスカスカな、愚かな偶像。でも、それこそが私の祈る対象であり、唯一の希望になり得た」
なんでそんな悲しいことを言うんだ? 僕たちには、愛し合うことだってできるのに。
「何を今さら。いい? 世界はそんなものを望んでいない。望んでいるのは、見たことも無い理想を掴もうとする人たちだけ。本当のところは、空虚な心を埋めたいって思ってるだけなのよ」
だったら、どうしてヒトには感情なんてものが存在するんだ?
「それが、ヒトとしての責務だからよ。星とヒト、調停者と星の幼子。あらゆるものは対となっていて、それぞれの責務と権利を与えられてる」
責務? 権利?
生きることは責務でも何でもない。ただ、そうあるだけだろ?
「大きな揺りかごの中に、まるで牢獄に入っているかのように、ヒトは生きるための居場所を奪い合ってる。それもまた、責務の一つなの。だって、それはヒトの持つ権利の一部だから」
奪い合い、憎しみ合う……そうでしかない。
「この次元に存在する以上、私たちにはそうするしかない。遥かなる理を破壊し、絶対的な希望を得るまではね……」
声は霞んでいき、どこかへと沈んでいく。僕もまた、もっと深淵へ沈んでいく。
「その理を破壊できれば、お姉ちゃんは死ななかったんでしょうか?」
君は……アンナ?
想いだけが、この聖域に溶け込んでいるのだろうか。彼女は、まだ堕ちていないのに。
「お父さんもお母さんも……ステファンに、殺されずに済んだのでしょうか?」
君は、家族を殺されたんだ。過ぎたことは、変えることができない。
「世界は理不尽です。無為に生きる人もいれば、無為に死ぬ人もいる。そこには優しさも、愛おしさも、あらゆるものが交わってる。同質のものであるんですか? 奇に連なるものは、所詮一つの螺旋でしかないんですか?」
たとえ違っていたとしても、全ては同じだよ。僕たちは、同じ器をもっているんだから。
「同じじゃないです。同じであるなら、なぜ星と命は別個としてそれぞれの道を歩むんです? ……いえ、もしかしたら……星の道の上に、命の道が敷かれている……?」
それこそ違う。そうだとしたら、僕たちは星に操られているだけだぞ?
「ううん、だからこそ、生命は尊ぶんです。命を」
僕たちは生命として存在する時から、そう思っているんじゃないのか?
「おかしなことを言いますね……。一が二に、果ては十となります。繋がり合う鎖は、どこかで断ち切れるものじゃありません。繋がっているからこそ、私たちは私たちとしてなり得るんです」
誰かは複数の誰かと繋がり、それは連鎖的に連なる。でも、完璧にそうであると言えるのか?
「やめてください! 私は……私には、そう信じるしかないんです。憧れからそれに変わり、私は近くにいたいって思ったんです。だから、たとえ離れていても…………」
涙声に変わろうとした彼女の声は、星空の彼方へと飛んで行った。
言霊渦巻くのは、ここがリーヴェだからか?
でも……不思議と、嫌じゃない。
乾いた大地に、雨が降り注ぐかのように……満たされていく。それは、今まで感じたことの無い至福。
――いつかきっと、得られるもの。
「お前なら、どういう答えを導き出すんだろうな」
男らしい男の声……と言ったら、変だろうか。
「ハハ、そうだな。俺には、大した答えも出せなかったよ」
レンドは嘲笑するかのように笑っている。自分に対して。
「ずっと、馬鹿みたいに親父に反抗した。それは、兄貴たちに対する感情も、少なからず入ってるがな」
兄? お前、兄貴がいたのか。
「俺とは違う人種さ。所詮、俺は代用品。兄貴たちがいなくならない限り、利用価値はない」
どこからともなく、ため息が漏れる。
「何が違うっていうんだろうな。姿形は同じヒトなのに、目に見える権利には、雲泥の差がある。それが今の世界の姿なのか?」
お前は何を言っているんだ?
「ああ、そうだったな。お前は、違う世界の住民だもんな」
そうであるからと言って、何かが変わるってのか? 僕たちは共通だろ? 同じじゃないのか?
「同じ? ちげぇよ。既に歩み続けた道筋が違ってんだ。ヒトとして共通するが、世界が違うんだよ」
レイディアントとガイア……お前は、どうしたいんだ?
「変えてやりたかった――というのは、結局のところ嘘なんだろうな。俺は、ただ親父に抗おうとしただけ。自分の意思で、自分の足で歩くために」
貴族の生まれってことが、嫌だったのか?
「ああ、嫌だよ。こんなくだらない吐きだめ、生きていて何になる? 俺たちは、何も生み出さない。得てして、それは暗い陰りとなるだけ。きっと、最初から間違ってたんだよ」
僕たちもそうだったんだろうか。そうでしかないんだろうか?
「……行き着く先には、暗愚な豚の王様の国が広がっているのさ。そう思ってるのは、俺たちが自分を愛していないからだろうか」
愛していない? なら、どうして憎み合うんだ?
「そう、愛と憎しみは同じ。生と死が同じように、それらは一つの鏡として輝きを持つ。お前にも見えたんじゃないのか? ヒトってのは、俺たちが見定めることのできるもんじゃねぇってことをさ」
声は遠くなり、再び僕は孤独となる。
掴み切れていないのは、僕だけじゃない。あらゆるものが、その大きさを測りきれていないんだ。
ゆらゆらと、それは陽炎のように抽象的で、僕たちはもがくだけ。そこにしかない、永遠の歌を聴き届けるために。
「もがいたって、俺たちにはどうしようもない」
一つの光が命を燃やすかのように、煌めく。
――デルゲンか。
「二つの希望の雫として、俺たちは大地に堕ちた。それはきっと、望まれたものなんだろうさ」
僕たちは種子……世界に花を咲かせるための。
「花ね……。だが、全てのものが花になるわけじゃない。望んでもいないのに、それらは朽ちる時だってある」
変えようの無い真実。拭い去ることのできない、現実。
「わかるだろう? 一つ一つが個であるように、全てもまた個でしかない」
それらが寄り添って、一つの螺旋を築くのだろうか?
「見えない壁に阻まれ、俺たちはその螺旋の上を歩く。互いに近い道であろうとも、それは虚無的なまでに暗い。その先の明かりを見ることができないんだ。明かり――そう、俺たちには明かりが必要なんだ。この真っ暗な道を照らすことのできる、各々の明かりを」
何を得ようっていうんだ? その先には、僕たちが求めているものがあるはずなのに。
「だからこそ、壊したいって願うんだよ。その壁を取り払い、互いに手を繋ぐために」
そうすれば、自分としては気が楽になるんだろうよ。実際、僕たちは自分のものしか見えない。他人のそれを見てしまえば、否が応でも比較するだろうし。
「よその芝生は青い。劣等感、猜疑心――誰もが持つ、弱き心の種。それが芽吹けば、おそらくそれぞれの世界は終わりを迎える」
もっと滅茶苦茶にしてやればいい。そうすることも、僕たちの未来の一つじゃないのか?
「ハハ……そんだけの勇気があれば、俺はここまで沈まなかったさ。自分を蔑み、弱く見せることでしか自分を愛せない。なら、どうやって他人を愛せっていうんだ? 自分を愛せない人間が、他人を愛せるわけ無い」
そうさ。僕たちは自分を見極められていない。わけもわからず、ただ安穏と世界を望んでいるだけ。
「なんだ……わかってるじゃないか。ぐずぐずしていちゃ、宝物を見失うだけさ」
なら、どうすればいいんだ?
「お前がわからないはずがない。ただ、歩けばいいんだ」
歩く?
「そう、歩けばいい。ただ、歩けば……」
僕の目の前から、それは遠のいて行った。一つの光明が、ずっと先へと延びて行ったかのように。
「でもね、歩くのは辛いんだよ」
幼い少女の声――君は、シェリアか?
「誰だって、後ろを振り返りたくなる。僕たちは、強くないんだもの」
自分たちが歩んできたものは、本当の意味で正しいのか? 自分たちだけの、正しいものにされているんじゃないのか?
いや……どうしてそう考えるんだ。考えたって、しょうがないのに。
「小鳥がさえずるように、僕たちもずっと届けようとしているんだよ。あの虚空へ吸い込まれたって、ただ自分のために――ね」
自己満足でしかないよ、そんなの。
「ヒトってそうでしょ? 誰かれ構わず、いくら叫んだって形にさえならない。僕たちは、もっと奥……ずっと暗い場所で身構えているだけなんだ。じっと、息を潜めて」
待つだけか。
「ほとんどは、そういう風になっているんだよ? そんな四隅に縮こまって、何を求めようとしてんのさ」
その方が楽なんだ、きっと。意思と意志は、互いに相容れないんだから。
「――なぜだろうね、私たちはそれよりも濃くできている」
違う声。シェリアよりも、大人の声。僕と同じ年くらいの……。
「私はあなたを知っている。幼い姿の私を、なでてくれたでしょう?」
ああ、君もシェリアか。
「そう……同じであって、同じでない。世界に溶け込んだ私の願いは、ジルフェたちによって構築されたの」
それを君は願っていたんだ。終わりが来ても、再び始まりを迎えることを。
世界の理を、超えることを。
「よく知ってるじゃない。でも、みんなそうでしょ? どうせ、覆ることのできない希望だとしても、少なからず願っているのよ。誰だって、還りたいと思うわ」
還る……どこに還るっていうんだ?
そこは無でしかないよ。何もない……何も、残らない。
「あの人が言っているように、本当に希っているのかもしれない……。傍から見れば、ただそこへ向かっているだけのように見える」
なら、笑顔でいる必要なんてない。互いに手を取り合うこともないよ。
「それは、私たちが望んでいるのよ。同じようにね」
望んでも望んでも、僕の手に収まることはない。ずっと、もがき続けているのに。こんなにも、あいつのことを愛しているのに。
「そう叫べば美しいものよね……。でも、忘れちゃだめよ? それは、言霊としては美しいけれど、残酷なものなの」
鏡だからか?
「そうでしょうね。鏡――互いを映し出すものでなかったなら、あらゆるヒトは最初から手に入れていたわ。愛も、憎しみも」
僕はあいつを憎んでいるのか?
「それも違うわ。あなたはそれだけに堕ちたっていうの? そうだとしたら、ここでの交叉は意味を成さないわね……」
風となって、それはどこかへと消えた。
何がそうさせている? 僕の中に息衝く言霊のせいか?
「兄さんは愛したいだけなんだよ」
優しい声であり、冷たい声。
忘れないよ、樹。
「いや、何もかもそうなんだ。同じだから――僕も、それを望んでいただけだったからね」
そんなこと、一言も言っていないじゃないか。
「言えるわけないだろ? ヒトには譲られないものがある。それに連なるからこそ、僕たちは一個としてなり得るのさ」
だからこそ、僕はそれに羨望の念を抱く。
「僕もそうさ。ただ単に、そうでありたいってね。……でも、違う。僕が求めるものと、あなたが手にしようとしていた夢の形は、全く違うんだ」
そりゃそうさ。なんでわからない?
「あなたは手にしていたからさ。ずっと傍にあり続けながら、永久に忘れかけようとしていたもの。多くのヒトたちのそれとは似ているけれど、よく見てみれば違う。僕たちのようにね」
お前は、何を考えていたんだ?
「考えようが考えまいが、遠くにあったんだよ。ここに堕ちれば、それは太陽のように見えるだけ」
憧れだけでは、何もできないよ。自分から進んでいかなければ、何も変わりはしない。変わることが怖いのか?
「変わらないことは安穏であり、変わることは希望か絶望。でもね、そこには別の解釈もあるんだ」
解釈?
「ヒトとしての意義だよ。汚いけれど、そうしなければ僕たちは僕たちとしての姿を保てない。今を、望めない」
そんなことを言うなよ。そういうことばっかり言ってても、誰も振りむいちゃくれない。
「いいんだよ。僕が見たかったのは、そこにある歪んだ愛なんだから」
いつだって、誰だってその奥には存在する。
「果ては、結局のところリーヴェなんだね……。父上も母上も、共に夢を糧として眠っているだけなのに」
そこにあったのは、愛だけだったのか?
「狂おしいほどに、愛せるわけじゃないさ。どこかで、気付くんだよ。それは、ただの茶番でしかないってことをさ」
道化師か? 僕たちは。
「そう……星や、上位次元の奴らにしてみればそうだろうさ。その揺りかごの中で、狂乱の宴を繰り返す亡者……ああ、堕ちちゃえばいいのに。僕も……あなたも」
そして、言霊は水が引くように消えていった。
お前は僕を怨んでいたんだろうか。そうでなければ、傍に居続けられなかったんだろうか。
「所詮、あいつらなんてそんなもんさ」
馬鹿にしたような声――修哉?
「考えてもみろよ。何もかもが、そこに渦巻いている。虎視眈眈と、お前の糧となるものを奪おうとしている」
どこかで傷つけ、どこかで怨まれていたんだろうな。
「理解してんなら早い。一つ一つに宿っているそれは、はからずも散っていく。どうしようもできない願いは、永遠の円環へと引きずり込まれる」
始まりの時から紡がれていたんだ。それを穿つことは、僕たちに許されていないんだ。
「いいや、違う。俺の全ては、俺だけが定められる。どこぞの次元で覗いてる奴らなんかに、決められてたまるか!」
何言ってんだ?
僕たちは僕たちだ。それ以上でも、以下でもない。
「言っただろ? お前みたいに考えられるのは、寧ろ特殊さ。愛でも希望でも、それは砕かれて散った欠片でしかない。それを拾い損ねたから、俺たちは未だに彷徨ってんのさ」
リーヴェへ辿り着くことは、何もそうであるとは限らない。愛しちゃいけないってのか?
「好きにすればいい。俺も、お前と同じように愛していたんだから」
遠くに光るそれは、お前のためのものなのか?
「……そうであったなら、俺は最初から壊そうとしなかった。それを握りしめ、抱きしめることができていたなら……俺は、何もいらなかったんだ」
先に……見えていたのか? 未来に。
「さあな。見えているとしたら、俺はこんなにも欲していない。温かい木漏れ日を探すかのように、ただ迷宮を歩いているだけさ」
お前が言うそれが本当なら、無為に奪う必要もないだろうに。
「世界がそれを望んだんだ。星ではなく、この世界がな」
星と次元……別個に考えるしかないってのか?
「当たり前だ。ヒトの愛も、星の愛もただのお遊戯でしかない。弄ばれているだけの俺たちは、気付くべきだったんだよ」
気付くにしても、何にしても……最初からそうなっていたじゃないか。なのに、なんでそうしようとしないんだ?
「触れてしまえば、壊れる。お前と違って、俺にはそれだけの勇気がなかったんだよ」
勇気……? 僕には、そんなものないよ。
「いいや、あるさ。お前は歩もうとしていたことから消し、一つの軌跡としてそれを選んだ。変わらぬものを変えようとしたのは、掌の中に虹色の種があるからだ」
じゃあ……僕は、最初からそうしていたのか?
「俺にはわからないし、認めたくもない。俺は憎むだけだから」
なんでだよ?
「お前が……空ちゃんが、それを持っているから。お前たちだけが、星の愛を享けているからだ」
お前の言っていることの意味がわからない。
「そうさ、お前はそんなもんだよ。俺の憎悪も、欲望も、羨望も――何もかも、お前にはわからない!!」
そうすることで、お前は何を得ようとしているんだ?
「ハハハハ! ただそれだけでいいのに、なんで黒く塗りつぶされなきゃならねぇんだ!? 陽光に満たされていたって、結局はそこに集うのにな!」
お前の言葉は僕を揺さぶる……。これ以上、しゃべるな!
「なら、愛憎をその奥底に沈ませろ! 言霊を――魂の欠片を、砥がれたその真剣で肉を切り裂き、真っ黒な死の体液が零れ出る様を、その目に焼き付けろ!! 愛も憎しみも、一つの楔にしろ!!」
愛して愛しても、憎しみを止められないってのか? 僕たちはそうすることでしか、わかり合えないのか!?
「家族も親戚も、親子も兄弟も……流れの中にある者たちは、その手を血で濡らす。そして、それを洗うために再び血を流す。これは、螺旋じゃない。止められない円環だ」
僕たちはそうであるってのか? それとも、お前がそうであったのか?
「俺は憎い。あいつが憎い。この運命を与えた世界と、お前たちだけが愛される星が憎い。だから……俺は、全部壊したいって思ったんだ」
憎いなんて、何度も言うなよ。僕たちはそうであるわけじゃないんだ。
「俺には残されていない。拠り所となるのは所詮、虚像でしかない。俺にはそれしか、命を懸けられない……誰にも、触れることのできない……俺だけの……」
暗い何かが、僕を包み込もうとしている。
いくつもの螺旋を描いて、僕は黒いウロボロスとなっていく。リュングヴィの望んでいた、聖域の果てへと沈んでいく。
全ての存在はここへ堕ちる。
夢を抱いたまま、心を輝かせながら。
――僕は何のために存在し、何のためにそれを掴もうとしたんだろうか。
言い表せられぬ想いと叫びが、僕の心中でせめぎ合う。
そのままでいることの難しさと、そのままでいることの罪。何かに抗い、それを手にして僕は何を築こうとしたんだ?
掌にあるこの宝石は、誰からもらったもの?
狂おしいほどに愛し、憎むのは誰一人として変わらない。そこにある、個々の自己主張をしているに過ぎない。そうしているのでさえ、いつかは馬鹿馬鹿しいことなのだと気付く。
ヒトだからか?
それとも、僕が調停者だからか?
日々より重ねられてきた言霊は、いつかは崩れていく。それを止める術はなく、僕たちはただそれを見つめるだけ。何をしていたって、引き裂かれていくこの想いは、いつかは朱色に染め上げられる。
もう存在している理由なんてないんじゃないのか? 所詮、僕たちはここにいる資格もなければ、望まれてもいない。
星にも、次元にも。
「お兄、ちゃん……助け……」
乱暴にされる少女。それは、誰?
「助け…………て」
その双眸から涙を流し、虚ろな視線で何を見る。
「お母さ……助けてよぉ……」
激しく揺さぶられる少女の体。彼女を覆い尽くすのは、暗い影。その体は、火照っている。
――やめろ。
この光景は、あの時と同じなんだ。あいつが、その心を壊してしまった時と。
「……お父さん――やめ……て……」
少女は拒む。それでも尚、彼女の体と心を傷つける「それ」は、消えない。
――殺してやる――!!
それは誰の叫びか。お前か? 修哉か?
その空間に乱れ散る紅い花は、希望が食い潰され、絶望が蒼空へ轟く時。
やめてくれ、やめてくれ。
そう願っていても、狂おしいほどの愛は踏みにじられる。蹂躙される。
「殺してやる……お前も、あんたも」
全てを憎んだのはその時だったのか。入り乱れる数多の想いは、とうとう闇色に染まるしかなかったんだ。
暗いよ――暗いよ。
僕はどこに堕ちる? 絶え間ない怨嗟の叫びが木霊する聖域で、永遠の旋律を奏で続けるのか?
肉体という檻を失った心は、この深淵に――
「どうしてそうしようとするの?」
懐かしい声だ……しばらく、聞いていなかった。
――海だよな?
「沈まなくてもいいの。空は、そうしなくてもいい」
何言ってるんだよ。僕は身を滅ぼし、この聖域に沈む。それを阻むことはできない。
「ううん、違う。私は、ずっと……空のことが好きだった」
いきなりなんのことだ?
「あなたの傍にいられれば、それでよかった。たとえ大きく傷つけられ、身を穢されても……あなたの傍にいるだけで、私は私としての意義を保てていた」
そんなことだけでよかったっていうのか? お前は、どうしてそういう風に言っていられる。それじゃ、まるで自分が無いみたいだ。
「ただそうしているだけで、世界は優しくなれる。この世界の中に、溶け込むことができる」
たとえそうであっても、僕たちは間違いを犯し、魑魅魍魎な次元の狭間で嘆くだけ。その意義を見出せず、ただ彷徨い続けるだけだ。
「どうして空はそう思うの? 傍にいて、愛を感じられるのは生命だけ。生きとし、生けるもののみが手に入れられる、宝物なのよ?」
きれい事はもうたくさんだ!
何をしていても結局は無意味なんだ。どうしようもない現実に苛まれ、暗いだけの未来に打ちひしがれる。僕たちには、そもそも権利さえ与えられていないんだよ。
調停者は――異質。異質な生命は、存在してはならなかった。
僕も、樹も、修哉も。
「権利とか、そういうものじゃない。ただ、そうあるだけよ」
え?
「ただ、そこに“在る”だけ。星も、ヒトも……世界も」
存在しているだけってのか?
それは、いつか僕が導き出した答え……だけど、本当に正しいのか?
「忘れちゃったの? 正しいかどうかなんて、誰にもわからない。わかる存在なんて、いない。答えは、あなただけのものなの」
あなただけの――