7章:模索 どこへ消えた、灯火の残像
最後の光景がまぶたの裏に焼き付いている。
届かない指先。
届きそうで…届かない。もう少し、もう少しで届きそうだった。もう少しで届くかのように思っていただけで、本当はまったく届きそうもない。
「空! しっかりしろっ! 空!!」
ゆっくりとまぶたが開く。開けた視界の中で、修哉がいた。
「修……哉………」
「おいっ! 目を閉じるな! 空!!」
大きな声を立てるなよ…眠いんだ……。
「おい! 空!」
修哉は何度も僕のほほを叩く。もう痛みも何もない。ずっと奥へ…沈んでいきそうな感じだった。
どこか遠くで、僕と空は話をしていた。遠い昔の話のようで、ごく最近の話のようでもあった。
内容はよく覚えていない。他愛のない話をしていた気がする。他人からしてみれば、どうでもいいような内容だ。それでも、僕は十分に満足していた。ただ当たり前のことが、いつになく幸せなことのように感じた。
普通なことがどんなに幸せか。日々を平穏に過ごしている人は、そんな当たり前のことに気がつかないんだ。それは…僕も同じだった。今の今まで、全く気がつかなかった。
自分にとって、当り前なこと…。
きっと、昔から憧れていたものに似ているのだろう…。
夢は、突然覚める。
「……………」
何度か見た光景だ。白い天井が見える。
ここは、病院だ。
「……病院、か……」
僕は自分の腕を目の前に移動させた。
「…………」
現実。
それとも、夢か。
そんなこと比べなくてもわかっている。比べようとするのは、現実から逃げようとする弱い心があるからだ。
逃げ場。
それを求め続ければ、僕は弱くなっていく。そういうものだ……。
僕と海は山頂付近で気を失って倒れているところを、修哉に救出されたらしい。その後、海は病院でまもなく気を取り戻したが、僕は一日中昏睡していたようだ。死んだかのように寝ていたとのこと。
目を覚ました翌日、和樹や啓太郎が見舞いに来てくれた。
「それにしても、入院しすぎだろ」
和樹はため息交じりで言った。
「これじゃ近い将来、全国各地で大雪が降るぞ。季節外れの大雪が」
僕が何度も入院することが、和樹にとってはかなりの事件らしい。まぁ、ものの数か月で3度も入院する羽目になるなんて、おかしいとしか思えないだろうな。
彼らが帰るのと入れ違いで、美香が来た。
「大丈夫?」
「ん……まぁ、体のほうは何ともないよ」
「そっか……」
会話はそこで途切れ、嫌な沈黙が流れた。個人的に苦手な空気だ。
「……何かあったの?」
「……ん?」
「…なんか、元気が無いっていうか…」
「元気がない、か……」
そりゃそうだ。…幼馴染が、目の前でさらわれたらな。
「…今回のは、聞かない方がいいみたいだね…」
何かを感じ取ったのか、美香は神妙な面持ちを残したまま僕から顔をそらした。
「…………」
その時、病室のドアが開いた。そこには、学生服を着たままの修哉がいた。
「……修哉」
「…おっす」
修哉はちょっと嫌な顔をして、僕のベッドの隣に立った。修哉は美香のことを快く思っていないのだ。勝手な勘違いなのだが。
「…様子はどうよ」
修哉は低い声で言った。どことなくピリピリしている。
「ああ……今のところ異常はない」
「そうか…。まぁ……今回は以前と違って、肉体的なものだったもんな」
「…肉体的なもの…?」
美香はそうつぶやいた。すると、修哉は横目で美香を睨んだ。
「お前には関係ねぇだろ」
「……え……」
美香の表情が凍りついた。
「しゅ、修哉!」
「小山内……あんたさ、なんも関係ねぇんだから聞き出そうとするな」
修哉は畳みかけた。
「か、関係ないって……」
「そうだろ? これは空の大切な人に関する事なんだ。お前なんかに話したら、知られてほしくない情報が流れるだろうが」
「修哉! やめろ!」
「そうやって、こいつらを悲しませるようなことしてほしくないんでな」
僕が止めようとしても、修哉は続ける。
「…私が、そういうことするような女に見えるっていうの?」
美香は震える声で言った。
「可能性の話をしたまでだ。お前は知らなくてもいいことだってあんだよ。知る必要はない。それだけだ」
「私だって! ……空のことを心配してるんだよ!!?」
美香は立ち上がり、今まで聞いたことのないボリュームで言った。
「どうしてそれがわからないの!? 友達を心配することが、いけないって言うの!?」
「んなこと言ってねぇよ。心配するって言うなら、他にも方法はある。内部事情まで知る必要はないって言ってんだよ。そんなの所詮、好奇心だろ? 違うか?」
「!! ……!」
「美香!!」
美香は顔を伏せ、そのまま走って個室から出て行った。
「おいっ、修哉!!」
僕は上半身を上げ、修哉の胸倉を掴んだ。
「……なんだよ」
「なんだよじゃねぇよ! お前……一体どういうつもりだ!!」
僕はいつのまにか大声を放っていた。
「…………」
「あそこまで言う必要はないだろ!? お前があいつのこと嫌いかどうか知らないが……あいつは、心配して見舞いに来てくれたんだぞ!!」
「だから? なんだってんだ?」
「あぁ!?」
修哉は掴んでいる僕の手の手首を掴んだ。
「お前、こんな時に別の女とイチャイチャしてんじゃねぇよ」
「! んなことしてねぇよ!」
「傍から見たらそういう風に見られても仕方ないってことだ。……大事な人がいなくなったってのに、何のんびりしてやがる!!」
「な、なんだと!」
僕は修哉の胸を強く押し、ベッドから降りた。その時、足に電流が走った。自分で刺してしまった足の傷が響く。
「お前に……何がわかる!!」
僕は修哉にケガの足を引きずりながら近寄り、再び胸倉を掴む。
「目の前であいつをさらわれた僕の気持が…わかるか!!?」
「…………」
「のんびりしているだと!? 何も知らないくせに、勝手なこと言うんじゃねぇ!!」
修哉は何も言わず、僕を強い視線で見つめていた。
「どうしていいか分からないんだよ! どうしてこんなことになったのか…どうして、あいつがさらわれたのかわかんねぇんだよ!!」
「…………」
「今でもあれが現実とは思えない…。本当は、あれはただの夢なんじゃないかって。…けど、わかるんだ。目の前に現れた男が、本物だってことが。あいつに受けた痛みも、恐怖も体が覚えてるんだ!」
頭では否定していても、体が言っている。
あれは、現実だと。
「届かなかった……。この手が、あいつが伸ばした指先に届かなかった。……お前に……お前に、わかんのかよ!!!?」
僕の怒声が静かな病室に響き渡る。キーンと音が反響していた。
すると、数人の医者と看護師が足早に入ってきた。
「ど、どうしたんですか!」
その人たちは、無理やり僕と修哉を離れさせた。
「なんとか言え! 修哉!!」
「やめなさい!」
医者たちに手などを抑えられ、修哉は何も言わず病室を出ようとしていた。病室から一歩出たところで、彼は振り返った。
「…自分だけが悲しいと思うな。自分だけが責任を感じていると思うな。世の中にはどうしようもできないことや、どうあがいても自分一人ではできないことだってある」
修哉の見つめる瞳は、痛いほど真っ直ぐだった。
「過酷なことが敷き詰められていて、その現実から逃げようとする。そして自分を責める。けどな、お前が支えを必要としているように、他の誰かもまた、同じような支えを必要としている」
「……」
「間違えるな。お前は独りじゃない。今、お前がどうしたいのかをしっかりと考えろ。そして、何をすべきか見極めろ。後悔は人を成長させない」
そう言うと、修哉は向き直って病室を後にした。
修哉の言葉が頭の中に残っていた。残響…とでも言うのだろうか。強烈なびんたを食らったような感覚に似てる。
「お前は独りじゃない」
深く考えていないつもりだった。でも、修哉に言いかかった時に本音が出ていた。あの時の恐怖が体に染み付いている。あの時の痛みもまだ覚えている。…と言っても、ケガの大本は自分で刺してしまった足なんだよな。
そして、自分への責め。あの時ああしていればよかったとか、ああすればよかったとか。ああしていたなら……こうしていたなら…。
れば、なら。仮定のことを言って自分を責めるだけ責めて、前に進まないのは現実から逃げているということ。それは至極当然のことで、わからないはずがない。なのに気付かないのは、自分がいつになっても弱いからだ。
今自分にできること。そして、支えを必要としている人が誰なのか。自分だけではない。ちょっと考えれば、わかることだった。自分の周りにだれがいるのかを考えれば…。
僕はナースコールを使い、看護師さんを呼び出した。
「あの、ちょっとお尋ねしたいんですが……」
僕は包帯でぐるぐる巻きにされた足を少し引きずりながら、ある所へ向かった。
「203……203………ここか」
203号室。僕の病室と同じで、ここも個室だとか。
そう、ここは海の病室。面会謝絶をしているらしく、家族や僕の両親しか入れなかったらしい。
コンコン
ノックをしてみたが、返答がない。…もう一度してみる。
コンコン
やはり反応はない。これ…前にもあったな。あの時は、たしか空とのことがばれてしまって…。
よそう。考えても、あの時には戻らない。後悔先に立たず、だ。
僕はドアを開けた。窓べりに置かれたベッドの上で、上半身を起して外を眺める少女の姿があった。微動だにしないその姿は、悲愴感を漂わせていた。
「…………」
僕はゆっくりと歩を進め、ベッドの傍に立った。細い肩が何かを訴えている気がした。
「海」
普通の声の大きさで、彼女の名前を呼ぶ。すると、海はゆっくりと僕の方へ体を向けた。
「あ……空」
キョトンとした表情。
「よかった…目が覚めたんだね。私が目を覚ました時には、空はまだ昏睡状態だって言ってたから…。先生は命に別条はないって言ってたけど、それでもやっぱり不安だった…。けど、平気そうでよかった」
ニコッと笑った彼女の顔。その眼の下には、涙の跡があった。ちょっとやそこらのものではない。よくよく見たら、彼女の眼は赤かった。それに、頬骨が以前より少し出ている気がする。ほんの1日やそこらで、痩せてしまっていた。
「空、歩いて大丈夫なの? 足に大ケガしたっておばさんから聞いたけど…」
海は僕の太ももを指差した。
「あ、ああ…まぁ大丈夫。激しい動きはできないけど、歩くぐらいなら平気なんだよ。…少し引きずるけど」
「無理ばっかりして、症状を悪化させないようにね。空って、いつもそそっかしいんだからさ」
「何でお前に言われなきゃなんねぇんだよ。そそっかしいのは自分だろうに」
「何言ってんのよ。空の方がそそっかしいでしょ」
クスクス笑う海の笑顔は、本物に見えた。どこから見ても、この笑顔を見れば平気なんじゃないかって思ってしまいそうだった。…けど、僕はわかる。その笑顔の中にある陰りを。陰に隠した本当の想いを。
「……ところで、お前の方は大丈夫なのか?」
「うん、平気。ちょっとあざができちゃったけど……」
「あざ? どこら辺に?」
「……手首とか」
「……見せてみな」
「えっ? い、嫌よ」
僕が近付くと、海は自分の手を布団の中に隠した。
「いいから、見せてみろって」
「嫌」
頑なに拒否する海。僕は彼女の手を無理やり掴んだ。
「やっ……!!」
彼女の手首には、青あざができていた。少し内出血もしているだろうか。…それだけあの男の握力が強かったということだろう。
「……お願い、見ないで……」
海は顔を沈め、僕と視線を合わせようとしなかった。
「……気にするなよ」
「気にするよ!」
彼女の声は少し大きくなった。
「……女だもん。気にするよ……」
「大丈夫だよ。その程度、残らないって」
「……それに、好きな人にこんなもの見せたくないもの……」
窓の方へ顔を向けた彼女は、まぶたの辺りを手でこすっていた。
「見られたくないの。だから……」
小さく震え始めた少女の肩は弱弱しかった。あれほどの恐怖を味わったのは、まだ15歳の少女…。
「私のせいだよね、お姉ちゃんがさらわれたのって……」
「……海」
声も震えている。
「私が家出して、あんな所にいなければ…お姉ちゃんがあそこに来ることもなかった。私さえ、馬鹿なことをしなければ……」
「…………」
「お姉ちゃんはここにいないのに、どうして私はここにいるんだろう……」
僕は言い終わるのと同時に、彼女の肩をつかみ、こちらに振り向かせた。
「お前は悪くない。お前が自分を責める必要なんてどこにもない。…お前は守ろうとしたじゃないか」
大粒の涙を流している少女の顔。それが、空を連想させる。胸が苦しかった。張り裂けそうで、死にそうだった。どうにかこうにかそれを堪えながら、僕は続けた。
「何が悪くて、何が駄目だったかなんて考えるな。そんなことを考えていても仕方ないだろ。今は…今は、泣いていいんだ」
「……でも…自分を責めることでしか、私……」
僕は頭を振った。
「責めなくていい。あの状況では、しょうがなかったんだ。どうしようもできなかった。…起きてしまったことを悔やむな。お前に責任はないんだ。何一つ…」
そう言うと、海は僕に抱きついた。
「………うわあぁぁぁ!!」
泣きじゃくる海。僕はそれ以上何も言わず、彼女を抱きしめた。こんなに、彼女の体は細かっただろうか…。
しばらくして、海はすすり泣き程度になった。
「…ごめんね」
海が小さな声で言った。
「私、泣いてばっかりで……空だって………」
「…気にするな」
「…………」
彼女は僕から手をほどき、涙を拭いた。
「…これから……どうしよう…」
「そうだな…。ともかく、あの男がどこから来たのか…知る必要がある」
とは言いつつも、僕は奴がどこから来たのか、おおよその見当は付いていた。
レイディアント……。リサ…が言っていたもう一つの世界。
そうとしか考えられない。僕は一度、あの門から別世界へ行った。夢なのかと思っていたが…どうやら本物だ。いや、本物だとわかっていたが、それが現実と認めることが怖かった。……自分が、他の何者かになりそうで……。
他の何者に、か……。
最近、わかんなくなってきてる。自分が自分でいることの……なんていうんだろう。言葉が、思いつかない。
「…でも、どうやって調べるの?」
海は首をかしげた。その言葉で、僕は我に帰った。
「そりゃお前……図書館にでも行って、あの山のことを調べるんだよ。もしくは、神話的なものが載ってある本を調べるのもいいかもな」
あれが本当なら、そのことを「神隠し」などと言われていたこともあるかもしれない。そういう話の多くは、神話や伝説となって語り継がれるはず。…勝手な予想だが、まぁ気にするなってことで。
「…見つけられるかな…」
「見つける。絶対に見つける。…どこの誰かもわからない奴に、あいつの人生を台無しにさせてたまるか」
「空……」
海は再び、すすり泣き始めた。
「…辛かったな」
「…………」
「でも、お前は独りじゃない。…お前の傍にいるから」
海は声を上げないでたくさんの涙を流し、再び僕に抱きついた。
修哉の受け入りだが…海に言っておくべき言葉だと思った。
翌日、修哉が一人でやってきた。
「昨日はすまなかったな」
修哉は謝ってきた。くしゃみしそうなくらいびっくりしたが、それを通り越して、一瞬の間思考停止に陥った。
「い、いや………僕の方こそすまない」
とりあえずお約束。
「…あの日は少々腹立つこともあったんでね……。それも重なって、小山内には申し訳ないことをしたな…。今度会ったら、正直に謝るよ」
「…その方がいいだろうな」
修哉はバツが悪そうに頭をかいた。
「……まぁ、今日はお前に伝えておかなきゃならないことがあって、ここに来たんだ」
「なんだよ? 改めて」
修哉は近くの椅子にどかっと座った。
「どこから漏れたかは知らないが…世間で空ちゃんが行方不明になったことが話題になってる」
「…え?」
「おじさんとおばさんは、しばらくの間世間は勿論、警察にさえいなくなったことを言わなかった。…それはお前や海ちゃんのためだ。心に傷を受けたばかりのお前たちに、掘り返すようなことをしたくなかったんだ」
「…………」
それはなんとなくわかっていた。おじさんやおばさんがお見舞いに来ても、空のことについて話そうとはしなかった。…逆に、それが僕の胸を締め付けた。わかるだけに、心が痛い。
「……今日、事件のことを知った警察が、日向家に向かったらしい」
「…なんだって?」
「警察も本格的に捜査に乗り出すだろうな。その時、空。お前は一番最初に怪しまれるだろう。事件の首謀者として」
「!? おいおい……」
僕は冗談だろと言わんばかりに笑った。
「それが冗談でもないんだよ。学校ではすでに大騒ぎしているし、学校側は『彼女は休学』の一点張り。何も知らない世間は、興味本位で勝手なうわさをねつ造し始めている」
「………」
「いいか、空。これから世間はお前の敵になり、お前を弁護する人間は数少なくなる。お前を信じようとする者も、わずかに限られる」
修哉は立ち上がり、窓の方へ歩き出した。
「…警察はお前の所にも来る。気をつけろよ」
「…わかった」
僕はうなずいた。
「めげるなよ。お前にはお前にしか出来ないことがある」
「わかってるよ。…ありがとう、修哉」
「ハハ、よせよ。お前の柄じゃないだろ?」
修哉は笑いながら僕の頭を軽くはたいた。
「………しな」
「? なんか言ったか?」
「ん? なんでも」
ニコッと笑い、修哉は言った。
最近、修哉は独り言が多い。それに、どこか遠い眼をして何を考えているのか分からない時もある。
修哉は他人に甘えようとしない男だ。自分が辛い目にあっても、苦しい時でも泣き言を言おうとしない。誰かを頼りにするのではなく、自分で解決しようとする。あいつは最善な方法を導き出し、解決する。だからすごい。けど……それは、周りにいる僕たちが頼りないからなのかもしれない……。
……少し、寂しい気はするけどな。
火曜日。海は午前中に退院した。僕はまだ足の傷が癒えていないので、まだ入院することに。
その日、変なことが起こった。医者もびっくり、足の傷がほとんど治っていたのだ。医者が言うには、「一日やそこらで治るような傷じゃない」とのこと。木の枝で刺したんだ。それなりの傷だった。回復力が常識よりも高かったということで、一応、先生一同納得……しちゃいけないと思うんだけどな。
翌日、僕は激しい運動は禁止されているものの、退院することになった。念のため、車で帰った。
「…空ちゃんのことだけど…」
テーブルの席に着いた僕と母さんと父さん。父さんは今日、会社に無理を言って休みをもらったのだと言う。
「…何があったのか教えてくれないか?」
「…………」
言わない方がいい。もし言っても、信じてもらえない可能性がある。気がふれたとしか思えない、と考えるかもしれない。
やはり言わないでおこう。余計な心配をかけたくない。僕はそんな気持よりも、言わないということは間接的に両親を信用していないのではという思いで、自分が嫌になっていた。
「…今は言えないんだ。ごめん」
「…………」
「でも、ちゃんとしたことがわかったら話すよ……絶対」
「…そうか。わかった。それまで待とう」
父さんはほっとした表情になった。
「でも、あなた……」
「俺たちは空を信じていればいい。そうだろ?」
「……そう…だね」
母さんは渋々納得したような感じだった。申し訳ないと思いつつ、僕は「ありがとう」と言った。こんな僕を信じてくれることが、どんなに心強いことか…。
その日の夕方頃、海がやってきた。
「あれ……? お前、学校は?」
まだ4時。海は吹奏楽部なので、部活があるはずだった。それに、私服だったし。
「…行ってない」
「おいおい……」
「だって、空がいないから……心細くて……」
僕の呆れた顔を消すように、すぐに海は言った。
そっか…。空がいないし、修哉の話では話題になっていると言う。…海が一人で行けば、他の生徒の好奇心の餌食にされていたかもしれない。知ってか知らずか、海は危険を回避していた。
「…まぁ、明日は行けよ」
「…嫌…」
と、海はそっぽを向いた。まったく……ガキじゃねぇんだから……。
「わがまま言うな。一緒に行くから」
「…ケガ、治ってないのに?」
「激しい運動が禁止されているだけだよ。学校ぐらい行ける。それに、お前一人じゃ心配だからな」
「な、なんでよ!」
海はいつもの感じで怒った。
「…一人にしてたら、お前はまた自分を責めるだろ?」
「……空……」
海は嬉しいんだか泣きそうなんだか、中途半端な表情になっていた。
「泣くなよ。泣いたら一緒に行かないからな」
「な、泣いてないよ!」
そう言いながらも、手でまぶたを拭っていた。
「…ところで、お前に話しておきたかったことがあるんだけど」
「な、何?」
海は涙を拭き、僕にいつもの瞳を向けた。
「明日、町内の図書館に行こう」
「図書館?」
「ああ。言ったろ? 調べるって」
「そ、そうだったね」
「明日学校が終わったら、一緒に行こう」
「いいけど…何も今言わなくても……」
「…たぶん、学校ではあんまり会えない。空のことがあるから」
「…そっか…」
海はしゅんとした。
「とりあえず、お前は部活があるから……」
「いい。サボる」
「…あのな」
「だって、時間を無駄にはできないよ。お姉ちゃんのためだもの……部活なんて、どうでもいい」
「………」
彼女の気迫は、今まで見たことないものだった。
「…わかった。それじゃあ4時に駅前ってことで」
「うん、わかった」
「よし、決まり。……情報が見つかるといいんだけどな…」
「大丈夫だよ。……きっと。ね?」
「ね?」…と言う海の表情が、いつかの空とうり二つだった。ああ……やっぱり、二人は双子なんだな。外見はどこからどう見ても同じだ。けど、中身は違う。二人を同じような扱いはしない。空は空、海は海なのだから。
5月17日、木曜日。五日ぶりに学校へ行く。内心ドキドキしながら、僕は教室に入った。
ドアを開けた瞬間、みんなが一斉にこっちを向いた。そして、さっきまでの話し声がピタリと止んだ。その静けさがあまりにも気味悪く、僕の動きも止まってしまった。
「…お、おはよ」
そう言うと、再び教室に雑談が戻った。しかし、先ほどまでのざわつきではなく、何かをこそこそと話している風でもあった。
「おはよ、空」
すると、目の前に美香が現れた。修哉のことがあるので、僕は少しぎこちなかった。
「…おはよ」
「退院したって聞いたけど…もう学校に来ても大丈夫なの?」
美香はいつもと同じ感じで言った。
「ん……まぁ、激しい運動以外なら大丈―――」
その時、誰かがいきなり僕の首にチョークスリーパーをかけてきやがった。
「うぉーっす! 病み上がり」
「てめ…和樹!」
「やめなよ……空は退院したばっかりなんだから」
和樹の隣で、呆れ顔の啓太郎が立っていた。
「ちょっと進藤。空、足に怪我してるの知ってんでしょ?」
「まぁまぁ。祝いだ、祝い」
「どんな祝福の仕方だよ……。ご返送願いたいもんですがね」
「んだとぉ?」
相変わらずで、なんだか僕はホッとした。あれこれ聞かれるんじゃないかって、ある意味覚悟していた。
「あ…美香」
「ん?」
僕は和樹の腕をほどき、一度咳をして喉を整えた。
「あのさ……見舞いに来てくれた時のことなんだけど……」
「あっ……あぁ……」
あれか…という表情だった。
「僕が言うのもあれだけど……気分を害してすまない」
「…空が謝ることじゃないよ。私が勝手に首を突っ込んで……」
「でも、あれは僕から見てもひどいと思う。だから…本当にすまない」
僕は頭を下げた。
「ちょ、ちょっと…やだ、やめてよ。もう気にしてないからさ」
美香は笑いながら言った。けど、あそこまで言われて平気なはずがない。修哉の考えていることはわかる。それでも、納得できない部分はある。
「おいおい…お前、小山内に何やらかしたんだ?」
和樹は腕組をしながら言った。
「…まぁ……」
とりあえず、僕たちは席に着いた。そこで、修哉のことを話した。
「…なるほどね」
和樹はフー…と長い溜息をついた。
「あいつも困った奴だな…。そんなに小山内が嫌いなのか?」
「訊かれてほしくないことを訊かれたら、誰だって怒るよ」
「あのな、小山内…第三者の俺が訊いてても、修哉が一方的だとしか思えないぞ。たまにゃガツンと言わんとダメかな」
「…修哉は後で、言い過ぎたって言ってた。いつになるか分からないけど…あいつ、ちゃんと謝るって約束してくれたよ」
「…………」
和樹はふてぶてしい顔で頭をポリポリとかいていた。
「…修哉はさ」
ずっと傍聴していた啓太郎が口を開いた。
「なんにでもはっきり言っちゃうんだよ。自分が思ったことを」
「それが厄介だってことだよ」
「和樹、最後まで聞けって。……修哉は修哉なりに空たち…幼馴染の3人のことを大切に思ってるんだよ」
一言も「日向姉妹」のことは言っていないが、啓太郎はそこを付け加えた。
「あいつにとって、一番の親友は空。大切な幼馴染が日向姉妹。…3人のこととなると、あいつは外部を遮断しようとする。言い方は悪いかもしれないけど、虫が寄らないように…みたいなものじゃないかな。小山内さん、君が虫っていう意味じゃないからね」
啓太郎は苦笑いをした。
「…空があまり言いたくないようなことを、心配してとは言え訊いてきたことが許せなくて、ついカッとなったんだと思うよ。今までだってよくよく考えたら、修哉は空が辛い時には傍にいたし、回りくどい言い方をしてまで支えようとしてるんだよ。……それだけ、修哉は幼馴染を大切にしてるってことさ」
「…………」
「和樹には和樹の優しさがあって、修哉には修哉の優しさがある。人それぞれなんだよ。正しいかどうかは、別問題としてさ。……だから、あんまり修哉を悪く思わないでやってよ。あいつだって、反省する点はあるけど」
啓太郎…。あまり口出そうとしない奴だけど、一番思慮する。ここぞって言う時に、あまり感情に振り回されないまま、大事なことを言う。
「…まぁ、啓がそう言うなら…なんも言わねぇよ」
和樹はそう言って、もう何も言わなかった。
「…小山内さんは何も悪くない。修哉も…しいて言えば悪いかもしれないけど、許してやってくれない? あいつ、不器用だからさ」
「…うん。もう、そんなに気にしてないから」
美香は優しく微笑んだ。
僕は後で、啓太郎に「ありがとうな」と言った。
「…たまにはこういうこともしないとね。ほら、僕たちの友達ってユニークなのが多いしさ」
「…それは、僕も含まれてんの?」
僕がそう言うと、啓太郎はキョトンとした。
「え? 当たり前じゃん」
「……やれやれ……」
ほつれかけた糸を結び直す。それが啓太郎なのかもしれない。
昼休み。僕たちは屋上で昼食を取っていた。今日は美香も一緒だった。
「あ……修哉」
啓太郎がそう言うと、ドアから服装をちゃんと着ていない生徒がやってきた。
「チャラ男だ、チャラ男」
和樹は笑いながら冷やかした。
「うっせ。お前と俺、同レベルだっつーの」
辺りを見渡しながら、修哉は僕たちの前に立った。
「小山内」
「…はい?」
なぜか敬語。彼女も、ちょっと緊張しているのかもしれない。
「…あん時はすまなかった。ごめん」
すると、修哉は深々と頭を下げた。ネックレスが垂れ下がる音がした。修哉が頭を下げたことなんて今までなかったので、開いた口が閉じなかった。
「いいよ、もう。…柊君の気持ちが、少しわかったから」
美香はそう言って、笑顔になった。修哉は頭を上げると、再び話し始めた。
「…けど、空が自分で話そうとするまで、今回の件には触れないでくれ。…和樹、啓。お前たちも」
「…わかってるよ。俺たちも空を信じてる。…それだけは、理解しておいてくれよな」
和樹は顔をそらしながら言った。少し、照れているのだろう。
「…ところで、柊君」
「??」
美香は立ち上がり、修哉の前に立った。
「私と友達になってくれない?」
予想外のことを言われた修哉は、目をパチクリさせていた。
「……友達?」
「そっ、友達。中・高と一緒で、共通の友達を持ってるのにほとんど会話らしい会話をしたことなかったよね。…柊君って、どこか怖いイメージがあったけど、今日でイメージが変わった。だから、友達になろうよ」
「…勝手にそう決めたら? お前にとっての友達の境界線が、必ずしも他人のそれと同じだと思うなよ」
まーた嫌なこと言ってからに…。
「じゃあ、勝手に決める。友達になろ」
「……………」
そう言うと、美香は握手の手を差し出した。修哉はほほを2度人差指でかき、握手をした。
「これからもよろしくね、柊君」
「…修哉でいいよ。柊って言われるのは、あんまり好きじゃないんだ」
そう言うと、修哉はそっぽを向いた。美香はそれを見ながら笑顔になり、
「わかった。よろしく、修哉」
すると、修哉は唇をへの字にさせ、ちょっと照れ始めた。
「…あの子たち以外の女性に面と向かって下の名前を呼ばれると、なんだか照れくさいな」
「ハハハ、なんだよそれ」
ようやく、修哉は笑顔を見せた。
「…あれ?」
美香が修哉の手をジロジロ見始めた。
「柊…じゃなかった。修哉……ケガしてるの?」
「ケガ?」
修哉は自分の拳を眺めた。
「…あぁ………さっきのか」
「さっき?」
「…まぁ、ちょっとあってな…」
そう言って、修哉はペロッと舐めた。
「大丈夫?」
「小山内が気にすることでもないよ。こんなの、ただの掠り傷だ」
「あ、できれば私も名前で呼んでもらいたいんだけど」
再び、不意を突かれた修哉。さっきと同じように何度も瞬きをし、最後に微笑んだ。
「…美香が気にするほどのもんじゃない、…な?」
そして、二人は笑い合った。
「なんだぁ? いい感じじゃないか」
和樹は僕の耳元でささやいた。
「雪解け…まぁ、修哉が一方的だったんだけどね」
啓太郎は微笑ましく見ていた。
なんにしてもよかった。美香が修哉をひっぱたくのが先か、修哉が暴言以上のことを言うのが先か…冷や冷やしていた。
バンッ!!
その時、屋上の出入り口のドアが勢い良く開いた。そこから、男子生徒がぞろぞろと入ってきた。あまり見慣れない奴らで、調子に乗っている不良もどき…みたいだな。
「やっぱりここかぁ、柊〜」
一番前にいる生徒が、ケンカ口調で言った。
「……なんか用っすか? 先輩」
先輩…なるほど、見慣れないはずだ。3年生とはあんまり会わないからな。
「しらばっくれるなよ? てめぇが後輩に手ぇ出したのは知ってんだよ」
「後輩? 俺も一応、先輩方の後輩ですけどね」
修哉は軽い口調で続ける。
「卑怯とは思わないのか? 後ろから不意に殴るなんてよぉ」
そうか…あの傷、その時のか。
「卑怯? 卑怯って言いました?」
そう言うと、修哉は笑い始めた。
「てめぇ! 何がおかしい!」
「ハハハ……自分のこと棚に上げて、何言ってんだか。笑わせるなよ、先輩。俺一人に対して、十人近くの仲間でケンカしようとしてるくせによ……ああ、おかしい」
「あぁあ!!?」
決して熱くなろうとしない修哉。うーん、上手。
「…学校の頭気取ってる、3年の唐橋〈カラハシ〉とその下っ端だ。修哉が目立つってんで、前々から狙ってたって話だ」
和樹は小さな声で言った。なるほどね…。気に食わないから、いちゃもん付けてぼこぼこにしてやろうってことか。くだらない。
「てめぇ、前々からムカついてたんだよ! 調子に乗りやがって」
「ハハ…ただ、気に食わないだけでしょ? 自分とは違って勉強も出来て、運動も出来てもてるから」
修哉のケンカするところは何度か見たが、なんとまぁ油に火を注ぐのがうまいこと。爆発しなきゃいいけど。
「いい加減にしろよ! 理由もなく人を殴っておいて、ただで済むと思うなよ!」
「だったら先輩は関係ないだろ? 本人を出せよ」
「あぁ!?」
「それとも何か? 強そうな奴の陰にいないと、仕返しもできないってか? ハハハ! お笑い草だな。いいぜ? それでも。だが、それじゃあてめぇらは一生臆病者〈チキン〉さ。そのまま生き続けたいなら、隠れてろよ。チワワみたいに」
ハハハ! 修哉の笑い声が木霊する。
「てめぇに言われたくねぇな。殺人鬼の親友のくせしてよ」
「…殺人鬼だと?」
修哉の笑い顔がピタリと止んだ。
「そうだろ? おい、東」
唐橋は僕を指差した。ん? ご指名?
「お前…人殺したんだって?」
「…は?」
なんだそりゃ。本人も初耳ですが。
「学校中、その話でもちきりだぜ? お前は日向空を殺して、山の中に埋めたってよ」
「な、何!!?」
殺して埋めた!? だ、誰がそんな作り話を…!
「最低だな、お前。女の子殺して、誰にも見つからないよう埋めちまうなんてよぉ。証拠不十分で警察には捕まってないんだって? さっさと自白しろよ、てめぇ! おかげで、俺らの学校の面目が丸つぶれだろうが!」
「何言ってんだ! 僕はそんなこと――」
「んな殺人鬼と同じ学校に通うなんてごめんなんだよ! 殺されちゃかなわねぇからなぁ」
そして、唐橋は下品な笑い声を出した。僕は気がつけば、拳を強く握りしめていた。痛みなんて感じなかった。ただ、許せなかった。
「…おい」
修哉はゆっくりと唐橋を指差した。
「その汚ぇ口を閉じろ。殺されたくなきゃな…」
「はぁ? 殺すって? この人数相手に、一人でどうにかなるってのかぁ?」
「当たり前だ。てめぇらみたいな低俗の群れなんぞ、5分もしないうちにあの世行きだ」
修哉は冷たい声で言った。さすがの僕も、少し怖いと感じた。
「いくらお前が強かろうが、一人じゃ……」
「はいはーい。俺も参加します」
突然、和樹が言った。片手を挙手し、修哉の隣に並んだ。
「どう考えても先輩方に非がありそうなんで、こちらに参戦します」
「てめぇは…進藤か。ふん、ちょうどいい。お前も最近鼻につくんだよ」
「そうっすか? だったらちょうどいいじゃないですか。てか、それってただの嫉妬でしょ? 自分がもてないから」
「あぁ!?」
「あれっ、図星でした? そうですよねぇ。先輩、不細工ですもん。気づいてたなら、まだ救いようはありますけどね」
そう言って、和樹は修哉の肩を叩きながら笑い始めた。修哉はやれやれと思っているだろう。
「この…やっちまえ!!!」
いつの時代のセリフやねん…。唐橋の号令とともに、十数人の3年がこっちに突撃してきた。それと同時に、修哉と和樹も突撃した。
「あ〜ぁ………ったく。啓太郎、美香を連れて逃げてくれないか?」
「ハイハイ。結局、空も参加か」
啓太郎は少々呆れ気味だった。
「……だってよ、あそこまで言われて怒らない方が――」
「変、だな」
啓太郎はニコッと笑った。
「後悔させてやりなよ」
僕はうなずき、乱闘へ突っ込んだ。
数分後、決着は付いた。3対12〜3人に勝てるもんなんだな…。体中いてぇ…。まぁ、ほとんど修哉と和樹だが。
「おら、立てよ」
修哉は、倒れて顔の腫れた唐橋の胸倉を掴んだ。
「…お…覚えてろよ…」
「減らず口はまだ出るのか。…いいか? てめぇらが先に仕掛けたんだ」
「あ…あぁ? お前が……」
「お前らだろうが!!」
修哉は怒声を放ち、唐橋から手を離した。そして、その横に倒れている男の胸倉を掴んだ。
「こいつは何を言ったと思う?」
「ん…んなの、知るか……」
「…こいつは、俺の一番大事な親友を言葉で穢したんだ!!」
修哉はその男を引っ張り、上半身を無理やり起こした。
「あることないこと言いやがって……。本当のことも知らないくせに、相手を傷つけてもいいってのか!? どうして、他人が自分と同じようにもろく、傷つきやすい人間だと思わない! どうして、その人がどこかで苦しんでいると思わない!!」
いつだって冷静な修哉が、怒声を放っていた。その姿に驚くと共に、僕の中に喜びが浮上してきた。
「あいつを……あいつたちを傷つけるってんなら、俺は……てめぇらを許さねぇ!!」
「……修哉……」
僕は泣いてしまいそうだった。修哉は…きっと、僕が空を殺したとかいう変な噂を誇張して話していた先輩たちをたまたま見つけ、殴りつけてしまったのだろう…。そのことを、僕は本人の口から聞かなくても、曖昧ではあるが悟った。そう感じただけで、涙腺が緩んだ。
「修哉は空が辛い時には傍にいたし、回りくどい言い方をしてまで支えようとしてるんだよ」
ああ。そうだな、啓太郎。人は見えないところで、たくさんのものに支えられ、護られて生きているんだな。
「ふん……証拠でも…あんのか…?」
「……何?」
細い声が言った。修哉は男から手を放し、唐橋の方に顔を向けた。
「…そいつが殺してないって…証拠でも……あんのかよ…」
「…………」
唐橋はへへ、とほくそ笑んだ。
「ヘヘヘ……どうせ、そいつは警察に捕まるんだよ…」
修哉はゆらりと唐橋に近づいた。
「捕まって……裁判かけられて…ヘヘ……実刑判決だ……」
「唐橋! てめぇ!!!」
和樹が殴りかかろうとした時、修哉がそれを阻んだ。
「修哉!? とめ――――」
和樹の言葉は止まった。なぜ止まったのか、見ればわかる。修哉の体から立ち込める、何かを察知したからだ。それは僕にも離れているわかるほどだった。
「なんだよ……てめぇ……」
「…まだ、しゃべるつもりなのか? 俺はお前の声はもう聞きたくないんだが…」
修哉は冷たい顔で唐橋を見つめる。
「人殺しの仲間のくせに……!」
「……よっぽど死にたいらしいな……」
修哉はそう言うと、掌を唐橋の目の前に広げた。
「…汚い口に、汚い歯はいらないよな…」
すると、突然悲鳴が上がった。唐橋が足をバタつかせていた。
修哉は……唐橋の歯をもぎ取っていた。彼の右手には、血に染まった歯が何本もあった。
「しゅ……修哉…!?」
「お、おい! 修哉、何してんだ!!」
「…痛いか? よかったな。これで、一生虫歯知らずだぞ」
修哉の声はひどく冷たく、鋭利だった。日本刀のイメージを浮かばせる。
「あが…ががが………!」
のたうち回る唐橋。口から大量の血が流れている。
「…ほら、もういっちょ」
バキッ!!
「ギャアアアァァァアアアー!!!!!!」
唐橋の悲鳴とともに、嫌な音がした。
「おっと、すまん。…ちょっと力を入れすぎたな…」
修哉は唐橋の苦痛に歪む顔を見ても動じない。
「……人間って、死んだらどうなるんだろうな? 本当に、天国やら地獄みたいな世界に行くのかね?」
まるで独り言のように、修哉は言う。その異様な彼の姿に、僕の体は止まってしまっていた。
「…いつか、そこに行くんだ。この際だ。……お前に、行ってもらうとするか」
修哉は凍りつく笑顔のまま、腕を引いた。
「があー! ああぁぁ!」
「心配すんな。……一瞬だから、さ」
逃げようとする唐橋。恐怖に怯える目。
……まさか……!!
「……死ね……」
「修哉! よせ!!」
僕は走り出していた。
ドガァァ!!
大きな音が響いた。校舎そのものが揺れたかのようだった。
「…………」
修哉の拳は……床にめり込んでいた。唐橋は目を裂けんばかりに開き、口をパクパクさせていた。
「……命拾いしたな……唐橋」
和樹が修哉の体を押していたのだ。ずれた軌道は、唐橋の頭のすぐ傍にめり込んでいた。
「こらぁ!! 何をしている!!」
ごつい教師たちが出入り口からやってきた。きっと、美香たちが連絡したのだろう。
「…次はない。いいか……? その腐れ果てた脳みそでよく考えるんだな…」
唐橋はカニのように口から血の混じった泡を吹き始め、失神した。
聞いた話では…後に唐橋は気が狂い、自殺してしまったのだという……。
「なぜ、こんなことをしたんだ?」
生徒指導室。ここに入るのは初めてだ。僕と修哉と和樹の3人は、先生たちが座るテーブルの目の前に立たされた。
「…あそこまでする必要性はあったのか? 柊」
先生はさっきから何度も同じ質問をしていた。
「…………」
そして、無言の一点張り。これの繰り返しだった。
「…唐橋は気を取り戻したそうだが、ひどく怯えている。病室内で暴れ、看護師さんや医師に怪我を負わせたそうだ。……今は、精神病院に移されたそうだ」
「精神病院……」
和樹が小さな声で呟いた。
「……優等生のお前が、なんでこんなことをしたんだ? これでは、大学入試に影響が出るのは必至だぞ?」
「……優等生、か。……ククク……」
修哉は小さく笑い始めた。
「何がおかしい?」
先生が冷ややかな視線で修哉を見ると、彼はようやく口を開いた。
「優等生だって? それは、あんたらがそうしておきたいってだけだろ? 俺をこの〈ゆりかご〉の中で飼い続けなきゃ、あんたたちの評価に関わる。あんたらにとって、生徒を管理・指導していくことよりも、俺を〈優等生〉にしておくことの方が大事な仕事だもんな……」
「…………」
評価に関わる? なんのことだ?
「……柊、俺たちは――」
「先生」
修哉は先生の言葉を遮った。
「……俺は自分のしたことを悔いるつもりはないし、改めるつもりもない。言っておくが、奴らが俺の親友たちを冒涜しなければ、こんなことにはならなかった。俺も、あそこまでしなかった。…何かに責任を求めると言うのなら、それは奴らにある。それでも俺に責任を求めると言うのなら、空と和樹は関係ない。こいつらはただの正当防衛だ。襲って来たのは、奴らなんだからな…」
「…………」
先生は小さくため息をついた。
「たしかに、聞いた話ではそうらしいな。だが、そうであるからと言って、人をあそこまで痛めつけていいわけないだろ。いい加減、ガキみたいな考え方をするのはやめろ」
「それは俺に言うことじゃないね。俺は教えただけさ。…人を無為に傷つけると、どうなるかを……な」
横目で見た修哉の眼は、恐ろしかった。たぶん、先生も同じ気持ちだろう。
「……お前がそういう態度じゃあ、停学は免れんぞ」
「もとよりそのつもりですよ、先生」
修哉はニコッと笑った。先生の背中には、きっと冷や汗が滲んでいるに違いない。
「だったら二人はもう用なしでしょ? 帰してやってください」
「……わかった。東と進藤、二人は授業に戻りなさい。君たちは厳重注意…ということにしておく」
「でも…修哉……」
僕が言いかけると、修哉は首を振った。
「俺のことはいいから、先生の言う通りにしろ。…気が変わらないうちに」
「…………」
僕と和樹は一礼し、生徒指導室から出て行った。
「……修哉のやつ…」
教室へ戻る途中、和樹は言い始めた。
「本当の意味で何を考えているのかよくわからなかったが……」
すると、和樹は立ち止まった。
「和樹?」
「……あいつ、本当は何も信じちゃいないんじゃないか…?」
僕も立ち止まった。
「…それって、どういう…?」
そう訊ねると、神妙な面持ちの和樹は少し考えてから言った。
「……何となく感じたっていう話だけど、あいつはこの世の何も信じていないって言うか……もし、世界が滅びようとしていてもあいつは見捨てる……」
「…………」
「……ような気がする。あいつのあの時の目を見ていて…そんな感じがした。曖昧な言い方だけどな……」
世界を見捨てる。その言葉が、頭の中に残っていた。
「俺、初めてあいつのことを怖いと思ったよ」
すでに、クラスメイトの間ではさっきのケンカが話題になっていた。あんまり話したことのない同級生にまで、そのケンカのことについて訊いてきた。そう、野次馬だ。その時にどさくさに紛れて、「空」のことについて訊いてきやがった。
「ぶっちゃけ、何したの?」
チャラチャラした女が言った。
「…………」
「ねぇ、教えてよ。東、行方不明のことに関係してるんでしょ?」
「つーか、殺したってのは本当なのか? 山中に埋めたって聞いたけど…」
僕はキレそうだった。
噂に惑わされる奴ら。
興味本位で人の悲しかったことを訊き出そうとする奴ら
できることなら……この場で、「お前たちを埋めてやろうか」と言ってやりたかった。
「み、みんな…やめろよ。空にだって言いたくないことあるんだよ」
啓太郎が止めようとするが、野次馬どもはそれを無視して訊こうとする。
本当に殺してやろうか…。
ドクン
胸が熱かった。情熱とか、そういう類のものじゃない。心を焦がす、何かが燃え始めていた。
不確かで、曖昧で…それでいて、はっきりとしているもの…。
「いい加減にしろよ!!」
机が叩かれた音とともに、怒声が響いた。それは……和樹だった。彼の顔は怒りで震えていた。
「てめぇら! 興味本位でそういうことを訊き出そうとすんなよ!!」
教室は静まりかえった。みんなの視線が和樹に集まる。
「空にとって、一番大事な幼馴染がいなくなったんだぞ! なのに、空は誘拐犯だとか殺人犯だとかあることないこと言われて、可哀そうだとは思わないのか!?」
「…………」
「言われている空の気持ち……考えたことあんのか!!? お前らはそれさえも考えられないのか!? それでも、クラスメイトかよ!!!」
和樹……。僕の中で燃え始めていた炎が、消えた。
「ギャーギャーわめくなよ。これだから頭の悪い奴は……」
「! 誰だ、ゴラァァ!!」
ガラガラーン!
和樹は近くにあった机を蹴り飛ばし、声が聞こえた方へ進んだ。
「てめぇか!」
和樹は男子生徒の胸倉を掴み、睨みつけた。
「もういっぺん言ってみろコラァ!!」
「低度な奴は、迷惑だって話だよ!」
「……んだとぉ!! ウラアァァァ!!!!」
ガシャーン!!
和樹はその生徒を思いっきり殴りつけた。そのまま倒れこんだそいつを、和樹は馬乗りになって殴り始めた。
「和樹!!」
いつの間にか啓太郎が走り寄り、和樹の動きを止めた。
「啓! 止めんなぁ!!」
「これ以上やったら、停学どころの話じゃなくなるぞ!!」
「うっせぇ! 俺の……俺たちの親友を馬鹿にする奴は、誰だって許さねぇ!!」
「だからって、暴力で証明するのは良くないよ!!」
「じゃあどうしろってんだ!! こいつら……糞みたいな野次馬どもは、ああやって興味本位で人を追い込んで追い込んで……! 殴らなきゃ、理解させることができないことだってあるんだよ!!」
その時、教室に先生が入ってきた。男性教師が、何事かという顔で。
「離せ! 啓!!」
「駄目だ! お前が退学になったら、僕や空はどう感じると思う!?」
「………!!」
和樹の動きが止まった。
「……お前がいなくなったら、寂しいじゃないか……。それを、わかってくれよ……!」
「…………」
和樹は体から力を抜き、立ち上がった。
「けっ、気持ち悪い友情だな」
「!! うらあぁぁ!!!」
その一言に、再び火が付いた和樹。今度は啓太郎一人の力では止められなかった。
「やめなさい!!」
教師たちが一斉に和樹に飛びかかる。
「んだよ!! 離せ!!」
床に押し付けられた和樹。彼は教師たちの腕を振り払おうと、暴れている。
「よせ! 和樹!!」
いつの間にか、大声を放っていた。
「……空……」
和樹は僕に目をやる。
「もういいよ、和樹。お前がそうしてくれるだけで、本当にうれしいよ。ありがとう」
心から出た言葉だった。
「一言言っておく」
僕は周りに目をやった。
「お前らがどう思うと知ったこっちゃない。けど、これ以上友人を傷つけるようなことをするなら……絶対に許さない。絶対に許さないからな!!!」
和樹は相手の鼻骨を折るなど、全治1ヶ月のケガを負わせた。…和樹は無期限の停学処分となった。
すでに海は駅前に行っているらしく、僕は帰り道が駅の方である美香と一緒に、途中まで一緒に帰ることにした。
「今日は……大変だったな」
僕は空を見上げながら歩いていた。
「そうね…。いろんな事がありすぎて、あっという間だった…」
「…今日は辛い一日だった。けど、すごくうれしい一日でもあった」
「……どうして?」
美香の声はトーンが高かった。ご機嫌、ということだろうか。
「友達がどれほど大切な存在なのか……思い知らされた一日だった。こんなにも、みんなのことを好きだと感じたことはなかったよ」
「羨ましいな、ホント」
「……なんで?」
僕はなんとなくわかっていた。その理由を。
「男の子の友情って、すごくきれいなんだもの。誰かを思いやって、その思いやりで自分が損することをいとわない。…ほら、女の友情は結構もろいって言うでしょ? だから……男子がうらやましい。私も、男の子として生まれたかったな…」
女だから、そういう友情の形に憧れる…。
「何言ってんだ。男も女もない」
「え……?」
僕が立ち止まると、美香も立ち止まった。
「男の友情だとか、女の友情だとか……そんな境界線なんて、存在しないよ。なんつーか……そう区切るのって、おかしい。だって、大切な存在ってのは男も女も関係ないだろ? 大事なのは、どれだけ他人を思いやれるかどうかなんだ。それにな、美香」
美香は僕を見つめた。
「……お前は、僕の親友だ。女だからって、和樹や啓太郎と区別するようなことはしないよ。お前は大事な友人だ。お前たちのためだってんなら、なんだってやってやるよ。……絶対にな」
そう言って、僕は微笑んだ。
友人の……大切な人たちのために、自分を犠牲にするってのも悪くない。そうだろ?
「……空……」
彼女は僕から目をそらし、少し離れた。
「やだ……泣いちゃいそう」
「…………」
僕に涙を見せないようにしている彼女の背中は、とても美しかった。
「ごめん、先に帰るね」
「えっ?」
そう言って、美香は歩き始めた。すると、再び彼女は立ち止まり、今度は僕の方に振り向いた。そこには、涙を流しながらも笑顔の彼女がいた。
「……今ね、すっごく空と話したい。たくさん話したい気持ちなの。ずっと話していたい気持ちで一杯。だからさ……このままだと、空のことまた好きになっちゃいそうだから……!」
じゃあね、バイバイ
とびっきりの笑顔。そして彼女は向き直り、軽やかに走って行った。小さな光の粒が、彼女が過ぎて行った場所に残っていた。
以前、空に告白され、そのことについて相談した時と同じ気持ちになった。どうして、僕の周りにはこんなにも美しすぎる女性がいるんだろうか。空も海も美香も……僕には、勿体ないくらい光り輝く心を持つ女性だ。
大切なものへの願い……かけがえのない宝物
「遅いよ。何してたの?」
海は御立腹だった。どうやら、3年生とのケンカなどのことは知らないようだ。先生たちは周りに漏れないように奮闘していたからな。とは言え、人の口には門が立たないと言うように、話題になるのは時間の問題だろう。
「ごめん。ちょっといろいろあってさ……」
「…………」
何かを察知したか、海は僕の顔を見つめる。
「な、何?」
「…顔に傷がある。どうしたの?」
「傷? あっ…これか……」
すっかり忘れていた。こればっかりは隠せるものじゃないからな…。
「ちょっと……ね」
「…………」
「な、なんだよ」
海は顔を伏せた。
「…隠し事はしないで。空は言いたくないかもしれないけど……大事な人が傷ついてるのを知らないまま、自分だけ平穏に過ごすのは……結構辛いんだよ……?」
多くの人が右に行き、左に行く駅前。そんな中で、海の優しさを見た僕だった。
「…後で説明するよ。今はとにかく、資料を集めよう」
「…………」
「約束する。…な?」
「…………」
海は顔を上げ、何も言わずうなずいた。
僕たちは駅から少し離れた図書館へ向かった。役所の近くにあり、ここらは駅前に比べれば人通りが多いわけではない。完全に舗装された図書館の周りには、ところどころ植木がある。自分からしてみれば、それは中途半端に自然を表わしているだけに過ぎないと思う。…まぁ、ないよりかあった方がきれいに見えるんだが。
平日ということもあり、図書館にはあまり人がいなかった。休日になると勉強をしに来た人たちや、暇つぶしに本をずっと読んでいる人たちが多くなる。
「…うーん。どこら辺にあるんだろうな…」
「…そう言えば、空ってあんまり図書館みたいなところには来ないよね」
僕たちは小さな声で会話をしていた。
「来る必要ないもんよ」
「…そうだね」
海は呆れた顔をしながら、本を探し始めた。
図書館か…。他人が考え、知るした知識を他人へ教えるもの。遠い過去から現在へと続く足跡を伝えるもの。人が盲目的に成長するには大切な空間……それが図書館なのかもしれない。
閉館時間。その時まで僕たちは調べ続けたが、これといって情報となるような資料は見つからなかった。
「…これからどうしよう…」
夜の帰り道。すでに8時を過ぎている。
「手掛かりがないんじゃあ……どうしようも…」
「…………」
手掛かりか…。
レイディアント…それしか……。
(……空……)
「…!!」
僕は立ち止まった。今のは……。
「? どうしたの?」
海は頭をかしげた。
(……空………空……)
久しぶりに聴く、あの声。女性のものだ。
「ねぇ、どうしたの?」
海には聴こえていない。やはり……。
(…あの場所へ…)
あの場所…?
(…わかたれた光を結ぶ、あの場所へ…)
わかたれた、光…。
(…あなたを導くもの……私たちの気高き幼子…)
導くって……手掛かりでも教えてくれるのか?
(…運命の扉……かすかな道標となりますよう…)
体を覆っていたものがスーッと消えていった。と同時に、夜風が路地を駆け抜けていった。
「…? どうしたの? ボーっとして……」
海は心配そうな顔を向けている。
「…いや、ちょっと……」
なぜか、ある光景が一瞬、頭の中をよぎった。それは桜。桃色の花びら舞う、春の風景。そこに桜は一つしかなかった。
「……海」
「??」
「…先に帰っててくれ。ちょっと、行かなきゃいけない場所があるんだ」
「…えっ?」
海は当惑していた。
「ど、どこに?」
「いいから、帰ってろ。また連絡するから」
僕は帰る方向とは逆の道へ走った。
「ちょ、ちょっと……空!?」
桜舞う場所。そこは今のところ、一つしかない。全速力で小学校の裏山へ向かった。日が完全に暮れ、世界は闇の世界に堕ちた。この中でうごめくのは、闇に生きるものたちだけ。僕のような日に当たる人間には、無縁。
「ハァ…ハァ……」
くそ…暗い。道路とかでは電灯があっていいんだが、山道は真っ暗で何も見えない。今日は月も出ていなく、余計に暗い。
夜の森の中ってのは、すごく不気味だ。なんだかジメジメしてるし、獣の声が聞こえる。
光から逃れて、影に潜んでいたあまねく生物が動き出した。光は影を恐れ、影は光を恐れる。だから、人は夜を怖いと感じるんだろう…。
「えっと……こっちか…?」
記憶を頼りに、僕は山道を進んだ。その時…。
(…こっち…)
何かが僕の手を引っ張った。……ような気がした。どこかへ連れて行くかのように、それは僕を導く。足が勝手に動く。優しい何かが、僕を行かせるべき場所へ誘う。…誰かが……何かが…。
気がつけば、山頂に出ていた。息を切らした僕の体は、寒いはずの夜の中で暖かくなっていた。
なんか……光を感じる。これは……
「何かに導かれる……ってのはこういうことかねぇ」
声が聞こえた。この声は……覚えがある。僕は声がした方に振り向いた。
「…お前は…!!」
「久しぶりだね、空」
そこにいたのは、リサ…だった。微笑みながら、扉から放たれる淡い光を受け、こっちへ歩いて来る。
「こっちは寒いな。夜だからかな」
薄着の彼女は、体を縮ませていた。
「…気高き幼子……はお前のことか…」
「はっ?」
リサは首をかしげた。
「あんた、何言ってんの? 私のどこが幼子なのさ」
リサは両手を広げて見せた。
「…まぁ、気高くもないかな…」
「…あんた、夜空の星になりたい?」
リサはぶんぶん腕を振り回した。
「ハハハ……遠慮しておきます」
背筋が凍ったよ…。
「それにしても、どうして私がここにいるってわかったのさ?」
「どうしてって…お前が知らせたんじゃないのか?」
「…? またわけわかんないことを。どうせ、頭の中で聞こえた声を私が送ったものだと勘違いしたんでしょ?」
「あ、ああ…」
「私はテレパシーなんてものを送れる人間じゃないよ」
宇宙人じゃないもんな…。
「…てっきり、リサが他人の声を利用して伝えたのかと」
「神様じゃないんだ。できるわけないでしょ? …それに、あんたにだけ聴こえる声はあんたにしか聴こえないようになってんの」
「…え?」
「そういう風に定められてるのさ、遥か古の時代から。あんたは他の人間とは別物。特異〈ユニーク〉な生命。この世界では、本当の意味で存在し得ない存在」
「な、何言ってんだよ。冗談じゃあるまいし……」
だが、リサの眼は真剣そのものだった。冗談を言うようには見えなかった。
「…冗談だと思いたければそう思えばいいさ。けど、よく振り返って考えてごらん。あんたにだけ見えたものは全て現実。あんたが体験してきたことは夢でも何でもないんだから」
夢ではなく、現実。それはわかってる。わかってるけど……。
「それはさておき、とりあえず話を本題に戻そうか」
リサは僕の目の前に止まった。思ったよりも身長は低い。とは言っても、160センチ程度だろうか。
「私がここに来たのは、あんたを連れて行こうとしたからさ」
「連れて…行くってどこに…?」
「レイディアントに決まってるじゃない」
な、なんだって!?
「そ、そんなことできないよ!」
「? 何でよ?」
「何でよって……」
そんなの、言わなくてもわかるだろ。
「あんたが声に導かれてここに来たのも、レイディアントに行くためだったのさ。いいかい? それはあんたの意思とは何ら関係なく引き起こされた、言わば必然的なものだ。絶対的な力が働いて、一つの螺旋が生まれる。そう、運命ってやつさ」
「…自分の意思に反してでも、それは引き起こされるってことか?」
「要するに、そういうことだろうね」
「…………」
そんなこと言われても……。
「…僕はまだそんな所に行くことはできない…」
僕は弱い声でしゃべっていた。
「何で?」
「何でって…そりゃ、家族や友達…自分の生活があるからだよ。…見たこともない世界に、いきなり行こうって言われても……」
「………」
すると、リサは大きくため息をついた。
「まったく……あんたって、今の現状知ってるの?」
「げ、現状…?」
彼女はキッと、強い視線を僕に向けた。
「あんたの幼馴染、日向空に命の危険が迫っている。そうね…1年以内には殺されるかもしれない」
「!!?」
「時間がないってことさ。彼女を助けられるかどうかは、あんたにかかってる。…だのに、あんたはこっちでウジウジとしてる。最も大切な人がいなくなったってのに、どうしてすぐに行動を起こさないのさ? 彼女はあんたにとって、助けに行く価値もない人だっての?」
「なっ!!!?」
僕の頭に、血が昇った。
「なわけないだろ! あいつは、大切な女性だ!」
彼女に負けじと、僕は前へ出る。
「お前に何がわかる! 目の前でさらわれた気持ち…理解できるってのか!?」
「………あんたさ、馬鹿じゃないの?」
「な、なんだと!!?」
リサは呆れたように顔を振った。
「他人の気持ちを理解しようなんて、絶対に無理なんだよ。それがたとえ兄弟であっても、恋人同士であっても、夫婦であってもね。人が人の気持ちを理解しようとするのは、その人の想いに近づきたいからだよ。少しでも近づいて、その人の苦しみ、悲しみを緩和してあげられるようになる。そこまで至るのに、多くの時間が必要となる。…あんたは言ったね。『何がわかる』って。わかるわけないじゃん。そうやって憤りをぶちまけてる奴の気持ちなんかに、私は近づこうとも思わないからさ。近づいたところで、あんたはそれを察知してくれない。私の気持ちにさえ、近づこうともしてくれないだろうさ。今のままじゃね」
僕は言葉を失った。言い返す言葉が、一つも見つからなかった。
「他人への思いやりさえ欠ける人間が、『大切な女性』とかほざくな。彼女が可哀想だよ」
「…………」
彼女の言葉が突き刺さる。僕はいつの間にか顔を沈めていた。
「そのままじゃあ、仮に今ここでレイディアントに行ったって失敗するだけだろうね。いや、今行かなくても、後ほど行ったとしても結果は同じだ。彼女を助けられないまま挫折するか、逆に自分の命を落とすか。いいか? 彼女をさらった奴らは生半可な気持ちで相手になるような奴らじゃない。簡単に人を殺せるような輩だ。それを踏まえた上で、考えるんだね」
「……敵は一人じゃなかったのか?」
「そうよ」
「…………」
背後には多くの敵。恐怖に震え、今でも他人に当たるような人間が彼女を救うことなんて、絶対にできない。
想いがもろい。思っていたほど固くはない…。
「…話を元に戻そう。どうするの? レイディアントへ行く? 彼女の生死は、あんたの行動にかかってると言っても過言じゃない。私としては、今のあなたはかなり心許ないけどね」
彼女は僕の落ち込みを無視し、どんどん話を進める。ついでに皮肉交じりだ。
自分はどうしたいのか。何をすべきで、何をしたいのか。
愛する人を助けたい気持ちが、そこまで強くはないんではないのか? 絵空事だと、心のどこかで思っていたんじゃないのか? 誰かが、勝手に助けてくれると思っていたんじゃないのか?
行動を起こさない者に明日は、ない。過去を振り返り、信念を定めない者に未来は…存在し得ない。
僕は本当に、修哉に言われたことを理解していたのだろうか。その時だけ、理解していた気になっていただけに過ぎないのかもしれない…。
僕はつばを飲み込み、顔を上げた。
「…お前が思っているように、今の僕じゃあ空を助けることなんて、到底できないだろう。だから………」
リサは何も言わず、僕を見つめる。水晶のように輝く瞳。真夏の太陽のように、僕の心を突き刺す。
僕はもう一度、つばを飲み込んだ。
「…今は行けない。こんな弱い気持ちでは、お前が言ったように途中で死ぬのがオチだ。…彼女も助けられない。それが一番辛い…」
「…………」
「…だからこそ、もう少し時間をくれ。……頼む」
僕は小さく頭を下げた。
「…絶対に決心できるの?」
リサは小さな声で言った。僕は頭を上げた。
「…約束する。必ず決心をする。それがどんなことであっても」
「そっか…。なら、今日は引き下がるとするか」
そう言って、リサは笑顔になった。その笑顔は、今まで見た彼女の表情の中で最も美しいものだった。
「できれば2,3日の間に決めてほしいけどね。残された時間が1年と言っても、それはあくまで私の予想。奴らの考えが変われば、すぐにその時は訪れてしまう。急かすようで悪いけどね」
「…いや、そう言ってくれた方がありがたい。現実を見れる」
「…そうか。まぁとにかく、私はあんたを信じるとするよ」
リサは門がある方へ向き、ゆっくりと歩き出した。
「私の期待と信頼を裏切らないでよ? あんたは〈独り〉じゃないんだからさ」
ドキッとした。独りじゃない…。その言葉が、どれほど心強いものかを知っている。
「…リサ。一つ言っておく」
リサは立ち止まったが、こちらに振り向こうとはしなかった。
「絶対的な力が働き、僕を導いていると言ったよな。…だけど僕は……僕が進む道は、僕自身が決める。何かに作用されて決めるものじゃない。何かに定められているわけでもない。僕の意思は、僕のものだ。運命なんてものは信じない。先にあるものは、自分で選び取る」
成し遂げようとするものが「運命」の一言で片づけられてたまるか。僕は…僕の全ては、僕のものだ。
「そうやって考えていることも運命かもしれない。あんたが熟慮した結果、選び取った道筋さえも……運命という名の軌跡なのかもしれない」
「…そうかもな。けど、そうじゃないかもしれない。要は気持ちの問題さ」
クスッ。リサは小さく笑った。
「……なんだか、おかしい。あんたのこと、まだよく知らないけど…………あんたらしいって思った。……何でだろうね」
すると、リサは僕の方に振り向いた。金色の長い髪が、夜風になびかれて動く。
「…もしかしたら遠い昔、私とあんたは知り合ってて……今のように、何かを話していたのかもしれないね……」
「遠い…昔……?」
「そう考えたら、人と人の出逢いがどれほど大事なものかがわかる気がする。…本当のことには、程遠いのだろうけれど……」
夜空を見上げる彼女の顔は、暗くてよくわからなかったけど…想像できた。
「…じゃあ、待ってるよ。全てが始まり、全てが終わりなる場所で……」
リサはそう言って、闇夜の奥へと消えていった。
「…運命、か…」
僕は星空の遠くを見つめた。一つ一つが宝石のように、チカチカと光を放っていた。まるで、己の存在をそこに示しているかのように。
「…お前が…お前たちが僕をここへ導いたのは……僕に決心させるためだったんだろ?」
僕は遠いどこかにいる誰かに向けて、言葉を発した。いるかどうかは不確かだけど、なぜだろう……そこにいる。確かに、そこにいるんだ。
「…いいさ。僕がそう勝手に思っておくよ。見ていろ。『運命』が何を僕にさせようとしているのか分からないが……」
夜空を睨んだ。
「僕はお前たちが望んでいるような形にはならない。僕は僕が望むように進み、生きる。お前たちに左右はされない。…だから、空を救ってみせる。絶対にだ!」