66章:空色の約束
ちと性的な表現がありますので、ご注意ください。
「――ら…………、……そら………………」
まったくの暗闇。暗闇しか見えない。自分の姿さえ見ることができない状態。いや、そもそも自分の姿がここにあるのかどうかもわからない。
「……そ…………空……」
あれ、どこからか声が聞こえる。
遠く離れた場所に在りながらも、それは古より自分の中に息衝いていた。たしかに存在するかのように、ずっと、ずっと呼び続けていた声。
君は……誰?
「そらさ…………空さん!」
僕はその声の主を求め、もがいた。必死に、上へ行こうと。
「空さん! 空さん!!」
その瞬間、目の前に光が広がった。あまりの光でまぶしく、思わずまたまぶたを閉じてしまった。もう一度、ゆっくりと目を広げると、目の前には――
「空……か?」
そこには、彼女の顔がある。柔らかい彼女の長い髪の毛が、僕の首筋に当たっている。
「よかった! やっと目を覚ましてくれた!」
彼女の顔に、安堵が広がった。すると、左腕に激痛が走る。そこに目をやると、血まみれで肉がえぐられたような状態になっていた。
「動かないで! ひどいケガですから……」
ああ、そうか。あの大爆発で、僕は気を失ってしまったんだ。せっかくシールドを張ったのに、自分の意識が飛んでしまうなんて……情けない話だ。
「大丈夫ですか? 意識は……あります? 腕は?」
「まぁ、大丈夫。意識はちゃんとしてるし、腕は……これも大丈夫だろ」
「他に、痛いところとかないですか? 変なところとか……」
彼女は僕の体のあちこちに目をやり、矢継ぎ早に問いかけてくる。
「大丈夫だよ。なんともないから」
「本当ですか!?」
と、彼女は僕の目の前に顔を出してきた。思わず、僕は顔を引いてしまった。
「あ、ああ……」
「ウソとか、ついてないですよね? 本当に大丈夫なんですか?」
あまりにも心配症なので、僕は再び自分の体のあちこちに意識を集中させてみた。……とりあえず、ケガをしているのは噛まれた左腕だけか。他の箇所は、擦り傷などはあったのかもしれないが、すでに自然治癒で治癒している。
「左腕以外は大丈夫さ」
そう言って笑顔を向けると、彼女は力が抜けてしまったのか、大きく息を吐きだした。すると、彼女の瞳からぽろぽろと涙が溢れ出てきた。
「な、なんで泣くんだよ?」
不意打ちにも等しい彼女の涙は、少なからず僕を慌てさせた。
「な、なかなか目を覚まさないから、どうしようって……」
涙を手で拭いながら、彼女はそう言った。
そう言えば……ガイアで気を失った時、彼女は同じようなことを言っていたっけな。泣きじゃくる彼女を見ながら、僕は申し訳ないと思いつつも小さく微笑んでしまった。
「泣くなって。別に死んだわけじゃないんだし」
僕は彼女に笑顔を向けた。手と手の隙間から、彼女はまだ涙を流しているのがわかる、
「……心配してくれてありがとな」
彼女の震える小さな肩に手を置くと、その震えは一瞬のうちに収まった。そして、空は小さくうなずいた。
「空さん……ありがとうございます」
彼女は涙を拭い、微笑みながら言った。
「な、なんでお前が礼を言うんだよ? 普通、僕が――」
「そう言ってくれて、ありがとうって意味ですよ」
戸惑う僕に対し、再び微笑みを向ける空。
……変化を感じ始めたあの頃、こんな会話があったよな。お前は、同じように「ありがとう」って言ってくれた。
「……包帯、巻いてあげますね」
「え? あ、ああ」
少し想い出の中に回帰していると、彼女はバッグから包帯を取り出した。すでに左腕には包帯が巻かれていたが、赤い血が滲み出ている。
一息ついた時、僕はようやく周りの風景に気が付いた。
僕たちがいたのは、1つの個室だった。それも、ロッカーのような場所。さっきまでとはまったく違う。ほこりっぽく、辺りに物が散らかっている。天井にある平たい電灯は光っているものの、時折消えかけている。
「ここ、どこだ?」
「たぶん、地下だと思います」
空は処置をしながら答えた。
「地下?」
「……あの爆発で道路が崩れて、地下街みたいな場所に落ちたんです。それで、近くにこの部屋を見つけたから……」
地下街、か。まぁ、これほどの大都市だ。地下街なんてものがあっても不思議ではない。
「ん? じゃあお前、一人で僕をここまで?」
こくりと、彼女はうなずいた。
少しの間、言葉を失った。非力な彼女が、僕をここまで運ぶことができたなんて。それと同時に、少しの間とはいえ、気を失ってしまったことを恥じた。せめて、動けれるほどだったら、彼女に面倒をかけさせなかったのに。
治療が終わり、僕は彼女がこの個室から引っ張り出したであろう毛布の上で横になっていた。腕の怪我は本来ひどいものなのだが、聖魔の力を持つ者の特権である「自然治癒」が発生しているため、少しずつではあるが、傷は癒えていく。これは骨が折れた場合なども治療してくれるという優れもの。シュヴァルツにやられたあばら骨も、このおかげで数日で完治したのだ。
「……あの生物、なんだったんだろう」
僕の傍でちょこんと座っている空が呟いた。
「最初はライオンかと思ったけど……どう見ても、違う。あれは……ただの動物じゃなかった。普通では存在し得ない……そう、魔物みたいな……」
「…………」
魔物……たしかに、言い方は悪いがその表現が最も正しいだろう。人間が作り出した、魔物。
「怖かった。あれって……自然に生み出されるような生き物、じゃ無いですよね?」
「だろうな。違う世界とはいえ、生態系は同じはずだから」
「じゃあ、あれは……人が生み出したものなんでしょうか」
その言葉が出たのと同時に、僕の心に汗が溢れた。
「そうとしか考えられませんよね。嫌な話だけど……」
そして、彼女は表情を曇らせながら言い始めた。
「そうだとしたら、ひどいにもほどがあります……ティルナノグの人は。動物には、何の罪も無いのに。人の欲求が満たされるために、きっとライオンは食い物にされたんです」
「…………」
「私と同じ人が行ったこととは思えないけど……私たち人のせいなんですよね」
どこか自分を蔑むかのように、彼女は小さく笑った。
「あの生物があんな風にされたのも、私たちに襲い掛かったのも……死んでしまったことも……」
どこでそうなってしまったのか――人は、そうなるように運命づけられているのかもしれない。文明が発達すれば、結局は同じ。そういうことなのだろうか。
「……あんまし考えるな。気分が悪くなるだけだしさ」
顔色を悪くしていた彼女は、小さくうなずいた。彼女はそこまで「血」に慣れていない。アヴァロンでの時も、今回も。
「少し、休め。ずっと看てたんだろ?」
「そうですけど……」
すると、彼女はどこか不満気な顔で僕を見た。
「どうしても、一つだけ言っておきたいことがあります。いいですか?」
「へ?」
な、なんだろう……身に覚えのない僕としては、彼女の視線が怖い。てか、なんで怖く思ってしまうんだよ。堂々としてりゃいいのに。
「もうしないでください」
「な、何を?」
そう問い返すと、彼女は僕のほほを指でつねって来た。
「いてて!」
「今回みたいなことです!」
こ、今回みたいなこと? そう言われてもまったく理解できない。そんな僕の様子に気が付き、彼女はよりいっそう力を入れてつねる。
「だから! 私をかばったことです!」
かばった……ああ、なるほど。けど、かばったのになんで怒られにゃいかんのだ? そこんところが納得できない僕は、つねられた状態のまま顔をしかめた。
「私が怒ってる理由、まだわかんないです?」
「いや、寧ろお礼を言われるんじゃないかな〜って」
苦笑しながら言うと、彼女は呆れたのか、指を離してため息を漏らした。
「……もう、空さんは……」
何か落ち込んでしまったようで、なぜか申し訳ない気持ちが湧いてきてしまい、それと疑問が混じり、僕はどうすればいいのかわからなくなってしまった。
「えと……な、なんで怒ってんの?」
顔を俯かせていた彼女は、チラッと僕を見てきた。
「だから、庇ったからですよ」
「いや、だからわけわかんないんだって。あん時――」
「ケガしたじゃないですか」
僕の言葉を遮り、彼女は顔を上げた。さっきまでの怒りは消えており、哀しく微笑んでいるように見える。それに気付いた時、思わず心がびくついた。そういう風にしてしまったのは、僕自身だからだ。
「二度も庇って……もし――って考えなかったんですか?」
「二度?」
「……噛まれた時と、爆発の時です」
前者はともかく、後者は……まぁ、庇ったと言えば庇ったになるのかもしれない。ただ、あの時は「大丈夫」という確信はあった。
天井を見上げながら納得した僕を見て、彼女は言う。
「もし、無事じゃなかったらどうするつもりだったんですか?」
「何言ってんだよ。あの程度でどうにかなるほど、やわじゃないって」
そう言って微笑むと、彼女は再び顔を俯かせた。
「それに、少々ケガしたって――」
げっ……と、僕はそのことに気付いた瞬間、心中で言ってしまった。
彼女は、泣き始めていたのだ。
「お、おい、なんで泣くんだよ?」
慌てて彼女の肩に触れようとした瞬間、ふわりとした感触が自分に伝わってきた。空が記憶を失う前、何度も感じたその感触――空は、僕を抱きしめていた。そのことに驚くのと同時に、やはり軽い――と感じた。
「……どうしたんだよ、突然」
小さな彼女の肩と頭に手を置き、訊ねる。聴こえてくるのは、嗚咽している彼女の小さな声だけ。
「庇ってもらうのが、嫌だったのか?」
そう訊ねると、彼女は頭を小さく振る。
「じゃあ、悲しいのか?」
再び、顔を振る。
「……半分は、悲しかった」
涙声の空。まだ、顔を沈ませたままだ。
「あと半分は、嬉しかった」
そう言われると、ますます泣いている理由がわからなくなってきてしまう。
「ただ、嫌なことしか浮かばなくて」
「――……」
そっか……そういうことか。
彼女が泣いている理由、それは嬉しいからでも、悲しいからでもない。
――怖いんだ。
「そんな風に考えるなって。大丈夫だから」
「だって……」
僕は彼女の背中を、ポンポンと叩いてやった。これって、よく母親が赤ちゃんとかにやるんだよな。あのリズムとかって、なぜか落ち着くものだ。もしかしたら、人間の奥底にある命のリズムに近いのだろうか。
「僕も、みんなも元気にしてるだろ?」
「…………」
「だから、お前も笑っていてくれよ。じゃないと、なんか……」
と、僕は唸りながら自分の頭をかいてしまった。思わず、空は涙でボロボロの顔で僕を見上げる。
「まぁ、その、なんだ。大好きなお前のために頑張れないし、さ」
「空……さん……」
少し照れくさくて、僕はぎこちない笑顔でそう言った。すると、空は泣き顔のまま小さく微笑み、再び強く僕を抱きしめてきた。
「……あの、ですね」
「ん?」
すると、彼女はいつの間にか泣くのを止め、恥ずかしさからなのか、赤くした顔で僕を見上げた。
「お願いが……あるんです」
なぜか、彼女は僕とまともに視線を合わせられないでいる。
「その、あの……」
そして、彼女は「願い事」が何なのかを、僕に告げた。
その願いを受け入れるということは、彼女を受け止める――ということでもあった。それと同時に、彼女の言いようのない不安を払拭する、一つの手段であったのかもしれない。
終わった後の……表現できない「罪悪感」。それは、それをしてしまったという現実と、苦痛に顔を歪ませていた彼女の表情と、そして行為によって出た彼女の血と自分から出されたものが混じっている、彼女の陰部を見てしまったからだろうか。
けど、彼女は首を振る。
それでも彼女は続けることを望んだのだ。
空は「痛い」と言いながらも、涙を流しながらも、微笑みながら望んでいた。
空は怖がっていた。「ひとり」になることを。
彼女には死の宣告がされている。あと数ヶ月、という。
それは、言葉で表現できないほどの恐怖だった。残り数ヶ月しか生きられないという恐怖と、死は数ヶ月後にやって来るという恐怖。同じような恐怖でありながらも、個々が大きな痛みとなって彼女を苦しめていた。
いつも微笑んで、優しく他人と接する普段の彼女からは想像もつかない現実。そう振る舞うことでしか、彼女はそれを遠ざけることができなかった。
僕たちと旅をする中で、彼女はその真実を霞ませてゆき、独りにならない限り、考えることは少なくなっていたのだという。
でも、あの時……僕が彼女を庇うことで、彼女の脳裏に一つの「未来のビジョン」が浮かんでしまう。
それは、僕が死ぬということ。
それと同時に、自分が僕と離れてしまうということ――自分自身が死ぬということも。
彼女の心に押し寄せてきた「もしもの未来」と「現実」としての恐怖。
だからこそ、あそこまで僕と繋がることを望んだ。そうすることで、少しでも恐怖を遠ざけようと――。
「『ひとり』になりたくない」
行為の最中、彼女は初めて味わう痛みと湧き上がってきた快感の混じった表情で、そう言った。
誰しもが持つ、それに対する恐怖……。
死の宣告をされた彼女だから、それを如実に感じていた。
心と体が繋がり、僕はあることに気付いた。
どうして、僕たちは複数の人と一緒にいようとするのか。どうして、寄り添って生きようとするのか。
それは、恐怖から逃れるためだ。どんな生あるものでも、死ぬことを避けることはできない。太古の昔から――あらゆるものが創造されたその時から、定められたこと。生命には潜在的に、それに対する恐怖感があるのだ。
なら、死に対する恐怖とは、生きることを最も感じることでもあるのだろう。
今、その場に息衝いている――ということを。
生と死――
それは、たしかに一つなのかもしれない。
「空さん……」
彼女は何度も僕の名を呼び、痙攣するかのように体を弓なりにした。それと同時に、自分も果ててしまった。
何度も、それらを繰り返した。
そして、僕たちは一つの約束を結ぶ。
傍にいると。
始まりから終わりを迎えるその過程の中で、僕たちは一つになっていた。
そのことが、後々「ある人たち」に大きく関連していくとは……
この時の僕は、想像することさえできなかった。