60章:懐古の歌 その掌にある欠片とは
「今は絶海に入ったところだ」
絶海。シュレジエン諸島の北に広がる、巨大な海。大昔から海の底に魔物が潜んでいるといわれ、それが旅する船を襲うという伝説があり、誰も近付かない海である。もちろん、そんな伝説など本当のはずも無く、永久凍土と化したグラン大陸の近くにあるために、そういう伝説が生まれたのだろう。
聞くところによると、グラン大陸の海岸線沿いには巨大な氷がいくつも浮かんでおり、船の行く手を阻めるのだという。
「ま、そんな氷なんてこのガルガンチュアにかかれば、ヘッチャラだぜ!」
大きな声でレンドは言った。貰ったのではなく借りただけなのに、レンドはすでに自分のものだと思っているようだ。明日には、「俺のガルガンチュア!」なんてことを口走っていそうだ。
「この距離だと……予定では、あと1ヶ月くらいかかるだろうな」
海図を見ながら、デルゲンは言った。今回、ガルガンチュアの船長はもちろんレンドで、デルゲンはやっぱり副船長(仮)だ。この日、どのような海路で行くかをゼテギネアから派遣された操船者たちと相談していた。
「この辺りの海域は、氷河が流れていく場所です。西へ迂回してから進む方がいいでしょう」
「だが、そうすると時間がかかりすぎやしないか?」
レンドは操船者のロベルトさんに訊ねた。
「ですが、氷河に突進しながら進むのは危険です。いくらゼテギネア最強の装甲船とはいっても、何度もぶつかって進むことができる耐久度はありませんし、支障をきたさないという保障もありません」
「たしかに、ロベルトの言うとおりだ。船が沈んでしまっては、元も子もないからな」
デルゲンは一度うなずき、そう言った。
「けどよ、空ちゃんに残された時間は少ないんだぞ?」
レンドは彼らに目を向けず、海図を眺めながら言う。
「……リサが言うには、あと4ヶ月程度は大丈夫なはずだ。この海路で進むとしても、約1ヶ月かかるかかからないかだ。上陸して、まだ3ヶ月の余裕がある」
すると、レンドは顔を振った。
「その上陸してからが問題だ。グラン大陸の大きさはわからないし、浮遊大陸がどこら辺にあるのかもわからない。その場合、どうするんだ? できるだけ、近道をして行ったほうがいいと思うんだがな」
「…………」
デルゲンは押し黙った。レンドの言うとおりではあるのだが……。
「……時間が無いとは言え、危険な海路を進むわけにはいかない。大陸へ確実に辿り着くためにも、ここは西への迂回路を選んだ方が得策……だ。もちろん、副船長としての意見だ」
デルゲンの言葉の裏側に、あるものを感じた。それは、きっとレンドも察知しているだろう。
「船長はお前だ。お前の命令に従うよ」
「…………」
レンドは唸りながら頭を抱えた。
「……よし」
そして、彼は目を瞑ったまま大きくうなずいた。
「西へ迂回し、グラン大陸へ行こう。確実な方法で進むべきだと判断した」
「……わかった。皆に報告しておくよ」
デルゲンは少し微笑み、部屋を出ていった。
「……これでいいよな」
レンドはデルゲンの出ていった後を見つめながら、呟くかのように言った。どこか、罪悪感を持ってしまったのだろうか。それは違うよ、と言ってしまえばよかったのかもしれないが、それでは逆に彼を苛ませてしまうような気がした。
「ロベルト。西へ迂回するとはいえ、急がなければならない。迅速に船を進ませよう」
「わかりました」
こうして、シュレジエン諸島リーフ島の南部にあるルヴィアを出航した僕たちは、まず西北西へ進み、回り込むようにしてグラン大陸を目指すことに。
空に残された時間は、約4ヶ月。詳しい日数はわからないが、リサが毎日エレメンタルの量をチェックし、危険度を見る。そうすることによって、おおよその日数もわかるらしい。
その日、リサに空のエレメンタル量をチャックしてもらった。リサは空の胸の辺りに手を添え、心臓の鼓動を感じるかのようにしていた。聴診器を当てるような仕草、のようにも見える。
「どうだ?」
女性陣――空とリサとアンナの部屋。空はベッドにちょこんと座っており、その隣にリサが座っている。僕は、近くのイスに腰掛けていた。
「……思ったよりも安定してる。これなら、まだ140日程度は大丈夫だと思う」
そう言って、リサは彼女から手を離した。
「そっか……」
ふぅ、と僕は胸を撫で下ろした。
「増魔剤を使うのは初めてだったし、うまくいったという研究結果も無かったから、一時的にエレメンタルを補えてもショック症状を起こして、危険な状態になるかもしれないのに……うまくいってよかった」
リサも同じように胸を撫で下ろしていた。彼女は以前、自然界に存在する元素は人体に順応するようには出来ていないため、細胞崩壊を引き起こしかねない――と言っていた。ショック症状というのは、そのことなのかもしれない。
「ところで、増魔剤っていうのはどうやって手に入れたんだ?」
「……グラン島に残されてあった古書に、増魔剤のことについて書かれてあって、もちろん作製方法も記されてあった」
きっと、ティルナノグ皇室の末裔である昔のラグナロクの人々が、持ち込んだものなのだろう。
「もし、空ちゃんが結晶を取り除かれる時に直面した時……その場合、命を繋ぎ止めるためのものが必要だった。まさか、本当にそうなるとは思わなかったけど」
念のために用意していたのだから、そう思うのは必然か。
「あんたと、空ちゃんを会わせたかったしね」
リサはニコッと微笑んだ。そこまで考えてくれていた彼女に対し、僕は思わず顔がほころんだ。だが、彼女はすぐに顔を曇らせた。
「……けど、いつ症状が悪化するとも限らない。油断は禁物。常に、空ちゃんの症状を見ておくこと。いい?」
と、リサは僕を指差した。
「あ、ああ」
「空ちゃんも気分が悪くなったりしたら、遠慮せずに空に言うんだよ? 私でもいいけど……」
僕をチラッと見て、リサは邪悪な笑みをした。
「たぶん、こいつが傍にいるだろうしさ」
「えっ?」
空は頭をかしげていた。こいつ……余計なこと言いやがって……。
不満気な顔を見せる僕に対し、リサは何かを感じたのか、
「何よ? 文句でもあんの?」
と、睨みつけるように言ってきた。
「んなこと一言も言ってねぇだろ……」
「恥ずかしがるんじゃないよ、このやろ!」
「ごふっ!」
リサは笑顔で、僕の腹部を殴った。その場に、僕は崩れ落ちた。
「じゃ、私はシャワーでも浴びてくるよ。昼食になったら教えてね〜」
「お、おい……」
そう言って、リサは悶絶する僕を放って部屋を出て行った。
「だ、大丈夫ですか?」
空は苦笑しながら言った。
「ああ……まったく、あの女……」
いちいち僕を殴るなって言いたいが、何やら常道になりつつあるような気がしてしまうところが怖い。
僕はお腹をさすりながら立ち上がった。すると、
「あの、質問していいですか?」
「へ?」
空は言葉で、僕は彼女の方に顔を向けた。
「リサさんって、どんな人なんですか?」
そんな言葉が来るとは思わなかったので、僕は少しだけ口を開けたままになってしまった。
「えぇ……っと、リサ?」
そう問い返すと、彼女はこくんとうなずく。
「何で今さら? 1ヶ月近く一緒にいるわけだし……」
「ん〜……」
彼女は天井を見上げ、唸り始めた。
「少しずつ分かったような気がするんですけど……なんでか、違うんですよ」
「違う?」
さっきと同じように、彼女は小さくうなずいた。
「いまいち理解できないんですけど……私、リサさんのこと……懐かしいって感じたんです」
窓から差し込む日光を背にして、彼女はどこか微笑んでいるかのように言った。
――懐かしい――
それは、遥か遠い場所で聴こえた言葉のようであり、近くで囁いてきた言葉のようでもあった。
「なんででしょうか……。初めて話したのに、なぜか……自分と話しているような、変な感覚で……」
彼女は戸惑いながら言った。彼女もまた、僕が時折リサに感じる「懐かしさ」を持つのと同時に、別の思いも湧き上がって来るらしい。
「だから、空さんにはどう見えるのか教えてほしくて」
ああ、なるほど。そう思いながら、僕はうなずいた。
「……そうだな」
僕はさっきのイスに座り直し、腕を組んだ。
「まぁ、かなり暴力を振るう女だよな」
そう言った瞬間、空はぷっと吹き出した。
「傍若無人で天上天下唯我独尊だし、逆らう者には天罰っていう名の肉体的制裁するし……女とは思えねぇもんな」
追い打ちをかけるかのように言うと、彼女はさらに笑い出してしまった。
「そ、空さん、そんなに言ったらダ、ダメですって」
笑いながらそう言うが、笑いが原因で一切説得力が感じられない。
「いーんだよ。どーせ、今はいないんだし」
たまにゃあいつの文句言わないと、やってられねぇっつーの。そう思いつつ、同時に彼女の今までの姿が浮かんできた。
優しく微笑んだり、心から僕を叱咤してくれたり。その姿を想い出すと、自分の笑みは別の笑みへと変わった。それは、嬉しかったからかもしれない。
「けど、あいつは……すげぇいい奴なんだよな」
僕は背もたれに深く腰掛け、天井を見上げた。
「自分が辛い目にあった時には傍にいてくれたし、何度も手を差し伸べてくれた。もしかしたら……どこか、あいつに憧れてんのかもな」
自分で言っていてよくわからなかった。それでも、心のどこかで「そう感じていたんだ」という、確信に近い想いがあるのも確かだ。
「あいつは自分の信念を曲げずに、我慢しながら頑張ってる。女だし、まだ16歳なんだから、子供なはずなのに……尊敬するよ、ホント」
僕より年下とは思えない時があるもんな。
「でも、あいつは女なんだよな……。知ってるか? あいつ、髪ほどいて女性らしい服を着せると、滅茶苦茶かわいいんだよ」
僕は笑いながら言うと、空は少し驚いた表情だった。
以前、女の服装をしていた時のリサに対し、僕は思わず目を奪われた。あまりの美しさに。
「あん時さ、リサが――」
「もういいです」
言いかけた言葉を覆い尽くすかのように、彼女の鋭そうな言葉が放たれた。
「……空?」
彼女の方に顔を向けると、不機嫌そうな顔で俯き、床を見つめている姿があった。意味のわからない僕は、言葉を失ってしまった。さっきまで感じていた和やかな雰囲気が、一瞬にして逆方向のものへと変貌したのだ。
「もう……いいです」
と、彼女は小さくもはっきりとした口調で言った。
「いや、いきなりどうしたんだよ? 気分でも悪いのか?」
僕が顔を覗かせると、逃げるかのように空は顔を背けた。
「どうしたんだよ」
「なんでもないです」
顔を向けず、空は即答だった。
「いや、だからおかしいだろ? いきな――」
「なんでもないって言ってるじゃないですか!!」
空は立ち上がり、空色の瞳を震わせながら響くかのような声だった。
「……なんだよ、空」
一瞬訪れた静寂の中、僕は言った。すると、空は僕に背を向けてしまった。
「おいっ!!」
僕は大きな声で言った。その瞬間、空の体が電撃が走ったかのように、ビクッとした。だが、それでも空は何も言おうとしない。
「……もういいよ」
僕はため息を吐き、船内へ戻った。ああいう時は、一人にして頭を冷やさせた方がいいと思う。
女って、いちいちわからなくなる。リサもそうだったが、ちょっとしたことで気分を害す。それで、とばっちりを受ける僕の身にもなってほしい。納得ができる怒りならばいいが、わけのわからないことは本当にイライラする。僕にどうしろって言うんだよ。
心の中で文句をぶちまけながら、船内の自分の部屋へ戻り、ベッドに仰向けになった。この部屋って、あまり船っぽくない。ちょっとしたホテルのように感じるためか、装甲船というより豪華客船なんじゃないかと思ってしまう。
ガルガンチュアはかなり大きい。タイタニックとまではいかないが、首が痛くなるくらい見上げなければならないほどだ。もちろん、船室の数も半端ではなく、一人一室にしても、空室は100室くらいある。レンドの仲間、僕たちとゼテギネアの操船者を合わしても、100人くらいしかいないのだ。
他にも広い部屋はあるのだが、レンドの船室と同じくらいの部屋を選んだ。あまり広いと、逆に落ち着かなくなってしまうからだ。
天井を仰ぎ、僕は大きくため息をついた。
さっきの空の様子、わけがわからなくてムカついたけど……なんだか昔っぽくて、ちょっとだけうれしかった。
記憶を失った彼女と接する中で、時折見せるいつかの空。その度に嬉しく感じる反面、哀しくもなる。いつになったら、元に戻れるんだろうって思う。
僕はなんで空が好きなんだろうか。あいつの笑顔はもちろん、声も、仕草も、全てが愛おしい。
――僕は、よく考えたら理由がわからなかった。
理由も無く他人を愛しく感じるのだろうか。
理由も無く、人を愛せるのだろうか。
白い天井を見上げ、僕は考えた。
どうして人は人を愛し、憎むのだろうか。歪んだ愛憎を抱き、持たぬ者は持つ者へのおぞましい羨望を抱える。
いつだって人はたくさんのものを求め、何かを犠牲にして生き永らえている。まるで己の膝下に敷くかのように、蹂躙するかのように、人は「それ」を求めるがために、真反対のものを増幅させている。
……空のことを考えただけで、話が飛躍してしまった。あまり深く考えすぎると、気が滅入ってしまうから止めておこう。
僕が寝返りをうった瞬間、部屋の扉が開く音がした。誰かと思って顔を向けると、そこにはデルゲンがいた。
「お、いたいた」
彼は少し微笑み、近づいてきた。
「何か用?」
「ん? ちょっと、な」
どっこらしょと、デルゲンはもう一つのベッドに座った。ここは、10畳くらいの部屋に2つのベッドがあり、それは対になって置かれてある。
「さっき、空ちゃんが一人で甲板の端にいたんだけどさ」
デルゲンはばつが悪そうに、ほほをかいていた。その時点で、彼が何を言いたいのかを察してしまい、僕は心の中でため息を漏らしていた。
「彼女、泣いてたぞ」
やっぱりと思いつつ、今度は本当にため息を漏らした。
「さっきまで一緒だったよな?」
そうですけど何か?、と心中で呟きながら、僕はうなずいた。
「泣かせるようなことでもしたのか?」
「そんなこと、するわけないだろ」
彼から背けるように、僕はもう一度寝返りをうった。
「だけどさ……」
「あいつがいきなり不機嫌になったんだよ」
僕は少し声を荒げてしまった。まるで、僕が悪いみたいにデルゲンが言ってくるものだから。
「空ちゃんが? そりゃなんでまた?」
「知らねぇ。リサってどんな人なのかって訊かれたから、答えただけさ。そしたら、突然、機嫌を悪くしてさ」
「ハハハ、なるほどな」
デルゲンは笑い始めた。意味がわからず、僕は再び彼に顔を向けた。
「……笑うところか?」
そう言うと、デルゲンは「すまんすまん」と言いながら口を押さえた。
「お前って、鈍感だって言われるだろ」
「はっ?」
突然のことに、僕は変な声を漏らした。
「言われたことないか? ガイアでの友達とかに」
そう言えば……誰かに言われたな。修哉だっただろうか。少し考えている僕を見て理解したのか、デルゲンは話し始めた。
「お前は、なんていうか……しっかりしてるようで、しっかりしてないんだよなぁ」
彼はそう言いながら、笑っていた。なぜか、その姿に対して憤りは感じなかった。
「きっと、あまりにも想い過ぎてるから、時折気付かないのかもしれないな」
一人で納得するかのように、彼はうなずいていた。
「もう少し、柔軟に考えてみな」
「…………」
「お前はさ、どこか達観しているけど……足元にあるものには、つまづくまで気付かないんだよ」
灯台もと暗し――みたいなもんだろうか。
「空ちゃんに対して、記憶失ってるからって考えながら接するのはやめた方が良い」
その言葉の瞬間、僕は心拍数が上昇した。
「彼女は彼女だ。いつだって、変わらない。変わり得ない」
そう言いながら、デルゲンは微笑んで目を瞑った。
「お前のことをずっと愛してくれた、幼馴染……大事な人には間違いないんだからさ」
「…………」
空は空でしかない。あいつは、昔のまんま。それは理解しているはずだった。……頭の中では。
記憶を失った――そのフレーズが心の底に刻印として残り、彼女に対する隔たりとして確立されていたのかもしれない。あるいは、彼女を「新しい空」として構築し、今までとは違うように接していたのかもしれない。彼女は彼女なんだと、自分に言い聞かせながら。
「まぁ、いちいち俺が言わなくても、お前は自分でしっかりとやるもんな」
デルゲンはベッドから立ち上がった。
「じゃ、夜には出て来いよ。一緒に、酒でも飲もうぜ」
「……未成年なんですけど」
「んなの気にすんな。せっかく、ガルガンチュアを貸してもらったんだ。この中にある酒は、平民じゃあ手に入れれないようなものばかりなんだぜ?」
デルゲンは白い歯を見せるほど微笑み、出て行った。……酒は飲めるけど、苦手なんだよなぁ。眠くなっちゃうし。
布団に潜り込み、ゆっくりと息を吐きながら目を閉じると、なんだか眠くなってきてしまった。今日は寒い所にいる割には、太陽の光が暖かく、春のような陽気を感じさせていたからかもしれない。自分にとって、一番好きな季節……春。それはつまり、寝ろって言ってるようなもんだ。
まどろみの中を歩いているようだった。こういう時、自分が夢の中にいるって言う事がよくわかるんだよな。なんだかフワフワしていて、浮かんでいるような感覚。上を見上げても、空は広がらずに、霧が立ち込めている。
「セヴェス」
目の前の霧に、人影が見えた。
「あんたは?」
霧に訊ねるかのように、僕は言った。
「私はお前。同時に、お前ではない」
「…………?」
落ち着いた声だった。いつかのリュングヴィみたいなことを言っているが、この落ち着くかのような雰囲気は、全く次元の違うものだと気付かせる。
「ああ、そうか……お前は――」
込み上げてくるかのように、何かが溢れた。それは懐かしさであり、温かさでもあった。
「バルドル」
そう名を呼ぶと、その人の周りの霧が潮が引くかのように、さぁっと消えた。そこに、男性の姿があった。
20代前半で、少しウェーブのかかった長い髪は青い。髪の色とは真逆なのか、真っ赤な瞳をしている。白いローブを羽織っているが、所々金色の装飾が施されている。
「あんたは、バルドルだな?」
再び名を呼ぶと、彼は一歩、僕に歩み寄った。
「お前がそう呼ぶのなら、そうなのだろうな」
「…………?」
「私には名が無い。名など、与えられていない。それはつまり、この世界――次元にいることを赦されてはいないということ。その存在自体を、あらゆる生命から認識されていないということ」
「認識……?」
「お前がいるからこそ、私はここにいる。お前が私を知覚し、その存在を認識しているからこそ、私はバルドルとして存在している」
拙い僕の脳みそじゃ、いまいち理解できない。つか、なんでこう……クロノスさんやリュングヴィとかは、わっかりにくい説明するかな。もうちと、優しく伝えようとは思わないのだろうか。
「こうして会うのは、初めてだな」
「……そっか。リュングヴィを倒し、あんたの力を手に入れたといっても、こういった空間に入ることは無かったもんな。ていうか、声を聞くのも初めてだよ」
心のもやもやが消え、曇り空が透き通るほど鮮やかな青空になったかのように、心は澄んでいた。それは、バルドルが醸し出す雰囲気そのものかもしれない。
「そうだったな……お前は、リュングヴィによって不安定にさせられ、私の声を聴くことはほとんどなかったからな」
フッと微笑み、バルドルは僕を見据えた。
「だが、覚えていないか? お前が、私の力を行使したのを」
「……ん〜?」
バルドルの力を行使した覚えは……無いんだけどな。ロキの力なら、ギリギリのところ(ほぼ失敗だったけど)まで行使したのは多数あった。
「フォルトゥナ神殿で、おまえは私の力を使った」
「フォルトゥナ……ってことは、ホリンと戦った時のか?」
あの時、ヴァルバがやられそうになった瞬間、体が軽くなった。さらに、ソリッドプロテクトを弾き、攻撃することができた。暴走した時のように、凄まじいものではなかったが、あの危機を脱出するには十分だった。
「本来ならば、カインと同等の存在であるお前は絶対的行使力で、私とロキの力を使えるはずだった。しかし、負の怨念の集合体であるリュングヴィを抑えていた楔が無くなり、奴によって力の一端――いや、そのほとんどを奪われていた」
リュングヴィがいたために、僕はうまく自分を操れなかった、ということらしい。リュングヴィと僕の関連性についてはいまいち不透明なところがあるので、はっきりとしたことは言えない。
「まぁ、結果としては元に戻った――ということだな」
バルドルはなんだか、安心したような雰囲気で言った。
「あんた、何者なんだ?」
そう訊ねると、バルドルは笑みを消して目を細くした。
「あんたにしても、ロキにしても……あんたたちがヴェルエス宗家に関わっている意味がわからない。あんたたちは人間なのか? それとも……」
「…………」
それ以上は、言葉が出て来なかった。いや、出すことができなかった。理由はわからないが、それを言葉にしてはならないと、心が警告を鳴らしているみたいだった。
「……遠い昔……」
バルドルは目を瞑り、僕に背を向けた。
「私たちは、共に夢を見ていたのだ」
「夢?」
バルドルはうなずく。
「……共に夢を見、共に生きていた。その中で私たちは、本来では得られるはずの無い経験と、幸福を得た……」
言葉が続いて行く中で、青い粒子がいつの間にか出現し始め、それらは彼を少しずつ包み始めた。どこから湧いているのかと思い、下の方へ目を向けると、そこは水面のように、青く透き通ったものに変化していた。
「しかし、結果として……私たちは破滅した。何もかもが消え去り、私たちの夢は粉々に砕け散った」
バルドルは背を向けたまま、上空を見上げた。
「……お前たちは、その〈夢の残骸〉とでも言えるのかもな……」
「…………?」
夢の……残骸?
僕が首をかしげると、それに反応したのか、バルドルは小さく鼻で笑った。
「いや、お前たちは自分自身だけの夢を見て、生きているんだったな……」
彼の微笑みを解せない僕は、さらに混乱した。
「何言ってんだ? 意味わかんねぇって」
「わからなくてよい。今はまだ、な」
バルドルは僕の方に向き直った。あの紅い瞳で僕を見つめている。
宝石のような――それでいて、嵐のように猛々しく、氷のように冷たく、流れる小川の如く静かで、炎のように憤っているかのような瞳。相反する全てのものが、そこに凝縮されているように感じた。
――僕は知っている。この「感じ」を。
その時、バルドルは僕の後ろを指差した。
「そろそろ戻れ。お前を呼んでいる」
「……誰が?」
再び、彼の笑みが返って来る。
「……言わずとも、わかるんじゃないのか?」
バルドルがそう言うと、この空間が閉じた。フワフワした感覚と共に、霧は消え、辺りは真っ暗になった。
目を開けると、船室の天井があった。
「……夢……じゃない、よな」
あれは、僕の精神世界だろうか。リュングヴィは僕の意識下に表面化していたが、バルドルは僕の内面に表面化しているように思える。その辺りが、僕の精神が操作させられるか否かを決定しているのかもしれない。
ふと思ったが、僕は多重人格なのだろうか。……いや、そうだとしたら、リュングヴィは太古の記憶を持っているはずがないし、バルドルに関しては外に表面化もしていない。完璧にもう一人の僕――というわけではなさそうだし。
いつだったか、リュングヴィは言っていたな。「アクセス」とか、「リンク」とか。その言葉を考えると、リュングヴィ――カインの血を受け継ぐ者の中で、彼に最も「近い」者に、リュングヴィはアクセスできるっていうことだろう。それはつまり、あの聖域に固着させられていた奴が、同じ血族の血を辿って働きかけることが可能……ということなのかもしれない。
そう考えると、バルドルもまたそういった存在なのかもしれない。リュングヴィとは形は違うが、別の原因で聖域に堕ち、精神だけが囚われている存在。
だがしかし、そこで疑問が浮かぶ。
リュングヴィは「人の精神」だったが、バルドルはそうではないように感じる。話してみて感じたのだが、人と話しているというよりも……もっとこう、別の「何か」に話しかけているように感じた。
――名を持たない存在――
それって、一体どういうことなのだろうか。人でもなければ、生命でもないのだろうか。……だとしたら、彼は一体なんなんだ……?
まさか…………神…………?
その時、何かがよぎる。
――これもまた、我々の罪か――
一瞬の閃光と共に、あらゆるものが崩壊する。消えていく。
全てが塵となり、無となり――そこには、希望もくそもなかった。
――神々の鉄槌――
「いつっ……!」
その「ワード」がよぎった瞬間、今まで何度も経験した電流のような頭痛がした。最近は、ほとんど無くなっていたんだけどな……。
「神々の、鉄槌……か」
天罰とかみたいな類なのだろうか。たしか、樹も言っていたが……結局、理解することはできなかった。
「ん?」
ふと何かに気が付いた。僕の腹部の辺りに、何かが乗っている。仰向けになっている状態から顔をゆっくりと上げ、それを見た。
――空だった。
小さな寝息をたて、空は布団の上に両手を重ね、その上に顔を乗せて寝ていた。ルテティアで気を失った時、アンナも同じように寝ていた。あの時、僕は3日も寝ていたんだったな。
空の寝顔は、静かだった。日焼けすることが苦手で、いつも肌は白かった。今もそうだ。彼女の肌は、一般の女性のそれよりも白い。どこか、シュレジエンの人たちのような肌を思い浮かばせる。
「ん……」
小さく声を出しながら、空は顔を上げて目をこすり始めた。そして、寝ぼけ眼で僕の方に顔を向ける。
「おっす」
なぜかわからないが、僕の口からそんな言葉が漏れた。もう少し、まともなセリフはなかったのかと考えてしまう。
彼女は少しだけ瞬きをして、もう一度目をこすった。
「……あ」
ようやく気付いたのか、彼女は慌てて寝かせていた上半身を起こし、僕から顔を背けた。
「何か用か?」
僕は頭をかきながらそう言った。なんか……緊張してしまう。夢から覚めて現実に戻ったかと思えば、僕を悩ましている一つの存在がそこにいるのだから。
えぇっと……何を言えばいいんでしょうか。何やら、不穏な空気が漂っているような気がしなくもない。
その時、僕はあることに気が付いた。
なんで僕が緊張しなきゃなんねぇんだ? こいつが悪い(たぶん)だし、僕は堂々としてりゃいいんだ。
そう結論した僕の脳みそは、「懲らしめてやろう」という考えに至った。ちなみに、これはわずか5秒程度で思考されたものである。
「……ごめんなさい」
結論を出した瞬間、彼女の言葉が漏れた。まさか彼女の方から謝って来るとは思わなかったので、僕は思わず何度も瞬きしてしまった。
そして、彼女は僕の方に振り向いた。
「いきなり、態度悪くして……」
ごめんなさい、と空は頭を下げた。
「……怒ってます?」
空は上目で、僕をチラッと見た。まるで怒られている子供みたいなので、笑ってしまいそうだった。それを何とか抑え、僕は簡単な意地悪をしてみようと考えた。
「怒ってるよ、もちろん」
「えっ?」
空は驚いた顔をしていた。たぶん、デルゲンから「怒っていない」とでも聞いていたのだろう。んな簡単に安心させてやるかっつーの。
「当たり前だろ? いきなり、何の理由かわからないまま機嫌悪くして……。僕が何か悪いことしたのなら納得できるけど、何もしていないのにあんな態度取られたら、誰だって怒るだろ」
僕はため息を混じらせて言った。
「そ、そうですけど……」
「けど? なんだよ」
「…………」
だんだん、空は泣きそうな感じになってきた。こんな簡単に泣きそうになられると、相変わらずすぎて笑えてきそうだった。
「分が悪くなると、すぐ泣こうとする。これだから女ってのは」
僕は体を起こし、ベッドの上であぐらをかいた。
「だって、空さんが……」
「僕のせいにするつもりかよ?」
そう言うと、彼女は俯いた。
「ごめんなさい……本当に……」
声は小さく、細くなり、震えていた。そろそろ泣いてしまうだろうと、確信させる。
「理由も何も言えねぇくせに、いっちょ前に謝ることはできんだな」
「……!!」
追い打ちをかけるように言うと、彼女の震えが止まった。
「そ、そんな言い方しなくても……!」
彼女が怒りで顔を上げた。そこの瞳には、涙が溢れる寸前だった。
「そんな風に言わなくてもいいじゃないですか! 私だって、自分が悪いって自覚してるのに……」
空は立ち上がり、涙を散らしながら言った。まるで、叫んでいるように見える。
これ以上やると僕がぶっ叩かれそうなので、やめておこう……そう思い、僕はため息を漏らした。
「悪かったよ。ごめんって」
お手上げのポーズをして、僕は笑った。
「……えっ?」
ぽかんと口を開けたまま、空は僕を見つめる。
「怒ってないよ、もう」
涙をまぶたに残し、彼女は硬直してしまった。
「ごめんな。少し、からかってみたかっただけだからさ」
「から……かう?」
僕がそううなずくと、彼女は再び震え始めた。
「ど、どうしてですか!? じゃあ、さっきのはわざとなんですか?」
「へ? あ、うん」
「…………」
納得したのか、ほっとしたのか、彼女はその場にペタンと座り込んでしまった。
「お、おい、大丈夫か?」
僕はベッドから降り、彼女の傍に行った。
「おい、そ――」
パチンッ
その瞬間、乾いた音が響いた。
「……馬鹿ァ!!」
彼女に叩かれたほほに、少しずつ痛みが広がってくる。
「いって……」
とは言っても、転んだ時と同じように痛みは感じない。反射的に言ってしまったのだ。
「どうしてこんなことするんですか!」
叩いた自分の手が痛いのか、彼女は右手を抑えながら言った。
「私は本気で謝らなきゃって思ってるのに……空さんは!!」
そして、彼女は僕の服を掴んできた。
「…………」
空は顔を俯かせ、泣いている。
ああ……まずったな。少しやり過ぎたようだ。そう考えながら、僕は懐かしさを噛みしめていた。
……ん?
――噛みしめているって……なんでだ?
どうして、懐かしいと感じたのか。それは、記憶を失う以前の空だとか、そういうものじゃない。これは…………
リサ?
「どうして……空さんは……!」
怒りで大きくなった声とは違い、悲しさで静かになっている。
――リサに似ているんだ。
理由はわからない。けど、はっきりとした感覚でそう思った。
「……なぁ、なんで怒ったんだ?」
僕がそう言うと、彼女は顔を上げた。涙でボロボロの顔が、自分の顔の下にある。驚いているようなので、僕は念のために言う。
「いや、今のじゃなくて、リサのことを話してた時だぞ?」
「…………」
目を開けたまま、空は僕をずっと見つめる。
「ん? どうした?」
困惑した表情で、まだ僕を見つめる。
「えぇっと……」
空の表情に、少しずつ笑みが浮かんでくる。その中にはもちろん、驚きが含まれている。
「あの……ですね」
僕から顔を離し、彼女は座り直した。僕も、その場にあぐらをかいた。
「空さんがリサさんの話をしてくれた時、最初はおもしろかったんです。リサさんの悪口ばかり言ってるものだから」
「ハハ、そうだったな」
思い出したのか、彼女も小さく笑った。すると、空は自分が笑っていることに気が付くと、ハッとした様子で僕を見てきた。そして、不機嫌そうな表情になってしまった。
「……私、怒ってたのに……なんだか、ずるいです」
「ずるい? なんで?」
僕が首をかしげると、空は肩をガックシ落としてしまった。
「もう……空さんは」
空はため息を漏らすと、クスクスと笑い始めた。
「なんだか、もう……おかしくて嫌になるなぁ」
「な、なんで笑うんだよ?」
すると、彼女は笑いを抑え、僕を見つめた。
「さっきの質問に答えますね」
「は?」
空は指先で、僕の唇に触れた。
「好きだからですよ」
彼女はずいと僕の前に顔を出し、ニコっと笑った。その笑顔に心を奪われたわけではないのだが、僕は瞬きをするのを忘れて彼女の瞳――空色の瞳を見つめていた。
空は顔を戻し、微笑んだまま目を瞑った。
「空さんがリサさんのことを教えてくれた時、知らないリサさんを知って嬉しいのと同時に……ムカッと来たんです」
クスッと笑い、彼女は続ける。
「なんででしょうね……リサさんを褒めるからでしょうか。私でも、なんだかよくわからないんです」
と、彼女は自分の胸に手を添えた。
「……記憶を失って、私は空さんと出逢いました。あなたは元の世界の……忘れてしまった友人なのに、そう言ってしまうのはおかしいですけど」
まぁ、たしかに。友人か……。その言葉に、僕は思わず少し落胆してしまった。
「その時から、あなたを見る度に……変な感じがするんです」
「へ、変な感じ?」
なんじゃそりゃ……と思い、僕は言葉を出してしまった。すると、空は少しだけ笑い始めた。
「あのですね、不愉快なものじゃないんです。それとは逆……すごく、懐かしいものなんです。リサさんに対して感じた意味不明なものとかじゃなくて、もっと確かな形の」
「…………」
「こう……なんて言うか、すごく心地いいんです。心が温かくなって……」
彼女だけにしかわかり得ない、自分を満たす感情。常に傍にありながら、決して輝きを失わない宝石そのものなのかもしれない。
「一人で考えたんです。それがなんなのかって」
怒った僕が彼女の部屋を出た後、甲板へ行って考えていたようだ。
「結局、わかったのか?」
そう言うと、空は小さく顔を振った。
「ダメでした」
「おいおい……」
苦笑する彼女に、僕も同じように苦笑してしまった。
「でも、別のことがわかったんです」
そして、彼女は言った。
「空さんの隣にいたいってことが」
誇らしげにそう言う彼女に、僕は再び心を奪われた。
「だから……うまく言えないんですけど、私は…………空さんが好きなんです。それだけは、確信」
そして、空は笑った。ぎこちなく。
お前は……自分に正直なんだな。いや、自分を一切偽っていない。お前はずっとあのままで、自分に正直に生きている。
空は全てを壊してでも、平和で平穏な日常を壊すことになっても、自分の心に従うことを決めた。変えようって、変わりたいって願って。
今と同じ。今までと全く同じなんだ。
空は空。
なのに……僕は空が記憶を失っているからって、今までと違うように接したり、自分を偽っていた。
あの時……日常を変えようと願ったのは、僕も同じだった。今までの日々に満足せずに、守ろうとせずに、新しくしようと。
――結局、僕は空によって気付かされるんだな。大事なことは、自分の掌に存在しているってことに。
「……迷惑だったら、ごめんなさい」
ハッとすると、そこには笑顔のままの空がいた。
「でも、それが私の正直な今の気持ちなんです。だから、後悔なんてしません」
なんだか、あの頃よりも一層惹かれるような感覚に襲われた。自分を包み隠さずさらけ出す彼女に対し、憧れに似たものさえ抱いていた。
「じゃあ、自分の部屋に戻りますね」
そう言って立ち上がる空。そして、出て行こうとする白い手を、僕はいつの間にか握っていた。
「? 空さ――」
僕は立ち上がり、ある言葉を放った。
「お前が好きだ」
これ以上、何かを言えるだろうか?
導き出されたはずの答えは、霞み始めていたその輪郭をさらけ出し、輝きを増す。それは、彼女にきっと届くだろうと確信させる。
やっぱり、幼馴染だとか、そういうのは関係ないんだ。
僕は日向空のことを愛してる。
彼女だからこそ、こういう想いになれたんだろう。
惹かれたのは、やはり彼女にしか存在し得ない「宝石」があるからなんだなぁ。
僕と空は、共に微笑んでいた。