5章:戸惑い 変わりゆく人、変わらぬ想い①
夢を見た。
今度は、僕の記憶だった。
幼い自分と、樹。そして空と海。四人で近くの公園の砂場で遊んでいる記憶だ。
何を話したのか、どんな表情を浮かべたのか、どんな気持ちで遊んでいたのかなんて、全く覚えていない。それでも、その夢は“その頃の夢”であると確信させるものがあった。
狂おしいほどに、愛せるというのか?
ああ、そうだよ。
僕も……君も。そうじゃないのか?
スパーンと、何かで頭を叩かれる。その衝撃でハッとした僕は、漸く何が起きたのかに気付いた。様子のおかしい僕に気がついた和樹は、教科書を丸めて僕の頭を引っぱたいていたのだ。
「なーにボーっとしてんだよ。昨日といい、今日といい」
不機嫌そうな顔を浮かべながら、和樹は椅子に座っている僕を見下ろしていた。
「変なもんでも食ったのか?」
「変なもん食べて、ボケーっとしないだろ」
と、僕は思わず苦笑する。
「何かあったの?」
啓太郎が僕の隣の席に座り、言った。
「まぁ、あったと言えばあったんだけど……」
だからと言って、この場では言いづらいのもたしか。こういった内容は、なぜか同性の友人には言いにくいものだ。
「俺たちには言えないのか?」
和樹は不機嫌そうな顔で、僕を見る。
「そういうわけじゃないんだ。ちょっと……な」
「……そうかい」
和樹は頭をかきながら、わざとらしくため息を漏らす。変に機嫌を悪くさせてしまったのかもしれない。
「勝手に悩んでろよ。こっちだって心配してんだからな」
彼はそう言い残して、トイレにでも行くつもりなのか、教室から出て行ってしまった。それを僕と啓太郎は目で追いながら、同時にため息をつく。
「正直じゃないね、和樹も」
啓太郎は苦笑し、そう言った。
「“友人の俺にも言えないことなのか”って、たぶん怒ってるんだよ」
彼は憤慨する和樹を思い浮かべながら、笑った。
「……まだ心の整理がついていないんだ。ごめんな」
僕は思わず、謝罪の言葉を口にした。何度も入院したりして、みんなに心配ばかりかけている。それだけじゃなく、普段と様子も違うんだ。心配するのも無理はない。
「心の整理ってことは、やっぱり結構なことがあったんだ?」
啓太郎はフッと笑い、僕を見る。しまった――というよりも、何かあったのは明白なんだから、致し方ないというもの。
「啓太郎の言うように、正直になれたらいいんだけどな」
……正直?
僕自身の、想いに――ということだろうか。
何をもってして、“正直”だというのか。
――わたし、…………あなたは――?
幼い少女の姿が、光の中にぼんやりと浮かんでいる。
その姿が、“誰か”と重なる。それは“彼女”だけではない。
そこにいるのは……誰だ?
「おーい、空?」
啓太郎の声に、僕は意識を取り戻す。彼は僕の前で、手を振っていた。「見えてますかー」と。
「あ……わ、悪い。ちょっと……」
思わず、僕は苦笑する。すると、啓太郎はじーっと僕の顔を見る。
「……な、なんだよ?」
「なんか、変わったよな」
「え?」
僕は首を傾げる。
「さっきと表情、違う気がしてさ。なんでだろう?」
―――――――――
「空……青いな」
僕は昼休み、屋上に一人だった。あまり食欲もないし、人のいないところに行きたかったからだ。
フェンス越しからこの町を眺めていると、この国は平和なんだなと実感する。いや、平和だと偽られている、と言ったほうが正解かもしれない。
平和なんて上辺だけ。遠くから眺めるときれいにしか見えないが、近くで見てみると薄汚れている。巷では凶悪な犯罪がはびこり、無駄な論議が政府でなされ、進展しない国際問題。
上辺だけの平和や幸福があるだけで、人はどうして満足するのだろうか。満足せず、ただ憂いている人もいるかもしれない。だけど、そういう人に限って行動力がない。稚拙な論理しか頭にない連中だけが、行動力を持っている。
怠惰な平和。惰弱な世界。
世の中なんて、そんなものなのだろうか。
生きていく中で、人はどれだけの真実を知って生きていけるのだろうか。知らないほうが幸せなことだってあるかもしれない。その方が、世界はうまく回っていくのかもしれない。でも、人として生まれた以上――この星の生命として生まれた以上、全てを知る権利はあるのだ。そして、世界を変える権利がある。そうやって、僕たちの歴史は築かれていったはずだから。
僕たちの先祖たちはいつの時代でも世界に抗い、生きていたはずだ。今の時代の僕たちにだって、出来ないはずがない。
だけど――しようとしない。それが僕なんだ。
「今日はいい天気だな」
後ろから、修哉の声が聞こえた。
「……そうだな」
僕は振り向かないまま言った。
「そろそろ、長袖じゃ暑くなってくるな」
きっと、修哉は上空を見上げながら言っているに違いない。
「昨日の夕立、突然でめんどくさかったぜ。洗濯物が濡れちまったよ」
「ハハ。昨日はお前が洗濯係だったのか?」
「じゃんけんで負けたんだよ」
そう言って、修哉は僕の隣でフェンスに背中をかけた。修哉の家では、家事は妹の咲希ちゃんと修哉がやっている。そのためのじゃんけんだったかな。
「よく、ここだってわかったな」
「だろ? 何年お前の友達やってると思ってんだよ」
「七年、かな」
「正解。それに、お前のいそうな場所なんてのは、たいてい空が見える場所だしな。お前の名前そのまんまってね」
と、修哉は笑う。
「僕としては意識してるわけでもないんだけど、自然とこういう所に行きたくなるんだよ。特に、空がきれいな日にはさ」
僕は上を見上げた。それを見て、修哉も上空を見つめる。
「まぁ、気持ちはわからんでもないがね。気持ちいいもんな。陽気が降り注ぐ中、青空の下でこうやって風になびかれてると……」
「……と?」
「眠くなる」
「結局それかい」
僕は思わず、苦笑してしまった。
「こういう日に勉強なんかしてられっかってんだ」
「お前はな」
僕は皮肉混じりに言ってやった。
「お前みたいに勉強ができれば、授業なんて聞かなくてもいいんだけどなぁ」
「勉強は学生の仕事だ。サボるなよ?」
「ふん。ほっとけ」
暖かな風が吹く。風の妖精が眠気を運んでくる。僕は大きなあくびをした。
「空ちゃんだろ?」
修哉は唐突もなく、口を開いた。
「……なんでもお見通しか」
「そりゃ、な。お前が悩む理由なんて容易に想像できるがな」
それもそうか――と、変に僕は納得した。
「空ちゃんに告白されたんだろ?」
「直球だな……」
僕は呆れてしまった。ど真ん中ストレートという感じで、彼は言ってくるのだから。
「そろそろ告白するんじゃないかなーとは思ってたからな。やっぱり当たり?」
へへ、と修哉は子供のように笑った。
「当たりでござんすよ」
「……なるほどな。お前が人生最大レベルで悩むってのも、うなずけるよ」
それだけ、彼から見ても悩んでいるように見えた――ということなのだろう。
「で、空ちゃんのこと好きなの?」
ド直球な質問が、僕の心臓に直撃する。
思わず、せき込んでしまいそうになった。
「……単刀直入だな、ホント」
「今回は回りくどい真似は止めようと思ってね」
修哉は嫌味っぽく笑った。
なるほどね……そう思いつつ、隠す必要はないよなと感じた。
「好きとか、そういうのがよくわからないんだよ」
彼女は――大切な幼馴染。それ以上でも、以下でもないのだ。
そう思っている。そう思いたい。
「今の関係が崩れることが、怖いんだ」
「……そりゃ、そうなるわな」
修哉はフーと長く息を吐いて、目を閉じていた。大気を、風を感じるかのように。
「これはあくまで、俺の考えだ。それを前提にして、話させてもらう」
急に彼はさっきまでの、それこそ“学生”のような話し方ではなく、どこぞの親であるかのような雰囲気を漂わせ、僕の方へ顔を向けた。
「空ちゃんは、変えたかったんだよ。今までの関係を」
「……?」
「空ちゃんも気付いてたんだろうよ。このままでは、たぶん一生幼馴染のまんま――ってね」
――だから、告白したんだろ――
修哉はそう言い、微笑んだ。
「嫌だったんだよ、きっと。だから、今を変えようと――勇気を振り絞った。告白なんて、人生の中でそうそうするもんじゃない。相当な勇気が必要だったはずさ」
たしかに、そうだ。どれだけの“勇気”が必要だったのかなんて、理解していなかった。
「たぶん、かなり怖かったはずさ。だって、今までの関係が壊れちゃうんだから。仲の良いままで――なんて、幻想だからな」
「……あいつも、怖がっているのかな」
「そりゃあな」
うん、と修哉は頷く。
「それでも変えたいと願ったんだろ。今を」
今を変える――それは、どこか今に向けてのものではないような気がした。
「変わらないものなんて、この世には存在しない。形あるものはいつか風化するし、楽しかった思い出も少しずつ薄れていく。その中で、人の気持ちってのは特殊だよな。いつだって変わらないことだってある。そう、“想い”だけは変わんないのさ」
でも――と、彼は続ける。
「その“想い”こそが、今を変える力じゃないか? 今を変えようと、空ちゃんは自分の“想い”をお前に届けた。お前はそれに、ちゃんと答えないと」
変わらぬ想い。
それは今の僕に、深く印象付ける言葉だった。
「健気じゃないか。ずっと昔っからお前のことが好きだったなんて、さ」
「……まるで、見ていたかのように言うんだな」
僕がそう言うと、修哉はあっけらかんとした表情で僕を見る。
「おいおい、俺がどれだけお前たちのこと見てきたと思ってんだ? 舐めないでもらいたいぜ」
ハハハ、と彼は笑った。さらっと言ったけれど、とても大事なことのように思う。当たり前のように言えることに、僕は感嘆してしまった。
「それに、誰が見たってわかるんじゃねぇの? どう考えたって、小さいころから好きだってのはバレバレなんだけど」
「え、そうなの?」
単純に驚いてしまった。そんな僕を見て、修哉は呆れ顔を浮かべる。
「あんだけアプローチされて気付かないのは、お前くらいなもんじゃねぇの? バレンタインデーは必ず手作りだし、しかもお前のだけ特製だし。弁当を手作りで渡すし、誕生日なんていつも手料理じゃないか」
そ、そうだっただろうか……。当たり前すぎて、それが普通だと感じてしまっていたのかもしれない。
「頻繁に手料理作るわ、一緒に登下校したがるわ……あれだけされて、なんで気付かないのか理解に苦しむ」
そこまで言うか……。
「まぁ他にもいろいろあるんだが……健気だなぁってずっと思ってたからな。俺からしてみたら、言われないと気付かないお前に問題あるようにしか思えんがね」
鈍感なんだよ、お前は――と、修哉はため息交じりに言う。そうハッキリと言われてしまうと、ショックを隠し切れない。
「他人には優しいくせに、自分に向けられている感情に気付きにくい。それもこれも、どこかで“このままでいい”なんて思ってるからじゃないのか?」
「そ、そんなことねぇよ」
「だったら、今の気持ちを伝えてみればいいじゃねぇの。何を迷ってんだ?」
「は?」
僕はその言葉に、疑問符を浮かべた。
「迷うのは当たり前だろ! ……急に好きだって言われて、戸惑わない奴なんていない。しかも、それが空だったら尚更だ」
美香に“好きだった”と言われても、驚くだけだった。
だけど、空の時は違う。何が正解なのか、わからないのだ。
「やれやれ、困ったね。ここまで言わんとわからねぇか」
修哉はため息交じりにそう言い、ずいと一歩分ほど僕に近付いた。
「お前は彼女のことが好きなんだよ。どうしようもなく」
彼は断言した。彼の碧い瞳は、僕の胸の奥を見つめているように感じた。
「なっ……な、何言ってんだよ!」
「空ちゃんに告白されたから、そんなに悩んでるんだろ? それが別の人なら、そんなに戸惑いも迷いもしなかったんじゃねぇの?」
「――!」
その通りだった。
美香に告白されても、たとえ海に言われたとしても、こんなにも焦らない。
そう。
空だから、こんなにも思い悩んでいるんだ。
修哉はふー、とため息を漏らした。
「思い当たる節はないのか? お前」
僕の言葉を遮るように、彼は言った。
「思い返してみろよ。今までのことをさ」
彼に促され、僕は記憶を辿った。
鮮明に思い出せない。でも、たしかに“そうだった”と思える憧憬。
白いワンピースを着た、幼い少女。
その子が差し出した手を、僕は握りしめた。
どの記憶だろう?
……どの記憶?
――いつまでも待ってる。ずっと……ずっと――
多くの情景が霧のように浮かんでは、一瞬で消えて行く。その記憶が浮かんだということでさえ、すぐに忘れてしまうほどに。
その中で、僕は一つの記憶を手繰り寄せた。
あの時の彼女を。
僕に手を指し伸ばしてくれた、少女の姿を。
「……ああ、そうだ」
言い表すことのできない、不思議な高揚感。それは宝物を見つけた子供のように、はしゃぎたい気持ちだった。そうさ、僕の宝物だ。この“想い”は。
何度も、抱きしめたいと思った。だから、抑えられなかった。あの時――晩御飯を創りに来てくれた時も。彼女に触れたいと、全身で彼女の鼓動を感じたいと、本気で思ったのだから。
まるで曇天模様の世界が、雨が止み青空が広がっていくかのように心が晴れていく。大気には雨の水分が混じっているけれど、空は何よりも澄み切っている。
そんな青空だ。
「大切なことを、忘れていた」
呟くように、僕は言った。
僕は彼の方へ向き直り、ニコッと微笑んだ。自然に。
「行くよ」
そう言うと、彼も同じように微笑む。
「……そうか」
「ありがとうな、修哉」
「ん? いいってことよ」
彼は僕の顔を見て、満足そうだった。照れずに、さも当然のことを下までと言わんばかりに。
「……今から、会いに行くんだろ?」
「ああ。今から、あいつに会いに行く。今会わないと、駄目な気がするんだ」
どんな気持ちなのか、漠然としている。それでも、はっきりしたいんだ。彼女に会えば、それがわかる気がした。
今、この晴れた空のような胸を持ったままで――。
僕は彼女のいる校舎へと向かった。
「…………」
修哉は小さく息を吐いた。
「言ったろ? ずっと見てきたって」
彼はフェンス越しに、町の風景をゆっくりと眺めた。
「変わらないものは、ない。だが、“想い”だけが変わらない。それだけの“可能性”を持っている。俺たちには、それがあるんだと……教えてくれたのは、お前たちだよ」
だけど――と、彼は目を細める。
「お人好し……? そうかもしれない」
そう思い、虚しく微笑む。
でも――
「でも、いいじゃないか。少しくらい……“今”を楽しんだって」
果てしなく続く青い空。町のずっと先が、白く霞んで見える。
この景色が、俺は好きだ。
この春霞の中に淡く溶け込む空の青さに、いつも心が揺さぶられる。どんなに淀んだ日常が続いても、空はそれを苦にしない純情さを持ち続けている。
「俺たちはどこに向かうんだろうな、空」
小さく、小さく呟く。誰にも届かないように。それでいて、誰かに届いてほしいと願いながら。
「……お前は、違うんだろ? お前だけは……」
そう、お前たちだけは。
―――――――――
ほとんど走ったことのない廊下を、僕は走っていた。ほんのちょっとの時間でさえ、今は惜しい気がしていた。一粒の雫さえ、この手から零したくない。
昼休み終了間近で、学生たちが廊下に大勢いる。なるべく人にぶつからないように、間を縫って走る。もしも空がいなかったらどうしようか? いなかったらいなかったで、待つだけだ。あいつのことだ。授業をサボることはできないはず。絶対に教室に戻ってくる。
新校舎の2階。ここが空のいる教室がある階だ。教室の周りは多くの生徒でごった返している。みんな、制服をきちんと着ていて、思わずきちんとネクタイをしていない且つ、ブレザーのボタンも閉めていない自分が少しだけ恥ずかしくなった。
僕は教室に入り、中を見渡した。ざっと30人近くいる教室の中で、空はどこにいるのだろうか。
「あれ、どうしたの?」
急に後ろから声がぶつかってきたものだから、僕は思わずビクッとしてしまった。後ろへ振り返ると、そこには怪訝そうな表情で僕を見つめる海の姿があった。
「ここ、一年生の階じゃない。空は上の階でしょ?」
「いや、そんなことはわかってるんだけど」
「じゃあ、なんでいるのよ」
「…………」
そう詰められると、返答に困るのだが……。
「えぇっと……ちょっと空に用事があったんだけど、いる?」
たしか海はクラスが違う。だが、一緒にいないということは、既に教室に戻っている可能性がある。
海は少しだけ首を傾げ、目をパチクリさせていた。何やら無為に詮索しようとしているのか、或いは素直に言った方がいいのか――と考えを巡らしているのかもしれない。
「さっき“気分が悪いから早退する”って言って帰っちゃったよ?」
「……早退したのか?」
そう問うと、彼女はうんと頷く。
「朝から変に元気ないなーとは思ってたけどね。“一緒に帰ろうか?”って訊いたんだけど、体力的には問題なさそうだから大丈夫――って」
「ああ……なるほど」
そうきたか。精神的なものだから、まぁ間違ってはいない。
と、一人で納得する僕を、海は目を細めて見ていた。
「何よ。心当たりでもあるの?」
海はそう言って、僕の方へ顔を寄せた。空と瓜二つな顔――そして、その双眸。でも、彼女たちはたしかに違う人間なんだと、僕ははっきりとわかる。
「心当たりはあるようで……ない」
「何よ、それ」
海は呆れたのか、腰に手を当てて大きくため息を漏らした。
「いないならしょうがない。ちょっとメール送っておくよ」
「なんだったら、後で見舞いに行ってあげてくれない? 私、今日は部活で遅くなりそうだからさ」
「了解、任せてな」
僕はそう言って、彼女を後にした。
僕は少し早歩きで階段を降り、外へと向かった。その最中、空にケータイでメールを送る。
『早退したと聞いたけど、大丈夫か?
14時くらいに、昔遊んだ団地の公園に来れないか?
話したいことがたくさんあるんだ』
僕は学校を出て、その公園へ向かった。
公園には誰もいなくて、昼過ぎの団地内の静けさが広がっていた。この公園は子供の頃、弟の樹や日向姉妹とよく遊んでいた場所だ。あの頃から何も変わらない場所の一つ。
彼女はまだ来ていなくて、そもそも来るかどうかもわからないというのに、僕にはなぜか確信めいたものがあった。だからなのか、予定時刻までの約一時間――何をして過ごそうかと、変に思慮していた。
ふと、砂場に目をやる。
その砂場は何の変哲もないただの砂場だ。灰色の砂が大量にあって、それを同じような灰色の囲いで仕切られているものだった。今日なのかそれ以前なのかわからないが、そこは掘られた跡や山を形成されていたような痕跡が残っていた。自分以外誰もいない公演だけれど、人の気配が残っていることに対して妙に安堵していた。
僕は砂場に腰を下ろし、大の字になった。ああ、たぶん制服や靴に砂が入っちゃうだろうなとか、後頭部の髪に入り込んでしまうだろうな……などと思いながらも、そうやって上空を見上げた。
そして、目を瞑る。
ここは、始まりなんだ。彼女たちと、僕との。
意識が遠のいていく中で、あの頃の彼女たちの姿がぼんやりと浮かび上がってくる。ぼやけた輪郭だけれど、それでもはっきりと脳裏に焼き付いている情景の一つ。僕が僕であるための、理由そのものとして。
白いワンピース姿の、二人の幼い少女。二人とも同じ顔だけど、髪型だけがちょっと違っていた。
くねくねとウェーブの髪と、綺麗なストレートの髪。二人とも、腰まで届きそうな長さだった。
まぶたの裏に、出逢った時の彼女たちの姿が映し出される。
それはまるで、一つの限りなく現実に近い写実的な絵画のようでありながら、その瞬間を切り取った写真のようでもあった。
そこで、情景が変わる。
気付くと、写真がいくつも並べられていた。そこに映し出されていたのは、世界地図。或いは、崩壊する都市だった。
――始まりは、この星にしてみればさほど昔ではない。けれど、ヒトから見ればそれは遥か古の物語――
声が聴こえる。まるで語り部のように。
――幾度の大戦を経て、ヒトの世は幾重にも積まれた様々な契約を結び、緊張を携えたまま歪な平和を享受していた――
――ある大国が“物体”を見つけるまでは――
――やがて、ヒトはそれを巡り争いを始める――
――ヒトにとって、それは禁断の果実そのものだった――
――大きな戦争は短期間で終わりを告げ、世界は焦土と化した――
――ヒトは困窮する世界で救済を求めた――
――その救済を請け負った“組織”は、瞬く間に世界に広がりを見せた――
――“アルケー”――
――それが一つの始まり――
――人類の、お前たちの咎――
「空?」
声が聴こえる。それは心が潤うような、優しい声だった。
ゆっくりと目を開けると、太陽の眩しさが差し込んできた。それがわかったのか、彼女はそれを遮るようにして僕の正面に顔を出した。
「こんなところで寝ちゃって……大丈夫?」
声の主が誰なのか、はっきりとしない意識の中でもわかる。
「空、か?」
「……そうだよ。寝ぼけてるの?」
と、不思議そうに彼女は言う。彼女だとわかっているのに、敢えて訊いて、彼女がそれを答えてくれたことにより安心したのだ。いや、安心したかった――と言った方が正しいだろう。
彼女が来ると確信していたのに、それでも来ないのではないか――という多少の恐怖があったのだと、この時悟ったのだ。
僕は「すまん」と言って立ち上がり、背中の砂などを手ではたいた。
「体調は大丈夫なのか? 早退したらしいけど」
「え? あ……うん、ま、まぁ……」
空は僕から目を逸らし、曖昧な返事をした。
「まさか、サボり?」
「そ、そんなわけないでしょ! ……もう一杯いっぱいだったの。わかってるくせに……」
ふん、と空は少し怒ったように見せて、そっぽを向いてしまった。その様子に、僕は自然と笑みが零れていた。照れているのが丸わかりで、可愛らしく感じた。それがバレると、きっと「からかわないで!」と言って、怒るんだろうと思った。
「子供の頃、ここでよく遊んだな」
僕はそう言って、辺りを見渡した。
「……そうだね」
彼女は少し驚いた様子を見せ、僕と同じように公園を見渡していた。
「僕と樹と空と海。いつも4人だったな。……いつの間にか修哉も加わってさ」
そうした日常が、僕たちの当たり前だった。それがいつまでも続くように思っていた。
「……少しずつ」
空は砂場から出て、ブランコの方に目をやっていた。
「私たちは、昔のことを……こうやって思い出すのかな。何年もすれば、私たちがこうして昔のことを懐かしんでいることさえも」
彼女は優しく微笑んでいた。どこか寂しさを漂わせて。
「変わらないものはない――って、修哉が言っていたんだ」
ふと、あいつの言葉がよぎった。ついさっきのことなのに、どうしてか既に遠くに置き去りにされていたような気がしたのだ。
「僕たちが昔のことを懐かしむのも、あの頃のことを思い出して笑ったり、悲しんだりするのも……少しずつ、僕たちは変わっていっているからだと思う」
過去のことを、僕たちはいつしか別人のように――まるで、その場所を見つめる大人のような眼差しで――その情景を眺めるようになる。ほんの十数年しか生きていないのにもかかわらず、幼い頃のことを遠い昔のように語り合うのだ。
それは、僕たちが変わっていった証拠だ。
「だから、僕たちが……ずっと今のままでいるってことも、不可能なんだって思ったんだ」
「…………」
「そう思ったから、僕はここに来た。ここで、空たちと出逢ったから」
風が優しく頬を撫でる。公園の周りの植樹された樹々の葉っぱたちも、微かに揺れ動いていた。それは僕たちの心の動きのようでもあった。
「……覚えてたんだ」
空は視線を少し下に落とし、どこか儚げに微笑んでいた。
「私はあの時から、気持ちは変わらない。……私のこの想いは、ずっと変わっていない。これも、いつか変わるって思う?」
その言葉は、僕の言葉の矛盾をつこうとするものだった。でも、僕は答えを知っている。修哉が教えてくれたのだから。
――どうしてだろう。
修哉は、わかっていたんだろうか。彼女が今のような言葉を放つことを。僕が、お前の言葉を使おうとすることさえも。
でも、確かなことは……修哉は、僕の背中をずっと押してくれているということだ。
勇気を持て、自分の“変わらない想い”を信じろ。
そう言っているような気がした
だから僕は、前を見据えた。
「変わらないのは想いだって、あいつが教えてくれた」
えっ――と、不安げな表情だった空は、少し戸惑いを浮かべていた。だからなのか、後になっても理由はさっぱりわからないけれど、僕はどこか安心したように顔を綻ばせて、自分ではきっと意識しても出来ないほどに優しい表情になった。
「好きだ」
それ以上の言葉はいらない――ような気がした。僕にとっての“変わらない想い”は、まさにその言葉一つに凝縮されているのだから。
始まりは何だったのだろう。この恋の始まりは、どこから続いているのだろう。
人は何事も理由を知りたがる生き物だから、自分の気持ちや行動原理の根本的な原因を探りたくなるものだ。だけど、今回ばかりは、そんなことどうでもいいと思った。僕が根源的に抱いていた想いが、今日この時に成就されたのだから。
現実だと思えなくて、彼女は何度も「嘘だ」と言った。僕は思わずため息をつきつつ、「嘘じゃないよ」と何度も返した。段々と彼女の白い肌が震えてきて、深い黒曜石のような双眸が水面のように揺れ始め、涙の雫が零れていく。それは彼女の怒涛とも言える感情の大津波で、彼女自身で抑えきれるようなものではなかった。だからか、空の足は指し示された光の根元へ向かうかのように、ゆっくりと僕の方へ歩を進めたのだ。
そして、抱擁。
あの時――僕はこの体を離してしまった。この小さくも芯のある彼女の体を、自ら離してしまったのだ。その時のことをどれだけ後悔していたのか、今になって理解した。それと同時に、再びこうして求めていた彼女を――彼女の心を抱きしめることができ、どうしようもなく目頭が熱くなっていってしまった。僕はそれをどうにか堪えるために眉間にしわを寄せ、目を強く閉じた。どうしてこんなにも嬉しいことが起きているのに、目を閉じてしまうのか――よく映画やドラマなどでそういったシーンを見たが、その理由を知ったような気がした。
「私……」
震える声で、彼女は僕の耳元で囁く。
「私、ずっと空が好き」
「うん」
小さく、僕は頷いた。
「ずっと、ずっと好き。ずっと一緒にいたい……ずっと」
「うん。僕も、空が好きだ。……誰よりも」
「……空……」
それは、自然と起きた現象だった。
僕と空は、生まれて初めて、キスをした。
「…そろそろ『時』は来る…か」
遥か遠く、ビルの屋上からある男が佇んでいた。
「もうしばらく、夢を見させてやろうか……」
異国の服を纏った男は、上空を見上げた。
「…今一時の夢を堪能するがいい…」
……セヴェス……
「今日は生徒会の集まりがあるから、先に帰っててもいいぞ」
「………」
非常階段。ここなら、誰も来ないはず。
「んじゃ、そろそろ教室に戻るか」
僕は階段を上ろうとした。
「あっ……そ、空…」
「? どうした?」
「…………」
どうしてか、空は子供のように何かを言いたげそうだった。
「…その……待ってても…いい?」
彼女は機嫌を伺うかのように僕を見た。まるで悪さをした小学生みたいで、少し笑ってしまいそうだった。
僕は微笑んだ。
「まぁ……遅くなってもいいならいいけど」
「ホント!? じゃあ、どこで待ってればいい?」
空の顔はパァッと笑顔になった。なんだか、こっちが照れてしまいそうだ。
「…うーん……じゃあ、新校舎の南出入り口にある、自販機の所で待っててくれ。なるたけ、早く済ませるようにするから」
「うん! じゃあ私、先に教室に戻るね」
そう言って、空は階段を走って上り始めた。途中、立ち止まって僕に笑顔で手を振った。僕もそれに応えた。
階段を上っていく彼女の足音。時間が経っていくのがわかる。
「………」
なんだか、気味の悪い沈黙が流れた。夜でもないのに、真夜中の細い山道のような雰囲気が漂っている。
セヴェス――
その時、あの頭痛が電流のように走った。
「くっ……!」
僕はその場にうずくまった。
――遥かなる遠い契約――
男性の声が…聴こえる…。
――我を繋ぐ黒き楔――
今までにないほど、はっきりと聴こえる。それでいて、神秘的だった。耳に聞こえてくるのではない。僕の心に語りかけてくるかのように聴こえるのだ。
――解き放て――
うるさい…!
――お前は俺――
うるさい! 僕は…僕だ! それ以外の、何者でもない!!
――うろたえし幼子の魂――
――虚空の果てに消える悔恨と悲愴の叫び――
なんだ…? 体が…熱く…
――神々の時代より続く輪廻の宿命――
輪廻…? 神々…? 宿命…?
――我を……き…………て……――
脳の奥を襲う痛みが、一瞬にして消え去った。
「………今の…は………」
なぜだろう…。今までの声と同じなのに、雰囲気が違っていた。なんというか……そう、『暗闇』………という感じだった。何かを、渇望しているかのような声だった。
…イニシエカラノノゾミ、タツベキモノ…
その時、僕の目の前にある風景が広がった。それは、今まで見たことのない風景だった。この世に存在しているのかどうかもわからない風景だった。
不思議な光景だ。
四方が青空に囲まれている空間。右も左も、上も下も、全て空の青と雲の白で塗りつぶされている。遥か彼方に、海との蒼い境界線が見える。
その空間の中央に、空色に輝く何かがある。
あれは……巨大な水晶……?
ゆっくりと横回転しているそれは、僕の瞳に青い光を飛ばしてくる。チカチカと発光しているその様は、神々しさを放っているようだった。
巨大な水晶………その先に見える、記憶の断片……。
これは………
――創造と破壊の象徴――
「…っっ!!」
煌いた刹那の光と共に、僕が見る世界は元に戻った。
非常階段の下。ほんの少し、ほこり臭い。
「…創造と…破壊……?」
今までのような頭痛がするわけでもなく、幻聴が聴こえるわけでもなく…。ただ、僕の意識はどこか知らない遠くへ行っていた。
「…………」
知らない場所…。
どうして、僕はそんな光景をこの体に刻んでいるのだろう。もしかしたら、僕が生まれるずっと昔…前世の僕が見ていた「世界」なのかもしれない。
今となっては、知る術なんてないけれど。
7時10分前。ようやく生徒会の集まりが終わった。そろそろ生徒総会があるということで、議論すべきものがたくさんあったのだ。ながったるい今年度支出なんとかってのを読んだり、話し合ったりと…まったく、どうしてこんなめんどくさいものに入ってしまったんだろう。
この季節になると、7時でもほんのりと明るい。とは言っても、8割暗いのだが、真っ暗よりかはましだろう。
新校舎というのは現在の1年生がいる校舎のことで、5年前に建てられたものだ。だから、新校舎って未だに呼ぶのもどうかと思う。カバンを担ぎ、南出入り口の自販機前に行った。暗くて人がいるのかどうかわからなかったのだが、実際に行ってみると本当に誰もいない。
「………?」
空がいるはずなのに、いない。待ってろと言ったのに…。
僕は辺りを見渡した。暗がりの中にぽつぽつと光る電灯に群がる虫。人気のないグラウンド。聞こえてくるのはどこかの車の走る音。
嫌な予感がする。まさか、あいつ………!
急激に不安になった時、何かが僕に触れた。僕は声も上げず、サッと後ろに振り向いた。
「そ……空!?」
そこにいたのは、空だった。
「びっくりした?」
「あ、あのな……」
ふざけて微笑む彼女。それを見て、ホッとした。安心した様子を理解されないよう、びっくりしたような表情をして見せた。
「ったく、いつになく悪ガキになってんだから…」
「悪ガキとは何よー! あと4ヶ月で16歳なんだから!」
「はいはい。もー帰るぞ」
僕はそっぽを向いて歩き始めた。
「あ! ま、待ってよー」
と、空は慌てながら僕を追いかけてきた。そうなるということが、最初から予想できていた。
後ろから来た空は、僕の腕に手を回した。
「こうやって帰ろ♪」
思わず、ドキッとしてしまった。女性とこんな風にしたことがないので、心拍数が否応にも上昇してしまう。まったく……困ったもんだ…。
僕たちは帰り道、あの公園に寄り、ベンチで談笑した。自宅に帰るとどうしても二人で落ち着いて話すことができないからだ。
「……それでね、あずさってば大笑いしちゃって」
「あの子はけたたましいからなぁ。僕が見てきた女の子の中で、一番だよ」
「あ、ひどーい。でも、たしかにそうだけどね。……あれ?」
「ん? どうした?」
空は自分のポケットに手を突っ込んだ。
「携帯が鳴ってる。………あっ、海だ」
空は僕をチラッと見た。
「出なよ。たぶん、心配してんだよ」
「う、うん……。………もしもし」
空は不安そうな面持ちで電話に出た。僕はこの時、あることを思い出した。忘れていたわけではないが、あまり考えたくなかったことだ。できれば、何もないまま過ぎればいいと思っていた。…けど、必ずどうにかしておかないといけない問題だった。
「……うん…ちょっと用事があって………うん……うん……大丈夫…。……えっ? そ、そうなの? ……うん、わかった…。………うん、じゃあね」
「なんだって?」
あまり気にしていない風に訊ねた。本当は、かなり気になっている。
「…どこにいるのかだって。空の予想通り」
「そっか。……あのさ」
「…?」
僕は、今はの際に思い出したことを言った。
「…海は知らないのか?」
「…………」
空は何も言わず、小さく顔を振った。
「やっぱり、な…」
「ご、ごめんなさい。なかなか、言い出せなくて……」
空は顔を沈めた。僕はそれを慰めるように、言った。
「お前は悪くないよ。僕かお前、どちらが言ってもいいんだが……いや、二人で言ったほうが良いかもしれない」
「でも……やっぱり……」
「…ともかく、早めに言っておいたほうが良い。あいつに隠し事をしておくのは、なんだか気分が良いもんじゃないしな……」
「…うん…そうだね…」
空はどこか哀しそうだった。その理由が、今の僕は理解することはできなかった。
「ところで、帰れって?」
「へっ? あ、うん。もう暗いから、帰って来いって。……なぜか、空の家に」
「…はっ?」
僕は頭をかしげた。なぜ僕の家…?
「いつもの晩御飯だって」
「あぁ……なるほど」
いつもの晩御飯。日向家と東家が一緒に食事をするということだ。外食するわけでもなく、自宅で一緒にするのだ。ちなみに、日向宅とうち、交互に行う。
「じゃ、帰るか。あまり遅れると、母さんたちうるさいし」
「そ、そうだね」
なぜか、空はうれしくなさそうだった。一緒の晩御飯の時、空と海はいつもうれしそうなのに。
「…? どうした?」
「…その………まだ、空と二人っきりでいたくて……」
「…………」
少しほほを赤くしている空。僕まで赤くなってしまいそうだった。僕は照れ隠しに頭をかいた。
「…そ、そっか」
「帰ったら、二人だけでいるなんて絶対に無理だしさ……」
「…まぁ、そうだけど…」
僕もまだいたい……と言ってあげればいいのだろうけど、なんだかそこまで言う勇気がなかった。告白する時、あれだけ恥ずかしい台詞を簡単に言えたってのに。…真面目に考えれば、そこまで恥ずかしい台詞でもないのだが。
「…みんな心配するから、帰ろう」
「………」
「…それに、これから二人っきりになれないわけでもないんだから。なっ?」
「……うん。わかった……」
「ほら」
僕は彼女の手を握り、立ち上がった。
「せめて、家の前までこうしていてあげるからさ」
「…空…」
家に帰ると、おじさんが出迎えた。
「一緒だったのか?」と言われて、とりあえず
「帰る時、ばったり会ってね」
おどおどしていた空に代わって、そう答えた。かなりありがちな嘘だが…。
今日はどうやら、1ヶ月遅れの空と海の入学祝、ということらしい。今更じゃねぇかと文句を言うと、母さんに頭をひっぱたかれてしまった。
「今日の料理、誰が作ったと思う?」
いつものように談笑しながら食べていると、おばさんが言った。
「? いつもどおり、母さんとおじさんだろ?」
「ふふ、今日は違うのよ」
「まさか……父さんじゃあるまいし…」
僕は思いっきり嫌な顔をした。
「おいおい、なんだその顔は。誰も俺が作ったって言ってないじゃないか」
「……焦った」
「おいおい…」
父さんの料理は地獄である。本当に。死に掛けたといっても大袈裟ではない…気がしなくもない。
「実は、海なんだよ」
おじさんがビールを飲みながら言った。程よい感じに顔が赤くなっている。
「海? おいおい、嘘だろ?」
「嘘じゃないわよ! ちゃんと作ったもん!」
海は大きな声で言った。
「りょ、料理が苦手なお前がぁ!?」
驚かずにはいられなかった。だって、海はなぜか空と違い、料理が苦手なのだ。前にも言ったが、彼女はしないのである。空はよくうちで料理していたので、今日くれた弁当はもちろんのごとく上手だった。さらには好みのものまで把握しているのだ。
「い、いいでしょ! たまには!」
「はぁ〜なるほどねぇ…。どういう風の吹き回しだ?」
「あんたね、そういうこと言うんじゃないの」
「そーだそーだ」
母さんと父さんは良く意見が合う。というより、人を否定する時は結託しやがる。質が悪いっつの。
「だってさ、海はあんまり経験ないんじゃ……」
「でも、おいしいよ?」
空は微笑んでいた。たしかに、不味くはない。むしろ、おいしかった。味付けもおじさん仕込みだし、それに…このから揚げの味付け…母さんのそれと同じだった。
「私だって女なんだから、それくらいやるってんだ」
と、海はふんぞり返っていた。
「なるほど…。海、作るの初めてだろ?」
「え? う、うん。たぶん…」
「きっと教えてもらいながら作ったんだろうけど…初めてにしては、上手だよ。むしろ、それ以上かもな」
「………へっ…?」
海は何度も瞬きをして、それ以外の動きがなくなっていた。
「ん? どした?」
「…な、なんでもない!」
「海ったら照れちゃって」
おばさんはうれしそうに笑っていた。
「や、やだ! お母さん、変なこと言わないでよ!」
「うれしいなら、うれしいって言えよ。別に不味くないし。おいしいと思うけどな」
僕はから揚げを食べながら言った。
「や、やだ! なんか……その………」
海の照れる様子、ホント空そっくりだ。今更ながら、おもしろく思える。
「もう! 恥ずかしいじゃない! 馬鹿!」
「んだよ、褒めてやってんのに。これじゃあ、9月の誕生日プレゼントはお預けだな」
「ふんだ。そんなのいらないもん」
「んなこと言って、欲しいくせに」
「う……うっさい! 馬鹿空!!」
「その台詞、聞き飽きたっての」
すると、他のみんなは笑った。
「さて、もう一度乾杯するか」
「またかよ……」
「空、今日は飲んでも怒らんぞ?」
父さんは僕に酒を勧めてきた。
「いや、飲まないし。てか、未成年の息子に酒を勧める父親ってどうだよ…」
「ハハハ、気にするな」
「あのね……」
酔っ払い始めているわが父親。情けなさ過ぎる…。
「ともかく、2度目のかんぱーい!」
「明日仕事だろーに……」
10時を過ぎた頃。おじさんとお父さんは酔い潰れてソファーで寝始め、母さんとおばさんはおしゃべりが続いていた。
「まったく…なんで……僕が…こんな………」
海まで酒を飲んでしまい、泥酔してしまったのだ。そして、リビングで寝させるわけにはいかないので、僕は海を背負って階段を上っていた。それにしても、海は軽い。女性ってこんなに軽いもんなんだな。…ということは、双子である空はほぼ同じくらいの体重なんだろうな。…訊くわけにはいかないけど…。
ようやく自分の部屋に辿り着き、海をベッドに置いた。ほほを赤くし、気持ちよさそうに寝息を立てる彼女の顔は、やっぱり双子だなぁと感じた。
けど、同じじゃない。
「海ってば、明日大丈夫かな…」
空は海の口に引っかかった髪の毛を取りながら言った。
「まぁ、飲んだって言ってもほんの2杯程度だろ? 気にするほどのものでもないよ」
「お酒の匂いでほろ酔いするのに…」
「? そうだったのか?」
「うん。私も、ちょっとほてってるんだけどね。双子だしさ」
そう言って、彼女は自分のほほを指差した。なるほど、ほんのりとピンク色に染まっている。
「……どうする?」
「ん?」
「帰らなくていいのか?」
「…今日、お父さんもお母さんも泊まるつもりらしいの」
「泊まるも何も、自宅は目の前なんだが」
それに、おじさんと海はすでに寝ちゃってるし。
「お前は?」
「……えっと……」
空は海をチラッと見て、小さな声で言った。
「…泊まっても……いいの?」
「別にいいんじゃないの? 一人で家にいるよりかはましだろ」
「そ、そうだね。……でも、どこで寝れば……」
「この部屋で寝な。布団はクローゼットの中にあるし」
「でも、そうしたら空は…?」
「ベッドは海が占領しちまってるし、僕はリビングに布団でも敷いて寝るよ」
さすがに、若い女二人がいるこの部屋で寝るわけにはいかない。それは常識だ。
「いいの?」
「気にすんなって。どうせ明日は休みだしな」
明日は待ちに待った日曜日。今週は6日も学校に行っ……てないか。休んだな、そういえば。
「とりあえず、風呂に行ってこいよ。着替えとかあるのか?」
「あ……ない…。取りに行かなきゃ」
「…一緒に行こうか?」
「え? だ、大丈夫だよ」
「そっか。じゃあ、海のも持ってきてあげろよ」
「うん、わかった」
そう言って、彼女は立ち上がり、部屋を出た。その時、僕の奥になんとも言えない感情が沸き立った。部屋を出た彼女を追い、階段の手前で彼女の手首を掴んだ。
「空、待てよ」
彼女は驚いていた。無理もない。
「…駄目だな」
「……え?」
「僕のほうが、お前と一緒にいたいと思っちまってる」
「…空…」
彼女と一緒にいたい。それだけだった。
「明日、一緒にどこか行くか?」
「ほ…ホント?」
「ああ」
空の顔は、花が咲いたかのようだった。
「服でも買いに行こうぜ」
「うん! また、弁当作るね」
「………」
「? どうしたの?」
「いや…ちょっと……なんか、うれしくなってな」
僕は思わずニヤッとした自分の口元を手で隠した。
すると、空は僕に抱きつき、キスをした。一瞬の出来事で、彼女はすぐに唇を離した。
「……」
「…いきなり、したくなちゃった」
「あ、あのな…」
僕は彼女から顔を逸らした。
「…なんで、キスされた僕のほうが照れてんだ?」
「ふふ。空、なんだかかわいい」
なんだか、彼女はいたずら好きになっていくかのようだった。それが、さらにかわいらしかった。
「じゃあ、行くね」
「…ああ」
空はなるべく音を立てないよう、静かに階段を下りて行った。
「………」
僕はちょっとキスの余韻に浸り、部屋に戻った。
部屋に入った瞬間、僕の心は凍った。
海が、僕を見ていた。目をしっかりと開け、心なしか睨んでいるように見える。
「…海、目が覚めたのか?」
まさか…キスするところを見られたのか? さっき、ドアを閉めていなかったから…。それとも、話していたことが聞こえて…?
「今日、そこで寝ていいから。僕は下で―――」
「なんで?」
海は小さく、はっきりとした声で言った。
「…え?」
「なんで…?」
「…な、何が?」
「ねぇ、なんで?」
海は同じことしか言わなかった。
「なんで…………お姉ちゃんと……キスしたの?」
その言葉が放たれた瞬間、僕の心臓が凍りついた。呼吸が止まったかのようだった。血の気が引くとは、このことだ。
「ねぇ、なんでキスしたの?」
「う、海……」
「ねぇ、どうして!?」
突然、海は声を荒げた。さっきまで、凍りついた冬のように静かで、小さな声だったのに。
「どうしてお姉ちゃんとキスしたの!? ねぇ、どうして!!?」
「…そ、それは…」
僕は何を言えばいいのかわからなかった。本当にパニックに陥っている。混乱している。何を言っても、駄目な気がするのだ。
「空……お姉ちゃんのこと…好きなの?」
「…え?」
最初と同じくらいの、静かで小さな声に戻った。
「空は…お姉ちゃんが好きなの……?」
「…………」
「答えてよ!!」
その言葉と同時に、海は立ち上がった。その瞳には、涙が浮かんでいる。それに気がついた時、僕の心は大きく揺さぶられた。
「ねぇ、どうなの!? 答えてよ!!!」
海は僕のほうに駆けて来た。服を掴み、懇願するかのように言い始めた。
「どうして何も言わないの? どうして答えようとしないの!? ねぇ、どうしてよ!!」
「う、海……僕は……」
言葉が見つからない。はっきりと言ったほうが良いのだろうか。けど、この様子だと、それでは火に油を注ぐだけのような気がする。何もかも、駄目なような気がする。
「何とか言ってよ! ねぇ!!」
海はそう言いながら、僕を揺らす。
「ねぇ! 何とか言ってよ! ちゃんと言ってよ! ねぇ……ちゃんと…答えて……よ………」
そして、彼女は崩れていった。その姿を見ながら、僕はかける言葉が見つからなかった。慰める言葉では、傷つけてしまう。そう、僕の脳が言っている。
「………海………」
すすり泣く彼女。ただ、彼女の名前を呼ぶしかなかった。
「空―、おばさんが………」
その時、空が戻って来た。
「!! 海、どうしたの!?」
事情がわかっていない空は、海に駆け寄った。そして……。
「触らないで!!」
「!!!」
乾いた音が響いた。海は、空が差し伸べた手を跳ね除けたのだ。
「海……?」
空は何もわかっていないようだった。海は立ち上がり、泣きながら言い始めた。
「…私………私………!」
「私だって、空のことが好きなんだから!!」
海はそう叫び、部屋から飛び出した。彼女が音を立てて階段を下りてゆくのがわかる。玄関のドアを閉める音が、家に響き渡った。
「……う、み……」
彼女が出て行った後の静寂が、僕の心に突き刺さる。
「? 空―――。どーしたのー??」
1階から母さんの声が聞こえる。
「今出て行ったの、空? 海?」
おばさんの声も聞こえる。
「…………なんで………?」
なんで、こうもうまくいかないのだろう。
噛み合わぬ歯車。
噛み合わぬ僕たち。
どうして、うまく紐を解くことができないのだろうか……。