57章:失いし未来 永遠に輝く、碧き瞳
あっという間に、敵は消えた。全員、消えた。残されたのは僕たちと、死体だけだった。多くの兵士とグルヴィニア、帝国の大臣たち骸となって転がっている。
バルバロッサにやられたとはいえ、そこまで痛みはない。……バルドルの力のおかげか。これが無ければ、きっと体の骨がすべて折れてしまい、死んでしまっていたはずだ。
僕は立ち上がり、ヴァルバの元へ駆け寄った。ヴァルバは仰向けになり、ぐったりとしていた。見るからに……外傷は無い。
「ヴァルバ……大丈夫か?」
「大丈……夫なわけ、ないだろ……」
苦笑いをしながら、ヴァルバは言った。
この感じ……以前にも遭遇したことがある。これは――暗黒魔法で死んだジョナサンの時と同じだ……。
――一瞬、思考が停止した。だが、僕はそれを振り払って顔を上げた。
「リサ! 来てくれ!!」
症状を見るには、リサしかいない。リサも怪我がひどかった。だが、今はもう歩けるほどになっていた。たぶん、彼女にもリジェネレイトが発生しているのだろう。
「ヴァルバ……無茶して……」
リサは膝をつき、片手でさするようにしてヴァルバの体に触れた。その瞬間、彼女の表情が凍り付いた。その反応を見逃さなかった僕は、どうなるのかを悟ってしまった。
「ヴァルバさん……しっかり……」
アンナはヴァルバの横にしゃがみ、彼の体に両手を添えていた。
「空さん」
僕の近くに、空が駆け寄って来た。僕たちが来てからは広間の端っこにいたため、闘いに巻き込まれなかった。
「ヴァルバさんは……どうなんですか?」
「……それは……」
どう言えばいいんだろう。空だけが、知らないんだ。暗黒魔法を喰らったら、エスナをかけていない限り死に陥ってしまうことを。
「……死ぬんだな」
ヴァルバが、ボソッと言った。その言葉を、近くにいたため否応なく訊いてしまったアンナは、目を見開いた。
「そ、そんな……ど、どうしてですか?」
空は僕にすがるかのように言った。
「……さっきの魔法は受けてしまうと、必ず死んでしまうものなんだ。もう、どうしようもできない」
「そん……な……!!」
真実を知ってしまった彼女は、小さく震え始めた。
「どうして……かばったんですか?」
「……アンナ」
アンナは空と同じように、震えていた。現実の痛みを、心も体も受け付けることができないんだ。
「ど、どうして、私を……」
ヴァルバの顔には、汗が噴き出ていた。仰向けになっているためか、大きく呼吸しているのがよくわかる。
「それはさ……もう、誰も失いたくないからだよ」
「え……?」
彼は苦悶の表情ながらも、小さく微笑んだ。
「リノアンのように……誰かを護れずして失うのは……嫌なんだ」
「お姉ちゃん……を?」
その言葉の意味を、この場にいる誰もが理解できなかった。ヴァルバは、想い出を語るかのように話し始めた。
「俺は……リノアンを愛した」
愛した。そう、彼ははっきりと言った。
「初めて、誰かを愛した」
ヴァルバは何度も言った。その時のことが嬉しいのか、天井を見つめながら笑っている。
「お姉ちゃんを……? どういう……ことなんですか?」
「……ステファンの下に、下っ端研究員として潜入した時、俺は……彼女に出逢った。俺の目的は、彼女を自国へ連れ去ることだった。……もちろん、リノアンが『烈火の巫女』だとわかっていたからな……」
ヴァルバの呼吸が、少しだけ荒くなってきた。……暗黒が、彼を蝕んでいく。
「彼女は、ひどい人体実験を受けていた。俺は、それから解放してやる代わりに……ゼテギネアに来いと、提案した。……だが、彼女はそれを拒否した。……なぜだかわかるか……?」
「いえ……」
アンナは首を振った。それがわかっていたのか、ヴァルバは小さくうなずいた。
「それはな……アンナ、リノアンが君のことを心配していたからなんだ」
――妹を放って、自分だけが逃げるわけにはいかない――
リノアンさんは、睨みつけるかのようにヴァルバに言ったそうだ。
「…………」
「……何ヶ月も彼女と接している内に……俺は、彼女を愛し始めた。……彼女もまた、俺のことを愛してくれた……」
2人は、想いが通じ合った仲。今も尚、彼女を愛している。ヴァルバの碧い瞳が、そう告げていた。
「そして、5年前……俺はルテティアの地下研究所から、彼女を脱出させた。……もう、ゼテギネアのためなんか……どうでもいい。リノアンさえいれば……彼女さえ生きていれば、もうそれだけでいいと思っていたんだ」
「あんたは……ゼテギネアを捨てるつもりだったの?」
リサの問いに、ヴァルバは小さくうなずいた。
「……だが、祖国を完全に裏切るわけにはいかない。俺には、それができなかった」
ヴァルバは言う。先帝……自分の兄が即位してから、自分を護って来てくれた兄のために、生きてきたと。兄を裏切ることだけは、できなかったと。
「だから、リノアンをアンナが暮らす……フィアナ村まで連れてゆき、俺は兄上の了承を得るために……帰国した。必ず、必ず帰ってくると約束して……」
ヴァルバは、そっと目を瞑った。そして、震える右手を自分の胸に置いた。
「……しかし、帰国してすぐに兄上が亡くなった。即位したのは、まだ7歳の甥……。俺がゼナンを……ゼテギネアを守らなければならなかった。全ての責任を……皇室の者としての責任を放り出して……リノアンの元へ帰ることができなかったんだ……!」
唇をかみしめるかのように、ヴァルバは言った。そして、彼はまぶたを開けた。
「2年後……朝廷の混乱も鎮まり、国が安定した頃……俺は、フィアナへ行った。……リノアンと、アンナを連れて行くために。あの時、君に出会ったのを……覚えていないか?」
「え……っ?」
「……ま、あの頃は今みたいに、ひげが無い状態だったからな……」
覚えていないのもしょうがない。そう、微笑みながら言った。
「……フィアナへ行った時には、リノアンはもう……バルバロッサに連れさらわれた後だった……」
ヴァルバは小さく首を振った。
「俺は……彼女を探したよ。ルテティアへ向かい、再び研究所に潜入した。きっと、またここにいると。また、脱出させてやると思ってさ」
希望を胸に抱いて、彼は研究所へ行ったんだ。きっと、きっと生きてると信じて。
「……そして、俺は……」
「リノアンが殺されたことを知った……」
その瞬間、ヴァルバの体が小刻みに震えだした。それは、体が蝕まれたせいではない。当時の……想いが蘇ったからだ。
「護ると……絶対にお前を護ってみせると、誓ったのに……! 俺は……国を選んでしまったが故に、リノアンを助けることができなかったんだ……!!」
ヴァルバの碧い瞳が震え始め、そこから大粒の雫がほほを伝った。
――彼は、泣いていた。その姿を見るのは、初めてだった。
「何もかも……嫌になった。俺は……約束したのに、その約束を果たせぬまま……あいつを死なせた……! 俺が生きている理由は……もう、無くなったんだ……」
前から言っていた、〈生きている理由〉という問いは、リノアンさんを失った悲しみを知った時から、常に問いかけてきたものだったのかもしれない。
「……もう、何もかもがどうでもよくなった。自分が生きている意味さえ……わからなくなっていた。……自分が生きている価値さえ、見出せなくなっていた……。俺は……もう、ゼテギネアが望むままに生きていこうと考えた……」
祖国のために――兄が愛した、この国のために。
もう、それしかなかったんだ。
「……そんな時に、ソラ……そして、アンナ……君に出会ったんだ」
ヴァルバはアンナを見つめた。リノアンさんの妹である、アンナを。
「彼女がいつも話していた……笑顔で話していた妹の君を……絶対に、護ってやりたかった。あの時、果たせなかった約束を……」
だから、ルーファス8世と謁見した際、謝罪にこだわっていたんだ。いや、リノアンさんが殺されてしまったことも、影響しているのだろう。
「……だが、祖国に近付くにつれ……また、迷い始めてしまった。皇室の人間としての責務を果たすべきか……それとも、お前たちと一緒に……この星の行く末を見定めるか……」
国のためか。星の未来のためか。彼にとって、究極の選択だったのだ。
「結局、祖国を選んだってこと……よね」
リサは何とか彼の痛みを和らげようと、治癒術をかけていた。
「リサ、そういうことは……」
「いいんだ、ソラ」
彼は僕を見て、顔を振った。
「俺は……お前たちを裏切り、アンナを手に入れようとしたんだ。世界を救うのではなく、祖国の利益を取ってしまった……。赦してくれとは、言わない」
――でも、謝らせてほしい。……すまない――
ヴァルバの声には、力が無かった。彼の顔はすでに青くなり、さっきまで噴き出ていた汗が消えていた。
「ヴァルバ……信じてたよ。みんな……」
「何を言ってる……俺は……」
彼の言葉を遮るかのように、僕は顔を振った。
「お前は、やっぱり僕たちの仲間だ。……傷付く民衆を癒すために、アンナの力を利用としたんだろ?」
「…………」
「無言もまた答えなりってか。それに、お前は死をかえりみずに、アンナを護ったじゃないか。……どうなるか、知ってたんだろ?」
暗黒魔法に当たれば、死んでしまうということはわかっていたはずなんだ。それを……。
「だが……俺は、今まで黙っていた……リノアンのことを……」
自責の念に駆られ、彼は再び涙を流していた。
「アンナ……すまない。君には………悪いことをした……憎んでくれて……構わない」
「そんな! 私は……むしろ、感謝しているんです。お姉ちゃんを愛してくれた……あなたを……」
アンナはヴァルバの左手を持ち上げ、両手で握り締めた。
「それに……ヴァルバさんは、私をいつも助けてくれました。……たくさんのことを教えてくれました……」
「……ハハ、俺、は……そん、な……立派な奴じゃ……、!!」
ヴァルバは大きくせき込んだ。口から、真っ黒な血が吐き出された。咄嗟に顔を横にしたため、アンナにはかからなかった。
「ハハ……もう、ダメ、な、ようだな……」
「ヴァルバさん……弱気にならないで!」
堪え切れずに、涙を流すアンナ。苦笑しつつ、ヴァルバは震えながらアンナを見据える。
「無理だよ……君も、わかってるだろ? 死ぬん、だって……」
「嫌です! お願いですから、死なないで……死なないで下さい!」
アンナはいっそう、力強くヴァルバの手を握り締めた。彼女の目から流れ落ちた涙が、ヴァルバの額へと辿り着く。
「リサ、ソラ……空、ちゃんを……星を救わなければならないのに……邪魔をして、すまない……」
「……すまないと思ってるなら、生きて償え! 悪いと思ってるならちゃんと形にして謝罪しろ!! 何も……何もしないまま死ぬなんて、私は絶対に許さないからな!!」
リサは怒声を放った。けど、顔を見ればわかる。怒っているのではなく、悔しいんだ。今、何もできない自分を呪って。
歯をくいしばって泣いているリサを見つめて、ヴァルバは微笑んだ。
「ハハ……そうだな……けど、無理、だ」
「無理だなんて言うな!」
「……お前は、さ……何度も言うようだけど……そんな格好さえしなければ……美人なのに……勿体、無い…………」
「余計なお世話だ!」
リサは軽く、ヴァルバの頭をはたいた。「本当のことだろ?」と、ヴァルバはほくそ笑みながら付け加えた。
そして、彼は僕の隣にいる空に目をやった。
「……空ちゃん……ごめんな……。君の時間は、少ないって、いうのに……」
「ヴァルバさん……いいんです。もう、いいんです……」
空は必死に、涙を堪えていた。今にも、瞳から流れ落ちそうだった。
「ヴァルバ、空は絶対に……僕たちが救い出す。きっと、きっとだ」
そう言うと、彼は小さくため息を漏らした。
「じゃない、と……あの世で……呪うからな……?」
「なんだよ、それ」
僕とヴァルバは笑った。いつもこうして笑いあっていたのに、こうすることも……できなくなってしまうんだな……。
「アン、ナ……本当、にごめんなぁ……嫌なこと……ばかり、して、さ……」
「怒ってなんかいません! 怒ってなんか……いませんか……ら……!」
顔を俯かせて、アンナは涙を零す。
「……泣くなって……」
ヴァルバは、優しくアンナのほほに触れた。そして、人差し指で彼女の涙を取った。
「……君は……君のままで、いて、くれ……それだけで、多くの人が……癒されるはず、だから……」
治癒の属性を持つ『斜光の巫女』。彼女こそ、彼と……彼の兄が望んだ、人を平和にさせるものなのかもしれない。
彼の瞳から、それが伝わって来る。
「そんなことはいいから……お願いです、死なないで……!」
「……リノアン、に……似てきた、なぁ……。あぁ――……ハハ、そう、だな……お前、と…………約束したもんなぁ……」
ヴァルバはリノアンさんの姿を思い浮かべているのだろうか、涙を浮かべながら笑顔になっていた。その瞳に、生気はほとんど感じられない。
「……死ぬのは……怖く、ない。きっと……あっちには、彼女もいる……」
「死ぬなんて言わないで! お願いですから!!」
アンナは今にも崩れ落ちそうな、ヴァルバの手を握り締めた。
「ごめん、な…………アン……ナ…………」
――兄……上……母上…………リノ……ア…………
ヴァルバの目が、ゆっくりと閉じた。同時に体全体の力が抜け、アンナの手の中から、彼の手が滑り落ちた。ボトッと、彼の手が彼の胸に落ちた。
「ヴァルバさん……? ヴァルバさん!!」
アンナは、必死に呼びかけた。完全に生気を失った彼の手を拾い上げ、何度も何度も握り締めた。
「嫌……嫌だ……ねぇ、返事をしてください! ヴァルバさん!!」
何度呼びかけても、返事は返ってこなかった。ヴァルバの唇は紫色に変色し、暗黒が体を完全に蝕んだのがわかった。
彼の魂は、もうここには無かった。遠く、遥か遠くへ行ってしまった。
「ヴァルバさん! ねぇ……返事をして!!」
アンナは呼びかけながらヴァルバをゆすった。揺ら揺らと、彼の体が動く。
「……嫌……ヴァルバ、さん……お願い……だから、返事をして……ヴァルバさん!!!」
わかっている。もう、死んでいるのだと。彼女自身、握りしめている手が冷たいことで、それを体で理解しているはずだった。
「ヴァルバ……さん……ど…………して……!!」
彼女はヴァルバの顔を抱きしめた。自分の肌を付け、体温を確かめる。そして、何かを悟ったかのように、彼の顔から自分の顔を離した。
「い……や…………イヤアアァァァァァーー!!!!!」
アンナの叫び声が、虚しく謁見の間に響き渡った。アンナの涙が、まるで宝石のように、キラキラと輝いていた。
ヴァルバのまぶたに、涙がたまっていた。それは彼のものなのか。それとも、零れ落ちたアンナのものなのだろうか。
彼の顔は、どこか穏やかだった。
「こんなところで何してんの?」
レイディアントに降り立った時、あの緑の草原が生い茂るルナ平原で、ヴァルバと出逢った。ひげ面で。
「俺はヴァルバ……ヴァルバ=ダレイオス。敬語は使わなくていいからな。君の名前は?」
ニコッと微笑み、馬車の中に入れてくれた。
「まだ14歳の少女が、さらわれた姉がまだ生きていると信じて、ここまで来た。そして、とんでもない事実をそれを行った本人の口から聞かされたアンナの気持ちが……貴様らにわかるのか!? ……いいか? 権力を持つ者は民を護らなければならない。それが王侯貴族として生まれた者の義務だ! その義務を果たせなかった貴様らこそ、万死に値するんだ!!」
ルーファス8世に対して、ヴァルバは怒りを露にした。
「自分が信じたことを為せばいい。たとえ全てに裏切られ、全てに憎まれようと、お前が正義だと決めたことを為せばいい」
あの草原で、お前はそう言ってくれたよな。
「……俺たちが望んでいるのは、何もかもが消し去られた未来なんかじゃない。平凡な未来なんだ。……空ちゃんや、リノアンのような犠牲者はこれ以上、出しちゃならない……」
未来を望もうと――笑顔になれる日々を求めて、闘おうって決心したんだよな。
「よし、こうなったらとことんやってやろうぜ! 俺たちが目指す〈夢の形〉は、まだまだ先だからな」
夢の形……それは、普通に平凡なことなんだ。ただ、笑顔で生きていきたいっていう。
「抗うって決めたんだ。とことん、呆れさせてやんな」
微笑んで、お前はうなずいてくれたんだよな。抗えって、僕の心に勇気を与えてくれた、あの碧い――誇り高き、皇室の瞳。
もう、あの笑顔を見ることはできない。
もう、あのひげ面を見ることは無い。
もう……あの碧い瞳が、輝くことは……無い。二度と。
世界を包む闇夜の静寂の中で、ヴァルバは死んだ。