51章:武器と戦艦の都市 アルツヴァック
2月20日。雪がちらつく中、僕たち一行は、ようやく工業都市アルツヴァックへ到着した。
アルツヴァックの港には、多くの船が停泊していた。その大部分が、黒い鋼鉄を身に付けた、巨大な船だった。戦争用の船なのだろうか、砲台のようなものがいくつも備え付けられていた。
さすが工業都市……想像以上に広い。雪が降り、寒いとはいえ、人々は切磋琢磨に働いている。街道の両脇に在る建物のほとんどが工場であり、それらの全てが正面玄関――つまり、現代で言えばシャッターを開けているような状況で、外から内部で何をしているのかもろ見えだ。
工場の屋根にある煙突のようなものから、黒煙がもくもくと、上空の少し灰色がかった雲に延びていく。そして、そこかしこから鉄製のものを叩く音が聴こえてくる。ある時はリズミカルに、ある時は乱雑に鳴り響く。これこそが、武器と戦艦の都市と呼ばれる所以であり、この都市に暮らす人々の生活する音なのだろう。
都市には所々、数階建ての住居がある。ビルほどとは言えないが、紺色のレンガでできていて、なかなか立派だ。この都市で働いている人たちは、そういった集合住宅に住んでいるらしく、朝早くから夜遅くまで仕事をするのだとか。
「聞いた話だが、アルツヴァックは2大陸の都市の中で、最も鉄を輸出している都市らしいぜ」
こう言ったのは、レンドだ。アルツヴァックの南に、多くの鉄鉱石が取れる山があって、その山が鉄鉱石採掘量1番なのだとか。どこの世界でも、鉄はかなり使用頻度が高いのだろう。
「……ところで、アルツヴァックに来たのはいいけど、これからどうすればいいのさ?」
通では寒いので、目に付いた喫茶店で寒さを凌ぎながら、僕はデルゲンに訊ねた。
「アルツヴァック総督のゴルフェン伯爵に頼めばいいと思うがな。彼は、工業政務担当の大臣の一人だからな。装甲船を貸したり、売ることを許可するのも彼の承諾が必要だったと思う」
「ゴルフェン伯爵ねぇ……ケチな性格だって聞いたけど」
イスの背もたれにどっかりと背中をかけ、頭の後ろで手を組んでいるリサ。
「そうなのか?」
「さあ? あんたの方が知っているんじゃないの?」
リサはそう、ヴァルバに問い返した。ヴァルバは少し困った顔をしながら、頭をかきむしった。
「……たしかに、伯爵はケチだと聞いたな。ケチというよりも、貪欲と言ったほうがいいだろう。伯爵は昔は、貧相な下級貴族だった。それゆえか、権力欲や物欲には限りがないところが見える。そういった性格の人間は決まって、他人には自分のものをあげようとしない。たとえ、その人が貧しくてもな」
「なるほど、小さい頃に苦労したもんだから、今はその跳ね返りってことか?」
デルゲンは天井を見上げていた。
「……じゃあ、頼まないほうがいいのかもしれないな。ネチネチ文句を言ったり、あるいは無理難題を吹っかけられそうだし」
温かいお茶をすすりながら、僕は言った。
「だな。じゃあ、どうするよ? これから」
レンドはため息をつきながら、深くイスに腰掛けた。
「……お金を払って、装甲船を買うしかないんじゃないですか?」
アンナがそう言うと、デルゲンはばつが悪そうな顔をしながら、言った。
「買うにしても、ゼテギネアの強固な船は基本的に軍船で、それらを一般人が買うことは法律上許されていないんだよ」
「……それを早く言ってくれないと」
僕がそう言うと、面目ない、とデルゲンは苦笑いしていた。
「う〜ん、どうしよう。結局、どうすることもできないのか?」
みんなは頭を抱え、悩み始めた。
「……一つ、方法がある」
ヴァルバが沈黙を突き破った。
「? どういう方法?」
僕はすぐに訊き返した。
「皇帝に会うっていうことだ」
「皇帝? どうして?」
わざわざ皇帝に頼むのだろうか? ……まさか、そんな安易な……。
「彼は、誰にでも謁見を許す人だ。若いため、まだまだ知らないことが多く、他国の人間の言葉にも耳を貸すはずだ」
「……そうなの?」
「なんだよ、その疑り深い目は?」
ヴァルバは細目で僕を見た。僕も、同じように細目で彼を見ていた。
「謁見するにしても、正面から行くつもり?」
リサも同じように、疑いを含んだ目でヴァルバを見ていた。
「いや、たぶん、門前払いされるのがオチだろう」
「じゃあ、どうするって言うのさ?」
「……帝城に忍び込むのさ」
「忍び込む?」
僕たちは一斉に、顔をかしげた。
「おいおい、そんなことがうまくいくとは思えねぇぞ? それじゃあ、ただの泥棒と同じじゃねぇか」
海賊のレンドにそう言われちゃ、元も子もないが。
「そこのところは任しておけ。俺に、案がある」
ヴァルバは自分の頭を指でつつきながら、「ココ」っていうこと表している。
「……案?」
リサは眉をしかめた。
「ああ。実は、俺はゼテギネアの宰相と知り合いなんだ」
一同が、驚いた。
「……あんたが、ゼテギネア宰相と知り合い……?」
「ゼテギネア宰相って、皇帝の叔父だったよな? 先代皇帝が急逝した後、帝国の全権を握り、今は皇帝のサポートとして動いていると聞いたが……」
デルゲンは思い出すように言った。
「宰相とは皇帝の傍で彼を補佐し、政務を担当する最高位の職務。皇帝に謁見することは可能だ。だが、俺は訳あって帝都の人間に自分を知られてはならない。もちろん、朝廷に関わる人にもな」
「だから、正面から入るのではなく、忍び込むってこと?」
ヴァルバはリサの方に向き直り、うなずいた。
「うまく帝城に忍び込み、宰相に会うことさえできれば、皇帝との謁見が叶うはずだ」
「なるほど……けど、うまくいくのか?」
僕がそう言うと、ヴァルバはひげをさすりながら、ニコッと笑った。
「ああ、大丈夫だ。俺を信じろ、ソラ」
「…………」
「なんだよ。信じれないのか?」
何度も瞬きをしている僕を見て、ヴァルバは眉を八の字に曲げて言った。
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
なんだか、変な感じだ。もやもやした変な感覚が、心に纏わり付いているようだ。ヴァルバは信頼できる仲間。この旅で、最も長い付き合いの仲間だ。疑いたくはないんだが……どうも怪しい。それは、否めない。
だが、今のところ、装甲船を手に入れる方法はこれしかない模様。樹たちを追いかけるためにも、空を救うためにも……ここで、時間を食っている暇はない。
「――どうも、怪しいね」
リサがギクッとするような言葉を放った。みんなが、リサの方へ振り向いた。彼女は足を組んだまま、ヴァルバを睨んでいるようにも見える表情だった。
「ゼテギネア出身だとは聞いてたけど、ゼテギネア宰相と知り合いというのは、どうも怪しい。……ゼテギネア宰相と言えば、『ベオウルフ=ヴォルガンフ=ペンドラゴン』……先帝亡き後、幼い現皇帝に代わって政務を執り行い、多くの反逆者を処罰、そして国を見事に統制したほどの人物。あのレオポルトを超える程って聞いた」
ソフィアで死んでしまった、ルテティア宰相レオポルトさん……彼は、30代でありながらも王国の最高職に就いていた。
「だけど、まったく人前に姿を見せず、彼の姿を見たのは、皇族の者だけという噂が流れている。……そんな人物と、ただの『旅人風情』が知り合いだなんて、私にはどうも信じられないんだけどね」
ゼテギネア宰相のことはよく知らないけれど、リサの言うことが本当なら、たしかに怪しい。
みんなは、ヴァルバに視線を向けた。彼は特に表情も変えず、リサの言葉を聞いている。
「それに、もしあんたが宰相と知り合いだったとしても、どうしてそれを今言うの? それだけ大事なことだったら、もっと早く言わなきゃならないでしょ? 樹たちが、浮遊大陸を復活させるのも時間の問題だっていうのに」
「…………」
リサの厳しい質問に、ヴァルバは口を閉ざした。だが、困っている様子でもなかった。
「……お前の言うとおり、怪しまれるのはしょうがない。秘密にしていたことは謝る。だが、俺にとってはあまり知られて欲しくないことだったんだ。お前にだってあるだろ? 他人に知られたくないことというのが」
「…………」
誰にも、知られたくないことはある。リサにとって言えば、シュヴァルツとバルバロッサによる、7年前の惨劇。リサは話してくれたが、ヴァルバは違う。彼にとって、まだ癒えぬ傷痕なのかもしれない。
「……信じてもらわなくてもいい。だが、俺の方法以外装甲船を手に入れる方法は無い。俺を信じてもらわないと、グラン大陸へ行くことはできないんだぞ?」
その時、ヴァルバはいつもと違う顔――時折見せる、いつものヴァルバではない表情をしていた。一瞬、ぞくりとした。
「……私たちを脅すつもり?」
「そういうことを言っているわけじゃない。俺を信じるか、信じないか。……それだけだ」
「信じるか、信じないか? それを、脅しじゃなくて何だって言うの? まるで選択肢は2つしかなく、信じなければ空ちゃんを助けれないようなことを言ってさ」
「………………」
落ち着いた声とは裏腹に、リサはヴァルバを睨みつけ、瞬きもせずヴァルバを見つめた。それは、ヴァルバとて同じだった。あまりにもピリピリした様子だったので、デルゲンが仲介に入った。
「わかった。じゃあ、ヴァルバの言うとおりにしよう。な?」
「……デルゲン、信じるつもりなの?」
ギロッと、リサは横目でデルゲンを見た。思わず、彼は唾を飲み込んでしまっていた。
「お前の言いたいことはわかる。だが、お前は言ったじゃないか。時間の問題だと。なら、ここで仲間を疑っている暇は無いはずだ。ここは、ヴァルバを信じよう。それしか、今のところ方法が無いんだから」
宥めようとする彼の言葉に、リサは大きくも長い溜息を漏らした。
「……みんながそれでいいなら、私は何も言わない」
そう言うと、リサはそっぽを向いてしまった。相当、イラついているようだ。
「俺は別にいいと思うぜ? ……たぶん、大丈夫だろ」
レンドは苦笑しながら言った。
「私も、ヴァルバさんを信じます」
アンナだけが、ちゃんと信じている様子だった。それに続くように、空も小さくうなずいていた。
「……それしか方法が無いなら、しょうがないよ。僕も、賛成だ」
僕はリサの方へ振り向いた。
「リサ、疑う気持ちも分からなくもないけど、ヴァルバだぜ? 信じようよ。僕たちは、仲間じゃないか」
リサはチラッと横目で僕を見て、再び目線をそらした。そして、再び溜息。
「……あんたたちがそう言うなら、いいって言ってんじゃん。…………気に食わないけどさ」
冷や汗が出ている。リサの後ろに浮かぶ、あの黒い影……怒りの影だよ。触らぬ神に祟り無しと言うが、触っても触らなくても、祟りがありそうで怖い。すると、ギロッとリサに睨まれてしまった。
どうして、女性は勘が鋭いのだろうか……?
「よっしゃ。それじゃ早速、準備に取り掛かろう。デルゲン、ちょっと付き合ってくれ」
ヴァルバは一転、はつらつとした様子になり、しゃべり出した。誘われたデルゲンは戸惑いながらも、ヴァルバと共に、雪がちらつく町中へと消えて行った。「さむっ!!」という、ヴァルバの声が聞こえた。
「う〜ん、なんなんだ? あいつ」
窓から2人の姿が見えなくなったところで、レンドは頭をかしげながらに言った。
「いつもと、様子が違いましたね……」
空が小さな声で言った。
「……どうしたんだろうな、あいつ」
「ふん、考えても無駄だよ。どうせ、教えてはくれないんだからさ」
怒っている。どうにかして宥めないと、いつか僕にとばっちりがくるに違いない。僕は一度咳をして喉を整えて、彼女に言った。
「あ、あのさ、リサ。あいつにも考えがあるんだよ、きっと。今まで、一緒に旅して来た仲間だ。僕たちがあいつを信じなくて、誰が信じるって言うんだよ?」
そう言うと、リサはテーブルに肘をつき、僕の方に顔を出した。
「あんたね……どう考えても怪しいでしょ? いきなり、自分はゼテギネア出身だとか、宰相の知り合いだとか暴露してさ。いい? たとえ、仲間であろうとも、物事は疑うところから始めなきゃならないの。この世に、〈絶対〉と言えるようなことは無いんだから」
リサは僕を睨みながら言った。あまりの迫力に、僕は視線をそらしてしまった。
「そ、そりゃあそうだろうけど……大丈夫だって、きっと」
「その確信は、どこから来るのさ?」
「そ、それは……勘?」
そう言った瞬間、リサのアッパーカットが僕のあごにヒット。
「答えになってない!」
「い、いってぇな! 何も殴ることねぇだろ!?」
「うっさい!」
そう怒鳴り、リサは腕を組んで窓の外へ視線を向けた。
「とにかく、私は忠告したからね。何があっても、もう知らないからな!」
最後に「フン!!」と付け加え、それからリサは一言もしゃべらなくなってしまった。
「ハハハ、リサお嬢さんはご立腹だな」
レンドは笑いながら僕に近付いて来た。いつものリサなら、ここで飛び蹴りでもレンドに食らわしそうなものだが、怒りがあまりにも大きいため、ちょっとしたことでは何もしないようだ。
「ホラ、金やるから、服屋にでも行けよ」
レンドが差し出した掌に、金貨が1,2……4枚あった。ちなみに、金貨1枚で1000セルトくらいだ。
「? なんでいきなり?」
僕は立ち上がっているレンドを見上げた。
「いいからいいから」
「……服は間に合ってるよ?」
「馬鹿、お前じゃねぇよ」
レンドは軽く僕の頭をはたいた。
「じゃあ、誰って言うのさ」
不満顔で、僕は言った。すると、
「あのなぁ……んっ!!」
レンドは誰かを指差した。その方向に目をやると、空だった。彼女は頭の上にクエスチョンマークを浮かべ、頭をかしげていた。
「空がどうかしたのか?」
「空ちゃんの服装、見てみろ。寒そうだろうが」
あっ……たしかに。聖帝中央庁の塔のときの服装のまま……白いドレスのままだった。
「つまり、空の服を買ってあげろと?」
そう言うと、レンドはうなずいた。
「……だけど、女の服を僕が選ぶのか?」
僕は彼だけに聞こえるように、小さい声で言った。
「当たり前だろ。お前以外に、誰が選んであげるって言うんだ?」
「いや、女性の服装なら女性がわかるわけだし……アンナかリサがいいんじゃないかと……」
「お前な……せっかく愛しい女と再会したんだ。それくらい、お前が選んでやれっての!」
再び、レンドが僕の頭をはたいた。今度はちょっと痛い。
「い、愛しい女って……恥ずかしいだろ!?」
「何がだ? 本当なんだから照れるな!」
「くっ……!(レンドのくせに……)」
僕は少し照れながら、空のところへ行った。空は、まだ何かわかっていない様子だった。
「空、あのさ」
僕は頭をかきながら尋ねた。
「なんですか?」
空は普通の顔を僕に向けた。
うっ………。僕はたじろいだ。
この顔に、弱いのだ。
「? どうしたんですか?」
空は僕の顔を覗き込んだ。僕は息を整え、続けた。
「あ〜……っと、服を買いに行かないか?」
「服……ですか?」
「ゼテギネアは今の時期、雪が降るほど寒いし、お前もその格好じゃあ寒いだろ? だからさ、防寒着でも一緒に買いに行かないかって思ったんだけど……」
空は目をぱちくりさせていた。
「まぁ、お前がいいならだけど……女性の服を選ぶのに、男の僕は役に立たないだろうし……」
と、僕はうまく視線を合わせられないまま、頭をかいていた。
「い、いえ、お願いします。一緒に行きましょう」
「へ? いいの?」
「もちろんですよ」
「そ、そっか。じゃ、行こうか」
「はい」
空はニコッと微笑んだ。なぜか僕は照れてしまい、顔を逸らしてしまった。いや、誰でも照れるだろ。好きな子の笑顔って。
そして、僕と空は喫茶店を出た。外では、まだ雪がちらついていた。積もるほどではないが。
「……あんたも、優しいところあるじゃない」
「おいおい、いつもは無いって言うのか?」
レンドがそう言うと、リサは苦笑した。
「ハハ、そうじゃないよ。……空といることで、空ちゃんの記憶が少しでも元に戻ればいいんだけどね……」
憂鬱そうな顔で、彼女は外の通を歩いて行く二人に目をやった。
……まぁ、お似合い……かね。
「大丈夫だろ、そこのところは」
自分らしくもないことを考えていたリサは、レンドの言葉で何度か瞬きをした。
「……どうしてそう言えるのさ?」
そう彼女が訊ねると、彼はさっきまでソラが座っていたイスに腰掛けた。
「たとえ記憶を失ったとしても、想いは残ってるはずだろ? たぶん、空ちゃんの中に、もやもやしたものがあるはずさ。まだ、それが何かわかっていないと思うけどな」
まるで遊ぶ子供たちを見るかのような表情で、彼は言った。
「ふ〜ん……なるほど。ま、あとは空次第だけどね」
「ソラ、か。たしかにな……」
二人は同時に、小さくため息を漏らした。
「……どういうことですか?」
アンナは頭をかしげていた。
「あいつが、どういう風に捉えてるかってことだよ」
リサは手を広げて言った。しかし、アンナの顔からして、理解できていないようだった。
「空の行動によっては、空ちゃんの記憶が早く蘇るかもしれない。けど、空は怖がってる」
「怖がってるって……何がです?」
すでに窓から見えないところまで行った二人の足跡を見つめるかのように、アンナもリサと同じように外に目をやった。
「……これ以上は憶測で言うようなもんだから、やめとく。本人たちがいないとこで勝手に分析したって、気分がいいもんじゃないし」
「えっ?」
と、リサは立ち上がり、外へ向かって歩き出した。
「リサ、どこ行くんだ?」
レンドが訊ねると、彼女は立ち止まって振り向いた。
「宿でも取って来るよ。お金、払っといてね」
笑顔を振りまき、彼女は出て行った。レンドは「やれやれ」と思いつつ、天井を見上げた。
「……まぁ、俺たちがわかって、ソラがわかんねぇはずねぇしな……」
と、まるで独り言のように、レンドは言葉を放った。
「…………」
アンナは思わず、俯いた。それはきっと、今の現状を嬉しく思う反面、「彼女」がいない時のように接することはできないのだと、彼女なりに深慮してしまったからだろう。
「……寒いなぁ……」
そう呟きながら、アンナはレモンティーを口に運んだ。
「うーん……無い」
アルツヴァックの中央通にはほとんど店と言うものが無い。製鉄工場しか見かけない。
僕はチラッと空を見た。空は、辺りをキョロキョロと見渡していた。まるで、この町に建っているものが珍しいものかのように。
「……どうしたの?」
そう言うと、空はハッとして僕の方に顔を向けた。
「あ、すみません」
「いや、謝らなくてもいいけど……そんなに、この町が珍しいのか?」
「ええ。こういった町を見るのは、初めてで」
微笑みながら、彼女は言った。
「初めて? ああ、そっか……」
空は昔の記憶を失っている。とはいえ、自分の名前は覚えていたし、言葉も覚えていた。忘れているのは、家族や僕のこと……たくさんの想い出。そして、レイディアントに来てからのこと全部。もちろん、樹によって殺されかけたことも。
「あっちの世界とは、造りが全然違うよな」
「私がいた世界か……そうですね。なんていうか、もっときれいだったような気がします」
白い息をハ―と吐き、空はこの地域の寒さを実感していた。
「機械を使っていたからな、あっちでは」
ある意味、人ではできないことをやってのけるのが機械ってもんだ。大量生産とか、精密な作業など……人の力には、限界がある。
「空さんは……こっちに来てどれくらい経ったんですか?」
いつの間にか、彼女は僕に顔を向けていた。20センチ以上も身長の差があるから、空は少し見上げているようにも見える。
「僕が来たのが5月半ばだったから……もう、9ヶ月か……。気が付かないうちに、思ったより時間が過ぎていたんだよな」
あっという間と言えば、あっという間だった。
「やっぱり、知っているところから知らないところに来るのは、不安でしたか?」
「そりゃそうだよ。ずっと過ごしていた場所から、まったく知らない場所へ来るのは、もちろん不安だったし、寂しいし……何より、怖かった」
「怖い……ですか?」
僕はうなずいた。
「……知っている人なんて、誰一人としていない。名も知らない土地ばかり。見るものも似ているとは言っても、やっぱり雰囲気は全然違う。……怖いなんてもんじゃなかったよ、ホント」
「そう……なんですか。私は、昔のことを忘れてしまっているから……なんだか、見るものすべてが新鮮なんです」
そう言って、彼女は再び周囲の建物を見渡した。
「それは、僕だって同じだよ。……不安や寂しさもあったけど、それを超えるくらいのワクワク感があった。見たこともないものばかりだからね」
恐怖や不安を超えるほどの好奇心。それは、幼い頃に一番溢れていたものに似ているのだろう。
「新しいものを見るって、なんだか嬉しいですよね。知らない世界が、ほんの少しだけ自分のものになったみたいで……」
「そうだな……自分の見ていた世界が、広がっていく感じだよな」
視野が広がり、新たなことを知る。これもまた、勉強と同じことなのかもしれない。
「まぁ、こんな世界が存在していたなんて、昔は思いもしなかったけどな」
「……小さい頃、か……」
すると、彼女は立ち止まった。
「……空?」
僕も立ち止まり、彼女の名を呼んだ。
「どうして私は……昔の想い出を全部、忘れてしまったんでしょうか……」
彼女は俯き、ギリギリ聞き取れるほどの声量で言った。
「きっと……大切なことばかりがあったはずなんです。お父さんやお母さんのことも、大切な友達のことも……」
「……空……」
大切な友達、か……。
「そして、あなたのことも」
「……え?」
視線をそらした瞬間、彼女は顔を上げていた。
「私にとって、あなたは大切な存在だった。……そうですよね?」
空の強い眼差しが、僕の瞳に突き刺さる。懐かしい空色の瞳――
――ずっと――
え?
何かの残光と共に、一瞬だけ映像が揺らいだ。懐かしくも、哀しい……愛おしい光景。知っている。僕はその姿を。
君は、リ――
「空さん?」
ハッとした瞬間、顔を覗き込んでいる彼女の顔が、目の前にあった。
「どうされたんです? 気分でも、悪いんですか?」
「い、いや……なんでもないよ。ただ……」
どう、言えばいいのだろう。僕はお前が好きだと。お前もまた、僕のことを好きと、伝えたほうがいいのだろうか。けど、教えたところで空は記憶を取り戻すわけではない。だけど、伝えたい。それが本心だ。
「……お前は、僕にとって大切な…………友達だ」
僕は所々、息を吸いながら言った。躊躇いとかがあったのかもしれない。
「友達……ですか?」
「ああ。僕とお前は、友達だったんだ。昔から、僕とお前は……お前の妹と、3人で遊んでいたんだ」
「私の妹……?」
空は頭をかしげた。まだ……思い出せないよな……。
「……お前の妹は、〈海〉って言って、お前たちは双子なんだ。見た目もそっくりなんだよ。覚えてないか?」
「双子の妹……覚えてないです」
空は小さく頭を振った。
「そっか……そうだよな」
いつも一緒にいた海ならば、少しはと思ったけど……無理があったか。
「……あなたのことも、思い出せません。すみません……」
申し訳なさそうに、空は頭を下げた。
「お前が悪いわけじゃないんだから、謝らなくてもいいんだよ。悪いのは…………」
樹、とでも言うつもりか? たしかに、あいつのせいでこうなったのは確かだ。だけど、一概に悪いとは言い切れない。
……弟の樹を、悪いとは到底思えない。そもそも、何かに責任を求めたって、どうにかなるわけではないし……。
「……誰も悪くないんだよな……」
僕は自然と、彼女の頭に手を置いてしまった。癖だと言えば癖なのだが、彼女は別に嫌がるそぶりを見せなかった。少し驚いてはいたが、すぐに微笑んだ。
「……ごめんな、空。もっと早く、お前を助け出されたなら……」
そうすれば、少しは違った現実があったかもしれないのに。そうやってリサに怒られそうなことを考えていると、空は顔を振った。
「空さんが言ってること、矛盾してるじゃないですか」
彼女は思わず、笑っていた。
「……たしかにね」
僕は上空を見上げた。真っ白な雲が、空を覆っている。雪が小さな小さな粉となって、寒風が駆け回る大地に降り注ぐ。大雪とまではいかないけれども、見る分にはこの程度がいいのかもしれない。
「自分で、誰も悪くないなんて言っておいてな…………」
つい、口に出してしまった言葉なんだよ。
いつも、仮定のことばかり考えている。
〈もし〉、〈なら〉、〈れば〉……。そんなことを考えても、何の意味も成さない。自分を責めても、何にもならない。誰を責めても、憎しみが増えるだけ。
……空……
いつか、いつかきっと、お前は思い出してくれるはず。それまで、僕はお前に対する想いは伝えないでおこう。伝えたら、想いが違うんじゃないかって言われるのが怖いからかもしれない。良いのか、悪いのかわからないが……。
「……間違ってんのかな」
「え?」
「……なんでもないよ。それより、早く店を探そう。いい加減、寒くなってきちまった」
「それもそうですね」
彼女が微笑んだのを見ると、僕は歩きだした。その後ろを、空はあの頃と同じ歩幅で、付いて来る。
あの頃と、同じように。