4章:幼馴染 つぶらな瞳の奥にあるもの
5月9日、水曜日。
僕は3日間眠り続けていたらしい。病院でいろいろな検査を受けたが、以前と同じく、どこもおかしいところは無かった。
「おかしいのは、お前の頭じゃねぇの?」
病室のイスの上で、修哉はうさちゃんリンゴをほお張りながら言った。それは空が作ってくれたものなんだが。
「ひでぇ言い方だな。少しは心配してくれてもいいだろ」
「ハハハ、冗談だよ、冗談。学校帰りにわざわざ来たってのも、お前が心配だからさ」
「よく言うよ……」
やれやれ、と僕はため息を漏らす。ふと、枕もとの時計に目がいった。
「今、6時だぞ? 来るなら早めに来たらよかったのに」
修哉の妹・咲希ちゃんが門限に関してお怒りになられるので、彼の帰る時間はシビアなのだ。
すると、修哉は少し困ったような表情をして、言い始めた。
「そうしたかったんだけどさ、二人のことを考えると、ね」
二人――空と海のことだ。
「俺はこんなだからな。……あまり横やりを入れたくなかったし」
「……何言ってんだよ。修哉だって、幼馴染じゃないか。今更、そんなこと言うなよ」
僕も困ったような表情しかできなかった。変に気遣いしなくてもよかったのに。
「まぁ、そうなんだけどな。二人の姿が、あまりにも痛ましくて……さ」
それは僕が意識を失った日のこと。修哉も病室の入り口まで来たらしいが、空と海の看病する姿を見て、引き返したらしい。
二人は僕が目覚めた後、安心したのか、母さんとおばさんと一緒に自宅へ帰ることにした。僕が気を失ってから二人はほとんど寝ていなかったらしく、衰弱していたので今日は学校を休んだとのこと。
「そういうわけで、俺はお前が目を覚ましてから会いに行こうと思ってね」
「……なるほど。修哉らしいよ」
僕はリンゴを1つ取り、食べた。修哉の行動には優しさが見え隠れする。
「ところで、帰らなくていいのか? 咲希ちゃんが怒るんじゃねぇの?」
「ああ……まぁ、今日のところは免除してくれるだろ。ホントは、5時までに帰らないといけないんだけどな」
彼はばつが悪そうに、苦笑した。妹にとことん甘いところも、たぶん僕たちしか知り得ないことだ。
「おっと、そう言えば」
そう言って、修哉はカバンから何かを取り出した。
「これ」
それは学校のプリントだった。
「宿題かなんか?」
「らしいぜ。和樹から頼まれてたんだよ」
「そっか。サンキュ」
やれやれ、好きで休んでるわけじゃないってのに。この世で最も嫌いなのは、“宿題”と名の付くものだ。これほど非生産的なものもあるまい。
「それにしても、頭は大丈夫なのか? 頭痛がするって、空ちゃんが言ってたけど」
修哉は指先で、自分のトントンと頭を指した。
「そうなんだよ。今学期が始まった頃に、いきなり幻聴が聴こえてさ。ひどい頭痛もしてきたんだよ」
「……あの頃に気を失ったのは、それが原因か?」
その問いに、僕は頷いた。
「それからしばらく何も無かったんだけど……今回、その頭痛がひどくてね」
「……なるほど」
修哉はうーんと唸った。
「お前の場合、別に薬でもしてるわけじゃないし、原因がわからないんじゃどうにもできないもんな」
「そうそう。対策のしようがない」
「…………」
その時、修哉は窓の外を見つめていた。どこか……表情がさっきまでと違う気がした。理由はわからない。なんとなく――というのが、尤もらしい理由なのかもしれない。
「どうした?」
修哉は僕の視線に気づき、そう言った。そう言いたかったのは僕の方だったのだが、「いや、なんでも」とだけ言うしかなかった。なぜか聞けなかったのだ。
「さて、そろそろ帰るよ」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「あいよ。じゃあな。明日、また来るよ」
修哉が個室から出て行くと、完璧な静寂が漂った。こうして病室に一人でいるのは、本当に寂しい。この時間帯以降は、たぶん誰も来ないだろうしな……。
それにしても、さっきの修哉の表情。どこか考え込んでいるような、遠くを見ているような表情だった。それが何を意図するのかはわからない。だけど、普段の彼からは感じ取れたことのない“違和感”だった。会話の前後で、そうさせる要因があったのかと頭を張り巡らしてみても、思い当たることはない。
その違和感は、ほんの数時間するとさっぱり消えてしまった。食器に付いていた汚れのように。
翌日、再検査をしたが異変は見当たらず、明日に退院することとなった。たった1ヶ月で、2度も入退院することとなるとは、予想だにしなかった。図太い母さんでさえ、「あんたが入院するなんて、仏様も予想できなかったでしょうねぇ」なんて言う始末。
その日の午後、空たちがやって来た。それから少しして、和樹と啓太郎、美香もやって来た。そのすぐ後には、修哉が出現した。
「……多いなぁ」
最後に入って来た修哉は、七人もいるこの病室を見渡し苦笑していた。
「つーか、なんで和樹までいんだよ?」
「来るに決まってんだろ? 大事な空のために!」
「……何言ってんだよ……」
と、和樹に対し啓太郎は呆れていた。
「えっと、あんたは……ごめん、誰だったっけ?」
修哉は美香に視線を向け、そう言った。
「小山内だよ。中学も一緒だったろ」
僕がそう言うと、修哉は頭の上に電球を出した。
「そうそう、小山内。なんであんたまでいんの?」
「え」
彼の言葉に、僕は思わず顔を硬直させた。そんなこと言ったらダメだろ……。美香の方へ視線を向けると、彼女も顔が引きつっていた。
「修哉さぁ、そんなこと言っちゃダメだろ? 小山内だって空が心配で来てんだからさ。野次馬ってわけじゃないんだし」
和樹はどこかばつが悪そうに、頭をかきながら言った。
「……そうか。まぁ、そりゃそうだ」
修哉はそう言って、ベッドの傍にやって来た。
「で、どうよ? 調子は」
「調子も何も、どこも悪くないんだよ。早く退院してぇ」
「明日、退院なんだって」
空はどこか嬉しそうに言った。
「そうなの? まぁ、お前は俺みたいに頭が良いわけでもないから、これ以上休むとやばいかもな」
「うっせぇなー。お前はいいよなぁ。学校をサボっても、勉強できるんだからさ」
「そう言えば……修哉君、何日か出かけてたんだよね? どこ行ってたの?」
海はお菓子のチョコを食べながら言った。
「ちょっと外国まで」
修哉はニコッと微笑んだ。
「マジで? どこ?」
和樹が食いついた。
「遠い国さ。日本からね」
「アフリカとか?」
啓太郎が訊ねる。だが、修哉は「そんなところ」とだけ言って、はぐらかしていた。
そんな話をしていると、あっという間に時間が過ぎて行った。病院での暇な時間は、全て友達が排除してくれた。
「おっと、6時か。そろそろ俺は帰るよ」
腕時計の指針に目をやりながら、修哉は立ち上がった。
「おや? 咲希ちゃんは6時まで伸ばしてくれたのか?」
「なんとかな。空のお見舞いってことなら、いいんだとさ」
ハハ、と修哉は苦笑する。
「じゃあ、俺たちも帰るか」
それにつられるかのように、和樹と啓太郎も立ち上がった。
「あっ! お姉ちゃん、私たちも帰らないと!」
「え? どうして?」
空はぽかんと口を明けていた。
「今日はお父さんとお母さん、仕事でいないから家事をお願いって頼まれてたじゃない」
二人の両親はバリバリの仕事人間で、結構な頻度で家を空けることが多い。
「あっ……そうだった。じゃあ……空、私たちも帰るね」
「ああ、またな」
ドタバタと、みんなは病室から出て行ってしまった。急にしんとした病室になってしまったが、それでも一人だけ残っている人がいた。
「あれ……美香は帰らないのか?」
なぜか、美香だけがポツンと椅子に座ったままだった。
「えーと、なんか取り残されたっぽくて」
と、彼女は愛想笑いのようなものを浮かべていた。
「とりあえず、早めに帰ったほうがいいんじゃないか。夜道は危険だし」
「……う、うん。そうだね。じゃあ、私も帰るよ」
美香はカバンを掴み、立ち上がった。その時の彼女の笑顔が、妙に無理をしている――というか、作り物のように感じ、僕は思わず「美香」と呼び止めた。
「何?」
その反応は思ったよりも早くて、そんな自分に気付いたのか、彼女は照れを隠すように髪を耳に掛けたり、意味もなく髪を触っていた。
「修哉が言ってたこと、気にするなよ」
「…………」
そう言うと、彼女は何度か瞬きをして視線を下に向けていた。
「修哉は……なんていうか、言葉がきついから。悪気はないんだよ」
喧嘩っ早いというか。心を開かない相手には、とことんきつく当たる節があるのが修哉だ。
「……空は、その……」
美香は落ち着かない様子で、あちこちに目をやっていた。
「迷惑じゃなかった? 私が来て」
恐る恐る聞くように、彼女は言った。何をおかしなことを――と、僕は失礼ながら思ってしまった。そんなわけが、ないじゃないか。
「そんなわけないだろ。結構、病室って静かで嫌なんだ。来てくれて助かったよ」
それは本音だった。来てくれるだけで、どれほど助かったか。どことなく、彼女の表情は暗さが薄らいだように感じた。
「だから、あんまし気にするなよ」
「……うん。ありがと」
美香は優しく笑って「また、学校でね」と言い、病室から出て行った。
そして、訪れる静寂。再び、無機質で辛気臭い空気が充満する。そんな空気を一瞥するように、僕は思いっきりため息を漏らしてベッドに勢いよく横たわった。
気にするな――という方が難しいのかもしれない。急にあんなことを言われて、傷付かない人間はあまりいないんじゃないだろうか。今度会ったら、僕からも謝っておこう。あの表情は、傷付いていることの証明なんだとも思う。
翌日、僕はとりあえず退院することに。時折一瞬だけ頭痛がするが、他には何も起こってはいない。意識が遠のくというほどでもない。それでも、その頭痛がするたびに僕は金髪の少女“リサ”と出会い、話したことが現実だったのだと思い起こしてしまう。
吸い込まれそうなほど、彼女は綺麗だったな――と、自宅のリビングにあるソファで思いふけっていた。
この世には肩を並べるものなどないほどに美しい花緑青の瞳。光に照らされ、一つ一つが輝き繊細な光を纏う金色の髪。雪国の人を思い起こさせる透き通った白い肌。たぶん、僕は彼女よりも“綺麗”な女性を見たことがないと思えるほどだったのだ。僕の脳裏へ鮮烈に刻まれたあの少女は、頭痛がなくとも忘れることはないだろう。
あれは本当に現実なのだろうか。
――夢だと思う――?
「何考え込んでるの? あんたらしくない」
僕の据わるソファの後ろにあるキッチンで、母さんは食器を洗いながら言った。
「いや、考え込んでるって言うか……」
僕はいつの間にか、頭を抱えていた。なぜだろう、彼女の姿がまぶたの奥から離れない。単純に非現実的なことだったから――というのものあるのだが。
「そうだ。今日、お母さん懇談会に行くから」
「懇談会?」
たしか、この団地内のものだったはず。懇談会というよりも、ただの飲み会になっているとか。母さんはお酒に強いから、よく呼ばれるのだ。
「というわけで、夜いないのよ
「えー、マジかよ。僕も父さんも料理のスキルはないの知ってんでしょ?」
父さんと僕は親子だからか、不器用なのがそっくりだ。
「そこは大丈夫。空ちゃんに頼んでおいたから」
「は?」
僕は開いた口がふさがらなかった。いかん――と思い、すぐに詳細を聞き出さねばとの指令が脳内を直行し、言葉を放つよう口を動かす。
「な、なんで空なんだよ。どういう経緯でそうなってんの?」
そう訊ねると、母さんは「はぁ?」と首を傾げる。
「どういう経緯って……いちいち説明すんのめんどくさいわよ」
「…………」
まぁ、ご尤もな返答です。
「快く承諾してくれたし、あの子の料理ならあんたも文句言わないでしょ?」
「……そりゃ、ね」
空の手料理はおいしい。文句など付ける必要などこにもない。しかし、“問題”はそこではないのだが。
「そういうことで、よろしく。文句は受け付けません」
母さんはそう言って、再び食器洗いを続けた。
どうも緊張するというか……。何度も泣かせてしまっている手前、妙に恥ずかしい。二人っきりというのも、尚更だ。父さんが帰って来るまでの辛抱ではあるが。
それにしても、海も来てくれたらいいのに。あいつがいれば、多少は気が楽なのに。
そこで、自身の思考に“疑念”を抱く。ごく自然と。
……なぜ、海が来てくれたらいいのに……と考えたのだろうか。
「こんばんはー」
夕方、空は一人でやって来た。どこかのスーパーの買い物袋を引っ提げて。
「退院おめでとう! もう大丈夫?」
玄関先で出迎えた僕を見て、彼女は微笑んでいた。僕も自然と、口元が緩む。
「ああ。もう完璧。ありがとな、いろいろと」
「どういたしまして。空が元気になってくれてホントによかった」
と、彼女はそう言って頬を赤くしていた。それは当たり前のように。だからか、僕は目をそらしてしまった。真っ直ぐ見ることが、少し、恥ずかしくて。
「……そうだ、海は?」
逃げるように、海の名前を出す。なぜだか、自分が少し情けなく感じた。
「あの子は“めんどくさい”って言っちゃって。今日はせっかくお母さんが料理を作ってくれるから、あっちに」
「あ~、なるほど……」
空たちのお母さん――楓おばさんはまだ30代のキャリアウーマンで、帰って来るのは基本的に8時過ぎ。そのため、残業禁止の日が月に何日かあり、その日くらいしか晩御飯を作れない。空が料理上手――それはうちの母親が教えたのもあるが――なのは、そういった環境にあるせいでもある。
しかし、海は来ないのか。じゃあ、完全に二人っきりじゃないか。父さんがカムバックしてくるまで。
「空、今日は何が食べたい?」
空は玄関から上がり、リビングへ行った。
「何って……うーん……」
「病院から帰ってきたばかりなんだから、食べたいものあるんじゃない?」
そう言いながら、彼女は自分用のエプロンを身に付けた。そう、この家には彼女用のキッチン用品がいくつか配備されているのだ。完全に母さんが楽をするためのものである。
「強いて言うなら、カレーかなぁ」
「カレー? なーんだ、やっぱりそうなんだ」
空は小さく笑いながら、家の冷蔵庫を開けた。
「ん? やっぱりって……なんで?」
「おばさんが言ってたんだ。空はきっとカレーが食べたいって言うだろうって」
ああ、なるほど。
「なんか嫌だな、それ」
見透かされたようで。実際、見透かされているのだが。
「カレーは空の好物だし、私もそう言うだろうって思ったけどね」
「何もかもお見通しってわけか……やれやれ」
「まぁまぁ。ほら、作るから空はゆっくりしてていいよ」
彼女はそう言いながら、ソファーに座るよう促す。
「なんか手伝おうか?」
そう言うと、彼女は小さく顔を振る。
「大丈夫。空は病み上がりなんだし、溜まった宿題やっておけばいいじゃない」
「それこそ嫌なんだけど」
僕はため息交じりにそう言った。空はというと、そんな僕を見て口元に指を添えて微笑んだ。
「ちゃんとやらなきゃだめだよ。……じゃ、料理できるまで待ってて」
彼女は少しだけ首を傾け、「ね」と言った。ウェーブがかった髪の毛が、そのちょっとした動きに合わせて揺らいだ。
――これは、まずい。
咄嗟に、僕は彼女から顔を逸らした。
「どうしたの?」
「な、なんでもない。とりあえず、上で待ってるよ。できたら呼んで」
「うん、わかった」
僕は逃げるように、自分の部屋へ向かった。
部屋に入り、扉を閉めたのと同時に息を大きく吐いた。それはまるで、緊張から解き放れた時のように。なぜそうなったのか――あの表情だ。この状況を喜んでいるような、彼女の表情。一挙一動が、妙に僕の胸をざわつかせている。
あー……しんど。考えると頭が痛くなりそうだから、ゲームでもしよう。そう思い立ち、僕はベッドに寝転んで携帯ゲームをし始めた。現実から逃げるようにして。
料理が完成した頃になっても、父さんはまだ帰って来なかった。
「父さん、遅いな」
時計はすでに7時を回っている。父さんは寄り道をほとんどしない人なので、勤務時間が終わるとすぐに帰って来る人なのだ。
「おじさん、残業?」
「そんな連絡は受けてないから、違うと思う」
「まさか……事故にあったんじゃあ……」
空は心配そうな顔になった。まさかそういう想像をするとは、こっちは思いもしなかった。
「そりゃ無いだろ。心配しすぎだよ」
「でも……」
その時、僕の携帯電話に着信が入る。無機質な機械音が鳴り響き、すぐさま手に取る。画面には、まさかの“父さん”の文字。タイミングが神がかっている。
「もしもし、父さ――」
「おう! 空か!」
人の言葉に上乗せして、いつになく大きい父の声が耳に襲い掛かる。
「今日、急に飲み会に参加することになってな! 下手したら終電で帰るかもしれないから、空ちゃんによろしく言っておいてくれ!」
「……酔っぱらってんの?」
「そりゃ酔っぱらうに決まってんだ――」
俺は電話を切り、携帯電話をソファーにポイっと投げた。
「待って損した。食おうぜ」
「そ、そうだね」
空は苦笑しつつ、頷いた。僕たちはテーブルに向かい合うようにして座り、いただきますと同時に儀式を行った。目の前には好物・カレーライス。さて、食しましょう。
「…………」
空は僕が食べる様子をジーっと見ている。
「……そんなに見るなよ。食べづらいっての」
「だって、どうかなーって。どう? おいしい?」
心配そうに見つめる空。それがまた、食いづらくさせる要因の一つだということを、元凶である彼女は気付いていない。
「そりゃ、おいしいよ。ぶっちゃけ、母さんより好きかな」
「ホント!? 嬉しいなー、そう言ってもらえると」
彼女は花が咲いたように笑顔になり、屈託のない表情をして見せた。それは褒められた子供のように、幼さの色が残るものだった。そのせいか、それを見れただけで僕は満足してしまうようだった。
「おかわり、あるからね」
「じゃあ、おかわり」
驚くような速度で、僕はカレーを平らげていた。たぶん、彼女が少なめに盛ったせいもあるはずだ。彼女はカレー再び持ってきた。心なしか、さっきよりも多く感じる。
「こうしてると、なんていうか……」
「ん?」
僕がカレーを口に運ぶ姿を、彼女は少し微笑みながら見つめていた。
「夫婦みたいだね」
「――!」
僕は口から吹き出しそうになった。というより、喉に詰まらせてしまった。
「ちょ……大丈夫!?」
僕は彼女が渡してくれた水を一気に飲む。それにより、空気の通り道ができたおかげで僕は漸く息を吸うことが出来た。
「お、お前な!」
僕がせき込みながら彼女に目をやると、事の重大さに気付いたのか、はたまた自身の言葉のあやというものを理解したのか、見る見るうちに顔を赤くしていった。
「た、例えばだよ! だ、だって、ほら、二人っきりだし。そ、その……」
「いや、そりゃまぁそうだけども」
だからって、その例えはちょっと驚きを通り越してしまう。危うくカレーで窒息死するところだった。こんなことで新聞に載ってしまったら、僕の葬式は笑いに包まれてしまう。
変な空気になりながら、僕はカレーをどんどん胃袋へ運んでいった。
そう言えば――ああ、どうして気付かなかったのだろう。彼女の味付けは、僕のよく知っている味付けなのだ。それは幼い頃から、ずっと慣れ親しんでいる味。彼女の“料理の師匠”は、僕の母さんなのだ。
ふとした時に感じる、あの安心感――
それは母さんのおかげでもあったのだ。
「……うぷ」
「大丈夫?」
ソファーに座る僕を、空はその隣で背中をさすっている。理由は簡単だ。食べ過ぎである。
「無理して食べなくてもよかったのに」
彼女はため息にも似た吐息を出し、心配そうな双眸で僕を見る。
「いや、ちょっと調子に乗りすぎただけだよ。おいしかったからさ」
「…………」
彼女はさする手を止め、まさに言葉を失った状態になってしまった。また顔を赤くして、口は一文字になっている。それを見て、僕は漸く自分の言葉のせいだということに気付く。
「ま、まぁ、本当においしかったよ。本当に」
この気持ちは、嘘偽りのないものだった。だが、それはどうも彼女にうまく伝わっていないようで。
「“本当に”って、どういう意味?」
空は頬を赤くしたまま、ジト目で見てきていた。
「えぇっと……変な意味じゃなくてだな。純粋に褒めてるってこと」
「……そっか」
すると、空はクスッと微笑み、祈るように両手を軽く合わせた。
「すごく……嬉しいな。そう言ってもらえて」
その自身の手を優しく見つめ、彼女は言った。空の長いまつげを、なぜか――いつもよりもはっきりと認識していた。普段、それなんて気にならないはずなのに。
胸の鼓動が高くなるのを、はっきりと悟った。だからか、心と体が乖離したかのように僕の体は勝手に動いた。
「え――」
彼女を抱き寄せ、抱きしめていた。彼女の華奢な体だとか、女性特有の肌の温もりだとか、長いウェーブがかった髪の毛から漂うシャンプーの仄かな香り、そういった様々なものが柔らかな綿のように僕のあらゆる感覚を埋め尽くす。自分とは違う他人を、こういう風にして抱きしめたことはない。だからなのか、僕の中にどこか冷静な自分が佇んでいて、こんなにも女性は自身の腕の中に入れてしまうくらいに華奢なのかと、驚嘆していた。
「……空」
吐息が漏れるように、彼女は僕の名を呼んだ。僕を“呼ぶ”というよりも“唱える”ようにして。
彼女も僕を抱きしめる。それは力を抜き、身を任せるように感じた。
――僕たちが、傍にいるから――
――君たちを、護るから――
声が、聞こえた気が……した。
その瞬間僕はハッとし、彼女の左右の二の腕を掴み引き離した。いきなりのことで、空は目を見開いていた。だが、それは僕が引き離したからではないことに、僕は気付いていなかった。
「空……どうしたの?」
彼女は驚いた表情で、そう訊ねる。僕はてっきり、引き離したことだと思い言い訳のように「ご、ごめん、違うんだ」と言った。
「……どうして泣いてるの?」
「――え?」
僕は頬に触れた。指先に、水滴が当たる。それは水滴などではなく、涙だと理解するのに少しの時間を要した。どうして、涙を流しているんだ? 理由があまりにも不明で、僕は慌てて涙を手で拭った。
「あ、いや……なんでだろ、ごめん。お、おかしいな」
ハハハ、と誤魔化すように笑って、さらに服の裾で涙を拭いた。
「……大丈夫?」
「え? あ、ああ。うん、大丈夫。ごめんな、なんか。ちょっと僕も意味わかんなくて」
本当にわけがわからなく、変に笑うしかなかった。なんで、泣いていたんだろう。気付かないうちに。
そうすると、僕は自分が何をしたかということにも、漸く気付くことが出来た。その時、僕の虚を突くようにして彼女は僕を包み込んだ。そう、包み込むようにして、抱きしめたのだ。
「泣かないで」
まるで心の中に語り掛けるように、彼女はそう言った。もう泣いていないのに――と思う前に、僕は感じたことのないほどの安心感を抱いた。身も心も、委ねられるほど。あらゆる感情であるとか、今まで積もり続けてきた記憶だとか、僕の弱さのかけらであるとか――それら全てが、暖かい空間に包み込まれるようだった。彼女の胸元で、不思議と眠りに落ちてしまいそうになるほどに。
――泣かないで――
その言葉は、なぜだろう……僕のずっと奥、或いは蓋をされた記憶の欠片に触れたような気がした。
すると、彼女はゆっくりと僕を離し、清らかな淑女のように微笑む。
「……空……」
彼女は僕の名前を言い、目を閉じた。空の唇が、部屋の明かりを受けて輝いているように見えた。
薄らとピンクの絵の具を塗ったかのような艶めかしい唇。
僕はそれに触れたいと、強く、強く――思った。
だけど、雷鳴が視界をよぎる。いや、雷鳴などではない。それは“想い出”だった。幼い頃の、彼女たちとの。一瞬にして、それが壊れてしまう――そう思ってしまった僕は、振り払うようにしてソファーから立ち上がった。
「えっと、さ」
何か……何か言わなきゃ。そうは思っても、何を言えばいいのかわからない。
「そ、そろそろ遅いし、帰った方がいいんじゃないか? 海も心配してると思う」
僕はさも言い訳のように、そんなことを言ってしまった。それが間違いであるなんて、簡単にわかるのに。
「……ねぇ、空」
彼女は座ったまま、僕の服の裾を掴んでいた。一滴の涙が、彼女の頬の上を流れる。
「空が好き」
「……え」
「昔から……出逢った時からずっと、空のことが好き」
彼女は自分の胸に手を当て、しまい込んでいたものを取り出すかのように言葉を放つ。
「だから、抱きしめてくれて……嬉しくて。私……私……」
その瞬間、彼女の双眸からいくつもの涙が流れ出て行く。空はそれを拭うこともせず立ち上がり、リビングから出て行った。靴を履く音が聞こえて、玄関の扉が開き、彼女の靴音が届いて、扉がバタンと閉まって。
何もすることが出来ないまま、彼女は出て行ってしまった。
僕は呆然と、その場で立ち尽くしていた。
その日、僕は何を考えて眠ったのだろう。よく覚えていない。
ただ、僕は夢を見たんだ。
それはずっと昔の夢。
僕が“誰か”で、隣に“誰か”がいる。
暗い檻の中で、先の希望も生への固執もないような世界で、僕はその“誰か”と共に在れば、それでいいと願っていた。
ただそれだけで、よかった――彼女もまた、そう願ってくれていた。
――泣かないで――
ふと、目が覚める。その瞬間に、僕は夢の内容を忘れてしまっていた。ただ、胸に広がる言いようのない喪失感が全身を覆いつくし、哀しみが波を打ちながら心の壁を這いあがっている。
体を起こし、頭を抱える。変に汗をかいていて、気怠さにため息を漏らす。
夜が明け、朝。僕はわざと早めに起床し、空とばったり出会わないように人生最速の登校を決意した。教室へ入って誰もいないというのを、初めて経験した。
授業がまったく身に入らない。黒板の文字なんて見る気にならないし、先生の言葉も耳に入り、超特急でとこかへ消える。僕はうなだれるか、窓の外を眺めているだけだった。
今日の空も青いなぁ――なんて思いふけって、あの事を考えているようで、考えていない状態だった。僕はますます授業という現実からかけ離れていった。この空間が、まるで虚空のように空っぽで、そこに僕だけが静かに座っているようだった。それだけ、周りの全てのものが人にとって、ほこりのようにちっぽけなものに感じていた。
「なぁ、どうしたんだ?」
「へ?」
昼飯時、和樹は焼きそばパンを食べながら言った。
「今日は何回も先生に注意されてたけど、さすがにヤバくね?」
「病み上がりとはいえ、さすがに目を付けられちゃうよ」
と、啓太郎は苦笑していた。
「そうだよ……な。うん、わかってんだけど……」
食欲がなく、ゼリー飲料を飲む。それさえも、胃が受け付けないような気がした。
「変な奴だなぁ。精神まで参ってのかい?」
と、和樹は笑いながら言った。
「まぁあんまり無理すんな。お前って、肝心な時に限って一人悩むタイプじゃん」
「……え?」
彼の言葉に、僕は思わず目をパチクリさせた。
和樹は優しく微笑んだ。
「お前の調子が悪いと、ほら、俺たちも調子狂っちゃうんだよ。繋がりがあるから、学校生活も楽しいってもんだろ?」
そう言って恥ずかしくなったのか、和樹は鼻の下を手で拭いつつ「なーんてな」と、誤魔化していた。
それを――僕は誇らしく思った。
そう言える、君を。
既に6時が過ぎ、外は夕焼けが広がる。僕は教室の机で、窓の外を眺めていた。
この時間帯まで学校にいるのは、理由がある。それは、空に顔を合わせないためだ。あいつに顔を合わすのがとても怖い。今日は時間をずらし、敢えて合わないようにしたくらいだ。鬼やお化けに会うような、或いは怒られるような恐怖感ではなく、何かが崩れそうで怖いのだ。それは、僕たちが築いてきた“幼馴染”という“繋がり”が崩れてしまいそうだからかもしれない。顔を合わすと、今までのそれが、音を立てて崩れ去りそうに感じた。
それだけは、嫌なのだ。
和樹が言っていた“繋がり”。どこかで不協和音が鳴り、途切れてしまいそうになる時がある。人は意識せずとも、恐れているのかもしれない。人と人を繋ぐ“糸”。これがあるからこそ、僕たちは生きてゆけるのだろう。
だけど――それがなければ、生きていくことなどできないかもしれない。大げさかもしれないが、
僕は机に顔を沈めた。窓を眺めながら、大きくため息をついた。
その時、教室のドアが開けられる音がした。
「あれ、空じゃない。どうしたの?」
そこに立っていたのは、訝しげに僕を見る美香だった。
「なんだ、美香か。こんな時間にどうしたんだ?」
そう言うと、彼女は腰に手を当ててため息をつく。
「なんだとは何よ。空こそどうしたの? もう下校の時間は過ぎてるけど」
「ああー……ちょっと考え事を、ね」
「へぇ、珍しいね」
「失礼な。悩みの一つや二つ、誰にでもあるもんだろ」
「だって、あんまり出さないじゃない。空って」
彼女は小さく笑って、僕の方へ歩み寄り、前の席に座った。
「ほら、どうぞ」
「へ?」
美香は首を少し傾げて、物を差し出すように両手を開いた。意味が分からず、僕は変な声が漏れた。
「どうぞって、何?」
「何って……“言ってごらんなさい”って意味」
「へ?」
この子は何を言っているんだ。またもや変な声が出てしまった。すると、美香は肘を僕の机に付き、自分の手に顎を乗せた。その表情は、どこか得意げでもある。
「言ってみたら、意外と気が楽になるかもしれないよ?」
そう言って、美香は微笑んだ。日向姉妹を除いて、女性の中で最も仲が良いのは美香だ。恋愛関係のことは、彼女に話をしたほうがいいのかもしれない。一番の親友である修哉には、なぜだか言いにくい。あいつは空と海の友達でもあるからかもしれない。
「……そう、だな」
僕は小さく頷き、事の顛末を話し始めた。
「……なんていうかさ」
終始無言で僕の話を聞いていた美香は、口を開いた。
「空にもそういう悩み、あるんだね」
と、彼女はクスクスと笑い始めた。その瞬間、なぜか妙に恥ずかしくなってきてしまって、彼女から目をそらしてしまった。
「しょ、しょうがないだろ。まともに告白されたことなんてなかったんだから」
「羨ましい悩みですこと」
身はそう言って茶化し、外を眺めはじめた。どこか遠い目をして。
「……悩んでるのは、そういうことじゃないんじゃない?」
美香の茶色い地下の髪が、夕焼けの光に当たり赤く見える。
「空が悩んでるのは、今の関係が壊れちゃいそうだからなんでしょ?」
「…………」
そういうことは一言も言っていないのに、美香は気づいた。なぜか、すごいと思ってしまった。
「たぶん、そうなんだと思う。今まで、僕は空たちのことを……」
不思議と、幼い頃を思い出していた。屈託のない笑顔を見せる、二人。修哉と出会う前は、樹と四人で遊んでいた。
「二人を、女性――というか、妹のようにしか見てなかった。だから今更、異性として意識することに抵抗感もあるんだと思う」
それで、今までの関係が崩れてしまうことを、恐れている。安穏としていた自分に対する、警告なのだ。
「なるほどね」
すると、美香は机を指先でトントンと軽く叩いて、僕の視線を自身に向けさせた。彼女はどこか微笑んでいるような……悲哀さも兼ねているような絶妙な表情を浮かべ、僕を見る。
「私さ、空のこと好きだったんだ」
「……え?」
何を言ったのか、すぐに理解できなかった。当惑している僕を見、彼女はニッコリと笑った。
「気づかなかったでしょ? 同じクラスになる前から、空のことが好きだったんだ」
「…………」
何も言えない僕に気付き、彼女は申し訳なさそうに「ごめんね」と言った。
「嫌だよね、こんな時に。でも、今は別にそうじゃないから」
フフっと笑い、彼女は続ける。
「たぶん、空は私のことを“友達”として見てくれていた。それは、中学生の時からこうやって話したりして少しずつ気付いて行ったことなのよ」
彼女はそう言いながら、立ち上がった。
「ねぇ、空は困ってる?」
「困る?」
「今、困ってる?」
いまいち、どういう意味でのものなのかは分からないが……。
「困っては……ないと思う」
「じゃあ、怖い?」
彼女は表情を違えず、立て続けに質問した。
「怖いって……何が?」
そう答えると、彼女はうんと頷いた。
「ほらね。違うんだよ、そこが」
何が違うのだろうと問う前に、彼女は続ける。
「私が告白したときと、空ちゃんが告白したときの空の反応。まったく違うものでしょ?」
「そりゃ、そうだろ。違う人なんだから」
そういうことじゃなくて――と言って、美香は首を振った。
「それが答えなんだと思うよ。きっと、ね」
美香は屈託のない笑顔をして見せた。
「怖がっているってことは、隠したいものがあるからなんじゃないかな」
隠したいもの――
誰から? 何から?
「……きっと、大丈夫だよ。空なら。二人のことをいつも大事にしていたんだからさ」
――だから、ちゃんと答えてあげるんだよ――
美香はそう言い残して、教室から一人で出て行ってしまった。
一人での帰り道。コンクリートで埋め尽くされた道路を意味もなく見つめ、途方に暮れたかのような足取りは、普段よりも歩幅を狭くする。
美香の言うように、彼女に“好き”だと言われだからといって何かが変わるような気はしなかった。単純に“そうであった”という事実があるのみ。だから、何も怖いだなんて思わなかった。
じゃあ、空に対する“この感情”は何なのだろう。
たしかに、怖いんだ。今までの全てが崩れてしまいそうで。脳裏に浮かぶのは、幼稚園の頃の空や、小学生の時の通学帽をかぶった空、黒に限りなく近い紺色のセーラー服を身に纏い、どこか照れている空。たくさんの彼女が、僕の想い出の一つ一つに映っていて、そのどれもが胸を締め付けるように愛おしく感じる。
その時。
――数多の言霊――
――掻き消され、消えゆく命の焔――
――星の心と、星の子ら――
――お前が求めたのは、なんだ――
声が聴こえる。
「……僕に、何が言いたい?」
僕は立ち止まり、道路を睨んだ。
頭の奥底から聴こえてくる声。
僕に何を伝えようとしているのか?
小さな残像と小さな痛みと共に、視界がぼやける。
――遠い昔から交わされていた、遥かなる約束――
――全ての命が紡がれるその時に、何が生まれるというのか――
「だから……何が言いたいんだよ」
だんだん、痛みが激しくなってくる。その痛みは、僕の思考能力を徐々に停止させてゆく。
――さぁ、セヴェスよ――
――お前は何を望む――
――安堵か、平和か――
――それとも、無償の愛か――
――生まれ墜ち、握りしめるその掌にあるものはなんだ――
――お前は、何を望む――
「何を……望む……だって? それは決まってるだろう? 言葉に出す必要なんて、ない。――なぜなら、僕たちは生まれてくるその昔から、その答えを知っているんだから」
何かの反応があった。何かが――いや、無数の何かが僕の体に落ちてくる。見つめるコンクリートの道路に、小さな斑点が少しずつ増えてゆく。
顔を上げると、それが雨だということに気がついた。さっきまで美しい夕焼けの空が広がっていたのに、いつの間に雨雲が広がっていたんだろう。それに周りがほぼ暗くなっていた。
「空?」
まるで心の芯に届くように、誰かが僕を呼んだ。
ゆっくりと視線を前へ向けると、そこには傘を持つ黒髪の少女。雨水のせいでぼやけた視界でも、暗くなってしまっても、それが誰だか僕は容易にわかった。
「……空か」
そこにいるのは、空。彼女が愛用している、透き通った海のような色をした傘の下に。
「ど……どうしたの? ずぶ濡れだよ。風邪ひいちゃう」
彼女は困惑しつつも僕に駆け寄り、傘を掛けた。雨のない空間の中に、僕は入り込んだ。それは孤独な場所から助け出されたかのように。
「ねぇ、おばさんが心配してるよ。帰ろう」
空は雨で濡れた僕の服を掴み、心配そうに見つめる。彼女は決して躊躇しない。自分まで濡れてしまうことなど。その心が、なぜだか理解できた。
――ああ、頭が痛い。僕が僕じゃなくなるように。
「……お前は、どうして平気そうな顔をしてんだ?」
「え?」
なぜか、僕は手を前に差し出していた。
「手が震える。なぜかわかるか?」
意味も分からず、空は僕を見つめていた。
「怖いからだ。これから起こりうる、あらゆる事象に対して。俺たちは絶え間ない痛みと苦しみを抱いて、それでも生きていかなければならない」
「空……? 何言って――」
「狂おしいほどに何かを愛せるというのか?」
僕の知らない何かが、彼女の言葉をさえぎって言葉を放つ。
「奈落の底へと……“失われた聖域”の狭間へ堕ちゆく魂たちを……」
そのとき、僕の体はガクッと崩れた。雨水が流れる道路に、水しぶきをはじき出しながら座り込んでしまった。
「そ、空!?」
彼女はそんな僕を抱えようとして、傘を離した。小さな無数の雨粒たちは、容赦なく彼女の体を濡らしていく。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
ああ、そうだよ。頭が……痛いんだ。
なのに――
こんなにも、君を愛おしく思うんだ――
「空!? ねぇ、そ―――」
僕は強く、彼女を抱きしめていた。それは昨日のような、感情を纏ったものではない。独占的で、単純に彼女の感情を食い物にしようとする、貪欲な獣のようだった。
「そ……ら?」
雨の音が聞こえる。遥か遠く、遥か高みから降り注ぐ雫は、大地に小さな波紋を広げて砕け散る。それはまるで、良き急ぐ人間のよう。
そこからのことは、よく覚えていない。
ただ、その後、僕はちゃんと家に帰宅したこと。
ちゃんと夕飯を食べたこと。
ちゃんと風呂に入ったこと。
それらは、覚えていた。
けど、どのようにして空と別れたのか。どのようにして、彼女と離れたのか。
大切なところが、とても曖昧になっていた。