49章:永遠のオルゴール
リュングヴィは、空中に浮かんでいる剣の方に体を向けた。
「お前がどうしても俺の考えに賛同しないというならば…………残された道は、ただ一つ。……力ずくで、お前を殺すしかない」
そう言うと、奴はその剣に手を伸ばした。掴んだ瞬間、淡い青い光が一瞬、彼を包み込むかのように発光した。
「……俺が――完全なる調停者になるために、お前の〈精神〉を食い破る」
「僕の精神だと……?」
「ここは、実体と魂が混在する唯一の空間。つまり、お前の魂――精神も、この空間にある。それを食い破るには、ここにいるお前を殺すことなんだよ」
僕は腰に差してある剣を、素早く引き抜いた。それと同時に、リュングヴィは僕の方に向き直り、剣の切っ先を向けた。
「この剣が何かわかるか?」
その剣は、透き通る青い宝石のようなもので作られており、施された装飾品は、なんとも豪華だ。刀身は、本当に透き通っているように見える。
「……これが、聖魔の神剣ティルフィングだ」
「!!?」
あれが、アイオーンの剣! ユリウスを倒した時に携えていたという、伝説の・……。
「神々の流れを組む者にだけ……いや、『決定権』を持つ者だけが振るうことのできる、聖魔の元素の結晶体。これこそ、調停者の証……」
リュングヴィは見せびらかすように、ティルフィングを振った。
「だが、不完全なる存在が手にしては、完全に力を発揮しないのがこの剣の特徴だ。いや、扱う人間の力を理解しているのかもしれない。その力が、剣と同等なのかどうかを。俺ならば……純粋な力を持つ俺ならば、この剣は最大限の力を発揮させる。というより、〈調停者〉の権利を得ている者ならば、その力を発揮させることができるだろうな」
ということは、僕でもその力を発揮させれるということか? すると、リュングヴィは僕を見ながら笑い始めた。
「ククク……お前では扱えない。お前は、俺の付属品みたいなものだからな……」
「何だと!?」
思わず、僕は奴を睨みつけた。
「お前の存在価値は、俺が生命の頂点に君臨するためだけなんだからな……」
赤い鮮血の双眸を輝かせながら、リュングヴィは僕を一瞥した。
ああ……もう、あいつは人間じゃないんだ。基は同じカインであったのに、カインの心でさえ理解できず、すでに滅びへの願望しかない、哀れな魂。
もう、あいつはヒトに戻れない。
もしかしたら……あいつは、純粋に〈完全な調停者〉を求める〈欲望の塊〉なのかもしれない。だからこそ肉体が滅び、一万年という長い時間が過ぎても、今までのように人の心の中に巣食い、自分の器にさせようと唆す。
どうしてなんだろう。あんな考え方をするのは。
突然、僕の中に冷たい風が流れた。それは、小さく身震いした時、一瞬だけ視界がぼやける。
「今までの人生を振り返るんだな……セヴェス!!」
僕は体の奥に力を入れた。普通の状態では、奴には絶対に勝てない。引き出せる限りの〈聖魔の力〉を、引き出して戦わなければ勝ち目は無い。
リュングヴィが向かってくる間に、僕は小さく深呼吸をした。
……何かを侵食するような、感覚が襲ってきた。だが、まだ自分を見失うほどではない。自分自身を保ちながら、戦わなければならない。
これは、自分自身との戦いなのだから。
リュングヴィは勢いをつけ、僕に向かって来た。僕も、同じようにリュングヴィへと向かった。
振り下ろされた剣のタイミングは、同時だった。2人の前で2人の剣がぶつかり、大きな音を轟かせた。
リュングヴィの攻撃は重い。〈聖魔の力〉を使っている時は、いつも重く感じていたホリンの攻撃さえ、とてつもなく軽く感じたのに。
リュングヴィは剣を押し上げ、僕の懐を空けさせた。奴はそこへ、ティルフィングを突き刺そうとした。しかし、僕は体を素早く左へ動かし、弾かれて上に浮かんだ剣を握り締めた右手を、振り下ろした。それを、リュングヴィは軽やかな動きでかわす。そして、再び剣と剣がぶつかり合う。
「なるほど、力の使い方が上手になっているじゃないか」
剣を押し合いながら、リュングヴィはニヤッと笑った。
「……僕は負けない。自分のためにも……あっちで待っている、あいつらのためにも!」
今度は、僕がリュングヴィを押し上げた。少しだけ、懐が開いた。
――今だ!
僕は剣を横に振り抜いた。その時、リュングヴィは動く気配を見せなかった。当たったと思った。しかし、甘かった。
リュングヴィはフッと消え、石の箱があるところまで下がっていた。あの短時間で、あそこまで行けれるのか!?
「簡単に、当てられると思うなよ?」
そう言うと、リュングヴィは手をかざした。その手に、赤い光が集結していく。
「大地を巡る、赤き亡者よ……崩れゆく血肉の狭間を、自らの意思をもって灰燼と為せ……」
この精霊の波動……まさか、禁呪か!? 気付いた時には、もう遅い。
「泣き叫べ、ブリュヴァルム」
リュングヴィのかざした手から放たれた真っ赤な光たちは、床に降り立ち、まるで波が押し寄せるように、炎を引き起こしながら僕の方へ向かって来た!
あまりに広範囲に押し寄せて来ているため、左右に避けることができない。こうなったら、上へジャンプして避けるしかない。
僕は力いっぱい、上空へジャンプした。〈聖魔の力〉のおかげで、十数メートルまで舞い上がった。
「死ねぇ!!」
リュングヴィはその場で、剣を何度も振り抜いた。すると、以前ホリンが放った時のように、三日月の形をした衝撃波が、いくつも折り重なって飛んで来た。
まずい! 空中で横に動いたりすることはできない。
こうなったら……!
僕は左手を前に突き出し、あの力を最小限にして、ここに溜めた。あれをうまくすれば……もしかしたら、盾のように出せるのかもしれない。
レーザー光線にしたり、小さく掌に出してホリンの炎を掴んだりできたんだ。きっと、できるはずだ。
すると、青い光がきれいな円形を描いて、僕の前に出現した。想像通りに発動したので、思わず僕は目を見開いた。リュングヴィが放った衝撃波は、その円形の光に阻まれ、塵となって消えた。
「ほほぅ、それなりに制御できるのか。ならば……」
リュングヴィは再び、詠唱を始めた。
「霊帝の怒りを我が許に統べよ。銀箔の濃霧、漆黒の大地を照らさん。ザヴェーロ……眠れ、凍結の棺の中に……」
巨大な氷柱が、上空に現れた。それと同時に、僕はようやく地上に降り立った。
「くっ……!」
まるで巨大な槍の雨のように、それは僕を狙って降り注いでくる。僕は右へ、左へとかわす。だが、リュングヴィを確認する余裕がまったく無い。あまりにも氷柱が多すぎて、避けるのに精一杯だ。
「喰らえ!」
その声が聞こえると、僕は素早くチラ見をした。その時、さっきと同じように、リュングヴィは斬撃の衝撃波を繰り出していた。
衝撃波は氷を破壊しながら、広範囲に襲って来た。僕はそれを一つ、二つと避けた。
「逃がすか! クリムゾンフレア!」
クリムゾンフレア――ホリンが使っていた炎熱系の魔法だ! 大きな火の塊が、3つ降ってくるのだ。
くそっ……八方塞だ。こうなったら……!
僕は避けながら、詠唱を始めた。初めて唱えた魔法だけなら、なんとかできるはずだ!
青黒い光を纏った指先を素早く動かし、印を結ぶ。それによって、一つの魔方陣が刻まれてゆく。
「集え、暗き闇夜に従いし者ども……漆黒の黄昏に誘え、忘却の魔人よ。その力に贄を与えん……グラノマーレ!」
巨大な青黒い光が、僕の周りを囲んだ。禁呪の氷柱も、巨大な火の玉も、斬撃の衝撃波も、その光にぶつかった瞬間、消えていった。
「何……?」
僕は全て消えたところで、リュングヴィのところへダッシュした。勢いのまま斬りつけるが、奴のティルフィングによって阻まれる。
「俺の声を聞かず、聖魔術を詠唱できるようになっていたとはなぁ……ハハハ、褒めてやるよ!」
リュングヴィは笑いながら、力任せに僕を吹っ飛ばした。僕が体制を整えるのと同時に、連続攻撃をしてきた。
「どうした? 防戦一方じゃないか」
「くっ……そ!!」
僕はリュングヴィの攻撃を防ぐので精一杯だった。あまりにも、攻撃のスピードが速い。
「……そろそろ、おしまいにしようか」
そう言うと、リュングヴィは剣を勢いよく、下から振り上げた。僕はそれを剣で防いだが、衝撃で体ごと空中に舞い上がった。
――まずい!
「ティルフィングの力、思い知れ!」
リュングヴィは剣をゆっくりと振り上げ、力を溜めるように、その状態で停止した。赤紫色の光が、渦を巻きながらリュングヴィを包み出し、ティルフィングの切っ先へと集中していく。
何かをされる前に、何かをしなくては……!
僕は、あのレーザー光線を出そうと考えた。あれは、ホリンの巨大な炎をも消し去るほどだった。リュングヴィの動きを止めることくらい、きっとできる!
左手を前に出し、集中した。
「ハアァァ!!」
青く、半透明な巨大な光線が、リュングヴィへと突進して行く。リュングヴィは、それを見つめながら動こうとはしなかった。
「惰弱な力だ! 消え去れ!!」
リュングヴィがそう叫ぶと、ティルフィングをものすごい速さで振り下ろした。その瞬間、巨大な衝撃波が発生した!
「なっ!?」
10メートル以上の大きさを持つ衝撃波が、僕の放った光線と正面でぶつかり合った。すると、光線はその衝撃波によってかき消されてしまった。
僕はとっさに両腕を交差させ、防御の体勢を整えた。そして、ソリッドプロテクトとマジックシールドを、最大限に発動させた。
衝撃波が僕に当たった瞬間、巨大な轟音と共に、僕の体に電流のような衝撃が流れ込んできた。
「ぐぁぁ―――!!」
そのまま、僕は地上に叩きつけられた。
そして、体中に広がる味わったことも無い痛みが、体の中を走り抜けた。
「ぐ……うっ……ぅ!」
体中から、血が溢れている。なんとかして、片膝を付く体勢にまで戻すことができた。
血がぽたぽたと、水面のような床へとめどなく垂れてゆく。服は破れ、裂傷がひどい。骨もどれかが折れているような気がする……。
「……俺の力が、理解できたか?」
僕は首に力を入れ、リュングヴィに顔を向けた。
「お前では、俺には勝てん。いい加減、その力の差を認めたらどうだ?」
リュングヴィは、僕を見下ろしていた。勝者が、敗者に向ける視線だ。
僕は何とか、立ち上がろうとした。ひざが踊ってる。立つことさえ、ままならないなんて……。
「ティルフィングの衝撃波を受けても生きていられるのは、お前の中にある俺の力の残りかすのおかげだ。ここまで生きて来られたのも、お前の力じゃないんだよ」
「……くそぉ……っ!」
剣を杖代わりにして、僕はようやく立つことができた。
腹部のこの痛み……どうやら、先日のシュヴァルツの攻撃によって折れたあばら骨が、再び折れてしまったようだ。まだ、完全に治癒していなかった。
「ぐっ……!!」
僕は大きく呼吸をした。体に力を行き渡らせるためには、酸素を多く吸わなければならない。
リュングヴィはそんな僕を見て、にやりと笑った。
「それ以上、動こうとするな。お前の負けは、決定的なのだからな」
「うる……せぇ……!」
こうなったら……もう少し、力を出すしかない。危険だけど、やるしかない。
僕は目を瞑り、精神統一をした。
傷の痛みが、少し和らいだ。それに、体も軽くなってきた。
「………………」
リュングヴィはそんな僕をただ、見つめていた。何もせず。
ドクン
「!?」
激しい鼓動が、僕の中で響いた。まさか……!?
ドクンッ
僕は胸の辺りをさすった。心臓の鼓動が激しい。ホリンとミランダに襲われた時と、同じだ。
「力を行使しすぎたようだな」
リュングヴィは僕を見ながら、笑っていた。その姿を確認した時、僕の視界が揺らぎ始めた。視界の上部から黒く、もやもやしたものが現れた。少しずつ、それは僕の揺らぐ視界を埋めてゆく。
「所詮、お前などこの程度だ。自らの力を制御することもできず、自らの限界を軽視し、力の配慮を間違えた」
「なん――――ぐっ!!」
激しい頭痛で、僕は顔を歪ませた。気を失いそうなほどの痛み。それにより、僕はその場に倒れた。
「この空間がどういうものなのかを、覚えているか?」
「聖域……リー、ヴェ……?」
すでに、僕は顔を上げる力さえ失っていた。
「この空間は……肉体が滅び、魂だけの存在となった者たちの、正と奇が複雑に混じった場所だと」
僕は体中に纏わり付く傷の痛みと、頭痛によって意識を失い始めていた。それを無視し、奴は語りかけてくる。
「正は……喜び、嬉しさ、楽しさ……そういった、〈陽〉のものだ。奇は、その逆……つまり、悲しみ、憎しみ、妬み――〈陰〉を司るもの」
「何が……言いたい……?」
自分で意志をもって出した言葉なのかどうかもわからないのに、リュングヴィはそれに反応する。
「わからないか? お前の中にある〈バルドル〉と〈ロキ〉は、それぞれ同じ眷属のものに反応する。この場所には、無念のうちに死を遂げたものたちの怨念が、〈陽〉のものよりも、多く渦巻いている。さらに、お前は〈ロキ〉に傾いている。だから、その程度の力の行使で、ロキに蝕まれるのさ」
怨念…………
クルシイ
聞こえる……
クルシイ……ツライ……
無念を残し、堕ちていった命たちの、叫び声が。
ナンデ……ソンナヒドイコトヲ……
イヤ……ヤメテ……ヤメテェ!
キサマラァ……ワレラトオナジクシテ――
シニタクナイ……
そうか……生きたかったのか?
望まずに生まれ、
望まずに死に、
望まずに……堕ちたんだな……
ドウシテダ
わからない。
ナゼ、キサマハイキテイルノダ?
知らない……わからない……
オオイナルチカラニエラバレタガユエニ、
オオクノイノチヲクライ、
ソノシカバネノウエデハグクマレ……
――誕生せし、神々の幼子――
僕はそんなの……望んでいなかった……
ただ、普通に過ごしたかった。
こんな力なんていらない。
憎み合うだけの……滅ぼすだけの力。
――そうですよ――
――貴様は、生まれ変わればいい――
――永遠の眠りに就き、普通の――
……そうだな。そうして、楽になるのなら……。
そうやって何もかも憎んで、
蔑んで、
僻んで、
狂おしいほどに怨んで――
ああ、僕は沈んでゆくんだ。
始まりと、終わりの地へ――
……世界が暗転する。
僕は、果ての無い空間を堕ちていっているようだった。
全てが入り乱れ、あらゆる負の感情が生への限りない渇望を轟かせ、世界を憎んでいる。
肉体は滅び、魂は彷徨い、想いは星屑の欠片となって散らばり、夢は氷のように溶け、僕はこの闇の彼方へ堕ちてゆく。
何も、見付からない。
希望も、夢も、何もかも……消えてなくなってしまう。
ああ……そうか、ここが……終着地点なんだ。
生が死へと移り変わり、それから永遠に彷徨い続ける場所が……ここなのか。
僕はこの永遠なる海の中へ、沈んでゆく。
全てを憎み、全てを滅ぼせと願いながら。
そして、生まれてきたことを呪いながら……。
――約束だよ――
……!?
今の声は……
――ずっと、ずっと……――
誰かの声が聞こえた。この声は……空? いや、海……いや、違う。
リサ……!? でも、違う。似ているけど、彼女でもない……。
「行ってらっしゃい」
これは……母さんだ。別れ際に言った言葉だ……。
「たとえ全てに裏切られ、全てに憎まれようと、お前が正義だと決めたことを為せばいい」
ヴァルバの声……もしかして、これは僕の記憶の断片か……?
「信じてます」
アンナ……。
「私、絶対に空以上に好きな人を見つけてやる」
この声……美香だ。夕焼けの光が差し込む教室の中で、彼女は微笑みながら言っていた。
「その繋がりがあるから、俺たちは生きていけんだよ」
真剣な眼差しで、和樹は言った。繋がりがあるから、僕は僕でいられる。
「ほら、僕たちの友達ってユニークなのが多いしさ」
にこやかにそう言った啓太郎。
「わかってんのに、なんで泣くんだよ! なんで叫ぶんだよ! どうして、今、自分ができることを考えようとしないんだよ!!」
涙をまき散らしながら、リサは言ってくれた。
僕の中にあった、決意。それを、呼び覚ましてくれた。
「待ってるから!」
再びレイディアントへ旅立とうとしていた僕に、海はそう言った。
彼女との約束……。
そう、決して忘れてはならない、大切な約束。
「空のこと、信じてるから」
今にも泣きそうな顔で、彼女――空は言った。
信じられるに値する人になろう。彼女のために、彼女が笑顔でいられるために、僕は生きていこう。
そう、決意していたはずなのに。
――大丈夫、きっと――
僕は、何をしていたんだ。
こんな闇の底で、暗い波動を撒き散らしながら。今更、何を言っても仕方が無いじゃないか。そんなこと、理解していたはずだろ?
僕は、常に僕なんだ。そして、自分がしようとしていたこと。何を達成させようとしていたのか。暗い波動に飲み込まれ、それに流れるままに、自分の生を――世界を憎んでいた。
それじゃあ、何も始まらない。何も創り出せない。
再び、誰かの声が響いてくる。
「ジェ・レル・ヴェスナ・セスタ……悠久なる、精霊の灯火よ……我を護り給え……。いい? これはあなたを守るための言葉なの。不安になった時などに、思い出して言ってみて。きっと、あなたを守ってくれる……」
女性の声。
海を襲った時、僕を暗い世界から呼び起こしてくれた声。誰かはわからないけれど……この言葉の響きが、言葉の優しさが、僕を包み出してくれる。守ってくれる。
暗転していた世界が、元に戻り始めた。
全てが暗くなっていた。だけど、徐々に……徐々に、光を取り戻してきた。僕が、僕であるために。
空の命を救うために。樹たちを止めるために。
その時、一つの憧憬とともに何かが聴こえて来た。誰かの話し声……か?
「初めまして。ここではGK5‐No.0999。本名は――」
白く、淡く……儚い憧憬の中で、誰かの姿が見える……女性の声だ。銀のような……白いような、長い髪。
なぜだろう……初めて見るのに、懐かしく感じる。
「私も、あなたも………あいつらも、同じ人間よ。それ以上でも以下でもない。そうやって暗く考えるから、陰鬱になるのよ」
誰かを叱咤している……その中には、その人を想う優しさの影が見える。
「なんでそんなことをするの!? ……どうして、自分を傷つけるようなことをしたのよ!! ……あなたが考え抜いて出した最善の行動かもしれないけど………それは誰かを傷つけることだってあるのよ!!」
泣いている……。その人を想うがあまりに……。
「……ええ。あなたと、一緒なら………どこへでも………」
約束した。一緒に、ここから出るのだと。 共に誓い合い、共に世界を歩んで行こうと決めた。そう……彼女とともに……。
「……お願、い……見ない……で……」
涙を流す彼女……。苦しみと、悲しみが伝わってくる。
やめてくれと、彼は叫ぶ。目を開けてくれと、願う。
それは、決して届くことはなかった。
永遠に――
それを見つめる誰かの心に、あるものが放たれようとしていた。その時……
「私はここの研究員だ。……君にとってみれば、憎むべき相手かもしれないがな」
一瞬煌めいた炎が消え、別の憧憬が映し出された。今度は、男性だった。
「……原初の人類……知っているか? 君は、その人類と同じなんだよ。だからこそ、ここにいる。……同時に、君は選ばれたんだ。運命を司る神々に。君は……世界を新たな繁栄に導く道標になるんだ」
自分に何ができるのか。
それを教えてくれている親友――がいた。誰かに。
「……共に行こう。そして、世界を変えてやろう。お前の力は、そのために与えられたものなんだ。世界を破壊し……新たに創造し直すための……」
復讐を誓った。変革を誓った。その理想に共鳴しながら……。
「堕ちた者たちの願い、か……。皮肉なものだな…。欲に囚われた者たちが求めていたものを、私たちが手に入れるとは……」
哀愁漂う瞳で、彼は世界を望んでいた。果てしなく広がる、荒野を……。
「なっ………があぁぁ!? カイン……きさ……ま………!! あと、もう少しのところで……! プロジェクト…ジェネ……シス…を……。ぐああぁぁぁ!!!」
ほとばしる電流とともに、断末魔の叫びが広がる。野望が潰えた時なのだろうか。
「……俺は……MG4‐No.5671……。昔の名前なんて……意味ないだろ……」
暗い、暗い吐きだめのような中で、彼は空気のように答えていた。
「わかったようなことを言うな……。俺は……ただの実験道具に過ぎないんだよ。道具は、夢なんか見る必要が無いのさ……」
真っ暗な世界に、あの銀髪の少女だけがまるで白い絵の具のように、佇んでいた。
「一緒に、空の見える場所に出よう。こんな場所から………遠く、遠く離れた場所へ……。お前に、見せてやりたいんだ。……あの、リーベリアの大地を……」
銀髪の少女と、彼は約束した。ずっと、一緒にいようって。その先にある、未来を信じて。
「ああ。お前と共に行く。そして、この世界を……この腐れきった人類の檻を、ぶち壊してやる!! 俺の……この〈執行権〉をもってな……!!」
青空の広がる大地の上で、彼は世界を睨んでいた。
ただ……憎しみしかなかった。それだけだった。
「……これら全部が、俺のもの……? ……まるで、世界じゃないか。俺は……お前の言うとおり、神になったのか……?」
空に浮かぶ大地から、世界を見つめる。そこにある全てが、彼のものになった。
「黙れぇぇ!! お前が……!! お前があいつを……!! う……あああぁぁぁ!!!!」
全てを裏切られ……彼は憎んだ。信じていた全てのものを憎み、世界を……自分の運命を呪った。
「……俺は……ただの操り人形だったってことか……。何のために、ここまで……。俺の……この力は……何のために存在するんだ……?」
虚無……自分はまさにそれになった。その……瞬間だった。
「……クク………ククク……。お前の……好きにはさせない…。俺の……俺の意志と想いは、俺だけのものだ……! 終わりにしてやるよ……。何もかも、終わらせて………あいつの………傍に…………」
ただただ、愛していただけなんだ。
純粋に、夢を見ていただけなのに……
その憧憬たちは、一つ一つがろうそくの灯火のように、揺ら揺らと……煌めいていた。その一瞬、刹那を……必死に生きているようだった。まるで……人の人生そのものだった。
憧憬は消えて無くなり、永遠へ紡ごうとした未来は無くなった。
遠い……遠い友たちの記憶。
僕はゆっくりと、両目を開いた。そこに広がるのは、聖域リーヴェだ。目の前に、リュングヴィが僕を見ながら、佇んでいる。その右手に、聖魔の神剣を握って。
「まさか……戻ってきたというのか? あの、永遠の海から……」
リュングヴィの驚く声が聞こえた。
僕の体を、何かが包んでいる。
青く、光輝く何かが、僕に力を貸してくれている……囁いている。
体がとても軽い。頭の中も、いつに無く冷静だ。体中を駆け巡っていた痛みも、まったく感じない。体を見てみれば、すでに血は止まっていた。
「……あれ?」
すると、僕の目の前に、青い光が集結し始めた。それは少しずつ、形を成してゆき、最後に大きな光を放った。
目の前にあったのは……リュングヴィの持っている剣と同じ、聖魔の神剣――ティルフィングだった。フワフワと、まるで妖精が浮かんでいるようだった。
青く煌く刀身。薄っすらと、向こう側が透けて見える。きれいな宝石類が付けられ、一見、ただの宝物にしか見えない。しかし、この剣から放たれている神々しさは、周りを圧倒するものがある。
――それを――
何かが、囁く。それに、触れよと。
僕はその剣を握った。その瞬間、青い光が波打つかのように、僕の周りに広がった。
これが……ティルフィング。
「貴様……なぜ……!!」
リュングヴィはわなわなと震えながら、僕を見つめていた。
「どうして、あそこから帰れた!? なぜだ!?」
両目を見開き、奴は叫んだ。僕は彼を見据えた。
「なぜ? それは、声がしたからだよ」
「声だと……!?」
僕はうなずいた。
「生きようと……全てが終わりを迎えようと、全てを愛そうとする人たちの声さ」
あいつは理解できない。だからこそ、今みたいに首を振るんだ。
「お前には、わからないだろうさ。……人は、一人で強くなれるわけではない。大切な仲間や、大切な人たちがいることで……ようやく辿り着けるんだ」
独りでは強くなれない。強くなったとしても、それはまやかし。他の者を隷属させる、強圧的な力でしかない。そういう力は、簡単に崩れ去る。
「本当の強さだと? それは、俺が持っている力だ!」
「それは、偽りの力だ。そんなものもろい。たとえ、一時支配できるものだとしても、すぐにほころびが生じてしまうさ!」
「ほざけ! 何が大切で、何が大事なのか……俺のほうが、わかっている! 俺は、一万年も――」
「いや、わかっていない!!」
僕はリュングヴィよりも大きな声を張った。
「一万年も長い間、魂だけの存在となっても生き続けていたのに、お前はまったく理解していない!」
そう言うと、奴は歯ぎしりをしながら僕を睨みつけていた。
「……己が生きている理由も、生きている価値さえも見出せないお前が、偉そうなことをほざくな!!」
「生きている理由? 価値? そんなものを求めて、どうするっていうんだ! なぜ、理由や価値を欲しがる? それが無ければ、生きていけねぇのかよ!!」
「全ての生命は、それらを欲している! その答えが欲しいのだ! お前だって、そうだろう!? でなければ、こんなにも争わない!!」
「……たしかに、最初はそうだったさ。けど、改めて気付いたよ。実際には、生きる上に理由や価値なんて、必要無い! 生きているだけで、ただ、生きているだけでいい。それだけで、笑っていられる」
漠然としていると言われるだろう。けれど、そうなんだよ、きっと。
ただ、生きているだけでいい。そこにいるだけでいいんだ。具体的な理由も価値も、必要無い。
生きる。そこに全てがある。
胸に手を当てた僕を、奴は鼻で笑った。
「生きているだけでいいだと? そんなもの、答えになっていないじゃないか! いいか? 運命を受け入れ、その生きる理由、価値を求め歩いてゆくことこそが! 生命を生命たらしめることなのだ! お前のように運命を受け入れず、生命が求めるものを求めない者は、生きている意味なぞ無い!!」
リュングヴィはティルフィングを握る手に力を入れ、僕に向かってさっきの巨大な衝撃波を繰り出してきた。
「朽ち果てろ!!」
衝撃波が、唸りを上げて襲い掛かってくる。
僕は剣を携え、目を瞑った。
すると、衝撃波は僕に当たる直前で、光の塵を巻き起こしながら、音を立てて消えていった。
「な、何だと!?」
リュングヴィは驚いている。再び、あの衝撃波を繰り出す。僕は何もせず、目を瞑ったままだった。
同じように、衝撃波は光の塵となって消えた。
「ば……馬鹿な!!」
「……憎しみや欲望だけの剣では、僕を倒せない」
確信できる。
「陰を含んだ想いは、陽を司る想いには勝てない」
光の想いが、僕に呼びかける。どんなに負けそうでも、屈服しようと……抗うんだ。
「……貴様ぁぁ―――!!」
リュングヴィは叫び声を上げながら、僕の方へと向かって来た。僕も同じように、ダッシュした。
2人のティルフィングが、目の前でぶつかった。
「ぬぅ……!!」
軽い。もう、あの重さは感じない。
「……還る時が来たんだ、リュングヴィ」
「何ぃ!?」
苦しそうな顔をするリュングヴィ。僕は小さく顔を振った。
「もうお前は、負の感情に感化されることもない。神々の呪縛に囚われ、この聖域で苦しむこともない!!」
僕は体を横に回転した。すると、リュングヴィの剣が下に叩き降ろされる。僕はこのチャンスを、逃しはしない。
「!!!」
リュングヴィの双眸が、大きく見開いている。
「僕たちは、好き勝手に生きていくんだよ!!!」
僕は剣を右から左へ、そして目にも止まらぬスピードで切り抜けた。
感触は――あった。
後ろを見なくても、わかる。すべてを凌駕しようとしていた、一つの生命体が、今ここに、消え去ろうとしている。
「がぁぁあぁああぁあぁ――!!」
断末魔の叫び声を上げながら、リュングヴィはもだえ苦しんでいる。
僕はゆっくりと、振り向いた。そこには、切り傷から光の水しぶきを上げている、リュングヴィの姿があった。
「お……おのれぇぇえぇええ!! この、俺が……調停者が!! 貴様ごときにぃぃ!!!!」
怨嗟の声のように叫びながら、奴は天を仰いでいる。
「……お前は、〈調停者〉なんかじゃない。お前は……破壊衝動に取り付かれた、哀れな生命だ」
「ぐっ………セ、セヴェスーー!!」
巨大な咆哮を轟かせながら、リュングヴィの体はどんどん光の塵と化してゆく。そして、上空に舞い上がり、キラキラ輝きながら、この聖域に降り注いでゆく。
全てが光の塵となり、リュングヴィの姿は消えた。
「……さようなら」
なぜか、その言葉が出てきた。理由はわからない。誰に向けたのかもわからない。もしかしたら、僕の中の〈何かが〉、そう言ったのかもしれない。
哀れな〈調停者〉の儚き魂は、この空間から消え去った。いや、物質世界からも消え去った。…………もう、彷徨い続けることも無い。
「……カイン……これで、いいんだよな……」
僕は〈彼〉に言った。聴こえているかどうかは分からないけれど……
僕は、目を瞑った。光の主の声が聴こえる。それは、いつかの男性の声だった。
――光は、あなたと共に――
光の結晶球が円を描きながら、僕の掌へ集まってくるのを感じた。僕はゆっくりと、目を開いた。
僕は、ティルフィングを掲げた。ティルフィングはその刀身から青い光を、この空間に放ち始めた。
それに呼応するかのように、言霊が届く。
――あらゆる魂を、命を癒す〈創造〉の歌声を――
――調停者よ、あなたと共に――
光はティルフィングに切っ先に集結し、大きな光を放ち、消えた。
――さあ、真の器を持つ、調停者よ――
僕は上空を見上げた。そして、気が付いた。この空間を覆っていたあの〈夜空〉が、きれいな〈青空〉へと変わっていたことに。
果てなど見えない、永遠のような青空。
――己の道を、己の道で切り開け――
――バルドルを支配せし者よ――
僕はうなずき、足を進ませた。そして、光となり、この空間から消えた。
螺旋階段を下り、インドラのアジトと思われる場所に出た。すると、中央のテーブルに、光の柱が出現した。その中から、一人の人間が出て来た。
「あ……」
緑と白の模様があるローブを羽織った男性……クロノスさんだ。
「どうやら、うまくいったようだね」
クロノスさんは微笑んだ。僕もそれにつられ、軽く微笑んだ。
「運命に抗い、そして見事、君は己の道を切り拓いた」
「…………」
少し間を空け、クロノスさんは言った。
「リュングヴィのことを、今はどう思う?」
「リュングヴィ……ですか?」
クロノスさんは小さくうなずいた。
「かつて世界を支配した人間の哀しみ、怒り、憎しみ……その全てが凝縮されたものが、奴だった」
「……調停者とは、星に望まれた者のことなんですか?」
クロノスさんは少しだけ、目線をそらした。遠い目をして、宮殿の深部を見ている。
「どうかな……。実際、私にもわからない。ただ、人が持ちえる力を超えるものを持ち、星の未来を変える可能性を秘めた者のことではあるだろう。……事実、リュングヴィはある未来を変えた、唯一の人間だからな……」
「星の未来を変える……か」
ヒトには本来許されていない、超越的な力。どうしてそんな人間が、レイディアントに存在するんだろう、
「……カインと解離した〈怒り〉……あやつも、星に踊らされた命の一つなのだろうな」
「…………」
「話したり、戦ったりすることで彼のことを……少しは理解できたんじゃないのかな?」
少しだけ微笑みながら、クロノスさんは訊ねた。
「……そう、ですね。あらゆる憎しみと喪失を味わい、カインは世界を憎むしかなかった。自分を生み出したこの星を怨むしかなかった」
完璧にはわからない。僕は彼じゃないから。……でも、それでも、少しだけわかるような気がする。
「……負の感情だけが解離して生まれた彼は……それだけに身を任せるしかなかった。それだけが、彼の存在意義だったのだから……」
破壊して、憎んで……それだけしか、彼は彼として保つことができなかったんだ。
「その中で、求めるしかなかった。……自分にはできなかった全てを滅ぼす力を手に入れて、果てしない夢を見続けていたんですよね……」
純粋に力を求め、戦い、あいつは消えた。もう、あの無限回帰の中で彷徨うことも無く、2つの世界の狭間で叫ぶことも無い。彼は、きっと新たな生命として、生まれ変われるはずだ。
「……彼なりの〈夢〉か……」
クロノスさんは目を瞑り、小さく息を吐いた。
「あらゆる生命を超越し、あらゆるものを滅ぼそうとした……。もしかしたら、彼は自分が〈負の感情〉だけで構成されているがために、自然とそれを受けることのない〈無〉へ回帰しようとしていたのかもしれないな……。今はもう、知る術はないがな……」
クロノスさんは天井を仰いだ。その顔には、どこか切なさが浮かんでいた。
「…………さて、新たなる〈調停者〉……創造の力〈バルドル〉を支配せし、唯一の存在よ。お前の弟、樹は〈闇の調停者〉として、己の野望を遂げようと動いている」
彼は僕に視線を向けた。紺碧の瞳……それは、全てを見透かしているようにも感じる。
「樹は君と対をなす存在。負の感情だけに支配されない、特別な調停者……」
僕が調停者の力を手にしたからと言って、簡単にどうにかなることではない。クロノスさんは、そう言っているような気がする。
「彼との戦いは、避けれぬ未来だ。それは決定付けられたというものではなく、この星が見る〈歴史〉そのものだ」
「歴史……?」
クロノスさんは瞬きをせず、僕を見つめた。
「今こそ……もう一度、問おう。〈真の調停者〉よ。君が望むもの、そしてしなければならないことを、私に聴かせてくれ」
「……………」
僕は、心の中にある言葉を放った。
「難しいことなんて、言えません。けど……」
たぶん、誰もが知ってる答えなんだよな。本当は。
「ただ、みんなが生きていけれるようにしたい。笑顔を絶やさないように」
言葉としては、きっと短いだろう。けれど、多くの言葉はいらない。これだけで、今の僕がしたいこと、そして望むものが凝縮されているんだ。
クロノスさんはそれを聞くと、ゆっくりと目を瞑った。
「……ならば、もう何も言うまい。君は、もう自分自身を手に入れたのだから……」
自分自身。欲望に取り付かれた、自分の分身。
何かを憎み、妬み、蔑み、僻み……。そして、果ての無い欲を光らせ、無駄な苦しみを生み出す。
ステファンを殺そうと、憎しみの中で暴走した自分。
自分を想い続ける海に対しての、穢れた欲望。
あれらは、すべて自分だ。リュングヴィではない、自分だ。リュングヴィと戦うのは、自分自身と戦うこと。極限まで追い求める心を、僕は食い止めなければならなかった。どうにか、終わらせなければならなかった。どんなことをしても、どんなに傷ついても。
そして、僕はようやく――自分になった。
〈空〉という、一人の人間になれたような気がする。いや、確信だ。
「だが、忘れるな。君の中にある聖魔の神剣は、気の心に敏感に反応する。君がリュングヴィを倒したとはいえ、君が〈闇〉に支配されれば、聖魔の神剣は〈邪剣〉として、殺人の道具となってしまう。それを、肝に銘じておけ」
厳しい言葉が出る。でも、たしかにそうだ。安心していられない。
「さあ、行きたまえ。……君の、大切な仲間たちが待っている」
僕はうなずき、足を進ませた。それと同時に、クロノスさんは光を放ちながら、どこかへと消えていった。
宮殿の外では、みんなが待っていた。
「……ソラさん!!」
アンナが泣きながら、駆けつけて来た。その笑顔が、その声が、僕を呼んでいてくれた。暗い、時の底で。
「よく、帰って来たな。無事で何よりだ」
ヴァルバは微笑みながら言った。
「本当にそう思ってるのかよ?」
僕はなぜか笑ってしまった。
「こんな時に、ウソなんか言うやつがいるかってんだ」
「……それもそうだな」
彼は少し照れくさそうに、頭をかいていた。
「まったく……女の子を泣かせるやつは最低よ?」
リサは顔を俯かせて泣いているアンナを撫でながら言った。
「……かもな。でも、やるべきことはやってきたよ。……リサ」
そう言うと、その言葉を確信していたかのように、彼女はあまり見せたことの無い、穏やかな笑顔を見せた。
「……うん。信じてたよ、空……」
そして、彼女は再びアンナを撫で始めた。
「ホラ、アンナ。もう泣くなってば。空が困ってるでしょ?」
僕の傍で、アンナが泣きじゃくっている。顔を下に向け、顔をボロボロにしている。
「も、もう……帰って来ないんじゃ、ない……かと、思って………」
「ハハ、なーに言ってんだよ。ちゃんと、僕は帰ってきただろ?」
アンナは顔を上げ、僕の顔を見つめ、再び泣き出してしまった。
みんなの声が、言ってくれた言葉が、怨念と怨嗟が入り混じる「あそこ」の中から、僕を救い出してくれた。
感謝しても、感謝し切れない。
「空さん……」
少し離れたところに、空が立ち尽くしていた。
「…………」
「あの……」
「……ただいま」
ただいま。
その言葉だけしか、出てこなかった。空は少し戸惑いながらも、すぐに笑顔を見せてくれた。
「……お帰りなさい」
遠い記憶と運命の狭間で、人は多くの人と出逢い、喜び、別れ、悲しみ……。
僕の中に息衝いているたくさんの人たちの声が聴こえた。
永遠だと感じた愛を信じ、愛を貫き、幻となった未来を夢見た者。
遥か太古の夢を紡ごうと、あらゆるものを膝下に置きながら、朽ち果てた者。
運命に弄ばれ、虚無を知り、愛を知り、憎しみを知り……己を殺した者。
愛おしさと、哀しみのオルゴールが鳴り響いていた。