3章:緑の世界 揺らめく記憶の中
白い光の中。前を見ても、後ろを見ても白。世界のすべてが白で統一されているかのようだ。目を閉じても、開けても白い。まぶたが無いみたいだ。
フワフワとした、浮かんでいるような変な感覚。プールで浮かんでいるみたいではなく、上空を浮かんでいる感覚。そもそも空の浮かんだことなどないのに、どうしてそう感じるのかはわからないが、直感的にそう例えるのが最も近いのではないかと思う。
しばらくして、霧が晴れていくかのように、白い景色が少しずつ消え始めた。徐々に見え始めた風景。すると、自分が着地したような感触があった。地面を踏んでいる感触だ。
足元がはっきりと見え始めた。そこには、青々とした草原。視線を徐々に上げていくと、その緑の雑草が広がっているのがわかった。遠くには、薄っすらと山々が見える。上空には、青っぽい空も広がっているのがわかる。白い霧は半分程度晴れたが、それ以上晴れることは無かった。
ここは一体……?
まさか、夢の中か? それにしては、あまりにも現実的だ。大気が肌に触れる。微風が髪をなでる。自分が呼吸しているのもわかるし、立っているのもわかる。夢の中だったら、これすらわからないはずだ。
「夢だと思う?」
後ろから、女性の声がした。恐る恐る、僕は後ろへ振り向いた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。空たちと同じくらいの年齢だろうか? 長く、絹糸のような金色の髪を後ろで結っている、端正な顔立ちの少女。結っていても、髪はかなり長い。そして、ほっそりとした体型。服装は夏場の小学生みたいな格好だ。
「残念ながら、夢じゃない。わかる?」
彼女は微笑した。僕を馬鹿にしているかのように、手を振っていた。
「……あんた、誰?」
僕の第一声は、それだけ。
「私はリサ。よろしくね、空」
今度は、ニコッと微笑んだ。それは凡そ、同年代の女性がするようなそれではなく、人の心を受け止められる――それこそ“母親”のような存在しかできないようなものだった。
なぜ、そう感じたのだろう。年齢は僕と変わらないような気がするのに。
「な、なんで僕の名前を?」
僕は小さな声で質問した。どこだかわからない恐怖心のためか、びくびくしている。
「それはまぁ、天のお告げ? みたいな」
アハッと、リサは笑った。
「…………」
「嘘よ。冗談だって」
いや、冗談って言われても……。変なことを彼女が言ったためか、ほんの少しだけ彼女に対する警戒心が解けた。
「それにしても、知らない間にこんな所にいるってのに……あんた、やけに冷静だね。普通の人間なら、慌てふためくはずなのにさ」
「ん?」
たしかにそうだ。なんで、僕は冷静なんだ?
「……ここは一体どこなんだ? なんで、僕はこんな所にいるんだ? 空たちは?」
「あんたね、質問を何個も同時に言うんじゃないよ」
リサは小さくため息をついた。
「どこかって質問。答えは、“別世界”」
「別世界?」
リサはうなずいた。
「2つの世界の狭間――と言った方が正しいかもね」
「はぁ? 何を言ってんだ?」
世界の狭間だのなんだの、意味が分からない。いや、そもそも今の状況が意味不明である。
「まぁつまり、ここはあんたのいた世界とは違う世界だってことさ」
「違う世界?」
「そう。あんたのいた世界は“ガイア”。そして、もう一つの世界を“レイディアント”って言うの」
そんなの、聞いたことも無いんだが。
「私たち、レイディアントの人間がそう呼んでるの。まぁ、ほとんどの人はガイアがあるなんて信じちゃいないけど」
「……僕がいた世界がガイアで、ここがレイディアント……ってこと?」
と、僕は恐る恐る訪ねる。しかし、彼女は首を振った。
「ううん。ここは、その2つの世界の間に挟まれている別の次元」
「……ごめん、意味が分からないんだけど」
じゃあここはどこなんだっていう話だ。そんな僕に対し、彼女はどうもめんどくさそうにため息を漏らし、頬を指先でかいていた、
「正直なところ、ここはそんなに大したところでもないの。説明したって、たぶんいまいち要領は掴めないでしょ」
「だからって説明を省こうとするのは、どうかと思うんだけど……」
「……広い意味で、別世界よ。ここもね。はい、次」
なんという大雑把な説明だ。何もわからないぞ……。
「じゃあ、僕はどうしてこんな場所に?」
そう訊ねると、リサは再び微笑んだ。
「もちろん、求められているから。私だけじゃない、多くの意思に。……あなたは、選ばれし者。そして、時は満ち足りた。だから、あなたはここへ吸い寄せられた」
まさか……。
「お前か!? 僕の頭の奥で何度も囁いていたのは!」
僕は一歩ほど彼女に詰め寄り、言った。だが、彼女はキョトンとしている。
「頭の奥? よくわからないけど……あんたと話すのは、これが初めてよ?」
「え?」
じゃあ、なんなんだ? ……冷静になって考えてみれば、たしかに彼女の声とは違う。同じなのは“女性”の声であるということだけだ。
「あなたは、必要とされている。ガイアではなく、レイディアントにね」
「レイディアントに、必要とされ……? な、なんだよそれ。わけわかんねぇよ」
「でしょうね」
うん、と彼女は頷く。僕の混乱している様とは違い、そのどこか他人事のような物言いに腹が立ってしまった。
「でしょうねって……なんだよそれ! お前がここへ連れてきたんだろ!?」
僕は思わず、声を荒げる。だが、彼女は全く動じずに僕を見ている。
「私はたしかに、あなたを求めていた。だけど、あなたがここへ来るということは“偶然”ではなく、”必然”なのよ」
「何が必然だよ。それじゃ何の回答にもなってないじゃんかよ」
僕は大げさに、手を広げて言った。
「それを“運命”って言うんじゃない? ずっと昔から、求められているのよ。他の誰でもない――空、あなたがね」
「……僕が?」
リサな小さく頷く。
「あなたは特別なのよ。どんな人よりも」
彼女は僕の瞳を見つめる。だから、自然と彼女の強い意志が入り込んでくるのがわかる。エメラルドグリーンの双眸が、そう語りかけてくる。
「誰よりも、特別。あなたは生まれながらにして、唯一無二の存在」
「……いやいや、大げさだろ。なんだよ、それ」
僕は思わず、馬鹿らしくなって笑ってしまった。どこぞのゲームであるまいし。
「信じる、信じないはあなた次第だけど……」
リサはそう言いながら、自身の顎に手を添えた。
「今、あなたは現実離れしている場所にいる。それを考えれば、私が言っていることが本当なのか嘘なのかもわかると思うけど?」
たしかに、そうかもしれない。それでも、彼女の言っていることを真に受けるほど僕は単純ではない。
「わかるよ。いきなりこんなことを言われて信じる人なんかいないって、私が逆の立場ならそう思うよ。でも――」
彼女は僕に歩み寄り、僕の胸に――鼓動が感じ取れる場所に、自身の掌を合わせた。普通であれば、避けてしまうと思う。だけど、自然と避けることが出来なかった。
「私のいる世界も、実在している。そして、私自身がここにいる。あなたが認めようと、認めまいと」
「…………」
真っ直ぐな瞳が、僕を追い詰めているようだった。まるで“逃げるな”と言わんばかりに。思わず、僕は生唾を飲み込んでしまった。彼女はそんな僕の様子を見て、小さく微笑んだ。そして手を離し、一歩ほど後ろへ下がった。彼女の長い金色の髪が、ふわりと浮かぶ。
「きっと、また会うことになるよ。その時は……よろしくね」
再び、微笑む彼女。
「私が言いたいのはそれだけ」
リサは後ろへ振り向き、そう言った。
「さて、帰りたいんだったよね」
「え、帰してくれるのか?」
「え、帰りたいんでしょ?」
「……まぁ、そうだけど」
なーんか調子狂うなぁ。思わず、僕はしかめっ面になってしまった。
「でも、どうやって帰るんだ?」
素朴な疑問をぶつける。
「とりあえず、目を閉じて、深呼吸をして」
「……え?」
僕は首を傾げた。そんな簡単でいいのだろうか? そんな僕を見て、リサはどこかめんどくさそうにため息を漏らしていた。
「いいから、言われたとおりにする!」
怒気を孕んでいたため、僕はすぐさまに言われたとおりのことをした。
「絶対に目を開けちゃダメよ? そしたら、失敗するかもしれないから」
「失敗したらどうなるんだ?」
「知りたい?」
「……いや、やめとく」
「賢明ね」
クスッと、リサの笑った声が聴こえる。顔は見えないけど、たぶん笑顔なのだろう。
「準備は良い?」
準備も何も、目を閉じただけなんだけど。とりあえず、僕はうなずいた。
「じゃあ、行くよ」
僕はつばを飲み込んだ。なぜだか緊張する。
「――霊界にて彷徨いし次元の歪み。我が願いを聞き入れ、虚空にその扉を映し出さん……。我をその手許へと導き給え。ケリュ・ヴェル・ゼスナー……天界への梯子“ビフレスト”」
彼女がそう言い放った途端、僕の足元から風が吹き上がり始めた。それに押されるかのように、僕の体が浮かんでいくのがわかる。ゆっくり、ゆっくりと上昇していく。目を開けて、その様子を見てみたい。しかし、目を開けてはならない。その好奇心と恐怖心が交差している。
「またね、空。もう一人の空ちゃんを、大事にしてあげなさいよ」
リサは陽気な声で言った。
「! お前、なんで――」
なんで空のことを知っているのかを訊こうとした瞬間、僕がそこからいなくなった感じがした。すると、まぶたの上から感じていた光が消え、自分が暗闇にいるのがわかった。ここへ来る時と、同じだ。
自分が無重力の中にいるような感覚だ。フワフワと浮かび、くるくる回っている。まぶたを開けたいが、怖い。念のため、ガイアに辿り着くまで閉じておかないといけない。
「……う……」
まぶたの上から、光が差し込む。さっきまで真っ暗なところにいたせいか、まぶたを閉じていてもまぶしい。
いつの間にか、僕は仰向けになっていた。目を閉じていても、感触でわかる。さっきまでのフワフワした感覚がなくなっているからだ。もうガイアへ到着したのだと思い、僕はゆっくりとまぶたを開いた。
白い天井。見覚えのある光景――そこは、またもや病院だった。
隔離された場所特有の、清潔感溢れる空気が漂っている。あの嫌いな“辛気臭い”香りだ。僕は上体を起こし、辺りを見渡した。僕がいるベッドの隣にあるイスに、誰かが座っていた。
――空と海。
2人は制服姿で、座ったまま寝ている。小さな寝息をたて、肩と肩を寄せ合っていた。2人の目の下には、涙を流した痕と、寝不足を象徴するくまがあった。彼女たちが制服姿と言うことは、あれから何日か経っているということだ。
外を見てみると、すでに黄昏時だった。空の果ては茜色に染まり、夕闇が世界を覆い始めていた。
あれは――夢ではない。現実だ。僕は一人だけ扉の奥へと吸い込まれ、別世界へ連れて行かれたんだ。
澄んだ空気。そよぐ風。深緑の草原に、霧がかった風景。そして……金髪の少女。
――あなたが認めようと、認めまいと――
彼女の言葉が、脳裏に反響する。認めたくなくても、僕は実際にあそこにいたのだ。夢ではない――なぜだか、そう言い切れるだけの自信があった。あれを夢だというには、感触がありすぎるからだ。
――疑うのか――?
一瞬、僕の視界が点滅しる。
また変な声が聴こえた。亀裂が走るような痛みが頭の中に響く。一瞬だけだったのが幸いだが、なんなんだ?
僕は、一体どうなってしまったってんだ……?
「ん……」
空は目をこすりながら、うなだれていた顔を起こした。まだ目を開けておらず、眠たそうだ。
「あれ……?」
彼女は虚ろな目で、僕を見つめていた。そうやって見つめられると、体が硬直してしまう。
「……よっ」
僕はぎこちなく、手を上げた。
「そ、ら……?」
空は疑問符を付け、僕の名前を呼んだ。
「気が付いた――の?」
「え? あ、ああ」
そう言うと、空は小さく震え始めた。瞳に、溢れんばかりの涙を溜めて。
「よ……よかった……!」
もう抑えられないかのように、その雫は零れ落ち始めていった。
「……んん……」
その時、海も動き始めた。目をこすりながら。そして、ぼんやりとした双眸で僕を見つけると、徐々に事態を飲み込み始め、目を見開いていく。
「空……目が覚めたの!?」
「あ、ああ」
その瞬間、彼女は僕に飛びついてきた。
海は僕に飛びついてきた。
「うおっ! お、おい、海――」
「空……空ぁ――!!」
海は僕を抱きしめながら、大声で泣き始めた。それが、どれほど僕を心配させていたのかということを理解させる。強張っていた体の力は抜け、僕は不思議と彼女の頭をなでていた。
「心配かけて、ごめんな。海」
小さな声で、彼女に聞こえるくらいでしか言えなかった。彼女がこんなにも泣いていると……僕はとんでもないことをしてしまったのだと感じ、罪悪感に囚われた。
「空、空……!」
泣き声なのかどうかもわからない声で、海は僕の名前を呼ぶ。僕はただ、彼女の背中をさすったり、頭に触れたりすることでしか応えられなかった。
「…………」
この日から、僕を取り巻く状況が一変してくる。
リサの言っていた、あの言葉。
――きっと、また会うことになるよ――
この時はまだ、そうは思っていなかった。だけど、それが何を意味していたのか――僕は、気付くことになる。
運命だと言えば、それまでなのかもしれない。