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BLUE・STORY  作者: 森田しょう
◆3部:記憶を求めて
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36章:狂った希望 羨望という名の執着「2」




「……もう一つの世界って、どんな場所なの?」


 夜。僕はおじさんとおばさんに挨拶を済まし(二人とも目が飛び出るほど驚いていた。すでに数度目のことだったので、僕としては慣れてしまった)、海の部屋でレイディアントの話を彼女にしていた。

「しいて言うなら……中世ヨーロッパ風かな。魔法もあるから、簡単に言えばRPGゲームみたいな世界かな」

「こ、子供が食いつきそうだね」

 ちょっと呆れた顔で、海は言った。

「ハハ、そうだな。……けど、実際の魔法はゲームみたいな生半可なものじゃない。実際に見た後だと、二次元のものがどれだけ現実離れしていているのかわかるよ。本当の魔法は、ただの人殺しだけに使われるものばかりなんだし」

「……………」

 あんなもの、誰が考えついたんだろうかって思う。たしかに、戦乱の時代には人殺しの道具も必要になるだろう。けど、何も自然界のものを操るような〈兵器〉を開発しなくてもいいのに。……使役させられている自然界のエネルギーが勿体無いとしか思えない。

「けど、そうじゃない部分もある」

「例えば?」

「傷を癒したり、日常生活の中で活用されることさ。ある町では、街灯の役割を担ったものもあったし、ある都市では巨大な防壁として使用してたところもあったんだ」

 まぁ、実際のところはエレメンタルを利用した結晶体を用いたものだが。

「魔法……か。世界には、本当に謎が多いんだね……」

 海はベッドの上で大の字になった。

「……世界は解明されきったばかりだと思ってたのに、私たちの知らないところで、私たちの知らない別の世界が生きていた。当然、そこでは私たちと同じような人たちが住んでいて……危機にさらされていた。どうして、大事なことほど気付かないんだろう……人間って……」

 天井を見つめる彼女の瞳は、空を彷彿とさせるものだった。


「普通なんだよ、それが」


「……普通?」

 彼女は上半身を起こし、僕に視線を向けた。

「人間一人が一生で知り得ることってのは、限度がある。どれほど世界のあらゆることを知りたいと思っても、たかが80年ちょいの人生で知り得るようなものじゃない。大抵の人は、本当に大事なことを知らないまま死んで行くんだろうよ」

「本当に大事なもの……」

 そう言う自分でさえも、本当に大切なのは何なのか、わかっていないのかもしれない。いや、知っていたとしても、それはあくまで自分だけの〈答え〉であり、真実。人の数だけ、真実があるのかもしれないのだから。


「……空にとって、大事なものって……何?」


「なんだよ? 藪から棒に」

「……訊いてみたくてさ」

 少しはにかんだ彼女の顔は、どこかリサを連想させるものだった。……なぜかわからないけれど……。

「そう、だな……」

 僕は立ち上がり、海の机に腰掛けた。

「……やっぱり、お姉ちゃん?」

「…………」

 彼女の方に目をやると、体を起していた海は目をそらしていた。


「空も、大事なものの一つだと思う。それと同時に、お前も大事なものの一つだよ」


「…………」

「僕はそういった大事な……人とかに優劣は付けたくないんだよ」

 優劣をつけたって、なんになる。ただの自己満足とかにしか過ぎない。そもそも、そういったものに優劣をつけること自体がおかしいんだ。

 大切なものは大切。大事なものは大事。……それだけだと思うけどな。

「僕にとっては、自分の人生の中で支えて来てくれた人たち全員が大事なもんだよ。空は空。海は海。それぞれに対する感情は違うかもしれないけど、大事にしようとする気持ちは同じだよ。……そこんとこ、理解してくんないかな」

 僕はあまりイラついた感情を出さないよう、静かな声で言った。毎度毎度、空と海はどうしても……なんつーか、同じようなことを言う。あれほど言うなっつってんのに……。まぁ、そういう性格だからしょうがないのかもしれないが。


「……ごめん、なさい……」


 海は顔を俯かせていた。……はぁ……まったく。

「お前の……いや、お前たちの悪い癖だな、そういうとこ」

 僕は彼女の傍に座った。

「少しは信じてほしいな。僕はお前たちを、何よりも大事に思ってきた。もちろん、これからも」

 何にも代えられない大切な二人。それは間違いないこと。

「……お前は、どうせ〈お姉ちゃんが連れ去られたから、空はなんとしても行くんだ〉みたいなことを、心のどこかで思ってんだろ?」

「そ、それは………!」

 海は顔を上げた。瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。それを見ればわかる。図星を突かれたってことが。

「いいか? 僕はもし、お前が連れ去られていたとしても、助けに行く。誰に止められようと、大好きな空に止められようと助けに行くだろうさ」

「……空……」

 泣くのを必死に我慢しているのか、彼女は唇を強く閉ざしていた。

「だから、さ。もうちっと、僕を信用してくれよ。な?」

 僕がそう微笑みかけると、沈んだような表情だった彼女の顔が、ほのかに和らいだように感じた。


 ……いつもの空だ。


 たぶん、そんな風に感じてくれたのかもしれない。

「……ごめんね、馬鹿なこと訊いたりして……」

「そーいうところも、悪い癖だな」

「え……えっ?」

「すぐ自虐的になる。そーいうところ、空も海も同じだよな」

 僕は彼女のおでこに指を立て、強く押した。彼女の小さな頭が揺らいだ。

「なっ……何すんのよ!」

 すぐに海は僕の指をはたき、ほっぺたをつねって来た。

「いでででで!!」

「この……馬鹿空!」

 そして、海はそっぽを向いてしまった。

「……ったく、何度も肉体的制裁をしやがって……」

「ふんっ」

「でも、まっ……海らしいけどな」

「…………」

 僕はほほをさすりながら言った。海は僕から顔を隠しているが、どうせ赤くなってんだろうな。

「………ねぇ、どれくらいかかるの?」

 海はそっぽをむきながら言った。

「さぁな……半年近くかかって、まだ奴らの尻尾辺りしかつかめていない気がするんだよな……。条約締結まで考えると、あと半年近くかかるかもしれない」

「そんなに……」

 海はしゅんとしてしまった。そりゃそうだ。あと半年も一人でいないと思うと、がんばる気力を失ってしまうものだ。

「……なんにしても、空をお前の所に連れて戻すから」

「…………」

 海は小さくうなずいた。どうも、力がない。

 彼女はそれを払拭するかのように、あるいは自分を奮い立たせるように、小さく顔を振った。


「そ、そうだ。紅茶入れあげるね」


 健気に、彼女は笑顔を向けた。

「いや、別にいいよ」

「いいからいいから。前に、お父さんがおいしい紅茶を持って帰ってくれたの」

 海は立ち上がり、部屋を出て行こうとした。すると、ドジなのか天然なのか、海の体がぐらりと倒れ始めた。


「ちょっ……!」


 僕はとっさに、海の体を抱えた。しかし、そのまま僕と海は床に倒れてしまった。海は仰向けになり、僕がその上に倒れこんだ。

「いってぇ……ったく、お前な……」

「ご、ごめん。長いこと座ってたもんだから、足がすくんじゃって……」

 海は思わず、苦笑していた。

「なんだよ、まったく……」

 僕は自分が海の上にいることに気付いた。同じ瞬間、海も気付いたようだった。海は少し顔を赤くし、何も言わなくなってしまった。



「空……」 



挿絵(By みてみん)



 直感した。海は、自分が何をされてもいいと思っているはず。

 何をされても……? それは……

 海は目を瞑った。ほほを赤くして。



 ――望むままにすればいいだろ――?



 体の奥で、小さな「メーデー」が鳴る。心が、肉体が畏れている。 

 この、声は……!


 ――耳をすませてみろ、お前の奥底の言葉を――


 お前は……あの時の……!


 ――いちいち思い出す必要性などない――

 ――さぁ、お前自身の言葉に従え――


 まだガイアにいた頃……僕の頭痛とともに襲ってきた謎の声。優しい女性の声とは違い、暗い……暗い深淵の声。そして、ルテティアで僕を襲った……あの声!

 お前……誰だ!? 誰なんだ!!


 ――おいおい、俺はお前だよ。それ以外のなんだって言うんだ――?


 違う! お前は僕じゃない!


 ――どうして、そう言い切れる――?


 だって……今しゃべっている僕が僕だ! お前がしゃべっているようなセリフなんて考えていない!


 ――ハハ、屁理屈だな――

 ――ただ単に、お前が聴こうとしていないだけさ――


 なんだと……?


 ――俺は何度もお前を呼んだ――

 ――しかし、いずれもお前への直接アクセスになるものではなかったが――


 何を……言ってる……?


「空? どうしたの?」


 僕はハッとした。目の前で、海の頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。


 ――お前は自分の意思に反するのか――?


 さっきから何だ! 僕に、何の用だ!?


 ――いちいち吠えるな――

 ――さぁ、その女を犯せ――


「なっ……何言ってんだ!? てめぇ!!」

 僕は思わず、天井に向けて声を放った。海の体が、驚きで一瞬動く。

「ど、どうしたの?」

「海……お前には、なんにも聴こえないのか?」

 海は頭をかしげた。

「……? 別に、何も聴こえないけど……」

 海には聞こえていない……ということは、やはり……


 ――そう、お前という存在にだけ聴こえる声さ――


 お前……一体何のつもりだ!? なぜ僕に語りかけてくる!!?


 ――お前が自分の意思に反しようとしているからだ――

 ――俺は、お前自身が望むことを告げているだけだぞ――


「僕自身が望むこと、だと……?」

 なんだよ、それ。わけわかんねぇよ……!

「ねぇ、どうしたの?」

 海は困惑していた。だが、僕はそれに気がつかず、天井を睨みつけていた。


 ――お前が望むもの――

 ――それは、お前を満たしてくれる存在さ――


 一体、なんのことだ……?


 ――理解力に乏しいようだな――


 その声は、僕を鼻で笑ったような気がした。


 ――そこの女は、お前になら、何をされてもいいと思っている――

 ――それだけ、お前にほれ込んでいる。なぜ、拒む必要がある――?


 お前に、そんなことを言う権利はない! 僕は……そんなことなんて望んじゃいない!!


 ――違うな。少なくとも、その女は望んでいる――

 ――さっきの表情(かお)、見てなかったのか――?

 ――あれは、待っている顔だ――


 んなわけないだろ! 海も……僕も、そんなこと望んでいない!!


 ――いい加減、素直になれよ――

 ――お前が求めている女は、助け出せるかどうかわからない――

 ――いや、もう生きているかどうかもさえわからないのだぞ――?


 どうしてそう断言できる! 空は……生きてる!!


 ――貴様こそ、なぜそう断言できる――?

 ――確証を得たのか――?


 不幸な結末を想像するより、希望のある未来を想像したいからに決まっているじゃないか!! じゃないと、僕は……!!


 ――ククク、くだらんな――


 くだらないだと!?


 ――非現実的なんだよ、お前は――

 ――生死が定かじゃない女より、目の前にいる女にしたらどうだ――?


 黙れ! 僕は、空を愛してる。それは偽りようのない真実だ!!


 ――違うな。貴様は、ただそうだと思い込んでいるに過ぎない――


 僕には確かな記憶がある! あいつと初めて会った時……僕はあいつに惚れたんだ!!


 ――なぜ、それが自分の〈正しい記憶〉だと思っているのだ――?

 ――なぜそれが、思い込みによる偽りの記憶ではないかと思わない――?


 てめぇ……!! 僕の記憶は、僕が都合のいいように作ったものだとでも言うのか!?


 ――そうかもしれないということだ――

 ――どちらにせよ、お前は望んでいる――

 ――今、この場にいもしない愛する女よりも――

 ――自分を純粋に愛してくれる女を、その手で抱くことを――


 違う!! それ以上言うな! それ以上……!!


 ――認めてしまったらどうだ――?

 ――これ以上、貴様の奥底にある〈言霊〉を無視することはできまい――


 黙れ……黙れ!!


 ――あの時、『俺』を縛り付けていた〈楔〉は引き裂かれた――

 ――古の時より紡がれし、忘却の怨嗟と砕け散った天使の歌声――

 ――貴様にも聴こえるのだろう――?


「空? 空?」

 僕を小さく揺らす彼女の手。世界が揺れる。ダメだ……ダメだ……!!


 ――さぁ、お前の手で穢せ――

 ――たとえお前に汚されようと、その女は受け入れられるさ――

 ――愛する人が、己の恋敵より先に自分を抱いてくれるのだから――


「違う、違う………! 僕は……僕は……!!」

「ねぇ? どうしたの? 空!?」

 海は必死に僕へ呼びかけている。僕は頭を抱えた。


 ――それ以上無理していても、すでに貴様の〈結界〉を破壊しているのだよ――

 ――お前の〈真の望み〉に、身を委ね――

 ――その女を犯せ――


 僕はそんなことはしない!


 ――するんだよ。それがお前の望んだことなのだから――


 しないつってんだろ!!!


 ――己の望みに従い、奴を穢せ――

 ――その手で、徹底的に――


「黙れぇぇ!!!!」

 僕は声を張り上げた。大声が、女性の部屋に響く。

「そ、空?」

「うるさいうるさいうるさい……!」

 僕は『奴』の声が聞こえないよう、耳をふさぎ、大きな声を撒き散らして聞こえないようにした。


 ――無駄だ。お前は俺。俺の声を妨げることなどできん――


 僕はお前なんかじゃない! いい加減にしろ!!


 ――カードの表と裏、鏡の内と外。それが、俺とお前だ――


 頭がガンガンする。まるで、酒を飲んで二日酔いになったようだ。

「ね、ねぇ、空? 大丈夫?」

 海の声が、何度も僕を呼びかける。


 ――本能に、欲望に従うことは悪いことじゃない――

 ――生命とは、そういう風にできているんだからな――


 僕は、そんな醜い欲望なんてものは抱いていない!!


 ――必ずしもそう言い切れるのか――?

 ――お前は、自分のこと全てを把握しているつもりか――?

 ――だとしたら、お笑い種だな――

 ――俺という存在さえ認識できないお前が、どうして己の欲望に反せよう――?


 黙れ……黙れ!!


 ――惰弱な貴様では、俺を抑えることは敵わないんだよ――


「空? 空?」


「うるせぇっつってんだろ!!」


「!!!」

 海は自分に言われたのだと思い、後ろへ下がった。

「ち、違うんだ、海。お前に言ったんじゃ……くっ!!」

 激痛が走る。頭の奥で、何かが……何かが……!!

 あまりの痛みに、僕はうずくまった。


 ――清流を流れる木の葉のように、己に従え――

 ――獣となってそいつを犯せばいい――


 僕は獣なんかじゃない!!


 ――どうして逃れる必要がある――?

 ――自らに従うことは、別におかしいことではない――


 自分に従うだと? 僕は、海を犯したいとは思っていない!!


 ――この世に存在する生命が、己の本能に従うことは普通なのだ――

 ――それに、俺がお前である以上、俺はお前の全てを知っているのだからな――


 全て……だと?


 ――だからこそ言えるのだ――

 ――その女を犯せと――


 違う! 僕は、僕は……!!

 やめろ……やめてくれ……!

 やめて……く、れぇぇ!!!



 ――永遠(とわ)の礎となれ――





 ――セヴェス――





 僕……は、誰…………?


 その瞬間、自分の何かが砕け散った。大切に、大切に秘密の宝箱の中に入れてあったガラス細工の宝石が、夜空に輝く星たちのように、小さく砕けてしまったかのようだ。

「そ、空……?」

 天井を見上げ、微動だにしない僕を彼女は見つめ、名を呼ぶ。

 すでに、僕は「空」でなくなっていたのに。


「!!?」


 僕は彼女をベッドに投げ飛ばし、仰向けにさせた。

「きゃっ……! そ、空!?」

 僕は彼女の手首を掴んだ。海は掴まれている手をほどこうと暴れるが、この時の僕の握力は自分でも信じられないほど強かった。

「ちょ、空! やめ……やめて……!!」

 海の言葉に耳を貸さず、僕は自分の手で、海が着ていた服を引きちぎった。

「や……やぁ!!」


 ――欲望に体を預けよ――


 奥底からの声が、どんどん近くなってゆく。

 海のブラジャーを外し、スカートを引きちぎった。彼女の小さな胸が、晒し出される。そして、僕は彼女の下着を力任せに引き裂く。

「空!? そこは……!!」

 海は言葉では拒んでいるものの、抵抗する力があまり感じられない。


 ――ハハハハハハ――

 ――ハァーハハハハ――!!


 笑い声が聞こえる。誰の笑い声だ? 自分か……?

 僕は海の股に手を入れた。彼女は僕の手を止めようとするが、無駄だった。

「そ、空……やめ…………あっ!」

 海の体が少しだけ反応する。電気が走ったかのように。

「や……あぁっ!!」

 さらに彼女の体が動く。



「そ、ら……」



 僕を呼ぶ声に反応し、僕は彼女の顔を見た。海は……震えながら少し涙を流していた。


 ほとばしる。小さな亀裂が、僕の記憶の断片に。










 やめろぉ! そいつには……そいつには手を出すな!! 罰なら、俺が……!


 残念だったな、リーベリアに帰れなくて、さ。

 ハハハハハ!! こうやってやりゃぁ、もう脱走なんて考えねぇだろぉ!?


 頼む! もうやめてくれ……やめてくれぇぇ!!!!


 自分の運命を呪え、――ン。お前は、一生ここで……



 

 ………ぐっ……がああああぁぁぁぁあああ!!!






 死ねぇぇぇ!!!!!






 真っ赤な景色が、僕の視界を覆う。

 それと同時に、何かが砕ける。 


 何をしているんだ? 僕は……!!



 ……狂おしいほどに、何かを愛せるというのか……?



 僕は彼女の陰部に触れている手を止めた。指先が濡れている。


「……いいよ、しても」


 小さく、かすれた声で海は言った。

「私は、空になら何をされてもいいから……だから……」


 ナンデソンナコトイウンダヨ

 コワレル

 スベテガクダケテキエテシマウ


 ボク…………ハ…………


 その瞬間、僕の頭の中である映像が流れた。そこには、白いローブを羽織った長い銀髪の女性と、聖職者のような格好をした青い髪の男性がいた。その2人は、僕に何かを呼びかけている。


 ――ジェ・レル・ヴェスナ・セスタ。悠久なる精霊の灯火よ……我を護り給え。……いい? これは、あなたを守るための言葉なの。不安になった時などに、思い出して言ってみて。きっと、あなたたちを守ってくれるから……



 きっと、お前たちを護ってくれるから。



 僕は無意識に、言葉を綴った。小さな小さな宝石の欠片を手繰り寄せ、元の形に戻そうとするかのように。

「ジェ・レル……ヴェスナ……セスタ……悠久、なる……精霊の、灯火、よ……我を……守り、給え……」



 ――何――?

 ――これはまさか――!!



 すると、体を覆っていた不思議な呪縛から解き離れたような感じがした。体が、軽くなった。

 僕は、ようやく冷静になれたような気がした。目の前に、服と下着が引き裂かれた、裸体の海の姿があった。僕を見つめる瞳には、心配と不安、恐怖と困惑……そして、涙が浮かんでいた。


「う、み………僕は……僕……は……」


 視界が暗転する。グニャグニャと、僕の世界を支える全てのものが砕け、四方に散らばってしまう。

 僕は目の前が真っ暗になり、どんよりとした暗闇の中へと落ちて行った。



 暗闇の渦の中で、誰かの言葉が聞こえる。どんよりとした黒い光と、白い光の……話し声……。

「まさか、貴様が直々にお出でになるとはな」

「…………」

 黒い光は、白い光に語りかけている。その度に、小さく揺れている。

「それほどまでに、大事な器か?」

 ほくそ笑む黒い光。


「……そうだな。お前にとっても……私にとっても、な……」


 この声は……クロノスさん……?

「ここは退け」

「……今ここで、食い破ってもいいんだがな」

 黒い光は小さく笑った。

「それはお前の本意ではなかろう。紡ぐ時に紡ぎ、死すべき時に死ぬ。それが呪縛に囚われた者の……理に反して生きる我々の掟ではないか?」

「くだらん……呪縛だと? そもそも、俺は貴様と違って時の理を反古にしたわけではないんでな」

「…………」

「まぁいいだろう……一先ず退いてやる。今日は働きかけすぎた。結果、奴の精神の基盤がこれ以上、脆くなってしまっても困るしな」

「……お前自身の力も、未だ聖域に囚われたままであろう?」

「ふん。人一人、我が膝下に敷くのは容易だ。さっきも言っただろう? 食い破るのは今でもできると……」

「………………」

「そう身構えるな。お前の相手も、いずれしてやるさ。……この堕ちた者どもの聖域ではなく、ちゃんとした物質世界でな……」

 そして、黒い光は笑い声を響かせながら、どこかへと消えて行った。







 目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。

 ここは……僕の部屋か。数ヶ月ぶりだ。けれど、どこかほこりっぽい匂いがする。長いこと掃除していない様子だ。

 上半身を起こし、窓から外を眺める。懐かしい青空が広がっている。レイディアントとガイアの青空はあまり違わない。けれど、それでも二つは違う世界なのだ。本能が告げている。

 秋の陽気とでもいえようか、太陽の光が差し、部屋は少し暖かい。

 太陽の位置から見て、すでに朝ではない。僕はすぐさま時計を探し、時間を確認した。……10時46分。あと数時間しかないじゃないか!

 しかし……いつ寝てしまったんだろう? たしか、海と一緒に……


 ……ハッとした。


 僕は海に襲い掛かり、服を破いた。

 あれが自分とは思えない。自分だと信じたくない。けど、あれは自分だった。どこか、冷静な自分がいた。

 ステファンに殺されかかった時に聴こえた、あの声。どうして、昨日聴こえたんだろう? どうして、呼びかけてきたんだ?

 あいつは、『俺はお前』だと言っていた。あのひどいことを考えるやつが僕? 

 僕は顔を振った。


 そんなわけない。あれは僕なんかじゃない。


 そうだよ、僕はあんなことを考えない。きっと、海を襲ったのは『あいつ』が体を操っていたからなんだ。でなけりゃ、あれは夢なんだ。

 そうさ。僕は海にあんなことをしたいとは思っていなかったし、しようとも思わなかった。だから、あれは僕じゃない。

 僕はベッドから降り、1階のリビングへと向かった。リビングには、母さんが忙しなく動いていた。専業主婦なので、洗い物などが大変なのだ。その中に、海の姿が見えた。海は、母さんの仕事を手伝っていたのだ。


「あら、空、おはようさん」

 母さんは僕の姿に気付くと、朝の挨拶をした。それに海も気付き、「おはよう、空」と言った。

「あ、ああ、おはよう……」

 自分の声が小さくなった気がした。昨日のこともあり、海の姿をまともに見ることができない。

「あんた、13時過ぎには行かないといけないんだろ? 準備とかしなくていいのかい?」

「そうだな……母さんの飯を食ってから行くよ」

「……しょうがないわね。ちょっと、待ってなさい。すぐに作るから」

 母さんは台所に向かった。いつも見ていた風景が、今では特別なものに見える。


「……空」


 海がおずおずと、僕の前に立っていた。僕は小さく慌てて、視線をそらしてしまった。

「う、海。そ、その……ごめ」


「いいの」


 海は僕の言葉を遮った。謝ることを知っていたかのように。

「いいの。あの時の空は……別人みたいだった。違う人間に見えた」

「…………」

 彼女は小さく顔を振った。

「空は悪くない、悪くないよ。私は、信じる。……それに、さ」

 海は後ろへ振り向き、僕に背中を見せる格好になった。

「変な話だけど、私は嫌じゃなかったよ。……空にされるのなら、何をされてもいいし……から……」

「…………」

 そういうことを言うなよ……。

 じゃあ、僕が死ねと言えば死ぬのか?

 違うだろ? お前は、なんだかおかしいよ……。

 そう言ってやりたかった。けど、その言葉を言えば、きっと海はまた泣くだろう。 ……もう泣かせたくはない。僕は、その言葉を胸の奥へとしまいこんだ。

「と、とにかくさ、おばさんの料理食べて元気だしなよ!」

 海ははつらつな笑顔を見せた。しかし、僕はわかった。理解した。海は無理をしている。『嫌じゃなかった』なんて嘘だ。きっと、怖かったはずだ。あの笑顔がそう告げている。


 ……どうして、強がろうとするんだろう……。


「海、待てよ」

 僕は海を呼び止め、腕を掴んだ。

「……すまない。謝っても、許されないけど……」

「い、いいって言ってるじゃん」

 健気な笑顔。その奥に、傷ついた心をしまい込んでいる。

「良くないよ。……強がらないでくれ」

「やめてよ……。そんなこと言われると、また……泣きそうになっちゃうから……」

 海は手で目の辺りを拭いた。


「おーい、海ちゃん、手伝ってくれる?」


 キッチンから母さんの大きな声が響いた。

「は、はぁーい!」

 海はバタバタと足音を立たせながら、キッチンへと向かった。

 僕は……何をしているんだろう。




 約10分後、料理が完成した。と言っても、朝を少し過ぎた時間帯なので、がっつりしたものではなく、あっさりとした朝飯みたいなものだ。

 メニューはハムを混ぜたスクランブルエッグと、ウィンナー、味噌汁、そして日本人の主食キング・オブ・フード、ご飯!

「ご、ご飯……」

「ど、どうしたの? 空。そんなにうれしいのかい?」

 母さんは苦笑いしながら言った。

「だってさ、あっちの世界にはご飯がないんだよ! あるのかもしれないけど、見たことないんだ。だから、もう米が恋しくて恋しくて………」

 僕はご飯にかぶりついた。この味、忘れかけた米の味! やっぱし、日本人は米がないと生きて行けられないよ、ホント。

「そんなにおいしいそうに食べられると、私も作るかいがあるわ〜」

 母さんが僕の食事姿を見ながら呟いた。

「な、なんだよ?」

「父さんも、あんたみたいに食べてくれれば、ちょっとはがんばる気持ちになるんだけどねぇ」

 そう言うと、母さんは大きなため息をついた。

「いつもはどうなの?」

 海はクスクス笑いながら言った。

「あの人は……食べて飲んで、ゲップ。最後におならしておしまい」

 我が父ながら、情けない……。しかも、その姿を容易に想像できるところが、なんだか悲しい。

「ハハ、おじさんらしいね」

 海は笑顔だった。……さっきの不安な笑顔とは違う。少し、ホッとした。

 僕はカップラーメンができない間に、食べ終わってしまった。

「ごちそーさまでした。おいしかったです」

 僕は丁寧に一礼した。その姿を見て、母さんと海は固まってしまった。

「……空、あんた、礼儀もよくなったのね」

「……良くなっちゃ悪い?」

「そういう意味じゃないわよ。ま、私としては戸惑うけど」

「どうして今更うまくなったの?」

 海が顔を乗り出して訊いてきた。

「どうしてって……仲間で、すごく礼儀正しい女の子がいるんだ。その子につられてしまったということもあったし、王宮に行ったりするからなぁ。自然と、そういう技術が身に付いたのかもね」

「王宮……想像できないわねぇ」

「そりゃそうだ」

「……あんた、嫌味な性格は変わってないのね」

「そう? 僕的には気に入ってますけど」

「あんたね……」




 13時前。母さんと海は、その扉のところまで来てくれるそうだ。ここから、山頂までは約20分。十分、間に合う。

 今日の天気は快晴。秋晴れといった感じか。

「……この世界の空も、きれいだな」

 僕は上空を見上げながら呟いた。

「あっちの世界はどんな空なの? ……空のことじゃないからね?」

「わぁーってるよ」

 海が頭をのぞかせて訊ねた。

「同じだよ。ただ、この世界みたいにビルなんて建っていないから、空が広く感じるよ」

「ビルがない? そりゃまた退化してるのね」

「退化っていうか、まだ進歩してないんだよね……」

 けど、考えてみたら、同じ世界からある時に分離して、同じ時間を歩んできていたとしたら、同じ時間量を生きているはず。なのに、2つの世界の文明の差っていうのは、ちょっと疑問を感じるところだ。

「進歩していないんだったら、環境問題なんて心配しなくていいわね」

「じゃあ、あっちの世界ってすごい自然がきれいなのかな?」

「この世界よりは百倍きれいだよ、ホント」

「すごいね、私も……いや、やめとこ」

 海は顔を振って、その言葉をかき消した。



 辺りを懐かしみながら、僕たちは山頂へ向かった。

 予定通り、13時3分前に、山頂に到着した。古びた暁の門は、静かに佇んでいた。

「……変わってないね」

 海が扉を眺めながら呟いた。

「ここから、全てが始まったような気がするね」

「……そうだな」

 秋風が緩やかに、僕たちを包んだ。故郷の香り。……これを嗅ぐことができるのは、当分先になるかもしれない。

「空、気をつけるんだよ。風邪引かないようにね」

 母さんは僕が遊びに出かける時のようなセリフを言った。

「……もうちと心配してる素振りをしてくれませんかねぇ」

 僕はちょっとふざけながら言ってみた。

「これでも、かなり心配してるんだけどねぇ」

「ふん、そうですか」

 ……母さんの気持ちは理解しているつもりだ。だからこそ、これ以上深く訊く必要もない。

「空……あの、さ」

 海は緊張した面持ちで、何かを言おうとしている。

「どうした?」

「……お願いがあるの」

 海は顔を上げ、悲痛な面持ちで僕を見つめる。


「帰ってくるって約束して」


 海は瞳を潤ませていた。泣きそうながらも、絶対に泣かないような瞳だった。

「ああ、約束する。ホラ、指切りげんまんしようぜ」

「ちょっ……何よ、それ」

 海は思わぬことに、当惑している様子だった。

「指切りに決まってんじゃんかよ。ホラ、小指出しな」

 僕と海は指切りげんまんをした。子供の頃、口約束を守らせるために何度も何度もやっていたっけな……。

「……よし」

 彼女と指を離し、小さく微笑んだ。なぜか、海はムスッとした様子だったけど。

「絶対に……絶対に帰って来てよ。約束だからね?」

 彼女は念を押すように言った。

「わかってるよ。約束を反古にはしませんよ」

 と、僕は笑顔で海の頭をなでてやった。

「な、何すんのよ!!?」

「まぁ、ちょっとした気遣いだよ。僕なりの……」

「……………」

 海は返答もせず、俯いてしまった。

「……空、母さんとも約束してちょうだい。生きて帰って来るって。死なずに、空ちゃんを助け出すって」

 母さんは海の横に来て言った。

「わかってる。ちゃんと空を助けだして、やるべきことをやって……帰って来るよ」

「……いいかい? 一番の親不幸は、親より先に死ぬことなの」

「縁起でもないことを……」

 思わず苦笑してしまった。まぁ、母さんは母さんなりに心配してるっていう証拠なんだが。

「何にしても大丈夫だよ。あっちには仲間たちがいるしさ」

 志を共にする仲間たちがいるから、僕は諦めない。ここに、僕を待ってくれている人たちがいるように、あっちでも待ってくれている人たちがいる。そう、僕たちは独りじゃない。

「よし! 張り切って行って来なさい!」

 母さんは大きな顔を微笑ませた。

「母さんが一番張り切ってんじゃん」

「いいから、あんたも気合入れなさい」

「りょーかい。……じゃあ、行くよ」

 名残惜しくて、なかなかその言葉が出てこなかった。こういうことも、あるもんなんだな……。

「……行ってらっしゃい」

「空ちゃんを取り返してきなさいよ!」

 海と母さんの激励に、僕は笑顔を見せた。こんなことまで言われたら、がんばるしかない。いや、がんばるのは当たり前。絶対に帰ってくるんだ。それを、守らなきゃな。

 僕は門に近づき、指先で触れた。門は光り輝き、レイディアントへの扉を開いた。そこから、少し強めの風が吹き出てくる。



「待って!」



 振り返ると、海が今にも泣きそうな顔をしていた。

「……海?」


「私、空のことが好きだよ」


 彼女は笑顔で言った。涙を浮かばせながらも。

「大丈夫。空の気持ちは………わかってるから。でも……それでも、私は空が好き。だから……待ってる。空とお姉ちゃんが無事に帰ってくるの……待ってるから!」

 そう言い切った瞬間、彼女のほほに一筋の涙が流れて行った。

 お前は、あんなことをした僕を信じてくれているんだな。あんな、ひどいことをしたっていうのに。

 今回の帰宅で、彼女がどれほど想ってくれているのか……ようやく理解できた。

「……母さん、父さんによろしく」

「ハイハイ、わかってるよ」

 母さんは変わらない笑顔を見せた。

「海……元気でな」

「ば、馬鹿! そんな今生の別れみたいに言わないでよ!」

 さっきとは違い、いつもの怒声っぽい感じで彼女は言った。

「別にそういうつもりじゃなかったんだけど……ま、行ってくるよ」

「さっさと行っちゃえ!」

「ハイハイ、わかりましたっての。まったく……」

 僕はぶつぶつ言いながら、淡い光の中へ足を進ませた。入る瞬間の時だけ、少しだけ息苦しかった。

 これで、しばらくさよならだな。

 和樹、啓太郎、美香。

 また帰ってくるから、そん時はよろしくな。

 修哉………きっと、お前はどこかにいるんだよな。今度帰って来たら、一緒にいつかの約束のとおり、世界を旅して回りたいな……。




 しばらくの間、みんなを護ってくれよ。

 ……(イツキ)……









 空が門に入った後、光は一瞬だけざわつき、消えた。後に残ったのは、静かな森の音と、海たちだけであった。

「……無理しなくてもいいのよ、海ちゃん」

 空の母は、そっと海の肩に手を置いた。

「……うん。わかってる、わかってるよ。……わかってるけど……」

 海はその場に座り込んだ。

「でも………どうして空がいる時だけ……強がっちゃうんだろう……」

 小さく自分を嘲笑った。自分でも、なんでそうしたのかわからずに。

「本当は……行ってほしくない…。行ってほしくない……!!」

 体を小さくして崩れた海を、空の母は優しく抱き締めた。

「離れたくない……離れたくなかったのに……!!」

「……うん」

 彼女は優しく背中をさすった。それによって、海がなんとか……なんとか抑えていた、湧き上がるものが溢れ出てきた。

「やだよ……」

 秋の空に、かすれた自分の声が漏れる。風に乗って、淡い言霊となって世界に溶け込んでゆく。

「空…………空ァ!!」

 空色の瞳から零れ落ちる彼女の想いの欠片たちは、枯れ葉で覆われた山頂に沈む。

 遠くて近い世界……

 どうして、私はこんなにも……こんなにも……



 あなたが好きなの?

 苦しいよ……こんなの……







「…………」

 空の母は、息子が消えて行った門を見つめた。





 ……人に……たくさんの人に愛されて、本当に幸せな子……

 だから、帰って来なさいよ。あんたは、私たちの大切なバカ息子なんだから。



 血が繋がっていなくても……ね。






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