36章:狂った希望 羨望という名の執着「2」
「……もう一つの世界って、どんな場所なの?」
夜。僕はおじさんとおばさんに挨拶を済まし(二人とも目が飛び出るほど驚いていた。すでに数度目のことだったので、僕としては慣れてしまった)、海の部屋でレイディアントの話を彼女にしていた。
「しいて言うなら……中世ヨーロッパ風かな。魔法もあるから、簡単に言えばRPGゲームみたいな世界かな」
「こ、子供が食いつきそうだね」
ちょっと呆れた顔で、海は言った。
「ハハ、そうだな。……けど、実際の魔法はゲームみたいな生半可なものじゃない。実際に見た後だと、二次元のものがどれだけ現実離れしていているのかわかるよ。本当の魔法は、ただの人殺しだけに使われるものばかりなんだし」
「……………」
あんなもの、誰が考えついたんだろうかって思う。たしかに、戦乱の時代には人殺しの道具も必要になるだろう。けど、何も自然界のものを操るような〈兵器〉を開発しなくてもいいのに。……使役させられている自然界のエネルギーが勿体無いとしか思えない。
「けど、そうじゃない部分もある」
「例えば?」
「傷を癒したり、日常生活の中で活用されることさ。ある町では、街灯の役割を担ったものもあったし、ある都市では巨大な防壁として使用してたところもあったんだ」
まぁ、実際のところはエレメンタルを利用した結晶体を用いたものだが。
「魔法……か。世界には、本当に謎が多いんだね……」
海はベッドの上で大の字になった。
「……世界は解明されきったばかりだと思ってたのに、私たちの知らないところで、私たちの知らない別の世界が生きていた。当然、そこでは私たちと同じような人たちが住んでいて……危機にさらされていた。どうして、大事なことほど気付かないんだろう……人間って……」
天井を見つめる彼女の瞳は、空を彷彿とさせるものだった。
「普通なんだよ、それが」
「……普通?」
彼女は上半身を起こし、僕に視線を向けた。
「人間一人が一生で知り得ることってのは、限度がある。どれほど世界のあらゆることを知りたいと思っても、たかが80年ちょいの人生で知り得るようなものじゃない。大抵の人は、本当に大事なことを知らないまま死んで行くんだろうよ」
「本当に大事なもの……」
そう言う自分でさえも、本当に大切なのは何なのか、わかっていないのかもしれない。いや、知っていたとしても、それはあくまで自分だけの〈答え〉であり、真実。人の数だけ、真実があるのかもしれないのだから。
「……空にとって、大事なものって……何?」
「なんだよ? 藪から棒に」
「……訊いてみたくてさ」
少しはにかんだ彼女の顔は、どこかリサを連想させるものだった。……なぜかわからないけれど……。
「そう、だな……」
僕は立ち上がり、海の机に腰掛けた。
「……やっぱり、お姉ちゃん?」
「…………」
彼女の方に目をやると、体を起していた海は目をそらしていた。
「空も、大事なものの一つだと思う。それと同時に、お前も大事なものの一つだよ」
「…………」
「僕はそういった大事な……人とかに優劣は付けたくないんだよ」
優劣をつけたって、なんになる。ただの自己満足とかにしか過ぎない。そもそも、そういったものに優劣をつけること自体がおかしいんだ。
大切なものは大切。大事なものは大事。……それだけだと思うけどな。
「僕にとっては、自分の人生の中で支えて来てくれた人たち全員が大事なもんだよ。空は空。海は海。それぞれに対する感情は違うかもしれないけど、大事にしようとする気持ちは同じだよ。……そこんとこ、理解してくんないかな」
僕はあまりイラついた感情を出さないよう、静かな声で言った。毎度毎度、空と海はどうしても……なんつーか、同じようなことを言う。あれほど言うなっつってんのに……。まぁ、そういう性格だからしょうがないのかもしれないが。
「……ごめん、なさい……」
海は顔を俯かせていた。……はぁ……まったく。
「お前の……いや、お前たちの悪い癖だな、そういうとこ」
僕は彼女の傍に座った。
「少しは信じてほしいな。僕はお前たちを、何よりも大事に思ってきた。もちろん、これからも」
何にも代えられない大切な二人。それは間違いないこと。
「……お前は、どうせ〈お姉ちゃんが連れ去られたから、空はなんとしても行くんだ〉みたいなことを、心のどこかで思ってんだろ?」
「そ、それは………!」
海は顔を上げた。瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。それを見ればわかる。図星を突かれたってことが。
「いいか? 僕はもし、お前が連れ去られていたとしても、助けに行く。誰に止められようと、大好きな空に止められようと助けに行くだろうさ」
「……空……」
泣くのを必死に我慢しているのか、彼女は唇を強く閉ざしていた。
「だから、さ。もうちっと、僕を信用してくれよ。な?」
僕がそう微笑みかけると、沈んだような表情だった彼女の顔が、ほのかに和らいだように感じた。
……いつもの空だ。
たぶん、そんな風に感じてくれたのかもしれない。
「……ごめんね、馬鹿なこと訊いたりして……」
「そーいうところも、悪い癖だな」
「え……えっ?」
「すぐ自虐的になる。そーいうところ、空も海も同じだよな」
僕は彼女のおでこに指を立て、強く押した。彼女の小さな頭が揺らいだ。
「なっ……何すんのよ!」
すぐに海は僕の指をはたき、ほっぺたをつねって来た。
「いでででで!!」
「この……馬鹿空!」
そして、海はそっぽを向いてしまった。
「……ったく、何度も肉体的制裁をしやがって……」
「ふんっ」
「でも、まっ……海らしいけどな」
「…………」
僕はほほをさすりながら言った。海は僕から顔を隠しているが、どうせ赤くなってんだろうな。
「………ねぇ、どれくらいかかるの?」
海はそっぽをむきながら言った。
「さぁな……半年近くかかって、まだ奴らの尻尾辺りしかつかめていない気がするんだよな……。条約締結まで考えると、あと半年近くかかるかもしれない」
「そんなに……」
海はしゅんとしてしまった。そりゃそうだ。あと半年も一人でいないと思うと、がんばる気力を失ってしまうものだ。
「……なんにしても、空をお前の所に連れて戻すから」
「…………」
海は小さくうなずいた。どうも、力がない。
彼女はそれを払拭するかのように、あるいは自分を奮い立たせるように、小さく顔を振った。
「そ、そうだ。紅茶入れあげるね」
健気に、彼女は笑顔を向けた。
「いや、別にいいよ」
「いいからいいから。前に、お父さんがおいしい紅茶を持って帰ってくれたの」
海は立ち上がり、部屋を出て行こうとした。すると、ドジなのか天然なのか、海の体がぐらりと倒れ始めた。
「ちょっ……!」
僕はとっさに、海の体を抱えた。しかし、そのまま僕と海は床に倒れてしまった。海は仰向けになり、僕がその上に倒れこんだ。
「いってぇ……ったく、お前な……」
「ご、ごめん。長いこと座ってたもんだから、足がすくんじゃって……」
海は思わず、苦笑していた。
「なんだよ、まったく……」
僕は自分が海の上にいることに気付いた。同じ瞬間、海も気付いたようだった。海は少し顔を赤くし、何も言わなくなってしまった。
「空……」
直感した。海は、自分が何をされてもいいと思っているはず。
何をされても……? それは……
海は目を瞑った。ほほを赤くして。
――望むままにすればいいだろ――?
体の奥で、小さな「メーデー」が鳴る。心が、肉体が畏れている。
この、声は……!
――耳をすませてみろ、お前の奥底の言葉を――
お前は……あの時の……!
――いちいち思い出す必要性などない――
――さぁ、お前自身の言葉に従え――
まだガイアにいた頃……僕の頭痛とともに襲ってきた謎の声。優しい女性の声とは違い、暗い……暗い深淵の声。そして、ルテティアで僕を襲った……あの声!
お前……誰だ!? 誰なんだ!!
――おいおい、俺はお前だよ。それ以外のなんだって言うんだ――?
違う! お前は僕じゃない!
――どうして、そう言い切れる――?
だって……今しゃべっている僕が僕だ! お前がしゃべっているようなセリフなんて考えていない!
――ハハ、屁理屈だな――
――ただ単に、お前が聴こうとしていないだけさ――
なんだと……?
――俺は何度もお前を呼んだ――
――しかし、いずれもお前への直接アクセスになるものではなかったが――
何を……言ってる……?
「空? どうしたの?」
僕はハッとした。目の前で、海の頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。
――お前は自分の意思に反するのか――?
さっきから何だ! 僕に、何の用だ!?
――いちいち吠えるな――
――さぁ、その女を犯せ――
「なっ……何言ってんだ!? てめぇ!!」
僕は思わず、天井に向けて声を放った。海の体が、驚きで一瞬動く。
「ど、どうしたの?」
「海……お前には、なんにも聴こえないのか?」
海は頭をかしげた。
「……? 別に、何も聴こえないけど……」
海には聞こえていない……ということは、やはり……
――そう、お前という存在にだけ聴こえる声さ――
お前……一体何のつもりだ!? なぜ僕に語りかけてくる!!?
――お前が自分の意思に反しようとしているからだ――
――俺は、お前自身が望むことを告げているだけだぞ――
「僕自身が望むこと、だと……?」
なんだよ、それ。わけわかんねぇよ……!
「ねぇ、どうしたの?」
海は困惑していた。だが、僕はそれに気がつかず、天井を睨みつけていた。
――お前が望むもの――
――それは、お前を満たしてくれる存在さ――
一体、なんのことだ……?
――理解力に乏しいようだな――
その声は、僕を鼻で笑ったような気がした。
――そこの女は、お前になら、何をされてもいいと思っている――
――それだけ、お前にほれ込んでいる。なぜ、拒む必要がある――?
お前に、そんなことを言う権利はない! 僕は……そんなことなんて望んじゃいない!!
――違うな。少なくとも、その女は望んでいる――
――さっきの表情、見てなかったのか――?
――あれは、待っている顔だ――
んなわけないだろ! 海も……僕も、そんなこと望んでいない!!
――いい加減、素直になれよ――
――お前が求めている女は、助け出せるかどうかわからない――
――いや、もう生きているかどうかもさえわからないのだぞ――?
どうしてそう断言できる! 空は……生きてる!!
――貴様こそ、なぜそう断言できる――?
――確証を得たのか――?
不幸な結末を想像するより、希望のある未来を想像したいからに決まっているじゃないか!! じゃないと、僕は……!!
――ククク、くだらんな――
くだらないだと!?
――非現実的なんだよ、お前は――
――生死が定かじゃない女より、目の前にいる女にしたらどうだ――?
黙れ! 僕は、空を愛してる。それは偽りようのない真実だ!!
――違うな。貴様は、ただそうだと思い込んでいるに過ぎない――
僕には確かな記憶がある! あいつと初めて会った時……僕はあいつに惚れたんだ!!
――なぜ、それが自分の〈正しい記憶〉だと思っているのだ――?
――なぜそれが、思い込みによる偽りの記憶ではないかと思わない――?
てめぇ……!! 僕の記憶は、僕が都合のいいように作ったものだとでも言うのか!?
――そうかもしれないということだ――
――どちらにせよ、お前は望んでいる――
――今、この場にいもしない愛する女よりも――
――自分を純粋に愛してくれる女を、その手で抱くことを――
違う!! それ以上言うな! それ以上……!!
――認めてしまったらどうだ――?
――これ以上、貴様の奥底にある〈言霊〉を無視することはできまい――
黙れ……黙れ!!
――あの時、『俺』を縛り付けていた〈楔〉は引き裂かれた――
――古の時より紡がれし、忘却の怨嗟と砕け散った天使の歌声――
――貴様にも聴こえるのだろう――?
「空? 空?」
僕を小さく揺らす彼女の手。世界が揺れる。ダメだ……ダメだ……!!
――さぁ、お前の手で穢せ――
――たとえお前に汚されようと、その女は受け入れられるさ――
――愛する人が、己の恋敵より先に自分を抱いてくれるのだから――
「違う、違う………! 僕は……僕は……!!」
「ねぇ? どうしたの? 空!?」
海は必死に僕へ呼びかけている。僕は頭を抱えた。
――それ以上無理していても、すでに貴様の〈結界〉を破壊しているのだよ――
――お前の〈真の望み〉に、身を委ね――
――その女を犯せ――
僕はそんなことはしない!
――するんだよ。それがお前の望んだことなのだから――
しないつってんだろ!!!
――己の望みに従い、奴を穢せ――
――その手で、徹底的に――
「黙れぇぇ!!!!」
僕は声を張り上げた。大声が、女性の部屋に響く。
「そ、空?」
「うるさいうるさいうるさい……!」
僕は『奴』の声が聞こえないよう、耳をふさぎ、大きな声を撒き散らして聞こえないようにした。
――無駄だ。お前は俺。俺の声を妨げることなどできん――
僕はお前なんかじゃない! いい加減にしろ!!
――カードの表と裏、鏡の内と外。それが、俺とお前だ――
頭がガンガンする。まるで、酒を飲んで二日酔いになったようだ。
「ね、ねぇ、空? 大丈夫?」
海の声が、何度も僕を呼びかける。
――本能に、欲望に従うことは悪いことじゃない――
――生命とは、そういう風にできているんだからな――
僕は、そんな醜い欲望なんてものは抱いていない!!
――必ずしもそう言い切れるのか――?
――お前は、自分のこと全てを把握しているつもりか――?
――だとしたら、お笑い種だな――
――俺という存在さえ認識できないお前が、どうして己の欲望に反せよう――?
黙れ……黙れ!!
――惰弱な貴様では、俺を抑えることは敵わないんだよ――
「空? 空?」
「うるせぇっつってんだろ!!」
「!!!」
海は自分に言われたのだと思い、後ろへ下がった。
「ち、違うんだ、海。お前に言ったんじゃ……くっ!!」
激痛が走る。頭の奥で、何かが……何かが……!!
あまりの痛みに、僕はうずくまった。
――清流を流れる木の葉のように、己に従え――
――獣となってそいつを犯せばいい――
僕は獣なんかじゃない!!
――どうして逃れる必要がある――?
――自らに従うことは、別におかしいことではない――
自分に従うだと? 僕は、海を犯したいとは思っていない!!
――この世に存在する生命が、己の本能に従うことは普通なのだ――
――それに、俺がお前である以上、俺はお前の全てを知っているのだからな――
全て……だと?
――だからこそ言えるのだ――
――その女を犯せと――
違う! 僕は、僕は……!!
やめろ……やめてくれ……!
やめて……く、れぇぇ!!!
――永遠の礎となれ――
――セヴェス――
僕……は、誰…………?
その瞬間、自分の何かが砕け散った。大切に、大切に秘密の宝箱の中に入れてあったガラス細工の宝石が、夜空に輝く星たちのように、小さく砕けてしまったかのようだ。
「そ、空……?」
天井を見上げ、微動だにしない僕を彼女は見つめ、名を呼ぶ。
すでに、僕は「空」でなくなっていたのに。
「!!?」
僕は彼女をベッドに投げ飛ばし、仰向けにさせた。
「きゃっ……! そ、空!?」
僕は彼女の手首を掴んだ。海は掴まれている手をほどこうと暴れるが、この時の僕の握力は自分でも信じられないほど強かった。
「ちょ、空! やめ……やめて……!!」
海の言葉に耳を貸さず、僕は自分の手で、海が着ていた服を引きちぎった。
「や……やぁ!!」
――欲望に体を預けよ――
奥底からの声が、どんどん近くなってゆく。
海のブラジャーを外し、スカートを引きちぎった。彼女の小さな胸が、晒し出される。そして、僕は彼女の下着を力任せに引き裂く。
「空!? そこは……!!」
海は言葉では拒んでいるものの、抵抗する力があまり感じられない。
――ハハハハハハ――
――ハァーハハハハ――!!
笑い声が聞こえる。誰の笑い声だ? 自分か……?
僕は海の股に手を入れた。彼女は僕の手を止めようとするが、無駄だった。
「そ、空……やめ…………あっ!」
海の体が少しだけ反応する。電気が走ったかのように。
「や……あぁっ!!」
さらに彼女の体が動く。
「そ、ら……」
僕を呼ぶ声に反応し、僕は彼女の顔を見た。海は……震えながら少し涙を流していた。
ほとばしる。小さな亀裂が、僕の記憶の断片に。
やめろぉ! そいつには……そいつには手を出すな!! 罰なら、俺が……!
残念だったな、リーベリアに帰れなくて、さ。
ハハハハハ!! こうやってやりゃぁ、もう脱走なんて考えねぇだろぉ!?
頼む! もうやめてくれ……やめてくれぇぇ!!!!
自分の運命を呪え、――ン。お前は、一生ここで……
………ぐっ……がああああぁぁぁぁあああ!!!
死ねぇぇぇ!!!!!
真っ赤な景色が、僕の視界を覆う。
それと同時に、何かが砕ける。
何をしているんだ? 僕は……!!
……狂おしいほどに、何かを愛せるというのか……?
僕は彼女の陰部に触れている手を止めた。指先が濡れている。
「……いいよ、しても」
小さく、かすれた声で海は言った。
「私は、空になら何をされてもいいから……だから……」
ナンデソンナコトイウンダヨ
コワレル
スベテガクダケテキエテシマウ
ボク…………ハ…………
その瞬間、僕の頭の中である映像が流れた。そこには、白いローブを羽織った長い銀髪の女性と、聖職者のような格好をした青い髪の男性がいた。その2人は、僕に何かを呼びかけている。
――ジェ・レル・ヴェスナ・セスタ。悠久なる精霊の灯火よ……我を護り給え。……いい? これは、あなたを守るための言葉なの。不安になった時などに、思い出して言ってみて。きっと、あなたたちを守ってくれるから……
きっと、お前たちを護ってくれるから。
僕は無意識に、言葉を綴った。小さな小さな宝石の欠片を手繰り寄せ、元の形に戻そうとするかのように。
「ジェ・レル……ヴェスナ……セスタ……悠久、なる……精霊の、灯火、よ……我を……守り、給え……」
――何――?
――これはまさか――!!
すると、体を覆っていた不思議な呪縛から解き離れたような感じがした。体が、軽くなった。
僕は、ようやく冷静になれたような気がした。目の前に、服と下着が引き裂かれた、裸体の海の姿があった。僕を見つめる瞳には、心配と不安、恐怖と困惑……そして、涙が浮かんでいた。
「う、み………僕は……僕……は……」
視界が暗転する。グニャグニャと、僕の世界を支える全てのものが砕け、四方に散らばってしまう。
僕は目の前が真っ暗になり、どんよりとした暗闇の中へと落ちて行った。
暗闇の渦の中で、誰かの言葉が聞こえる。どんよりとした黒い光と、白い光の……話し声……。
「まさか、貴様が直々にお出でになるとはな」
「…………」
黒い光は、白い光に語りかけている。その度に、小さく揺れている。
「それほどまでに、大事な器か?」
ほくそ笑む黒い光。
「……そうだな。お前にとっても……私にとっても、な……」
この声は……クロノスさん……?
「ここは退け」
「……今ここで、食い破ってもいいんだがな」
黒い光は小さく笑った。
「それはお前の本意ではなかろう。紡ぐ時に紡ぎ、死すべき時に死ぬ。それが呪縛に囚われた者の……理に反して生きる我々の掟ではないか?」
「くだらん……呪縛だと? そもそも、俺は貴様と違って時の理を反古にしたわけではないんでな」
「…………」
「まぁいいだろう……一先ず退いてやる。今日は働きかけすぎた。結果、奴の精神の基盤がこれ以上、脆くなってしまっても困るしな」
「……お前自身の力も、未だ聖域に囚われたままであろう?」
「ふん。人一人、我が膝下に敷くのは容易だ。さっきも言っただろう? 食い破るのは今でもできると……」
「………………」
「そう身構えるな。お前の相手も、いずれしてやるさ。……この堕ちた者どもの聖域ではなく、ちゃんとした物質世界でな……」
そして、黒い光は笑い声を響かせながら、どこかへと消えて行った。
目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。
ここは……僕の部屋か。数ヶ月ぶりだ。けれど、どこかほこりっぽい匂いがする。長いこと掃除していない様子だ。
上半身を起こし、窓から外を眺める。懐かしい青空が広がっている。レイディアントとガイアの青空はあまり違わない。けれど、それでも二つは違う世界なのだ。本能が告げている。
秋の陽気とでもいえようか、太陽の光が差し、部屋は少し暖かい。
太陽の位置から見て、すでに朝ではない。僕はすぐさま時計を探し、時間を確認した。……10時46分。あと数時間しかないじゃないか!
しかし……いつ寝てしまったんだろう? たしか、海と一緒に……
……ハッとした。
僕は海に襲い掛かり、服を破いた。
あれが自分とは思えない。自分だと信じたくない。けど、あれは自分だった。どこか、冷静な自分がいた。
ステファンに殺されかかった時に聴こえた、あの声。どうして、昨日聴こえたんだろう? どうして、呼びかけてきたんだ?
あいつは、『俺はお前』だと言っていた。あのひどいことを考えるやつが僕?
僕は顔を振った。
そんなわけない。あれは僕なんかじゃない。
そうだよ、僕はあんなことを考えない。きっと、海を襲ったのは『あいつ』が体を操っていたからなんだ。でなけりゃ、あれは夢なんだ。
そうさ。僕は海にあんなことをしたいとは思っていなかったし、しようとも思わなかった。だから、あれは僕じゃない。
僕はベッドから降り、1階のリビングへと向かった。リビングには、母さんが忙しなく動いていた。専業主婦なので、洗い物などが大変なのだ。その中に、海の姿が見えた。海は、母さんの仕事を手伝っていたのだ。
「あら、空、おはようさん」
母さんは僕の姿に気付くと、朝の挨拶をした。それに海も気付き、「おはよう、空」と言った。
「あ、ああ、おはよう……」
自分の声が小さくなった気がした。昨日のこともあり、海の姿をまともに見ることができない。
「あんた、13時過ぎには行かないといけないんだろ? 準備とかしなくていいのかい?」
「そうだな……母さんの飯を食ってから行くよ」
「……しょうがないわね。ちょっと、待ってなさい。すぐに作るから」
母さんは台所に向かった。いつも見ていた風景が、今では特別なものに見える。
「……空」
海がおずおずと、僕の前に立っていた。僕は小さく慌てて、視線をそらしてしまった。
「う、海。そ、その……ごめ」
「いいの」
海は僕の言葉を遮った。謝ることを知っていたかのように。
「いいの。あの時の空は……別人みたいだった。違う人間に見えた」
「…………」
彼女は小さく顔を振った。
「空は悪くない、悪くないよ。私は、信じる。……それに、さ」
海は後ろへ振り向き、僕に背中を見せる格好になった。
「変な話だけど、私は嫌じゃなかったよ。……空にされるのなら、何をされてもいいし……から……」
「…………」
そういうことを言うなよ……。
じゃあ、僕が死ねと言えば死ぬのか?
違うだろ? お前は、なんだかおかしいよ……。
そう言ってやりたかった。けど、その言葉を言えば、きっと海はまた泣くだろう。 ……もう泣かせたくはない。僕は、その言葉を胸の奥へとしまいこんだ。
「と、とにかくさ、おばさんの料理食べて元気だしなよ!」
海ははつらつな笑顔を見せた。しかし、僕はわかった。理解した。海は無理をしている。『嫌じゃなかった』なんて嘘だ。きっと、怖かったはずだ。あの笑顔がそう告げている。
……どうして、強がろうとするんだろう……。
「海、待てよ」
僕は海を呼び止め、腕を掴んだ。
「……すまない。謝っても、許されないけど……」
「い、いいって言ってるじゃん」
健気な笑顔。その奥に、傷ついた心をしまい込んでいる。
「良くないよ。……強がらないでくれ」
「やめてよ……。そんなこと言われると、また……泣きそうになっちゃうから……」
海は手で目の辺りを拭いた。
「おーい、海ちゃん、手伝ってくれる?」
キッチンから母さんの大きな声が響いた。
「は、はぁーい!」
海はバタバタと足音を立たせながら、キッチンへと向かった。
僕は……何をしているんだろう。
約10分後、料理が完成した。と言っても、朝を少し過ぎた時間帯なので、がっつりしたものではなく、あっさりとした朝飯みたいなものだ。
メニューはハムを混ぜたスクランブルエッグと、ウィンナー、味噌汁、そして日本人の主食キング・オブ・フード、ご飯!
「ご、ご飯……」
「ど、どうしたの? 空。そんなにうれしいのかい?」
母さんは苦笑いしながら言った。
「だってさ、あっちの世界にはご飯がないんだよ! あるのかもしれないけど、見たことないんだ。だから、もう米が恋しくて恋しくて………」
僕はご飯にかぶりついた。この味、忘れかけた米の味! やっぱし、日本人は米がないと生きて行けられないよ、ホント。
「そんなにおいしいそうに食べられると、私も作るかいがあるわ〜」
母さんが僕の食事姿を見ながら呟いた。
「な、なんだよ?」
「父さんも、あんたみたいに食べてくれれば、ちょっとはがんばる気持ちになるんだけどねぇ」
そう言うと、母さんは大きなため息をついた。
「いつもはどうなの?」
海はクスクス笑いながら言った。
「あの人は……食べて飲んで、ゲップ。最後におならしておしまい」
我が父ながら、情けない……。しかも、その姿を容易に想像できるところが、なんだか悲しい。
「ハハ、おじさんらしいね」
海は笑顔だった。……さっきの不安な笑顔とは違う。少し、ホッとした。
僕はカップラーメンができない間に、食べ終わってしまった。
「ごちそーさまでした。おいしかったです」
僕は丁寧に一礼した。その姿を見て、母さんと海は固まってしまった。
「……空、あんた、礼儀もよくなったのね」
「……良くなっちゃ悪い?」
「そういう意味じゃないわよ。ま、私としては戸惑うけど」
「どうして今更うまくなったの?」
海が顔を乗り出して訊いてきた。
「どうしてって……仲間で、すごく礼儀正しい女の子がいるんだ。その子につられてしまったということもあったし、王宮に行ったりするからなぁ。自然と、そういう技術が身に付いたのかもね」
「王宮……想像できないわねぇ」
「そりゃそうだ」
「……あんた、嫌味な性格は変わってないのね」
「そう? 僕的には気に入ってますけど」
「あんたね……」
13時前。母さんと海は、その扉のところまで来てくれるそうだ。ここから、山頂までは約20分。十分、間に合う。
今日の天気は快晴。秋晴れといった感じか。
「……この世界の空も、きれいだな」
僕は上空を見上げながら呟いた。
「あっちの世界はどんな空なの? ……空のことじゃないからね?」
「わぁーってるよ」
海が頭をのぞかせて訊ねた。
「同じだよ。ただ、この世界みたいにビルなんて建っていないから、空が広く感じるよ」
「ビルがない? そりゃまた退化してるのね」
「退化っていうか、まだ進歩してないんだよね……」
けど、考えてみたら、同じ世界からある時に分離して、同じ時間を歩んできていたとしたら、同じ時間量を生きているはず。なのに、2つの世界の文明の差っていうのは、ちょっと疑問を感じるところだ。
「進歩していないんだったら、環境問題なんて心配しなくていいわね」
「じゃあ、あっちの世界ってすごい自然がきれいなのかな?」
「この世界よりは百倍きれいだよ、ホント」
「すごいね、私も……いや、やめとこ」
海は顔を振って、その言葉をかき消した。
辺りを懐かしみながら、僕たちは山頂へ向かった。
予定通り、13時3分前に、山頂に到着した。古びた暁の門は、静かに佇んでいた。
「……変わってないね」
海が扉を眺めながら呟いた。
「ここから、全てが始まったような気がするね」
「……そうだな」
秋風が緩やかに、僕たちを包んだ。故郷の香り。……これを嗅ぐことができるのは、当分先になるかもしれない。
「空、気をつけるんだよ。風邪引かないようにね」
母さんは僕が遊びに出かける時のようなセリフを言った。
「……もうちと心配してる素振りをしてくれませんかねぇ」
僕はちょっとふざけながら言ってみた。
「これでも、かなり心配してるんだけどねぇ」
「ふん、そうですか」
……母さんの気持ちは理解しているつもりだ。だからこそ、これ以上深く訊く必要もない。
「空……あの、さ」
海は緊張した面持ちで、何かを言おうとしている。
「どうした?」
「……お願いがあるの」
海は顔を上げ、悲痛な面持ちで僕を見つめる。
「帰ってくるって約束して」
海は瞳を潤ませていた。泣きそうながらも、絶対に泣かないような瞳だった。
「ああ、約束する。ホラ、指切りげんまんしようぜ」
「ちょっ……何よ、それ」
海は思わぬことに、当惑している様子だった。
「指切りに決まってんじゃんかよ。ホラ、小指出しな」
僕と海は指切りげんまんをした。子供の頃、口約束を守らせるために何度も何度もやっていたっけな……。
「……よし」
彼女と指を離し、小さく微笑んだ。なぜか、海はムスッとした様子だったけど。
「絶対に……絶対に帰って来てよ。約束だからね?」
彼女は念を押すように言った。
「わかってるよ。約束を反古にはしませんよ」
と、僕は笑顔で海の頭をなでてやった。
「な、何すんのよ!!?」
「まぁ、ちょっとした気遣いだよ。僕なりの……」
「……………」
海は返答もせず、俯いてしまった。
「……空、母さんとも約束してちょうだい。生きて帰って来るって。死なずに、空ちゃんを助け出すって」
母さんは海の横に来て言った。
「わかってる。ちゃんと空を助けだして、やるべきことをやって……帰って来るよ」
「……いいかい? 一番の親不幸は、親より先に死ぬことなの」
「縁起でもないことを……」
思わず苦笑してしまった。まぁ、母さんは母さんなりに心配してるっていう証拠なんだが。
「何にしても大丈夫だよ。あっちには仲間たちがいるしさ」
志を共にする仲間たちがいるから、僕は諦めない。ここに、僕を待ってくれている人たちがいるように、あっちでも待ってくれている人たちがいる。そう、僕たちは独りじゃない。
「よし! 張り切って行って来なさい!」
母さんは大きな顔を微笑ませた。
「母さんが一番張り切ってんじゃん」
「いいから、あんたも気合入れなさい」
「りょーかい。……じゃあ、行くよ」
名残惜しくて、なかなかその言葉が出てこなかった。こういうことも、あるもんなんだな……。
「……行ってらっしゃい」
「空ちゃんを取り返してきなさいよ!」
海と母さんの激励に、僕は笑顔を見せた。こんなことまで言われたら、がんばるしかない。いや、がんばるのは当たり前。絶対に帰ってくるんだ。それを、守らなきゃな。
僕は門に近づき、指先で触れた。門は光り輝き、レイディアントへの扉を開いた。そこから、少し強めの風が吹き出てくる。
「待って!」
振り返ると、海が今にも泣きそうな顔をしていた。
「……海?」
「私、空のことが好きだよ」
彼女は笑顔で言った。涙を浮かばせながらも。
「大丈夫。空の気持ちは………わかってるから。でも……それでも、私は空が好き。だから……待ってる。空とお姉ちゃんが無事に帰ってくるの……待ってるから!」
そう言い切った瞬間、彼女のほほに一筋の涙が流れて行った。
お前は、あんなことをした僕を信じてくれているんだな。あんな、ひどいことをしたっていうのに。
今回の帰宅で、彼女がどれほど想ってくれているのか……ようやく理解できた。
「……母さん、父さんによろしく」
「ハイハイ、わかってるよ」
母さんは変わらない笑顔を見せた。
「海……元気でな」
「ば、馬鹿! そんな今生の別れみたいに言わないでよ!」
さっきとは違い、いつもの怒声っぽい感じで彼女は言った。
「別にそういうつもりじゃなかったんだけど……ま、行ってくるよ」
「さっさと行っちゃえ!」
「ハイハイ、わかりましたっての。まったく……」
僕はぶつぶつ言いながら、淡い光の中へ足を進ませた。入る瞬間の時だけ、少しだけ息苦しかった。
これで、しばらくさよならだな。
和樹、啓太郎、美香。
また帰ってくるから、そん時はよろしくな。
修哉………きっと、お前はどこかにいるんだよな。今度帰って来たら、一緒にいつかの約束のとおり、世界を旅して回りたいな……。
しばらくの間、みんなを護ってくれよ。
……樹……
空が門に入った後、光は一瞬だけざわつき、消えた。後に残ったのは、静かな森の音と、海たちだけであった。
「……無理しなくてもいいのよ、海ちゃん」
空の母は、そっと海の肩に手を置いた。
「……うん。わかってる、わかってるよ。……わかってるけど……」
海はその場に座り込んだ。
「でも………どうして空がいる時だけ……強がっちゃうんだろう……」
小さく自分を嘲笑った。自分でも、なんでそうしたのかわからずに。
「本当は……行ってほしくない…。行ってほしくない……!!」
体を小さくして崩れた海を、空の母は優しく抱き締めた。
「離れたくない……離れたくなかったのに……!!」
「……うん」
彼女は優しく背中をさすった。それによって、海がなんとか……なんとか抑えていた、湧き上がるものが溢れ出てきた。
「やだよ……」
秋の空に、かすれた自分の声が漏れる。風に乗って、淡い言霊となって世界に溶け込んでゆく。
「空…………空ァ!!」
空色の瞳から零れ落ちる彼女の想いの欠片たちは、枯れ葉で覆われた山頂に沈む。
遠くて近い世界……
どうして、私はこんなにも……こんなにも……
あなたが好きなの?
苦しいよ……こんなの……
「…………」
空の母は、息子が消えて行った門を見つめた。
……人に……たくさんの人に愛されて、本当に幸せな子……
だから、帰って来なさいよ。あんたは、私たちの大切なバカ息子なんだから。
血が繋がっていなくても……ね。