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BLUE・STORY  作者: 森田しょう
◆1部:僕と彼と彼女たちの日常
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2章:裏山 遥かに遠き、少女の呼び声



 あーたらしぃ、朝が来た。希望のうーたーがー。

 小学校の時に習った歌が、頭上から聞こえる。それだけで、自分の意識は“現実”にはないのだと知る。


 ――呼んでいるよ――

 ――君を――


「…………」


 目を開いた。その先に映っているのは、白い天井。

 ここは、一体どこだ?

 そう思いながら、自分が仰向けになっていることに気が付いた。ゆっくりと視線を上から下に降ろし、自分の周囲にへ目をやる。

 病院――のようだ。

 白色で統一された、清潔感のある部屋。僕がいる部屋は、どうやら個室のようだ。太陽の光が窓から差し込み、暖かさを漂わせている。時間帯的には、昼の手前だろうか。手許に時計がなく、よくわからないが。

 ちょうどいい室温だった。暖房も冷房もつけずにいられる、短い期間。一年を――そう、例えば一日の長さだと考えると、それは本当につかの間の休息。“春”とは、そんな感じがする。その短い時間の中には、桜が舞い散る時間があり、新しい出逢いだとか、今までとは違う生活が始まる――そういったものが、内包されている。


 そういえば、誰もいない。僕が病院にいるということは、あの頭痛がしてから気を失った後、ここへ搬送されたんだろうか。そして、入院する羽目になった――と。

 けど、気を失ってから何日が過ぎたのかわからない。新学期早々、入院する羽目になるとは……最悪だ。思わず、僕は肩を落とし、あからさまに大袈裟だと感じるくらいにため息をついた。自分の取り柄は頑丈で無欠席――但し、寝坊による遅刻はある――だというところなのに。初っ端から、それがダメになるとは。

 その時、この病室の扉が開いた。そこから、一人の男性医師が入って来た。


「お、漸く気が付いたようだね」

 医者は僕を見るなり、こちらへ寄ってきてじろじろと僕を診ていた。

「どうかね、気分は?」

 そう言いつつも、彼は僕の言葉よりも瞳孔などを気にしている様子だった。

「いや、悪くないです」

「そうか。急に頭痛がして意識を失ったと、君の友人が言っていたが……」

「え、ええ。たしかに、そうです」

 友人――空か。

「……だが、検査しても何の異常もなかったんだよ」

「そうなんですか」

 としか返せなかった。訊かれても困るのだが……気を失うほどなのに、何も異常がないということに対し、医者は当惑しているのかもしれない。

「念のため、もう一度検査をしておこうか」

 医者にそう促され、僕は再検査をすることに。その途中で、僕はいろいろと質問をした。

 ここはこの町の中央病院であるということ。僕は気を失って一日中、気を失っていたということ。さっき教えてもらった通り、体には何の異常もなく健康体であるということ。だからこそ、医者は当惑しているのだ。これだけ長い時間、気を失っていて何もないはずがないのに――。



 検査終了後、病室に行くと父さんと母さん、そして空がいた。

「空!」

 僕を見るなり3人は立ち上がり、入口にいる僕の所へ駆け寄って来た。

「あ、あんた……」

「先ほど再検査を行いましたが、何も異常は見当たりませんでした」

 母さんが僕に話しかけようとするのを遮るかのように、医者が話し始めた。たぶん、他意はないのだろうけど。

「……とはいえ、一日以上もの間、気を失っていたのです。念のために、もう一日入院することをお薦めしますが」

「そ、そうですか。じゃあ、お願いします」

 母さんはそう言うと、お辞儀をした。そして、先生は病室から出て行った。

「……あんた、もう大丈夫なの?」

 先生が出て行くのとほぼ同時に、母さんはこちらへすぐさま顔を向け、訊ねてきた。

「どこも異常ないんだよ。どうして気絶していたのか不思議なくらいなんだけど」

 僕はそう言って、ベッドの上に座った。あまりにも普通なので、三人ともポカーンとした表情をしていた。僕との温度差のせいなのだろう。

「もう大丈夫なの?」

 すると、空が僕の額に手を当て、そう言った。急にそうしてきたものだから、なぜか体が硬直してしまう。照れに近いが、たぶんそうだとは気づかれていない。

「だ、大丈夫だよ。言っただろ、何の異常もないって」

「……そっか。よかった……本当に」

 空は安堵するように息を吐き、胸に手を当てた。まるで鼓動を抑えるかのように。

「そう言えば……お前、学校は?」

「お前が心配だから、休んだんだよ」

 わかるだろう、それくらい――と言わんばかりに、父さんはため息交じり言った。たしかに、普通に考えればそうなのだ。無意識とはいえ、訊ねてしまった自分の馬鹿さに呆れてしまいそうになる。僕は思わず、むしゃくしゃする子供のように頭をかき、空に言った。

「ごめんな、空。心配させて。来てくれて、ありがとな」

「……ううん、私が勝手に来ただけだから。でも、来てよかった」

 彼女は優しくも、童心溢れる子供のような屈託のない笑顔をして見せた。それでいて、どこか泣き出してしまいそうで、焦燥感を抱かせられるものだった。彼女は我慢しているのだということが、すぐにわかった。

 だから、思う。あとで必ず、もう一度お礼を言おう――と。

「ま、元気そうで何より。俺は仕事があるから、会社に戻るとするかー」

 父さんはわざとらしく笑いながら、鞄を肩にかけた。

「今日は休みじゃなかったんだ」

「当たり前だろ? 今日は平日。俺の仕事に、平日休みはない!」

 父さんはそう断言し、しがないサラリーマンですからねぇと付け加えた。

「ついでに家に帰るけど、お前はどうする? 帰るか?」

「そうねぇ。洗濯物がたまってるし、帰るわ」

 母さんはあくびをしながら、そう言った。二人の、そのあまりにも日常的すぎる会話を目にし、僕は思わず怪訝な表情を浮かべるしかなかった。

「自分たちの息子が初めて入院したってのに、その何事もなかったような態度はどうなんだか……」

 ため息交じりに、そう言ってしまう。

「お前は丈夫だからな。安心した証拠だよ」

 父さんはそう言って、笑った。やれやれ、と思いつつも、ある意味で僕のことをよく知っているともいえるのかもしれない。

「空ちゃんはどうする? おじさんたちと一緒に帰るかい?」

「私は……」

 空はそこで言葉を詰まらせ、少し息を呑んだ。

「……学校休んじゃったし、もう少しここにいようかな」

 そう言って、作り笑いを浮かべていた。()()()()()()()()()()()()()()、そうだったのだ。

「そうか。じゃあ、ご両親にも伝えておくんだよ。それじゃ」

「うん」

 そして、母さんと父さんは僕を心配する素振りも見せずに、帰って行った。そんな両親の後ろ姿を見つめながら、僕は口を開いてしまう。

「あれでも親かぁ? 自分の息子が入院したってのにさ」

 悪態をつくかのように、僕は言った。そんな僕に、空は苦笑をして見せる。

「おじさんもおばさんも、昨日寝ずに付き添ってたんだよ。心配に決まってるじゃない」

 彼女は諭すようにして、優しく伝えた。まるで大切なことを教える、母親のように。だからか、僕はなんとなく照れくさくて「ふーん」とだけ言って、鼻先を指で掻いていた。

「……悪かったな」

「え?」

 空はキョトンとして、僕を見た。

「学校、サボらせちゃって」

 そう言うと、なるほど――と、彼女は頷いていた。

「ううん、好きでここへ来たんだもん。気にしないで」

 空は穏やかに微笑みながら、どこか無邪気な子供のような笑顔を含ませつつ、そう言った。どうして、その言葉と表情が果てしなく嬉しく感じさせた。理由はわからないけれど。

「……そっか。ありがとう」

 僕はそれを隠すようにして、また鼻先を指で掻いてしまっていた。

「ところで……昨日、どうしたの?」

 僕は彼女の方に顔を向けた。

「声が聞こえるとか、なんとかって言ってたから」

 彼女の問いに対し、僕は訝しげに首を傾げた。空には“聞こえていない”?

「空には、聞こえなかったのか?

「え? う、うん」

 空はどこか困ったような表情で、頷いた。

 つまり、僕にしか聞こえない声だった――ということなのか? 僕の記憶を辿る限りでは、聞いたことも無い声だった。それでいて、どこか懐かしい感じのする声ではあった。


 懐かしい?


 僕は何を考えているんだ。矛盾するようなことを、なぜ考えている。記憶にないはずなのに、どうして懐かしいと感じるのか。

「大丈夫?」

 いつの間にか、空が僕の顔を覗き込んでいた。急に黙ってしまったから、彼女は疑問符を浮かべた状態になっている。

「だ、大丈夫。ちょっと、考え事というか」

「…………」

 これでは無為に心配させてしまうようなものだ。何か別の話題でも――と思慮しつつ、僕はふいに周囲を見渡した。

 この無機質な病院独特の匂い。それは僕たち人の生きている匂いまで消してしまっているかのような、どこか殺風景なもの。それは命が生まれ、絶えてしまう場所であるが故の、いわば生と死が混在する匂いのようだった。

「……病院、懐かしいよな」

 僕は漏れる程度の声で、そう言った。その小さな言葉を、空はしっかりと耳に受け入れていた。

「そう、だね」

 彼女も僕と同じように、病室を見渡した。きっと、先ほどの僕が見ていたそう遠くない“過去”を見つめているはずだ。なぜならば、彼女もまた同じ時を過ごしていたのだから。


 僕には弟がいた。年齢は一つ下で、空と海とは同級生になる。

 名は“(イツキ)”。


 元来丈夫な僕とは違い、樹は病弱だった。心臓が弱く、よく発作を起こしては入院していた。気付けば――物心がついた時からそうだったから、それが当たり前だと思っていた。一年の半分近くを病院で過ごしていたから、幼馴染である空と海、そして修哉はよく樹の病室に訪れていたものだ。本来であれば、そこまで体調を崩すことなどないはずなのだが、なぜか樹は医者も頭を悩ませるほど具合が悪くなることが多く、何度も入院せざるを得なかったのである。だからと言って、死んでしまうとか……そういうことになるものではなかった。


 しかし、3年前。

 樹は僕たちの前からいなくなってしまった。()()()()()()()()()


 あの日、巨大化した低気圧の影響で、この辺りは暴風雨に見舞われた。季節柄、大気は不安定になりがちだと天気予報では言っていたし、こんな日に外出するような人間はいないだろうと、僕は呑気に考えていた。

 その頃、樹の体調は小学生の頃に比べかなり元気になっており、中学生になってからは体育にも参加できるほどになっていた。


 すでに暗くなった夕方、母さんと樹が珍しく口論をしていた。


 僕が親に口答えすることはあっても、樹が親に口答えすることはかなり珍しい――と言うより、見たことがなかった。だけど、その日、母さんは掃除の時に誤って樹の大切なものを捨ててしまったのだ。それは何なのかというと、空からもらったという小さな宝石だった。小学の修学旅行に行けなかった樹のために、空がお土産として買ってきてくれた物で、樹脂が結晶化したような――翡翠色をした宝石だった。僕は別のものをもらったが、子供ながらに綺麗だと感じたのをよく覚えている。

 樹は母さんに言った。なぜ、確かめもせずに捨てたのかと。母さんも最初は謝っていたが、それで収まるような話ではない。珍しく母さんに何度も同じことを言うもんだからか、母さんも激昂してしまい口論になっていた。

 だから、つい、出てしまったのだ。普段、そんなこと絶対に言わない。

 母さんは「出て行け」と怒鳴った。「あんたなんか、“あの山”に行ってしまえばいいんだ」とも。

 激しい口論で騒々しかったリビング内が、一瞬にして静かになったのを今でも覚えている。子供ながらに、思った。“言ってはならないこと”だったと。

 樹は何も言わず、涙を流していた。まるで雫が垂れるように。そして、「わかった」とだけ言い残し、家を出て行ってしまった。


 それが、樹の最後の姿だった。


 その時、どれだけ後悔したか。すぐに追いかけ、樹の腕を捕まえておけばよかったと。なぜあの時、僕はただ呆然としていたのか。今まで経験したことのない場の雰囲気に、呑まれていたのかもしれない。

「すぐに帰るよ。心配するな」

 周囲を見て回ったものの、樹の姿が見つけられなかった父さんは、母さんを励ますようにしてそう言った。当時の僕は、大事になるなんて夢にも思わなかった。


 夜、警察から連絡があった。

 樹が増水した川に流されたと。

 今も見つけられない。

 現場に樹の携帯電話が落ちており、うちがわかったのだと。


 数ヶ月の捜索もむなしく、樹は見つからなかった。誰もが思う――あれだけ増水した川に流されてしまったなら、生きていることはまずあり得ない。


 行方不明のまま、捜索は打ち切り。

 唐突に訪れた樹のいない日常に、僕は感情を出すことが出来なかった。

 いつの間に葬式は終えたのだろう。遺体のない葬式なんて、する意味があるのだろうか。同じ部屋でつまらない話をして笑い合っていたことが――今までの日常がまるで別世界のものだったかのように、灰色に色あせていくようだった。

 あの日まで、樹はいたのに。


 あれだけ泣き喚いていた母さんを見たのは、初めてだった。その涙で、溺れてしまいそうになるくらいに。



 あれから3年。喪失という悲しみを乗り越えるには、まったく足りないが――それでも、多少は前を向けるように、日常通りに生きることが出来るようになっていた。

「……小学生の時は、よく来てたよね」

 空は沈黙の中に、ゆっくりとその言葉を置くようにして言った。寂しさと、哀しさと、乗り越えつつある健気さ。その全てが、優しく包括されているかのように。

「まさか、自分が入院することになるとは夢にも思わなかったんだけどな」

 自虐しながら、僕は笑った。まるで、僕は大丈夫だと言わんばかりに。

「……今日はありがとな」

「え?」

「話し相手になってくれて。こんな辛気臭いところにいたら、気が滅入りそうだ」

 樹はよく言っていたなと、思い出したんだ。一人で病室にいるのは寂しい――と。

「学校、サボってまでいてくれてさ。ありがとう」

 それは、本当に心からそう思った。だからか、空も優しく微笑んでくれたのだ。

「ううん、私の方こそ……ありがとう」

 彼女の言葉に、思わず僕は怪訝そうな顔を浮かべる。

「なんで空がお礼を言うんだよ?」

「“ありがとう”って言ってくれて、ありがとう――ってこと。空の傍にいて、よかったな……って」

「え――」

 その瞬間、空は顔を紅潮させてしまった。自分が何やら恥ずかしいことを言ってしまったのだと、自覚していくかのように。

「あ、あのね。な、なんていうのかな、その……えっと……」

 見事な慌てっぷりの空が、どこかかわいく思える。僕は思わず、噴き出してしまいそうだった。すると、空はおもむろに立ち上がる。

「きょ、今日は帰るね! か、帰って家事とかしなきゃだ、だから!」

「は?」

 そう言って、彼女は脱兎の如く病室から出て行ってしまった。普段はおっとりして動きも遅いのに、なぜこんな時は異常に素早いのか……わからない。

 彼女が座っていたパイプ椅子の下に、鞄が置いたままであることは敢えて言わないでおこう。





 翌日退院した僕は、親が心配するのでもう一日学校を休むことになった。

 退院してから二日後に学校へ行くと、案の定みんなから質問攻めをされた。小学校の時から僕を知っている人からしてみれば、“丈夫だけが取り柄なアズマ”と揶揄されていた奴が入院なんてすれば、気になるのも当然と言える。


 それからと言うものの、あれ以来、幻聴も頭痛もしなくなった。

 事情を知っている空は、僕を心配してか登校時間を合わせるようになった。海は僕に合わせていたら遅刻するからなんて言って、先に行ってしまう。彼女は彼女なりに心配しているんだろうけど。

 何も無い日々が続き、僕は幻聴や頭痛のことを忘れかけていた。春は緩やかに去っていって、艶やかな緑が山々を覆っていき、日差しも長時間浴びていると皮膚が悲鳴を上げてくるほどになってきた。

 4月は終わり、5月になった。




「何か知らないけど、最近仲が良いみたいじゃん」

 修哉は屋上で大の字になって言った。僕も同じように、大の字になって夕焼けの空を眺めていた。なぜこんなことをしているのかと言えば、修哉に誘われたからだ。普段、こんなことはしない。

「何が?」

「しらばっくれるなよ。お前と、空ちゃんだよ」

「ああ……そーいうことね」

 毎朝――というわけでもないのだが、ほぼ空と一緒に登校している。噂好きな奴からは、「付き合ってんじゃないか」と言われているらしいのだが、事情を知っている人がそれなりにいるから、特に気にもしていない。それに中学生の時、一緒に登校していたことは多々あった。

 そう言えば……中学3年生の時、なぜか知らないが空が毎朝、僕の登校時間に合わせてくれた頃があった。なのに、2学期が始まった頃になると彼女は海と同じ時間帯に学校へ行くようになった。あの時、少し意識した。空の考えていることがいまいちわからないな、と。

「俺のクラスの男もそうだが、聞いた話では3年の男子もお前に嫉妬してるらしいぜ?」

 よくもまぁ、修哉もそんな情報を仕入れてくるな。

「なんでだよ。全く関係ないじゃん」

 ため息交じりに、そう言った。

「僕があいつの目の前で気を失ったから、心配なだけだよ」

「ふーん。けどまぁ、うらやましい限りですよ」

「……修哉。お前、なんか言いたいことがあるんじゃないのか?」

 なんとなく、遠回しに何かを言おうとしているような気がした。彼はいつもそうだ。肝心なことは、自分から言おうとせずに()()()()()()()()()

 修哉はゆっくりと立ち上がり、フェンスの方に歩き出した。

「さすが俺の親友、よくわかったな。なら話は早い」

 修哉は背を向けたまま、フェンスに手を掛けた。

「生殺しにするようなことはするなってことさ」

「……?」

 意味が分からず、僕は思わず上体を起こした。

「お前にとっても、誰かにとっても、今の状況はよくないんじゃない?」

「誰かって……誰だよ?」

 さらにわからない。まるでヒントのない謎ときのようだ。

「そこのところは、自分で考えろって」

 彼はそう言って、小さく笑っていた。

「考えろって言われてもな……」

 思わず、僕は後頭部を掻いてしまった、意識したわけではないが、土埃を取る意味も込めて。

「お前の欠点は、ちょっとばかし鈍いってところなんだよ」

 修哉はそう言って、僕の方に振り向いた。

「大事なことは意外と近くに転がってるってもんだ。灯台下暗し――みたいにさ」

「……んで、何が言いたいんだ?」

 僕は首を傾げた。その様子に、修哉は肩を大きく落としていた。

「普段通りにはいかないぞってことさ。その内、痛い目見るぜ?」

「は?」

「じゃ、俺は帰るよ」

 修哉は放っていたカバンを手に取り、帰ろうとし始めた。僕は慌てて、それを阻もうと立ち上がった。いろいろ言っておきながら、なんで帰ろうとするのかわけがわからない。

「結局、何が言いたいんだよ。ちゃんと言ってくれないと、わかんねぇよ」

「ほら、俺ってそれが常套手段じゃない。気にすんな」

 と、修哉はウィンクをして見せる。思わず、僕は大きなため息を漏らした。

「気にしてほしいのか、してほしくないのか……どっちだよ?」

「たぶん、すぐに気付いてくれるさ。お前だからな」

 修哉はニコッと微笑んだ。だから敢えて何も言わない――のかもしれないが、些か親切さに欠けると言わざるを得ない。正直なところ、修哉はよくそうやって本質に気付かせようとする節がある。

「ちょっと明日から留守にするから」

「……学校には来ないつもりか?」

 そう訊ねると、彼はうんと頷く。

「ああ。来週の火曜までな」

「4日も!?」

 今日は5月11日、金曜である。

「たまーにどっか遠出してるみたいだけど、どこに行くんだよ?」

 いつの頃からか、修哉は急に学校を休むことがある。親父さんとどっか行っているとの話は耳にしている。というのも、妹の咲希ちゃんとお母さんは留守番をしているからだ。

「まぁ………ちょっと、な」

 修哉はなぜかばつが悪そうに、僕から視線を逸らす。

「学校サボるなら、正当な理由が必要なんじゃない?」

「そこのところは、秘密」

 再び、修哉はウィンクをする。僕は思わず、やれやれと声に出してしまった。

「ま、修哉なら数日の遅れなんて気にもならないか」

「そんなことないぜ? 帰ってきたら、いろいろ教えてくれよな」

 じゃあな――修哉はそう言って、屋上から出て行った。


 僕は屋上で一人、夕暮れ時の世界を眺めていた。茜色の空が、西から広がっている。黒い影にしか見えないカラスたちが、夕焼けの影をほのかに残しながら、西へと進んで行く。

 わけがわからない――と思いつつも、何かを言い当てられているような、そんな気がした。幼い頃から、修哉は遠回しに言ってくる癖があるのだが、不思議とそれに対し煙たがるように思ったことはない。たぶん、彼の方が()()()()()()()()()()()()()だと……なんとなく、思っているからなのかもしれない。

 僕はまぶたをゆっくりと閉じる。夕焼けの光が、僅かに瞼の皮膚の上を照らしていた。



 ――そう、僕たちは――

 ――果てのない、歩みを続ける――

 ――それを人は、なんと名付けるのだろう――


 ――でも、そうさ――

 ――僕は信じている――

 ――約束の刻を――



 腰付近から、振動がする。それは屋上のコンクリートと接触して、変に大きな音を奏でていた。僕は起き上がり、周囲を見渡す。さっきまで西の空にしかなかった茜色は、いつの間にか僅かに残るだけになっていて、空のほとんどは夜の(とばり)が広がっていた。

 いつの間にか、寝ていたのか……なんとまぁ、情けない。

 そう思いながら自分の髪をクシャクシャにしつつ、携帯電話を取出し画面を見てみる。そこには「日向海」と表示されていた。

「……もしもし」

 眠気眼のためか、僕の声は自分でも認識できるほどに覇気のないものだった。

「何してんの? 寝起きみたいな声をして」

 呆れたような口調で、海の声が届く。何もかも正解なので、思わず笑ってしまいそうだった。

「まだ帰ってないみたいだけど、どこにいるの?」

「えーと……学校」

 そう答えると、彼女は「はぁ?」と少々の怒気も孕んでのような声を出していた。まぁ、わからんでもない。自分でもこんなに暗くなるまで寝てしまうなんて、呆れていたのだから。

「まったく……意味わかんない。どうせどっかで寝てたんでしょ?」

 ギクッ。思わず、そんな声が出てしまいそうだった。言いあぐねている僕を察してか、海は「まぁ別にどっちでもいいけど」と言って、わざとらしくため息をついていた。

「そんなことより、早く帰って来てよ。話したいことがあるの」

「話したいこと? 今言えばいいじゃん」

「ちゃんと会って話したいから、わざわざ帰って来てって言ってんの! わかんないかなー」

 と、海は少しご立腹の様子。

「おいおい、それじゃまるで告白でもするみたいだな」

「はぁ!? そんなわけないでしょーが!」

 僕の冗談に、本気で食って掛かるかのように海の声は大きくなった。耳が痛くなりそうで、つい電話口から離してしまった。

「いいから、さっさと帰って来る! わかった!?」

「は、は~い」

 返事をした途端、電話は切られてしまった。それにしても、耳を話しても聞こえてしまうほどの声量というのは、怒りを感じるな。そこはうまく冗談だと受け取ってほしかったんだが。

 僕は立ち上がり、大きく体を伸ばした。鞄を拾い、屋上から出ようとした時――ふと、僕は後ろに振り向いた。そこには、さっきまで自分がいた“空間”。日常の中に佇む、自分の世界の一部だった場所。

 ……なぜだろう。なんとなく、誰かに語り掛けられたような気がする。ずっと昔、僕が“誰か”だった時の人から。或いは、夢の中で哀しげに見つめる、何かから。


 ――どうしてだろう。そう感じるのは……。






 家に帰り、自分の部屋に入ると、海だけでなく空も座って待っていた。僕の部屋のプライバシーというものはないのだろうか……と思いつつも、今更な突っ込みになってしまうため、やめておく。

「それで、話って何?」

 鞄をおもむろにベッドへ放り、僕は制服の上着を脱ぎつつ質問した。

「実はさ、ある噂を聞いたんだ」

 海はどこぞの少年のように、笑顔で話し始めた。こうなると、嫌な予感がするのだが。

「小学校の裏山、覚えてる?」

「裏山………ああ、あそこか。昔、よく遊んだ場所だろ?」

 小学生の頃、よく遊んでいた場所だ。いつの間にか、行かなくなってしまっていたが。

「そうそう。明日、そこに行かない?」

「……急になんでまた?」

 今更、何しに行くのだろう。皆目見当がつかないので、頭を傾げるしかなかった。

「実はその山頂に、珍しいものがあるんだって。友達が言ってた」

「珍しいもの? そんなもの、あったっけ?」

 記憶を辿っても、それに相応しいものがあったようには思わない。

「桜の樹があるんだってさ」

 と、空が言った。

「春になれば、桜なんて珍しくないだろ?」

 そこまで言って、僕は気付く。今は5月だ、桜なんてもう散ってしまっている。

「そこの桜は、5月になっても桜が満開なんだってさ」

 僕の気付いた表情を見てか、海はどこか満足げに言った。

「へぇ、珍しいもんもあるんだな」

「だからさ、明日、見に行かない?」

 海はニコッと微笑んだ。

「明日?」

「そ。行こうよ」

「めんどくせぇよ。明日はせっかくの休みじゃんか」

 貴重な休日を、また彼女たちに潰されてたまるか。明日は昼過ぎまで寝ると決めていたのだ。

「どうせ、明日はゆっくりしたいとか思ってんでしょ?」

「…………」

 海は僕を目を細めて見てきた。何もかもお見通しでございやす。

「明日行っても、日曜日も休みなんだから、いいじゃん。ゆっくり休むのは日曜にしときなよ。何のために休みが二日間あると思ってるの?」

 海の言いたいことはわかる。土曜休んで、日曜に行動したとしても、月曜から再び学校だと思うと気が滅入る。それならば、土曜に行ってしまえばいい――ということなのだが、如何せんそれには僕の意見が反映されていない。二日間ともゆっくりしたいという、僕の願望は無視されているのだ。ここは、強く言わねば。

「待て、海。僕は二日間、寝て過ごしたいんだ。わかるだろ?」

「わかってるけど、そんなの知ったこっちゃないよ」

「は?」

 さも当たり前かのように、海はキョトンとした顔で言ってのける。

「いや、おかしいだろ。僕の都合っていうものは――」

「お姉ちゃんも、行くよね?」

「え? う、うん」

 海から急に振られた空は、驚きつつも頷いた。

「ほら、お姉ちゃんも“行きたい”って言ってんのよ? 気を失った空を介抱してくれたり、足しげくここへ通って、体調を気にかけて一緒に登校してくれているのは、誰だと思ってるの?」

 卑怯な……。自分の姉を使うか。

「いやいや、そりゃ感謝してるけど、それとこれとは、べつ――」

「せっかくの休みなんだし、いいじゃん。ね? たまにはお願い聞いてよ」

 今度は泣き落としのように、海は言ってくる。その手には掛かりたくないんだが……実は意外とこういう表情に弱い。普段、強気な性格の海が見せる弱弱しい表情というのは、変に男の心をくすぐるものがある。それが演技だということがわかっていても、ため息をしつつ了承してしまうのだ。どこか、そんな自分に酔ってしまうように。

「……わかったよ。明日は付き合う」

 僕は頭を抱えてしまった。その様子を見て、海は表情を一変させ、満開の花のように笑顔になった。その隣で、結局了承してしまう僕に呆れている空の顔が容易に想像できてしまう。

「ホント? よかったぁ! 男の人でもいないと、怖いんだよねー」

「何が怖いんだよ?」

 そう訊ねると、海は首を傾げる。さも当然のように。

「山よ。当たり前でしょ?」

「……その歳になって、何が怖いんだか。小学生の頃は何度も行ってただろうに」

「あの頃は、無邪気だったんだって」

「無邪気、ねぇ」

 僕は思わず、鼻で笑ってしまった。泣き落としをしてくるような女の子が、何を言ってんだか。

「な、何よ?」

「べっつにー」

 このあと、例の如く海に殴られる羽目に会いました。




 小学校の裏山は、数年前まで地元の子供の遊び場でもあった。僕たちが小学生の頃は、学校終わりによく登ったのを覚えている。虫を採りに行ったり、キノコを探したり、かくれんぼしたりなど。それこそ、平凡な小学生がやる遊びをするための場所だった。成長するにつれ、山へ行くことが少なくなり、気付けば立ち入り禁止になってしまったと風の噂で聞いたくらいだった。

 5月5日――土曜日。僕にとっては、大きな意味を持つ日でもある。いや、ぼくだけではない。空や海、父さんや母さんにとっても大事な日である。

「ちょっと、山へ行く前に寄りたいところがあるんだけど」

 裏山へ行く道の途中、歩きながら僕は言った。

「いいけど、どこに?」

 と、海は首を傾げる。忘れたわけではないとは思うが……。

「墓だよ」

 そう答えると、海の表情が止まってしまった。数秒して、彼女はひどくばつが悪そうに視線を逸らした。

「ごめん……勝手に浮かれてた」

 先ほどまでの明るい彼女が嘘のように、その言葉は後悔の念をまとわせたものだった。あまりの変貌ぶりに、逆に僕が“やってしまった”と思ってしまうほどに。

「それでいいんだと思う。いつか、何のことはない日に変わるのかもしれない。気にすんな」

 僕は彼女の頭を、軽くなでた。

 彼女はこう見えて、心が繊細だ。自分の言動で他者がどう感じたのか……いや、一般論としてそれは当たり前の思考なのだが、彼女の場合、よりそれが繊細なのだ。ある意味で、感情の起伏も激しい。

「……墓地は山の近くだから。ちょうどいいよね」

 フォローするかのように、空は言った。

「そうそう。だから、海。気にするなって」

「……けど……」

 海は俯いたまま、顔を上げようとしない。

「お前がそんな暗い顔だと、樹だって嫌がるぞ? もちろん、僕も」

 そう言うと、彼女はまるで期限をうかがう子供のように、顔を上げた。

「……そうかな」

「そうだよ、きっと。笑顔であいつにあいさつしようぜ。な?」

「……うん」

 漸く、海は儚げに微笑んだ。

 3年という時は、人に等しく与えられる。僕自身が乗り越えられたと思っていても、他人にとってはそうでないこともある。時間はたしかに傷を緩やかに癒してはくれるけれど、振り返る余裕をあまり与えてはくれない。生きている人たちにとって、時間とは残酷にしてリアルなのだ。

 墓地へ向かい、そこで僕たちは手を合わせる。そこには眠っていない、樹に向けて。





 青天の下、僕たちは小学校の裏山へ向かった。裏山へ行くには、小学校の近くにある細道を行って、そこから山道に入れる。

「この道を通るのも、久しぶりだね」

 歩きながら、空が言った。

「小学校へ行く時以外、ほとんど通らないしな」

「あっ、この公園………懐かしいなぁ」

 海が指差した公園は、人気の無い公園だった。砂場やブランコ、平均台などといったものしかない、ひっそりとした公園。小学校の帰り、度々ここで遊んだ記憶がある。

「そう言えば、こういう所もあったな」

「……だんだん、忘れて行っちゃうんだね。私たちが幼い頃、慣れ親しんだ場所は……」

「今の今まで、忘れてたもんね」

 二人は遠い目をして、公園を眺めていた。

「たぶん、変わらないものなんてないんだよ」

 僕もまた、公園を見つめていた。

「否応なく僕たちは成長するわけだから、昔とは見えるものも変わるんじゃないか。懐かしいって言えるあたり、多少なりとも大人に近づけたってことなんだと思う」

 体と心の成長は必ずしも同じ速度ではない。僕たちは体格だけで言えば、大人のそれと大差はない。だけど、心も同じように大人になっているかと言ったら、そうではないのだ。今まで見てきた景色や、様々な事柄に対して……“懐かしい”と思えるようになるということは、もう僕たちはそれらと“同じ視線”にはいないということ。いつの間にか成長して、視線が高くなっているのだ。

「…………」

「…………」

 ふと、気付く。二人が僕を見つめていることに。

「な、なんだよ? 変な目をして」

 なんだか気味が悪く、そう言ってしまう。

「う、ううん。なんでもないよ。ねっ?」

「う、うん」

 海の振りに、空も同じように相槌を打つ。変に隠されたような気がして、僕は思わず訝しげに首を傾げた。

「な、何でもないって言ってるでしょ? ほら、早く行くよ!」

 海は僕のそんな表情から逃げるようにして、足早に先へ進み始めてしまった。

「なんなんだ? まったく……」

「……海も同じなんだよ、きっと」

 空は立ち止まり、そう言った。

「いつの間にか成長している――って、当たり前だけど……気付かないよね。だから、少しでも……今を変えたいって……思うんじゃないかな」

 そう言って、空は僕に照れながら微笑みかけた。きれいな笑顔。白い肌が、太陽の光を反射している。あまりにもきれいだったので、僕は逆に照れてしまった。それを隠すため、僕は彼女から顔を逸らした。

「どうしたの?」

 何もわかっていない無垢な顔が、僕を見つめる。

「……なんでもないよ。それより、行こう。海が行っちまう」

「う、うん」

 僕と空は、海を追って歩き始めた。

 空があんな笑顔と、無垢な表情を見せるもんだから、自分が恥ずかしい気持ちになってしまった。

 あいつの顔って、あんなにもきれいだっただろうか? 今まで見てきた幼馴染の顔だっただろうか?

 最近、あいつを見る目が変わってきている気がする。海に対しては、何も変わっていないのに。

 なぜだろう。()()()()()()()()()()()()()



 午後3時頃。ようやく、山道に入った。しばらく誰も出入りしていないせいか、昔使っていた山道に、多くの草木が生えている。まぁ、進めないほどではないが。

 ここかしこから、鳥のさえずりや虫の声、そして風によって揺れ動く木々の小さな音が聞こえる。それ以外は、何も聞こえない。森や山というのは、人が住む場所から隔離された“別世界”のように感じる。車が走り抜ける音や、人間の話し声さえも聞こえない。つまり“人気がない”。だから、別世界のように感じるのかもしれない。だが、本来の姿としては“こちら”の方が正しいのではないかと、思った。それが自然――地球の姿だから。

「くらーい。じめじめする」

 海はブツブツと文句を言い始めた。

「山に行きたいって言い出したのは、お前だろ」

 僕はため息混じりに言った。

「だって、こんなんだとは思わなかったんだもん」

「ここ数年、出入り禁止されていたからか、山道は長いこと整備してなかったんだろうな。以前は、こんなにうっそうとしていなかったし」

「……スカートで来るんじゃなかった」

 空はそう言って、小さくため息をついた。

 こうやって歩いていると、懐かしい。中学生になってから一度も来ていなかったからあまり思い出せないけど、なんとなく見覚えがあるものばかりだ。

 ここを曲がれば、ちょっと変わった形をした樹があったり、2つの樹が交差するかのように生えている場所があったりなど。


 ――セヴェス――


 どこからか、声が聴こえた。僕は立ち止まり、辺りを見渡した。

「…………」

 この森の中には、僕と空と海、そして動物や虫以外、何もいない。何もいないはず。なのに、なぜだろう。この違和感は。

「空、どうしたの? 立ち止まっちゃって」

 海は僕の方に振り向いた。

「…………」

「空?」

 空は顔を覗かせた。彼女たちの声ではない。またもや、聞き覚えの無い声が僕にだけ聴こえたようだ。

「あ……いや、なんでもないよ。ごめん」

 僕はそう言い、何事も無かったように歩き始めた。空たちは顔を見合わせ、頭の上にクエスチョンマークを浮かばせているに違いない。




「ようやく着いたー」

 3時半前、僕たちはようやく山頂に到着した。

「うわぁ……ここからの風景、久しぶりに見てみると、とてもきれいに見えるね」

 空は髪をかき上げ、言った。この山頂は開けていて、町を一望できる風景がある。ここから見える風景は、結構きれいなものだ。ズラーッと陳列されたコンビニのお菓子のように住宅が立ち並び、所々から飛び出ている高層ビルが見える。

「大きくなってから見てみると、昔とはまた違う風景に見えるな」

「……そうだね」

 僕と空は、しばしの間、その風景に目を奪われていた。柔らかな風が僕たちの間を吹き抜け、雑草や樹の葉っぱを小さく揺らす。町のずっと先が、微妙に白んでいる。これは、大気が汚れているからだろうか。

「あっ! あったー!」

 突然、海が叫んだ。後ろへ振り返るとすでに彼女の姿は無く、別の場所に移動していた。

「空、お姉ちゃん! こっちこっち!」

 姿は見えないが、奥の方から声がする。

「いつの間に移動してたんだか」

「たしかにね」

 僕たちはそんなことを言いながら、海のいる場所へと進んだ。

「ホラ、見てみなよ!」

 子供が目を輝かせ、宝物を示すかのような表情で、海は“それ”を指差していた。

 どこにでもあるような、桜の樹。満開の桜の花が、4月なのではないかと勘違いさせる。しかし、その樹以外で春を思わせるようなものは、一切無い。

「本当にあったんだ。へぇ……」

「きれい……」

 僕たちは思わず、感嘆の声を漏らしていた。

 風が吹くたびにチラつくピンクの花びらが、この辺りを舞う。桜吹雪とまではいかないが、周りの風景とのギャップが、なんとも言えない美しさを表現している。

「うわぁ……本当にきれい」

 空は桜に目を奪われ、子供のようにずっと見上げていた。

「いつも見る桜を見てもなんとも思わないんだけど……こうして見てみると、普段よりもきれいに見える気がするな」

 僕も同じように、それを見上げる。見られる時期以外で見られるから、より美しいと感じるのかもしれない。

「でも、どうしてこんな季節に咲いてるんだろう?」

 海が言った。海も、空と同じように顔を上げている。

「どうだろうな。ここらだけ、寒いとか? 標高何メートルあるかどうか知らないけど」

「そんなことで、1ヶ月以上も咲くのが遅れるのかな……?」

 と、海は首を傾げる。

「そればっかりはわかんねぇな。専門家にでも見てもらわないと」

 そこまで疑問に思うことでもないのだが、少し気になる。こんな季節、こんな場所でたったの“1本”だけ咲いている桜。

 咲いている理由よりも――別の意味で、何かを指し示しているように感じる。

 そう、まるで太古の時から佇む墓標かの如く。


 ――セヴェス――


 再び、あの声が聴こえた。同時に一瞬だけ、電流が流れたかのような頭痛が頭の中を走った。

「くっ――!」

 少し顔を歪める程度の痛みだった。一瞬だけだったので、大したことは無い。僕はふと、声が右から聴こえたような気がしたので、そっちに視線を移した。()()()()()()()()()()()()()()()()

 僕は引き寄せられるかのように、そこへ足を進ませた。

「空?」

 僕が歩き出したことに、2人は気が付いた。しかし、僕が行こうとしている先にあるものがなんなのか、まだ気付いていない。

 僕は“それ”の前に、立ち止まった。

「これは――」

 そこにあったのは、一つの門。大理石でできた、逆U字型だった。

「な、何? これ?」

「うわっ! なんだこれ?」

 2人もそれに気が付き、いつの間にか僕の隣へやって来ていた。

「これ……遺跡の一部かなんか?」

 海はそれの回りを歩きながら、そう言った。

 古代ヨーロッパ様式の形をしたような門。全体に変な模様――漠然と“言語”と認識できるくらいの――が刻まれ、コケや草花などがあちこちから生え、粘土の色に変色している。作られてから、長い年月が経っていることを示している。

「結構大きいね。高さは……3メートル以上かな?」

 海は背伸びをして、その門の高さを測っていた。彼女が背伸びをし、手を伸ばしても届かない。幅は、約1メートルと言ったところか。

「古代文明の名残……みたいなものなのかな?」

 空は頭をかしげた。

「この町にそんな文明があったっていう話は、聞いたことも無いけどな」

 日本という国の、平凡な土地だからな。

「見た目からして日本のものじゃない……と思わない?」

 海はその門に触れ始めた。まるで指紋を採取する鑑識のように。

「まぁ、たしかに」

 この国のものっぽくない――というのは、正しい。なぜなら、これはもっと高尚なものであるから。そう、分かたれた世界のかけらを求めて、果てのない旅路を続ける彼らの――。


 は?


 僕は、何を思っている。なぜ、知った風なことを思うんだ?


「まったく関係が無いのに、どうしてこんなものがここにあるんだろ?」

 空の言葉で、僕の意識はここへ戻ってきた。二人は僕の様子に気付いておらず、相変わらず門を眺めている。

「桜の樹といい、これといい……こんなもの、昔あったっけ?」

 と、海は首を傾げた。

「小さい頃は山頂までなら何度も来たけど、あまりうろつかなかったし……」

「遊んでいた場所といえば、中腹辺りの開けた場所だったもんね」

 空と海はそう言いながら、周囲を見渡している。

 それにしても、これだけのものに気が付かないのだろうか? 町が一望できるこの場所には幼い頃、何度も足を運ばせているし、その場所からこれがある場所は、そんなに離れていない。だから、気が付かないはずが無い。もし一度見ていたとしても、これほど日本離れしているものを忘れるはずも無い。

 まさか、僕たちが来なくなってから出来たということか?

 僕は頭を振った。いや、それこそあり得ない。見るからに数百年……或いは、それ以上という歳月を生きたものかもしれない。仮に、僕たちが来なくなった4年前くらいに建造されたとしても、こんなに腐食するはずが無い。

 なら、急に出現したのか? でも、なぜ……?

 なんとも言えない、変な違和感が胸の中でざわつく。

「もしも古代文明の名残だとしたら、私たちは第一発見者なのかな?」

 海は嬉しそうに言った。

「そうだったら、私たち一躍有名人になっちゃうかも!」

「そ、そうかもしれないけど……」

「あれ、お姉ちゃんうれしくないの?」

 自分とは違う反応を占める空に対し、どこか海は不満げだった。

「うれしいというか、なんというか……」

「私、なんだかワクワクする。世界のほとんどが知り尽くされてるのに、まだ見たことも無い、知らないものが目の前にあるって考えたらさ」

 海がそう言うと、空は苦笑した。

「た、たしかにそうだけど……なんだろう……」

 空はゆっくりと、門を下から上へと見ていく。細かな傷や痕など、全てを見るかのように。


「……変な感じがする」


 門の頂点を見つめ、空はそう言った。

「この感じ、なんだろう。見たことも無いのに、なぜか見たことがあるような感じがして……」

「デジャヴ?」

 海がそう言うと、空は小さく頷く。

「たぶん、そうだと思う。でも、それってよくあることだし……。これは、そうじゃないの。もっとはっきりした記憶みたいに感じる」

 空は頭を抱え、深く考え始めた。小学生の頃、それも1年生くらいの頃に、もしかしたら彼女は見たことがあるのかもしれない。

 いや、そうだとしたらまたおかしい話になる。彼女と僕たちは常に同じ行動をしていたのに、僕がこれを見ていないというのがおかしい。彼女が見たのなら、海も絶対に見ているはず。


 その時、ある光景が僕の脳裏に浮かんだ。


 夜――――

 夜空には宝石のように散らばる無数の星。青く光る門の奥。吹き乱れる桜の花びら。今見ているよりも、ずっと門が巨大に見える。……いや、これは僕が()()()()()()()()()()()()()

 僕の傍で、誰かがうつぶせになって倒れている。血まみれの体。長い銀色の髪を持つ女性。纏っている白いローブが、土と血で汚れている。彼女が腕での中に抱えているのは、子供。黒い髪の毛を生やし、すでに2〜3歳程度に見える。その子は、大きな声で泣き叫んでいた。

 断片的な記憶は、ガラスの破片のようだった。それらは一つ一つの光景を映し出し、僕の視界の中で泳ぎまわっている。


 門の傍に、誰かがいる。見覚えのある、2人。大人だ。それを見て、僕はハッとする。今の年齢よりも、ずっと若い姿だけど、僕はすぐに分かった。

 父さんと、母さん……?



 ――お願い――

 ――この子たちだけでも――

 

 ――生きてね――



「空?」

 僕は目覚めたかのようにビクッと反応した。まただ。また、気が遠くなっていた。

「どうしたの? ボーっとしちゃって」

 海は僕の顔に何かついていないかを確認するように、訝しげに見つめていた。

「いや、な、なんでもない。少し――」

 そう言い掛けた瞬間、強烈な痛みが頭を走り抜けた。

「ぐっ……!」

 想像だにしなかった激痛で、僕は思わず顔を俯かせた。

「そ、空? どうしたの!?」

 あまりに急なことに、海はうろたえながら声を掛けた。その瞬間――


 ――セヴェス――


「空!? 大丈夫?」

 空も心配して、僕の傍へ駆け寄ってきた。

「もしかして……また頭痛!?」

「頭痛って?」

「空、4月に入院したでしょ? あの時と同じなの!」

 海の問いに、空はすぐ答えた。

 そう――いや、あれ以上かもしれない。手に負えない痛みが、頭の中を駆け巡る。笑い声を響かせながら走り回るやんちゃな小学生が、頭の中にいるみたいだった。

「いっつ……!」

 あまりの痛みに僕は立っていられなくなり、その場にうずくまるようになってしまった。


 ――セヴェス――

 ――あなたを、待っていた――


「誰……だ……?」

 僕はかすれるような声で、誰とも知らぬ“何か”に訊ねた。


 ――運命の円環――

 ――定められし時の輪廻――


 まるで目に見える光景が点滅するかのように、真っ暗になったり元に戻ったりを繰り返し始めた。

「空? 空!?」

 空と海――2人のまったく同じ声が、頭の上から聞こえる。


 ――セヴェス……いいえ、空――


 それと同時に“何か”も僕の名前を呼ぶ。はっきりとした輪郭を持ち、僕に降り注ぐ。

 そして、僕は()()()()()

 僕は、何者だ?


 ――穿たれた約束を紡ぐ者――

 ――そう、あなたの名は――


「……セヴェ……ス……」


 なぜ、そう呼ぶんだ。僕も。

 そして、浮かぶ別の映像。それは、さっき脳裏に浮かんだ景色だった。

 泣き叫ぶ子供と、血塗れの女性。

 二人の男女――父さんと母さん。


 ――子供たちを渡せ――


 まばゆい光の中に、見知らぬ男性が立っている。幼い僕の視線に合わすように、しゃがんで微笑みかけた。そして、その大きな手で僕の頭を優しくなでた。

 その男性は、先ほどの血塗れの女性と共に立ち、僕を見ていた。


 ――泣くな――

 ――男の子だろう――


 光は消え、視線の先にあの門がある。その内側が――暗闇になっていた。それは一つの宇宙空間のように。そこに広がる、小さな波紋。それらは螺旋を描きながら、僕を誘っているように見えた。

「う……あ……!」

 再び、猛烈な痛みが頭を襲う。それと同時に、僕は門の中へと吸い込まれて行った。声を上げる暇も無かった。

 自分の周りは、すべて真っ暗だった。しかし、遥か先に桜の風景が見える。山頂の光景が小さな光の輪の中に佇んでいる。だんだん、その光景が遠くなっていく。その光は小さくなり、最終的には見えなくなってしまった。同時に、全てが真っ白になった。



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